閑話・幸運な不運男の朝

 ――俺は、我ながら幸運な男である。

 ロイズ・ワイズマンは自分をそう評価していた。


「だ、旦那様……? その、朝露柑のジャムがお気に召したとユリウスたちから聞いたので、また追加のものを用意いたしました。よければお持ちください」


 それは何気ない朝の会話の中で、ぽつんと出てきた話題だった。確かに先日、ロイズは妻ティーナ付きのバトラーであるトーマが作ったジャムを職場に持っていった事がある。体力も気力もまだまだな新人たちにそれを振る舞えば、確かに疲労回復の効果はあったようだ。午後からの鍛錬は少し使い物になっていたはずだ。


「まさか、ティーナが作ったものですか?」


 自分の妻に敬語を使うのもどうかとは思うが、戦闘では百戦錬磨、鬼神も戦くとさえ噂されるロイズであってもどうしてだかティーナに強く出ることが出来なかった。最初は彼女の生まれがあまりに高貴であることが理由かとも思っていたが、そうでもないようだ。しかし、ではいったい何なのかと自問したところでロイズに応えは出なかった。

 昔から、問答の類は苦手である。


「え、あの、トーマが! 前回と同じくトーマが作りました。私は横から見ていただけで……その、」


 

 可愛らしいラッピングが施された大きめの瓶が、武骨な手によって持ち上げられた。本来朝露柑のジャムはその果実だけを使うものであるが、これにはところどころ皮まで浮いている。食えないわけではないが、これでは少し苦味が出てしまうらしい。

 それは軍部の副官から聞いた話ではあったが、蜂蜜と果実の海の中に浮かぶその果皮を眺めて、ロイズはわずかに目を細めた。


「そうですか、では有り難く頂きます。トーマ、わざわざすまなかった」

「いえ、お嬢様も頑張っておられましたから」


 恐らく彼にも迷惑をかけただろうと頭を下げると、よく出来たバトラーは一点の曇りもない笑顔でそう答えた。


「トーマ! ……あ、ラッピング、ラッピングだけですよ? その、ちょこっとだけ……」



 顔を赤くしてごにょごにょとそう言い淀む妻に、ロイズは肩の力が一度思いきり抜けた。どうにも嘘をつくのは上手ではないようだ。よほど無理をしたのか、その指先にはところどころ傷の手当てがしているというのに。


「そうですね、ラッピングもきれいです。わざわざありがとうございました」

 頭から湯気が出るんじゃないか――そうロイズが思わずにはいられないほど顔を赤くしたティーナにそう告げると、涙で僅かにうるんだ瞳が低い位置から見上げてくる。


 駄目だ。朝からこれは、幾らなんでもロイズの理性が試されている気がする。



「……あぁ、そろそろ出る。ユリウス、上着を」

「はぁーい。ったく旦那様ったらあからさますぎてあざといんだから」

 わざとらしい咳払いの後に席を立てば、ユリウスが意地悪な笑顔でロイズにだけ聞こえるよう呟いた。

 うるさいと言わんばかりに肘でつつくと、バリトンがひっくり返った。

「やだなに触ってんのよ旦那様ぁー! 私男には興味ないって何回も言ってるでしょー?」

 そんなユリウスの言葉のせいでティーナに言い訳するのに時間がかかってしまったのだが、結局馬を飛ばせば第二師団の本部がある庁舎まではすぐである。若干疲れた表情をしながら、ロイズは先に到着していた副官に視線を向けた。




「おはよー団長。……ねえどうしたの? 顔」

「俺の顔がどうかしたのか」

「えーっと、面倒なことがあったんだけどこの上なく幸せだったって顔してる。一応執務室入る前に顔洗ってきたら? その強面で緩みっぱなしは気持ち悪いよ」

「お前な……」


 長い付き合いの副官であるカインは、ロイズがまだ十代の頃、国境の都督府を転々としていた頃からの付き合いである。特例措置的なロイズの昇進に伴って彼もまた第二師団の副師団長に任命されたが、どうにも上官であるロイズに対して遠慮がない。

 ロイズもまたそんなカインを心から信頼していたからこそ傍に置いているのだが、時折彼の方が立場が上ではないかと思わされるときがあるのだ。


「緩んでいる、か」

「うん。どうせ奥さん絡みでしょ? どうしたの今日は。可愛いネグリジェで迫られた? やっと一緒に寝れた?」

「いや、そうじゃないんだが……その、ジャムを貰った」

「ジャムぅ?」


 素っ頓狂なカインの声に、ロイズは懐からジャムの瓶を出した。可愛らしく包装されたそれは、愛する妻の努力の結晶だ。


「あー、これ前に持ってきてたよね。なに、あれはバトラーが作ったんじゃなかったの」

「あぁ、向こうはバトラーが作ったものだったが、こっちはティーナが作ったものだ」

「ホントだ、皮入ってる……で、これ受け取って朝からホクホクだったの? 馬鹿じゃないの?」



 非常に大切なことなのでもう一度言うが、カインの役職は第二師団副師団長である。立場上は、ロイズの腹心ということになる。

 その腹心に馬鹿呼ばわりされて、それでも怒鳴りつけることも出来ずロイズはその渋面にまた皺を一本刻んだ。


「いいけどさぁ、それ結構な量あるでしょ? どうするの。私たちにも分けてくれるの?」

「……カインにならば、いい」

「なんだそれ。君の奥さんは新人たちに頑張ってもらうためにそのジャム作ってくれたんだろ? これは是非新人たちに食べてもらわなきゃいけないね。半分は流してよ」


 本当は、カインにだって渡したくない。

 普段淡泊を装っていると本人は思い込んでいるロイズのささやかな独占欲だったのだが、一枚も二枚も上手な副官は否応なしにそれを決定してしまった。まあ、半分ならいい。そう自分に言い聞かせて、ロイズはまた一つ咳ばらいをした。


「ところで、王太子殿下から前にお話があったとは思うが」

「うん、それについてなんだけどさ、実は殿下がね……?」

「――なんだと?」


 ロイズは軍人としてもかなり体が出来上がっている部類に入るが、カインもまた長身である。二人で肩を並べながら交わされた会話に、とうとうロイズの方が頭を抱えてため息をついた。


「だから、是非君の奥さん……ティーナ・ワイズマンにってお達しが来てるんだよね」


 例え目の前に百万の軍勢が迫っていても、ここまでロイズが憔悴することはないだろう。

 カインの言葉に思い切り肩を落として、それでも何とか低い声を絞り出すと、ロイズは執務室前の扉を軽く叩いた。


「ならばその時は先に俺に連絡を寄越す様にしてくれ。幾らなんでも、当主の俺がいないというのはまずいだろう」

「了解、近衛にも伝えておくよ」


 カインの快い承諾に少し心が軽くなりながら、ロイズは自らの執務室の扉を開けた。自室と同じく、そう物が多くはない部屋だ。


「取りあえず、軽食の前に訓練だな」


 愛しい妻からの贈り物を机に置くと、練習用の模擬刀を手に取りながらロイズは小さく呟いて首を鳴らした。

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