『少女』

矢口晃

第1話

 それは遠い遠い南の国からやってきた、一人のまだあどけない、かわいらしい女の子でした。

 長い髪を腰まで伸ばして、その茶色っぽい髪の毛には天然のウェーブがかかっていました。頭の上には、赤い大きなひまわりの形の髪飾りを付けていました。

 涼しそうな木綿のワンピースです。その短い袖から伸びた細い腕は、日によく焼けてこんがりと美しい小麦色でした。腰には紐のようなベルトが緩やかに巻いてあります。その紐は麻で編んだもののようです。右の腰のあたりで結んだ紐のあまりが、自然に下に垂れ下がっています。

 女の子は裸足でした。まっすぐに伸びた五本の足の指は、地面の土埃に汚れていました。しかしどこにもけがらしいものは見当たりませんでした。女の子は歩き疲れた様子もなく、白い歯を見せて健康そうに笑いました。右手には、一枚の白い紙をもっていました。

「君は一体、どこから来たのだね?」

 ある国で女の子と出会った行商人風にターバンをぐるぐる頭に巻いた男性が、不思議そうな表情で女の子に尋ねました。

「私は、遠い遠い南の国からやってきました」

「へえ、南の国から? 一人でかい?」

「はい。一人で来ました。でも一人ではないんです」

 行商人風の男性は、驚いたように眉をあげながらまた女の子に尋ねました。

「一人だけど、一人ではない?」

「ええ、そうなんです。私の友達の女の子たちが、私と同じようにたくさんの国に出かけています。ある友達は西の国を目指しました。ある友達は東の国を目指しました。またある友達は、昼間の国を訪れました。また別の友達は、夜の国を訪れました。みんな一人でがんばってるんです。だから私は、一人ではありません」

「なるほど、そういうことか……」

 今日はかんかん太陽の照りつける、とても気温の高い日です。行商人風の男は女の子と日向で向かいあって話をしているだけで、顔や胸からたくさんの汗が流れてきます。男性は、手に持っていた手拭のようなもので、滴る汗を拭い拭い、女の子と話を続けました。

「それで、一体何のために?」

「何のため?」

 一方女の子の方はと言えば、さっきから少しも汗はかいていません。女の子はまるでそよ風の中に立っているかのように涼しげです。二重瞼のぱっちりとした大きな目を細くして笑いながら、男性との話を楽しむように続けています。

 男性はもう一度女の子に聞き直しました。

「ええ、一体あなたは、何の目的でこんなに遠い国までやってきたのです?」

「ああ、私は――」

 女の子は太陽のように明るく笑いながら、右手に持っていた紙を男性の前に開いて見せました。紙には木炭で、何か見たこともない図形のようなものが描かれていました。

 丸のようでもあり、三角のようでもあります。図形の下側はすっと尖り、逆に上の部分はくびれるようにへこんでいるのでした。

 男性は紙の上の図形を覗き込むようにしながら、女の子に尋ねました。

「おや、いったい何の絵です?」

「これは私の国で生命を象徴する記号です。生命の源、太陽のことも表します。生命は人の心に結びつきます。人々の明るい生命力と心の平和を願う記号です」

「心の平和……」

 男性は興味深そうにそう呟きながら、また額の汗を手拭でかるく拭き取りました。

 女の子は開いていた紙をまた元のように畳み直して、男性にこう言いました。

「私たちはこの記号を、世界中のあらゆる国に伝えたいと思っています。この記号を世界に広め、人々の心に伝え、世界中が争いもなく平和になるように祈っています。ですから、私はまた歩きたいと思います」

「また歩くって、いったいどこまで?」

「また、北の方を目指して歩いてみたいと思います。そして北に国がなくなったら、そこから西を目指して歩いてみたいと思います。この記号と一緒に、どこまでも行ってみたいと思います」

「もう、国には帰らないのかい?」

「まだわかりません。でも、この記号と一緒に世界に平和が訪れたら、私は国に帰りたいと思います」

「そうか……」

 男性は話をいったん中断すると、すぐ脇に止めてあった自分の荷車のなかから、シルクで作られた白いかわいらしい靴を持ち出して来て、女の子に手渡しました。女の子は受け取った靴を、不思議そうに見つめていました。

「それは靴だよ」

「靴?」

「そう。今日からそれを足に履いて歩きなさい。けがをしなくて済むし、足がつかれないから」

「ありがとう」

 女の子は花のように明るい笑顔で男性にそうお礼を言いました。

「心、――ハートか」

「え?」

 ふと口をついてでた男性の一人ごとに、靴を履き終わった音の子が反応しました。

 男性は一人ごとで言った意味を、女の子に説明しました。

「私たちの国では、心のことをハートと呼ぶんですよ。だからあなたの持っているその記号は、私たちの国ではハートの記号ということになるんです」

「ハート……」

 女の子は、口の中で小さくそう呟きました。

 男性は脇に停めてあった荷車の前に立ち梶棒をぐっと掴むと、力いっぱいそれを押し始めました。重たい荷車がゆっくりと動きだしました。

「またおいで、いつかこの国に。そうしたらあなたに、もっとたくさんの靴をあげよう」

 女の子は嬉しそうに笑いながら、

「ええ、ありがとう。旅の終わりに、きっとまたこの国を訪れます」

「それまでには、世界中にハートのマークが広まっているといいですね」

「ええ。そうなるように祈っています」

 男性は女の子に後ろ姿を見せながら、そのまま暑い路地の向こうへと姿を消して行きました。


 それから何年か経ったある日のことです。長い旅を終えようやく帰国の途中にあった女の子は、いつか行商人風の男性と約束し通り、またあの男性と出会った国を訪れました。町はあの日のようによく晴れていました。すこし背の大きくなった女の子は、それでもやっぱり背中にそよ風を連れているように涼しげな微笑みを浮かべていました。

 女の子が、ある骨董屋の前を通りかかった時のことです。女の子はふと、その店先の丸いテーブルの上にピラミッド型に積まれてあった、マッチ箱のような箱に目を止めました。女の子は自然と積まれてあった一番上の箱を手に取り、その蓋を開けてみました。すると中から出てきたのは、同じ形をした何枚ものカードでした。

 カードにはそれぞれ、マークと数字とが描かれてありました。

 何だろう、と不思議そうに女の子がそのカードを見ていると、店の奥からその店の主人が出てきました。女の子は店の主人と顔を合わせると、思わず「あっ」と声を立てました。偶然にも、それが何年も前にこの国を訪れた時に道で出会った、あの行商人風の男性だったからです。

 店の主人は店先に来た女の子が、何年か前に一度あったことのある、あの日焼けした、笑顔が花のように明るい女の子だと気がついていたように、にこにことおだやかに微笑みながら女の子のそばに近づいてきました。

「それはトランプというんだよ」

 店の主人は女の子を店の中の日に当たらない涼しい場所に移らせてから、女の子の手にしていた木の箱を指差してそう言いました。

「トランプ?」

 女の子は初めて聞いたその名前に、大きな目を不思議そうに輝かせながら店の主人に聞き返しました。

「そうだよ。トランプという、最近になって発明されたカードなんだよ。この一そろいのカードを使って、色々なゲームや占いができるんだ」

「占いまで?」

「そうだよ。占いまで」

 女の子は木の箱の中からトランプを全て取り出すと、それを手の上で順番にめくりながら、じっとその模様や数字に見入っていました。

「そのトランプを使って、世界中のお年寄りから子供たちまで、みんな楽しく遊んでいるよ」

「世界中の、みんなが?」

「そうさ。世界中で、誰もトランプを知らない人はいないんだよ」

「すごいですね」

 女の子はため息交じりの歓声を口から零しながら、まだ飽きずにカードをめくっています。その様子を、店の主人はうっとりと楽しむように見つめていました。

「最後の方までめくってごらん」

 言われた通りに女の子はどんどんトランプをめくって行きました。模様がダイヤからスペードになり、スペードがクローバーに変わり、そしてクローバーも十三枚目のカードが終わった次の時です。

「あ!」

 女の子が、そう驚きの声を上げました。

 そうです、次のカードに現れたマークが、あのハートのマークだったのです。

「これは……」

 興奮したように顔を赤くさせながら店の主人と目を合わせる女の子に、店の主人は穏やかに諭すような口調でこう言いました。

「そうだよ。君たちが頑張って広めていた、あのハートのマークさ」

 女の子は嬉しさのあまり、言葉が口から出てこないようでした。トランプを握る手が、感動で自然と小刻みに震えているのがはた目にもわかりました。

「君たちが頑張って広めたハートのマークが、こうしてトランプとなって世界中に広まったんだよ。君たちが懸命に頑張った成果さ」

「――本当ですか?」

「ああ、本当さ。このマークと一緒に、世界中に平和が広まったらいいという君たちの純粋な願いがかなったんだよ。もう世界中どこに行っても、このマークが見られない国はないさ」

「ありがとうございます」

 女の子は店の主人にそういいました。店の主人は照れたように笑いながら、

「あっはっは。私のおかげじゃないよ。君たちの努力の成果なんだよ」

 といいました。そして女の子の手を優しく両手で包み、

「さあ、そのトランプと欲しいだけの靴を持って、早く国にお帰り。みんなが待っているだろう?」

 と優しく言いました。女の子の立っている後ろの壁には、何足もの色違いの靴がところ狭しと並べてありました。

「頂いても、いいんですか?」

 女の子が驚いてそう聞き返すと、

「ああ、もちろんだよ。だってこの間、約束したじゃないか」

 と店の主人は笑いながら答えました。

「では、頂いて帰ります。このトランプを、私の国のみんなにも見せてあげたいと思います」

「ああ、そうしなさい。気をつけて帰るんだよ。そしてもしもまた機会があったら、この国に住む私のところを訪ねてきておくれ」

「はい。必ず」

 女の子はもう一度しっかりと店の主人と握手をして、そしてお別れをしました。

 新しいシルクの靴を足に履いた、自然にウェーブした栗色の髪の毛の女の子は、その小さな胸にトランプの箱をしっかりと抱きながら、みんなの待つ南の国へと涼やかな足取りで帰っていきました。

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『少女』 矢口晃 @yaguti

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