第十二話

 最初に闇があった。


 いや、正しくは何もなかった。

 それまで砂漠にいたはずなのに、今は何も見えなかった。

 いや、正確には殻の中にいたはずなのに、今は何も見えなかった。

 あるいは黒しか見えなかった。

 いずれが正解かは分からない。


 最後の瞬間の記憶によれば、自分は高圧電流で脊髄をやられたらしい。

 話ではそうなっているが、実際にどうなったのかは、やはり分からなかった。

 感覚はすべて消えている。頭も痛くない。

 というより、頭がどこにあるのか分からない。

 手も足も同様で、自分が一個のビー玉になったような気分になる。

 それとも水滴だろうか?

 境目がよく分からない。


 ここがどこなのかも分からない。

 一番可能性が高いのは、自分の中ということになる。

 いや待て、そもそも人間は自分の中にいるのではないか。

 別に他のところにいるわけではないのではないか。

 だから――なぜ俺はそんなことを今考えている?

 落ち着け。

 落ち着く?

 どうすればいいんだっけ。

 既に落ち着いているような気がするし、そうではないような気もする。


 事実が分からない。

 普段はどうしていたのだろうか。

 何かを見て、それで判断していたような気がするが、やはりよく分からない。


 いつからここにいるのか分からない。

 ついさっきのような気もするし、もう随分と経過したような気もするが、分からない。


 物差しがない。

 比較の対象となるものがない。誰もいない。だから分からない。

 あれば分かるのか?

 それが分からない。


 このままだとどうなるのだろう。ただ言葉だけがぐるぐると回っているような気が、する。

 回る?

 上ってどっちだっけ?

 重力は――そんなもの頭の中にはない。


 ええと、今何を考えていたんだ?


 よく分からないので、混乱する。

 頭の中の物差しがない。

 何かないのか。


 そういえば、葵。


 思い出そうとすると、何かが違う。

 こんな感じだったかな?

 違うような気がする。

 どんどん変化してしまってよく分からない。

 いや、それだと全然違う。


 待って、それだと全然別人だよ!


 というより――どれが正しいか分からないんだ。

 あんなに大切に思っていた葵なのに、本当はどんな姿をしていたのか分からないよ。

 あの夜の肩の温もりは――思い出せる。

 けど、本当にこんな感じだったのかな。

 温かいだけじゃないのかな。

 そこだけじゃないのかな。


 葵のようなもの。

 兄貴のようなもの。

 父さんや母さんのようなもの。

 ベルイマンのようなもの。

 アリエータのようなもの。

 自分の部屋のようなもの。

 殻のようなもの。

 シルフのようなもの。

 自動車のようなもの。

 竹刀のようなもの。

「のような」もの。


 何の話だろう。よく分からない。

 見たことのある風景のようだけど、あやふやで、見ている間に姿が変わる。

 何も確かなものがない。落ち着けるところがない。

 落ち着く?

 どうすればいいんだっけ。

 さっきも同じことがあったような。


 同じ、同じ、同じ。


 駄目だこのままだと境目がぜんぜん分からなくなる何か変わらないものがないと僕はぜんぜん――


 温かい。


 気のせい? いや違う。温かい。

 自分の中の端のほう。

 上も下も右も左もないけれど、たぶんそっちのほうが温かいんだ。

 手を伸ばす。手だと分かる。掌が温かいと分かる。

 どうして?

 なんで?

 でも今は、そんなことはどうでもいい。

 温かさをかみしめる。

 そして思い出す。

 これは、あの最低最悪の日、唯一最高だった掌の温かさだ。

 確かさとの接点に僕はすがりつく。

 掌の中に温かさと確かさが広がり、それが形を成してゆく。

 白い手が、肩が、胸が、顔が現れる。

 笑っている。

 口が笑い、そして開いた。


「もう大丈夫。助けに来たよ」


 葵が僕の手をそっと引き上げてくれる。

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