第116話 失礼

田舎に産まれた僕にとって、東京はテレビで見る対象だった。都会という記号だった。


だから、初めて東京に行くまで、その街が現実に存在するか疑わしいとさえ思っていた。多分、あなたがヨハネスブルグという街を想像する時と同じように。


いつしか記号はリアルになる。大学に進学するまでに東京を2回訪れた。1回は修学旅行のディズニーランド。そして、もう1回は大学の受験の時。その2回だけだ。


大学受験の時はカプセルホテルに泊まりながら、3つの大学をうけた。1つはバンカラな大学。もう1つはカトリック系のもの。そして、3つ目がお金持ちが行く大学だった。


3つ目の大学に行く頃には「山手線の混み具合」に驚かないようになっていたし、渋谷という地名が口から自然に出るくらいになっていた。


しかし、3つ目の大学、お金持ち大学の受験の時に、僕は東京の大きさを見せつけられた。


受験は9時頃からで、僕は8時30分頃には席に座っていた。受験室となった部屋は50%くらいがすでに埋まっていただろうか。長机の右端に僕が座る。そして、左端に書類が置かれていた。つまり、誰かがそこに座るということだ。


受験開始の10分くらい前になって、その人は現れた。女性だった。


慌ただしく荷物を置く女性。慌てていたからか椅子を勢い良く上げてしまった。ドン、という音がした。


「失礼」と女性は言った。


- 失礼?


と僕はその言葉を頭の中で反芻する。


「すいません」「ごめんなさい」ではなく「失礼」。僕の生まれ育った地方では、使われたことがない表現だった。「失礼あそばせ」といったような軽やかなトーンで自然に18歳の彼女の口から出た「失礼」という言葉。「ポール・ボキューズ」という単語なみに、自分には馴染みのない単語だった。


これが生まれながらの令嬢か、と衝撃をうけた。ここは僕が受けていい大学ではなかったのだ。


僕は受験が始まってもその言葉が頭から離れなかった。


「失礼」


そんな言葉が自然に口に出せる女性に対して畏怖の念と敬意。そしてある種の恋心さえ僕は抱くほどだった。


受験に終わって家に帰ってからも、テストで間違えた「シートベルトをお締めください」の英作文のミスよりも、その「失礼」という言葉がずっと残っていた。地元に帰ってからも、面白おかしくその話をしたものだ。


もっとも、その2年後、その友人たちはその話を僕に仕返すことになる。


そんな"失礼"大学に入学して、自分自身が「失礼」という言葉を使うようになった僕を笑うために。

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