手をつないで帰ろ
春義久志
手をつないで帰ろ
「現象には必ず理由がある」と口上を述べていたのはテレビの向こうのガリレオ先生だったけれど、今日僕らが水族館に来ていることについても幾つかの理由があった。いい加減他に遊びに出かけられるスポットが、一地方都市たるこの街には無かったこと、両親を経由し入場料の割引券が僕のもとに回って来たこと、僕と彼女、双方の自宅からほどよい距離に立地していたこと、エトセトラエトセトラ。とは言え結局、僕はイルカのショーが、彼女はアシカやアザラシやトドが観たいからと、時折話題に上がっていたことが一番の理由だった。
折しも丁度、海岸沿いの公園内に位置する水族館が、開館以来のリニュアルオープンをしたばかりというタイミング。この街で生まれ育った彼女と違い、引っ越して半年足らずの僕は、未だその水族館を訪れたことが無かったから、これを機に俄然行ってみたくなった。久しく行っていなかったしと、僕の提案に彼女も二つ返事で承諾してくれた。
結果、今日という日は、僕から彼女に告白し良い返事を貰って以来、最初の逢引の日となったわけだ。デートという言葉を僕の方から口にしてはおらず、あくまで水族館へ行こうと誘っただけではあった。したがって彼女が今日のこの外出を一体どう捉えているのかどうかは定かではない。けれども、肩口まで伸ばした二つ結びの髪をリボンで束ね、少し歩きづらそうな踵の高い靴をわざわざ選んで履いて来ているのを見る限り、彼女の捉え方もきっと同じに違いないと思うのは、別段僕の自惚れではないだろう。
何はともあれ、彼女と僕の両方が行きたいと思える場所として、水族館という選択自体は問題ない、はずだった。
ねえねえと、僕からやや距離をおいた前方、アクリルの大水槽の向こうをじっと見つめる彼女に向けて、小さく声を掛ける。人数も多くはなく、気を使う必要もさほど無いけれど、静寂が一番似合うはずの館内で大きな声を出したくはなかった。
「そろそろトンネルの方行ってみようよ。ここからよりも、よく見えるんじゃない?」
僕の誘いを、しかし彼女は別にここからでいいよとぶっきらぼうに断ってくる。
「見ていたい魚はこの辺りしか回っていないみたいだから」
見たいのはトドって言ってたじゃないか、という指摘をぐっと飲み込み、僕は尋ねる。
「どれ?」
無言のままに指した対象を間近で確認してみようと水槽及びに彼女に接近を試みるものの、私の後ろに立つなと言わんばかりの殺気を発している。格闘技で鍛えたその闘志、出来ることなら僕ではなく試合の相手や暴漢にぶつけて欲しい。
当該水族館の目玉の一つ、大水槽。目玉だの大だのとは言っても、他県の大きな水族館のそれに比べれば、特別立派なものではない。館内に入ると程なく現れる大水槽の中を潜る水中トンネルを通過し、館内を進んでいくのが本館の正規ルートだ。しかし僕らは、そのトンネルの手前で足止めを食らっていた。より正確を期すなら、足止めを喰らっているのは僕だけで、足止めをしているのが彼女なわけだけど。
来館者の多くがあまり長居すること無く通過していく地点、ふと気が付くと彼女は人の流を外れ、水槽の前に立っていた。気になる生き物でもいたのかと思い彼女の傍に向かう僕を、部活動で鍛えた殺気で牽制してくる彼女。病気に罹る以前、一年次にはインターハイにも出場した実力者だという情報を耳にしていたとはいえ、普段あまり自分に向けれられることのないその威圧感に驚かされる。臆病な僕は、彼女に近づくことが出来なかった。そんなこんなで、トンネルの手前にて、水槽の中の生き物とその手前の彼女の背中を見つめたまま、僕は突っ立ち続けている。
話の契機を探す内、僕は昔どこかで目にした俗説を思い出していた。初デートで水族館へ遊びに行くカップルは長続きしないというそんな話を。
曰く、展示の都合上、水族館の照明は薄暗く設定されている。相手の顔色が悪く見えてしまった結果、一緒にいて楽しくないのだろうかと互いに不安になり、自然と会話も弾まなくなる。そうした気まずい雰囲気のまま終わったデートを引きずり、二人の関係もフェードアウトしていってしまう。確かそのような内容だったはずだ。
どの程度真面目に書かれた文章だったのか、前後の文脈が思い出せない今となっては思い出せないけど、とにかくそんな話が脳裏に浮かぶ。冷めたい汗が背中をつたい始めた。挽回のためにも、なにか話さなければと思い始めた矢先、前方の彼女が言葉を発した。
「余所見してた」
「へ」
つい間の抜けた声が漏れた。相も変わらずこちらに背を向けたままだから、水槽の中の魚達しか今の彼女の表情を知らない。僕に分かるのは、発せられた声からして、彼女が決して上機嫌ではないということだけだ。
「公園入ってから水族館に入るまで、余所ばっか見てた。挙句、綺麗な女の人を目で追ってたこともあった。正直ムカついてる」
確かに、初めてのデートでもないのに緊張してはいたし、でもそのことがどこか気恥ずかしくて、それを彼女に悟られまいと気張っていたことは否定出来ない。それでも、自発的に彼女から目を逸らしたつもりもなければ、美人を目で追い続けたつもりもない。偶然視界に入りっぱなしだったかもしれないけれど、それは不可抗力というものだろう。
そんな彼女の言葉と態度が少しだけ気に食わなかった僕の口から、きっと溢してはいけなかった不満が溢れ出る。
「ちょっとだけだったじゃん」
決して大きくは無いはずの独り言を彼女は聞き逃さない。ようやくこちらへ振り向き、僕の目を見据えた。
「ちょっとなんかじゃ、ない」
振り返った彼女の目は赤く腫れていた。暗がりでさえも、溢れようとする雫を隠してきれてはいない。言葉を失った僕を尻目に、袖で目元を拭うと、彼女は一人トンネルの先へ進んでしまった。
ひとまず今何をするべきなのか、ようやく脳処理が追いつく。一拍遅れて彼女を追いかけようとする僕を丁度入場してきた団体客が阻んだ。見えなくなった彼女に、このまま二度と会えなくなってしまうんじゃないか。馬鹿げていて、なのにどうしようもない不安に駆られた僕は、迷惑を承知で人の中を掻き分っていく。僕の代わりに彼女の泣き顔を眺めていたはずの魚達を、仕返しとばかりに眺め返してやる余裕は無かった。
結局、魚達をまともに見ることのないまま、イルカショーの会場まで来てしまった。そこまで広くは無い館内だから、既に巡回ルートの半分は過ぎている。ひょっとしたらあのままひとり帰ってしまったのではないか。そんな恐ろしい考えが頭をよぎった時、ショーの合間で人影もまばらな座席に座る彼女を見つけた。
憔悴したままイルカの泳ぐプールを見つめている彼女。また逃げられては敵わないと僕はこっそりと近づいた。よほど動揺していたようで、結局隣りに座るまでまったく気付くことはなく、それはそれで悲しかった。声を掛けた所でようやく僕の存在に驚き、再度逃亡を図る彼女。しかし、辺りの床はイルカの跳躍で撒き散らされた水でびしょ濡れで、履きなれない靴で駆け出した彼女はバランスを失ってしまう。つんのめり前方に大きく転倒しそうな彼女の手を、慌てて僕は掴む。思わずお礼を言いかけてから、喧嘩していたことを思い出したのか、急に黙りこみ目を白黒させている彼女。結局、ばつの悪そうに笑うことを選択した彼女を見て、僕もぎこちのない笑顔を返すことに決めたのだった。
転びかけた彼女を助けたショーの席に座り、程なく始まったイルカショーを鑑賞したあとで、僕と彼女はもう一度館内を見て回った。掛ける言葉を互いに探しあぐねている内に、彼女の希望だった海獣館も回り終えた。気がつけば、西日が目に痛いようなそんな時間になっている。
水族館を出て、海の見える場所まで僕と彼女は歩いた。遠くには離島も浮かぶ海原に向かって、一歩一歩進んで行く太陽。今日の夕焼けはさぞかし綺麗に違いない。
散歩の途中で見つけたベンチに座ると、際に手を掛け足をぶらつかせながら、彼女は語り始めた。それはまるで今日の出来事の反省会のようで、彼女に負けないくらい反省点を抱えた僕は、まずは彼女の話を聞くことにする。
「病気に罹ったのが一年の三学期でさ、夜中に激痛で気を失って、目が覚めたらこんな身体。元に戻ることは出来ないってお医者さんから言われた時は目の前は真っ暗になったけど、まだこうして生きてるんだし、少しでも前向きに行かなきゃってその時は思った。少しでもこの身体に順応していかなきゃなって」
僕が彼女に出会う半年前、彼女は、彼女ではなく彼だった。奇病に犯された結果、一晩の内に男性から女性へと性別が反転した彼女。格闘家として才能と将来を期待されながら、その道を断念せざるを得なかった彼女。
彼女が彼だった頃について、僕が知っているのはこのくらいだ。眼光の凄まじい大男だったとか、発症後の性格の変貌具合が凄まじく気味悪がられているとか、そんなことはどうでもよかった。僕にとって彼女は、僕が一目惚れをした、ただの女の子だ。
「でもね、結局毎日顔を突き合わせるのは、以前の私を知っている人たちばかり。その人達のみんながみんな、今の私を受け入れてくれるわけじゃないし、受け入れてほしいだなんて傲慢なこと言えないよ。病人だ男女だなんて陰口叩かれたり、どっちのコミュニティにも入りづらかったり。そんな毎日で、ちょっとささくれ立ってた」
「君からすれば、私は最初に出会った時から女だったかもしれない。それでも、元男だとか関係ない、今の君がいいんだって告白してくれた時、すっごく嬉しかった。嬉しかったけれど、でも同時にちょっと不安でもあったの。
「だって、君にとって私はただの女子だから。もしも私が元男だからって理由だったなら、変な人だとは思っても、そんな不安にはならなかったかもしれない。だけど、私よりもずっと綺麗だったり可愛かったりする他の女の人に惚れちゃったら、私のことなんかどうでもよくなっちゃうかもって思っちゃって。
「さっき君が綺麗なお姉さんに見蕩れてた時、そのことを思い出してさ。いろんなことが頭のなかでごちゃ混ぜで、わけわからなくなって」
逃げ出しちゃってごめん、そして、手を伸ばしてくれてありがとう。さっき言えなかったからと、彼女は僕に向けて頭を下げた。その顔が、水族館で僕を振り返った時と違って、
幾分申し訳なさそうに、そして照れくさそうに笑っていることが、何よりも僕を安堵させた。胸中を明かしてなお明るく振る舞った彼女のその勇気に僕の方も応えなくちゃ、心のなかでそう誓う。今度は僕の番だ。
「つーかーの中って言って、なんだか分かる?」
突然の僕の問いかけに彼女はきょとんとした表情を浮かべる。
「何か一言喋れば、それが相手にも伝わるみたいなのだっけ」
「そうそう」
「山と来たら川、風と来たら谷、みたいな奴ね」
二番目のは違うだろう。そう言って僕は笑い、つられて君も笑った。
「両親の仕事の関係で引っ越しが多くて、色んなところ転々としてたから、友達が出来ても、すぐ離れ離れになることも多かった」
今こうして彼女と話をしているこの街にどれだけいられるのかどうかも、実はまだ分からない。
「凄く親しい友人や彼女なんてのがいたこともなくて、一言言えば通じ合える仲とか、もっと進んで、言わなくても伝わるような、そんな関係ってのに憧れがあったんだ」
「君に告白をした時にも、その気持ちは念頭にあってさ。だから、君がOKをくれた時、それが叶うかもしれないって、浮かれてたんだ」
「そんなことが出来る様になるのはきっと簡単じゃない。時間だってどれだけ掛かるか分からない。なのに、君がいいよって言ってくれたから、もう僕にはそれが出来るんだって、勘違いしてたんだ。本当は、そこからが始まりなのにさ」
僕がぎゅっと拳を握ったことに彼女は気付いただろうか。
「今日君を追い掛けてて、そのことにやっと気付けた」
息を吸い込み目を瞑り、握った拳を解いて、ベンチの際に置かれた彼女の手に触れた。一瞬びくりとした後、大人しくなった手の甲から指先へと手を伸ばし、そっと絡ませる。彼女の方も握り返してくるまでの刹那は、告白の返事をもらう時よりも長く感じた。
「今日はこうして、一緒に帰りたいんだ」
恐る恐る目を開けて、彼女の方をちらりと見る。少しうつむき気味に、火照って紅く染まった顔の理由は、夕焼けのせいだけではないだろう。そしてそれはきっと、僕も同じだ。
「うん」とだけ、小さな声で返事が帰ってきた。僕と彼女はベンチから立ち上がる。握ったままの手のひらは緊張ゆえかどこか湿っていて、そしてとても暖かい。
気後れも気恥ずかしさも感じず、彼女の目を見て顔を見て、思いの丈の全部を伝えられるようにならなきゃと、彼女が彼女自身の胸中を明かしてくれた今、僕はそう思う。
それでも、やっぱり自身の憧れを捨てきることが出来ない僕もいる。初めて出逢ったその瞬間に一目惚れをしたことも、夕暮れ時の帰り道、彼女の姿を盗み見ていて転んでしまったことも、隣りに歩きながら目に映る今この時の景色が普段とまったく違う特別なものであることも、みんなこの指と手のひらを通して伝わっていけばいいのにと願う僕が。
どちらが正しいのかは分からない。正しい正しくないということではないのかもしれない。ただでも今は、今だけは。彼女と共に海と夕焼けを眺め、歩いて帰りたい。そう願ってやまない僕だった。
手をつないで帰ろ 春義久志 @kikuhal
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