第八話

 師走の寒空の下、龍平と葵は手をしっかりと繋ぎ、白い息を盛大に吐き出しながら、羽村駅から東福生駅方面に向かって懸命に走っていた。


 葵には言わなかったものの、龍平は葵の両親を針で刺し殺した黒い物体がすぐに後ろから追いかけてくるものと覚悟していた。

 屋外で攻撃されたら木刀では歯が立たない。狭い室内での近接戦闘だからこそ木刀で太刀打ちできるのであって、屋外での遠距離からの攻撃だと対応しきれない。

 従って、その時は自分の身体を楯にして葵を守るしかない、と龍平は覚悟していた。だから、走っている間も時折後ろを振り返りながら敵の姿を確認していたのだが、何かが後を追ってくる気配は感じられなかった。

 ――おかしい。これは絶対におかしい。

 あの黒い物体の追跡を無事に振り切ることが出来たのであれば、それはそれで実に喜ばしいことなのだが、それが龍平には信じられなかった。

 玄関の脇に潜み、龍平と葵が出てきたところを襲撃しようと企んでいた手口から、「それ」が執念深い相手であることを龍平は確信していた。

 まだ中学生といっても、数々の剣道大会で手の内の読みあいを繰り返しているため、この点に関する龍平の読みは鋭い。

 ――だから、奴があっさり僕達を見逃すはずがない。

 龍平はそう考えていた。

 しかも、これまでの情報を総合してみると敵は「針を飛ばすやつ」だけではない。少なくとも兄の部屋にあった『鷹』が、もっと他にもあるはずだ。そして、爆発を引き起こしたのも同じ種類の敵だと思われる。

 他にどれだけの種類があるのか龍平には分からない。

 その辺の知識を持っているはずの兄に電話しても、輻輳ふくそうを起こしていて繋がらなかった。こういう時はメールのほうが届きやすいので、走りながらショートメールを発信して返信を待っているところである。

 いずれにしても気を緩めることの出来ない状況であったが、その中であっても龍平は、

「葵、大丈夫か?」

 と、彼女を気遣うことを忘れなかった。

「大丈夫、だよ」 

 葵の声は、荒い息の間から途切れ途切れに聞こえてくる。大丈夫なはずがないのだが、「針を飛ばすやつ」のことを考えると、今は出来る限り自宅から離れる必要がある。龍平は、時折足をもつれそうになる葵を支えながら、走った。

 彼らがこれまで走ってきた道程みちのりの途中にあった家々からは、慌てて逃げ出す人の姿も見られたし、篭城作戦を選択したらしく気配はすれども姿は見えない場合もあった。

 ――僕達も、もしかしたら家の中に隠れていたほうが良かったのかな。

 一瞬そう考えて、龍平は頭を強く振った。

 あの時、階下に降りた龍平の兄は「急いでどこかに逃げよう」と両親に話していた。そういう時、判断を誤る兄ではなかったし、龍平もそう判断したから隣の葵の家に迷いなく駆け込んだ。

 なにより、地図上に表示された髑髏のマークと、それに向かって四方から飛んでくる青いランプが雄弁に物語っていた――ここにいてはいけない、と。

 あのまま自分の家や葵の家の中で篭城していたら、退路を断たれた上で家ごと「爆発させるやつ」に吹き飛ばされていたに違いない。それに龍平が家に立て籠もってしまったら、葵を助けることすら出来なかった。あれでも遅いぐらいだった。

 龍平はしっかりと握っていた葵の手を、さらに痛くならない程度に力を込めて握る。それが意味するところが葵にも正確に伝わったらしい。顔をしかめて走っていた葵が、龍平の顔を見上げて一瞬だけ笑顔になった。

 ――大丈夫だよ、葵は僕が絶対に守るから。

 龍平は改めて誓った。本音を言えば、龍平だって怖かった。こうして何度も誓い直さないと、自分自身の心が保てなかったのだ。


 いまも町のあちらこちらからは爆発音が断続的に聞こえていた。

 爆発音がないのに空が赤く染まり、そこから黒い煙が上がることもあった。

 煙も炎もなく、一瞬だけ周囲が白く輝くこともあった。

 走りながらそれを目の端で捉えていた龍平は、すべて『鷹』に似たものの仕業であると推測する。それで、攻撃方法が何種類あるのか考えてみた。

 まず、「針を飛ばすやつ」がいる。

 それから、「爆発を起こすやつ」がいる。

 音もなく空を赤く染めているのは、「燃やすやつ」だろうか。

 白い光は雷のようにも見えたから、「稲妻を放つやつ」かもしれない。


 だから、鷹を含めて少なくとも五種類の敵がいる。


 *


 葵の家から十五分近く走ったところで、二人は神社の境内に入りこんだ。


 龍平は、そのままおやしろの入口にある階段に腰を下ろして、葵を休ませる。

 神社の境内であれば、お祭りの夜でもない限り深夜に明かりを灯したりはしないから、街中よりも暗いはずと考えての行動である。

 それに、お社の周囲は鎮守の森に囲まれていると同時に、適度に空間が開けていて高い建物も迫ってこない。だから、敵が襲ってきた時に早めに察知出来るだろう。

 なによりも神様が守ってくれそうな気がする。自分が神様に関心をもたれていなくても、少なくとも葵ならば助けてもらえる資格は充分にあるはずだ、と龍平は考えた。

 ――葵はこんな、無慈悲な世界に苦しめられるような子ではない。

 それが龍平の考えであり、願いでもある。

「ここで少し休憩するよ」

 と龍平が言った時、葵は、

「大丈夫、だよ。まだ、走れるよ」

 と言って弱々しく笑った。

 龍平には彼女の気持ちが痛いほど分かる。

 ここで立ち止まると悲しみで動けなくなりそうな気がしているのだ。そして、本当は動きたくないはずなのに、龍平まで失うのが怖いから走っているのだ。

「ごめんね、葵」

 そう龍平が思わず口に出すと、葵は握った手に力を入れて言った。

「絶対に、私を、守ってね。龍平ちゃんは、絶対に、倒れちゃ、いけないんだよ」

「もちろん。約束する」

 二人は何度目になるのか分からない約束を繰り返した。そうすると、絶対に守れそうな気がしてくるのだ。

 それに何の根拠もなくても構わなかった。繰り返しが事実を生み出してくれそうな気がした。

 身体を寄せ合い、兄の上着を被る。龍平は左手を、葵は右手を、そうすることで相手の一部になると信じているかのように、強く握り締めていた。

 冷たい風が悲鳴のような音を立てながら、神社の木々の間を擦り抜けてゆく。

 遠くからはパトカー、救急車、消防車のサイレンが聞こえ、時折それに爆発音が混じっていた。

 龍平と葵は肩を寄せ合って、世界の重さに耐える。

 ほんの二十分前には想像すらできなかった悪夢のような世界が二人を取り囲んでいた。

 どのような悪意によって、自分達の知っていた世界の姿がこのように変えられてしまったのか、二人にはまったく分からなかった。

 龍平が今考えることが出来るのは、どうやって葵の見の安全を確保するかという一点だけである。

 そして、葵のほうは龍平と約束したこと以外、何も考えないようにしていた。

 また、龍平と葵はお互いに相手が目の前にいてくれることで、救われていた。

 自分一人では到底真っ直ぐに立っていることすら出来ないほどの、この最低で最悪な世界の中であっても、二人で一緒にいれば何処かにまだ希望が残されているように感じられたからである。


 そう――仮に、風の中に異音が混じっていたとしても。


 葵の手が大きく震える。

 神社の正面、赤い鳥居の下に黒い影が浮かんでいた。

 シルエットの違いから、龍平はそれが「針を出すやつ」ではないことを知る。

 その黒い物体は、カメラを龍平と葵の方向に捉えたまま、動かずにいる。

 それは、まるで「どうしようかな」と考えているかのように見えた。

「走るよ」

「うん」

 二人は短く言葉を交わし、お社の裏に回り込むように走り出す。

 そして、背後からモータ音が追いかけてくることはなかった。

 そのことに龍平は僅かな希望を感じ取った。状況に対して疑問を抱き始めた人がいることを示しているように、彼には思えたからである。

「葵、大丈夫?」

「大丈夫、だよ」

 結びつきを確かめ、更に強いものとするための会話を続けながら、二人は夜の街を走った。走っている時は、休憩の時とは逆に大きな幹線道路を避け、裏の細い路地ばかりを走るようにしていた。

 だから、車の往来は殆どない。大きな道路に出て、誰かの車に乗せてもらうことも考えたが、逆に車ごと攻撃されると逃げ場はない。それに、大きな幹線道路のほうから混乱が伝わってきているように、龍平には思えた。


 そして実際、その龍平の認識は誤っていなかった。


 災害発生時に車で避難するのは大変危険なことだ。

 正確には「みんなが同じように車で避難しようとするのは大変危険」だが、車の集中によって道路が渋滞することで余計に避難に時間がかかる。最悪、逃げ遅れることにもなりかねない。

 日本人はそのことを自然災害の中で何度も経験していたにもかかわらず、車で逃げ出した人はその時も相当な数に上った。

 狭い路地から大きな幹線道路に向かって車が集中し、その先で渋滞に捕まる。全員が焦っているから、追突事故は山のように起きる。

 そこに『龍』が現れ、電撃を加える。それが追突した車を伝わって広範囲に伝播し、中に閉じ込められていた人々から身体の自由を奪った。

 身動きが取れなくなったところで『蝉』が現れて、混合液を投下する。爆発によって車道は更に通行不能となり、車から抜け出せない者はそのまま一緒に焼かれた。

 では、車から抜け出せた者は幸運だったかというと、そうでもない。待ち構えていた『不死鳥』が炎を吹きかけてくる。しかも、それが車の燃料に引火して燃え上がった。

 それも掻い潜ることが出来た人々は、その先で待ち構えている『雀蜂』と『鷹』の餌食になる。

 そのような光景が、あちらこちらで機械的に繰り返されていた。

 龍平と葵にとって幸運だったのは、そのような不幸な人々のおかげで敵の目がそちらに集中して、薄暗い路地の奥まで哨戒しょうかいする機体がなかったことである。

 また、龍平は葵と手を繋いで逃げていたから、徹底的に戦闘を避けていた。独特なモータ音が風に乗って聞こえてきた時には、即座に身体を闇に沈めて、それが聞こえなくなるまで動かなかった。

 もちろん見つかった時には自分の身体を楯にするつもりだったが、それは最後の手段として葵の安全を最優先に考えた。そして、実はそのやり方が幹線道路を避けるのと同じぐらいに、彼らの生存の可能性を高めていた。

 黒い機体は交戦状態――モータがフル稼働状態になると、マップ上で青いランプから黄色い点滅ランプに変わる。

 さらに破壊されると赤い髑髏アイコンに変わって、半径五キロ以内にいる仲間に対してメッセージを発信するようになっていた。

 別に強制的に友軍をその場に誘導するわけではないものの、他とは違う色に反応するのは人間の性である。

 従って、実は龍平が一番最初に浩一を見殺しにしていれば、自分の両親や葵の家族を巻き込まずに済んだともいえるのだが、真相を何も知らない中学生の龍平にそこまでの責任を負わせるのは、酷というものだろう。

 彼はその時、自分なりの最善を尽くして葵を守っていたのだから。


 *


 葵の家を出発してから三十分が経過した時のことである。空の遥か上から、ヘリコプターのローター音が聞こえてきた。

「龍平、ちゃん」

「うん、聞こえてる。救助隊かな?」

 高層マンションの谷間に、嵌め込まれたように立地している小さな公園で休憩をしていた二人は、空を仰いだ。

 しばらくすると、南の方角からまばゆいサーチライトを灯したヘリコプターが三機現れる。それは視線の向こう、在日米軍横田基地がある付近に次々に降下していった。

「米軍、だね」

「そうだね」

 足を止めると急速に体温が外気に奪われる。

 龍平と葵は、龍平の兄の外套に二人でくるまって、ヘリが下りていった方角を見つめていた。

 神社のお社でそうしていた時よりも二人の間の距離は縮まっていたが、彼らはそれを意識してはいなかった。そうすることでとても安心できたから、そうしていた。

「ヘリコプターが着陸したということは――横田基地は健在みたいだね」

 龍平は葵を少しでも元気づけようと、わざと楽観的な話を口にした。

 その一方で、彼は最悪の事態を想定している。

 米軍横田基地とその周辺には相当な数の隊員とその家族が生活しているはずである。それにしては、彼らが集団で避難した様子はなかった。

 となると、横田基地自体が黒い物体の攻撃目標の一つになっており、体系だった反撃や避難行動が出来ていない可能性がある。そのため、援軍としてヘリがどこかの基地から派遣されてきた可能性があった。

 むしろ、そちらのほうが可能性は高いような気がする。しかし、今それを葵に言うわけにはいかなかった。

 葵は龍平の楽観的な言葉を聞くと、小さく笑って彼の肩に頭を押し当てる。そこだけがぼんやりと温かくなったように、龍平は感じた。

 これが、こんな最悪な夜のことでなかったならば、どんなに嬉しかっただろう――龍平はそう考えて、少しだけ悲しくなる。


 兄に何度かけても、スマートフォンは沈黙したままだった。


 *


「なんだ、これ……」


 龍平がそう呟き、葵は無言で見つめる。二人の視線の先では、国道十六号線が燃え上がっていた。

 車が密集し、それがあちらこちらで炎を上げている。時折、新たに燃料タンクに引火した車が炎を吹き上げてもいる。

 この列の中を横断するのは自殺行為に等しかった。龍平は他の経路を捜し求めて頭を横に振る。すると視界の端に歩道橋が入った。そこはまだ炎に包まれていない。

「葵、向こうに歩道橋がある」

「はい」

 二人はほぼ同時に足を歩道橋へと向けた。細かい説明は一切要らなかった。二人は上体を屈めて、車の群れに隠れるようにして歩道橋の下へと向かう。

 騒音が大きすぎて敵のモータ音が捕捉出来ない。しかし、その歩道橋しか、国道十六号線を越えて米軍横田基地に至る道はなさそうだった。

 それに、基地の方向からは先程からヘリのローター音が聞こえていた。騒音の大半がそれである。救助のためなのか攻撃のためなのかは分からないが、米軍が何らかの行動を起こそうとしているのだ。

 そのことを確信した龍平は、大胆な賭けに出て葵を庇いながら走っていた。

「もう少しだよ、葵」

「は、い」

 葵はもう返事をするだけで精一杯になっている。龍平は木刀を持つ手に力を加えた。

 ――ここが正念場だ。

 そう彼は考える。自分が敵だとしたら、間違いなくここで待ち構えるだろう。こういう勘は是非外れて欲しいものだが、十中八九そうはならない。

 歩道橋の下が見えてくる。

 その、安全な世界への入り口である歩道橋の階段には――やはり、黒い物体が居座っていた。

 炎を反射した翼が輝いて見える。『鷹』だった。龍平はそのことに変に安堵した。近接戦闘であれば龍平の木刀でも何とかなる。

 一方で、横田基地から聞こえるローター音が一段と大きくなった。離陸するのだろう。

 ――どこかに飛び去るにしても、葵だけは乗せて行って欲しい。

 そのことが龍平を僅かに焦らせる。息を整えている葵に向かって彼は言った。

「葵、よく聞いて」

「はい」

「今から僕が、あの歩道橋の下にいる敵を引き付ける。その間に葵は歩道橋を渡って、向こう側まで逃げて欲しいんだ」

「そんな、龍平ちゃんと一緒じゃないと、私は――」

「お願いだ、それが一番安全な方法なんだ。葵と一緒に行きたいのは僕も同じだけど、僕にしか出来ないことが残っているんだ」

 龍平は戸惑う葵を見つめる。

「大丈夫、僕は絶対に葵を守る」

「……分かったよ、龍平ちゃん。でも、一つだけ約束して欲しいの。私のために自分を犠牲にするのは絶対にやめて。難しいのは分かっているけど、二人で生き残るの。でないと私は嫌」

 そして、葵は龍平の左手を両掌で包み込む。

「龍平ちゃんとは本当は離れたくない。大好きなの。手放したくないの。ここで離すと帰ってこないような気がして、とても怖いの。だけど、こうしていると逆に龍平ちゃんが危なくなる。だから私は走る」

 葵は涙を溜めた瞳を龍平に向けて、笑った。

「だから、後で褒めて頂戴ね」

「……分かった。それから――」

「はい」

 龍平は顔を赤らめながら葵に言う。

「僕も葵のことが大好きだ。だから、今は少しだけ離れるけれど、絶対に一人にしない」


 葵はにっこりと笑いながら、無言で龍平の左手を離した。


 龍平は両手で木刀を握ると、葵の前に立ってそれを正眼に構える。

 息を吐いて、大きく吸い込む。何かが龍平の中に流れ込んでくる。

 こんな時なのに、心は今までになく澄み切っている。龍平は木刀を握る手の内を締めた。

 歩道橋の下から『鷹』がゆっくりと龍平の目の高さまで浮かび上がる。

 その滑らかな躊躇いのない動きから、龍平は相手が容易ではない敵であることを悟った。

 しかし恐怖はどこにも、ない。揺ぎない覚悟だけが、ある。

「葵、行くよ。絶対に立ち止まらずに前に走って。僕はすぐに後ろから追いかけるから」

「分かった」


 葵の返事を聞くと同時に、龍平は前に飛び出した。

 視線の高さにある『鷹』は左の翼を下に向けて、龍平に向かってくる。

 間合いに入ったところで、龍平はそれを左から右へと薙いだ。

『鷹』は大きく右側にはじかれれる。

 葵は龍平の左側から歩道橋の階段へと走り込んだ。

 横田基地のローター音が一段と激しくなる。

 サーチライトらしき光がフェンスの向こう側から浮かび上がった。

 龍平は弾き飛ばした『龍』の動きと、階段を駆け上る葵の背中を同時に捉える。

 そして、『鷹』が龍平のほうに赤いランプを向けていることを知った。

 龍平はにやりと笑うと、『鷹』に向かって下段に構える。

『鷹』は米軍ヘリのローターが生み出す強烈なダウンフォースの影響で、挙動が安定していない。

 それを見た龍平は、この一瞬にしか勝機はないと判断した。

 彼は低い姿勢になると、一気に『鷹』に向かって飛び込む。

 それと同時に米軍横田基地からヘリが浮かび上がって、さらに風を巻き上げた。

『鷹』が大きく挙動を乱す。

 ――よし!

 龍平は下に潜り込んで木刀を突き上げた。

 その切っ先は上手く『鷹』の中心部分を捉える。

 兄から教わった『鷹』の急所――黒い機体は弾け飛び、闇の中を落下してゆく。

 目の前にあった危険を排除したことで龍平は安堵し、大きく息を吐く。

 そして、歩道橋のほうに顔を向けて――


 自分にとって最高のタイミングが、葵にとって最悪のタイミングであったことを知った。


 葵は急に沸き起こった米軍ヘリのダウンフォースにさらされ、歩道橋の上で手すりを掴んで耐えていた。

 ヘリはゆっくりと旋回して、サーチライトを葵のほうに向ける。

 そして、歩道橋の上にいる葵の姿をライトで捉えると動きを止めた。

 ヘリが葵の存在を認識したことは、とても有難いことだった。

 その反面、これで葵の存在はヘリ以外のものにもあからさまに示されてしまったのだ。

 龍平の鼓動が一段と高くなる。

 歩道橋の上にある葵の姿は、龍平の位置からは逆光になっているため、暗すぎて表情が全く分からない。

 それも龍平には、葵が自分を見つめていることが分かった。

 そして、葵の顔に戸惑いが浮かんでいることも、何故か確信できた。


(ねえ、龍平ちゃん。私、どうしたらいいのかな?)


 そんな葵の声が、龍平の頭の中に響き渡る。

 そして、彼は見た。

 サーチライトの向こう側から輝くものが高速で飛来し、

 それが葵の背中に吸い込まれて、

 葵が眩い光の中、

 ゆっくりと倒れてゆくのを。


 龍平は言葉にならない慟哭の叫びを上げる。

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