第三話 陰謀と願望 四

 その日の晩のことである。

 坂東から呼ばれて、女将と大番頭は再び厨房に出向いた。

 客への料理の提供は既に終わっており、厨房には戦争直後の気怠い空気が立ち込めている。その中で坂東が一人、立ち竦んでいた。

 厨房は見事に片付いている。

「今日は大変でしたね。ご苦労様でした」

 女将が労いの言葉を坂東にかける。しかし、坂東の顔は蒼白で、両腕は僅かに震えていた。

 ――ああ、これはいけない。

 大番頭は即座にそう思った。これは俊夫が何かしでかしたに違いない。

「女将さん――」

 坂東は白い顔で堅い声を上げる。

 そして、深々と頭を下げた。

「俺は今まで思い上がっていました。御迷惑かもしれませんが、ここで基本からやり直させて下さい。一から始めさせて下さい」

 今までの坂東には決してなかった素直な声の調子に、女将と大番頭は仰天した。

「あの、何かあったのですか」

 女将がそう訊ねると、坂東は目に涙を浮かべながら言った。

「私の完敗でした。最初のうちはお手並み拝見という気分だったのですが、下拵えからして佐藤さんのそれは全然違っていた。なにしろ、あの人は出来上がりの姿を想像しながら切るんです。お造りを配置した時の置きやすさまで考えて、切り込みを入れていました。それに気がつかずに、俺は試すつもりで一品だけ佐藤さんに任せてみました。筍の土佐煮ですが、この時期、筍は旬じゃありませんから普通なら輸入品で硬くなります。下拵えと一品ものだけをお願いしたら、後は私一人でも対応できますから、そこで帰って頂いたのですが……」

 そこで、坂東の目から涙が零れた。

「お造りを並べながら、どうにも具合が良いので気がつきました。刺身の配置する場所に、置きやすいようにいちいち包丁が入れてあります。筍の土佐煮は、戻ってくる小鉢がすべて空になっていました。不思議に思って、僅かに残ったものを食べてみたんです。そうしたら旬の初物並みに柔らかい。きっと火加減が絶妙だったのでしょう。それよりも何よりも――」

 坂東はとうとう厨房に跪く。

「佐藤さんは最後にこう言った。『今日は楽しかったです。有り難うございました』と。彼の力を見くびって高飛車な対応しかしなかった俺に、そう言って帰りました。しかも、知らないうちに厨房が片付けられています。全然気がつかなかったから、作業をしながらいちいちやっていたのでしょう。それで俺は、自分が天狗になっていることを心底思い知らされました。世の中には遥かに上がいます。そして……」

 彼は床に平伏した。

「あの人は最後に、実に楽しそうな顔をしていた。あれでなくちゃ、あの余裕がなくちゃ、 人を感動させる料理なんか、とても作れない――」

 そう言いながら、坂東はその場で号泣してしまった。


 *


 働き始めてから即座に気難しい職人を二人陥落させてしまった俊夫に、周囲の見る目が変わった。

 しかも、親方は以前よりも機嫌が良くなっている。にこにこ笑いながら客に花の名前を教えているところは、今まで見たことがなかった。

 坂東に至っては、気味が悪いほどに低姿勢になって、その一方で作る料理が以前よりも細やかになった。客の評判も上々である。

 それが、どうやら俊夫の仕業らしい。

 当の俊夫は、相変わらず旅館中の雑事を嬉々としてやっている。決して偉ぶったところがない。頼まれたことは即座にやってくれるし、仕上がりが予想以上に優れていた。

 こうなるともう、最初のうちは白い目で見ていた従業員の見方が変わって、何か困ったことが起きると、

「おい、佐藤さんを呼んで来い」

 というのが解決策になった。

 旅館のホームページに不具合が生じ、しかもそれがシステム会社の休日にあたっていた時も、俊夫が、

「ああ、ちょっと拝見しますね」

 と、軽く請け負って、すぐさまHTMLを書き換えてしまった。しかも、以前よりも軽く感じるほどの動きの良さである。

 この頃になると、

「旅館に一人、佐藤さん」

 が合言葉のようになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る