第4話『過去と未来』

 好きという幸福に満ちた言葉を葵は物悲しそうに口にした。

 葵の「好き」というのは、友情とか親愛とかそういう類ではない。恋愛感情の表れであることがすぐに分かった。葵はとても寂しそうな表情をしているから。


「異性として真守お兄ちゃんが好き。幼かったけれど、そんな想いをずっと抱いていたの」

「だけど、俺達は兄妹だ。結婚することはできない」

「……そうだね。ただ、初めてそれを知ったとき、諦めるどころかより一層お兄ちゃんのことが好きな気持ちは膨らみ続けた」


 その言葉に、葵がどうしてこの3年間、生田萌として過ごしてきたのかが分かった気がする。生田萌として生きる糧が何だったのか。


「……またとないチャンスだと思ったんだね」


 俺がそう言うと、葵は静かに頷いた。


「なるほど、そういうことか」

「ど、どういうことなの?」


 桜さんは感付いたみたいだが、お嬢様はまだ分かっていないみたいだった。


「3年前の事件が葵の人生をガラリと変えたんですよ、お嬢様」

「……ああ、なるほどね。何となく分かってきたよ。あなたが前に話してくれたのを思い出した」

「ええ」


 俺に恋心を抱き続けてきた葵。だけど、兄妹では結婚できないという法律の壁があり、葵の恋は絶対に報われないものであった。

 だけど、そんな状況を180度回転させた出来事が発生した。それが、3年前の俺と勇希兄さんの誕生日に発生した交通事故だったんだ。


「あの日、ショッピングモールに行く途中でここに寄ったの。私の提案で、服を入れ替えて真守お兄ちゃんを驚かせようと思ったの。背格好も髪も声も似ているから、お兄ちゃんのことを騙してみようって。そんな悪戯心だった」


 萌ちゃんが家に来ることは知っていた。だけど、まさか萌ちゃんの家でそんなことがあったのは知らなかった。


「萌は勇希お兄ちゃんのことが好きだったみたいで、この家から車に乗るとき、私と勇希お兄ちゃんの間に座ったの。そして、ショッピングモールに向かって走り始めた」

「その直後に例の事故が発生したんだな」

「……うん。お母さんが危ないって声を挙げたから、運転していたお父さんが急ブレーキをかけて、その直後に後ろからその凄く激しい衝撃を受けた。横を見たらもうぐちゃぐちゃになってた」


 葵は涙をポロポロと零している。事件当時の凄惨な光景を思い出しているのだろう。


「お父さんもお母さんも衝撃で意識を失っているようだった。それが分かった瞬間、爆発音がして……火に包まれた。空気が一気に熱くなって、何とも言えない臭いがして。必死にシートベルトを外して、左側のドアから出たの」


 主語は違うものの、その話は桜さんから聞いた話と一緒だ。

 きっと、自分のことだけで精一杯だったのだろう。小学5年生の女の子では、両親はおろか隣に座っていた萌ちゃんさえも助ける力はないだろう。


「車の中から呻き声が聞こえた気がした。だけど、少しでも車から離れなきゃいけないと思って、這いつくばりながら歩道の方に移動したの。そのとき、横断歩道で倒れていた都築さんの姿が見えたの」


 都築さんも葵の姿が見えたということを言っていたな。きっと、葵が歩道の方に移動したことで互いのことが見えたのだろう。


「お父さん達は大丈夫なのか。あのままで都築さんは大丈夫なのか。私はこのまま死んじゃうのか。そんなことを想いながら意識を失ったの」

「葵さんの意識が回復したのは数日経ってからだった。その間にとんでもないことが警察の中で起きてしまったんだな……」


 桜さんは悔しそうな表情を浮かべていた。


「俺は遺体の確認をするために、警察署の中にある霊安室に行った。そこには担当刑事である桜さんがいた」

「御両親は顔も認識でき、所持していた免許証で身元を確認した。だけど、子供2人の遺体は特に損傷が激しく、警察の方で確認ができない状況だった。そこで、最後に自宅で会った真守君に遺体の確認をしてもらいに来たんだ」

「俺は家族が出かける直前に着ていた服で判断してしまった。だからこそ、勇希兄さんと葵が亡くなったんだと思ったんだ」


 その当時は、葵と萌ちゃんが服を取り替えていたことは知らなかったから。葵の服を着ていた萌ちゃんを葵だと俺が判断したせいで、真実がねじ曲がってしまった。長瀬葵が亡くなり、生田萌が大けがをしたと。


「結果、葵さんの知らないところで真実が変わってしまったのね。それは本当に不可抗力だったけれど……」

「そういうことです、お嬢様」


 当時のマスメディアも、風邪で家に残っていた俺を除く家族全員が亡くなったと報じていた。そのことにより、このねじ曲がった真実は全世界に知れ渡ってしまったのだ。俺もマスコミ関係者に心境はどうかとしつこく追いかけられたことを覚えている。


「目を覚ますと、そこは病院だった。呼吸することも辛くて、体の色々なところがとても痛くて……凄く苦しかった。でも、誰かが喜んだ声を挙げていたの。それは、萌の両親だった。生きていて良かった、萌……ってね」


 当然、葵は驚き、違和感を覚えたはずだ。生きているのは長瀬葵なのに、どうして生田萌が目を覚ましたことになっているのか。


「萌の両親の言葉で私は大やけどを負って、顔のやけどの状態は特に酷かったことを知ったの。そして、真守お兄ちゃん以外の家族は全員亡くなったということも。驚いた。何が起きればそんな風になってしまうのかって」

「すまない。葵さん……」

「日向さんのせいじゃないです。元々の原因は、事故を引き起こした三富博ですから」


 それが潤井さんの実の父親で、九条家で雇っていた運転手だった。


「だけど、すぐに思った。こうなったのはきっと、萌と服を入れ替えたからだって。そして、亡くなった萌も顔の状態が酷かったんだって」

「そのときに葵は思ったんだな。これはチャンスだって」


 自分は葵でも、周りの人間や世間が自分のことを生田萌として見てくれている。俺に恋している葵はこの状況を逃さなかった。


「葵さんは生田萌さんとして生きることを決めたのね。いつの日か、真守と結ばれるために」


 お嬢様がそう言うと、葵はお嬢様の方を見て一度頷いた。


「長瀬葵では結婚できない。でも、生田萌なら結婚できる。周りが生田萌として私を扱ってくれるなら、それに従えばいい。世間にとって長瀬葵は死んでいるんだから、残りは自分自身で長瀬葵の存在を殺してしまえばいい。そう思った」

「でも、今の葵は萌ちゃんにそっくりだ。声や雰囲気はまだしも、その顔は……」

「さっきも言ったけれど、やけどの状態が酷くてね。手術をしないと完全に治せないって言われたの。そうじゃないと、どうしてもやけどの痕がかなり残るって。それで、手術の運びになった。そうすることで、生田萌の顔を手に入れたの」


 きっと、萌ちゃんの御両親は娘にこれからの長い人生、死ぬまでやけどの痕を抱えてほしくなかったんだろう。それで手術に踏み切ったんだ。まさか、その娘が葵だなんて思うはずもないだろう。


「長い入院生活だと、1人の時間も多かった。その間に萌の声を出す練習をしたの。そのおかげで、萌の両親にバレないほどの声を普通に出せるようになった」


 電話で話したときも、昨日……この家で葵に会ったときも、俺は葵であることを全く疑わなかった。顔はもちろんのこと、声も萌ちゃんだったのだから。


「退院して、小学校に行ったとき……みんなが私のことを萌として迎えてくれた。私は萌になったんだ。そのときはとても嬉しかった。これで、いつか真守お兄ちゃんと結婚できるって。幼かったから、単純にそう思えた。葵が亡くなって寂しいって言われたけど、それでも前向きでいられた」


 葵は生田萌として人生をリスタートすることに成功したんだ。姿も声も雰囲気も萌ちゃんと瓜二つ。同級生は誰も葵が生きていると疑わなかったのだろう。


「ただ、どんなに見た目や声が萌だとしても、心は長瀬葵のまま変わっていない。気が抜けると葵の声に戻っちゃうの。中学に入学した直後だったかな。気の抜けた葵の声を誰かが聞いちゃったみたいで、私の亡霊がこの世に来ているって少しずつ言われるようになったの。私は萌だからすぐにその話をされた」


 1年くらい前から亡霊の噂は出ていたってことか。萌ちゃんは葵の親友だから、周りの子からすぐに伝わってきたわけか。


「亡霊の話を聞いたら、何だかどっと心が疲れちゃって。ずっとあった萌に対する罪悪感が急に膨らんできたし……この先どうしようってなり始めた。今の私は死んだ萌を利用として生きているんだから」

「葵……」

「万が一、真守お兄ちゃんと結ばれても、それは生田萌として。真守お兄ちゃんは私のことを長瀬葵としては愛してくれないんだと思って。そうしたら、私のやってきたことって、何の意味もない最低なことなんだって気付いて。そうしたら、葵の声がどんどん出ちゃって。みんなの前では必死に隠し続けてきたけれど、それも段々とできなくなってきて」

「その結果、葵の亡霊の噂が大きくなってしまったわけか」


 きっと、このままではいけないと思って、葵の声が出てしまう場面が多くなったんだろう。

 葵は右手で涙を拭うが、涙が止まることはない。


「どうすればいいんだろう、私……」


 今、葵は果てしない暗闇の中で彷徨っているんだ。どこに向かえばいいのか分からず、だけどどこに向かっても絶望しかない。その原因はきっと、萌ちゃんに対する深い罪悪感だろう。葵は個人的な理由で萌ちゃんの死を利用してしまったんだから。

 選択肢があるとすれば、このまま生田萌として生きるか、長瀬葵として生きるか。

 前者では平穏に過ごせるかもしれないけど、萌ちゃんに対する罪悪感が消えることはないだろう。後者なら本当の自分として生きるのだから精神的にはいいけど、生田萌であると3年間偽って生きてきた葵のことを周りがどう見るか。

 真実をしてしまった以上、俺は葵には長瀬葵として生きてほしい。どんなに外見が生田萌だとしても、心は長瀬葵だから。


「こういうとき、どうすればいいのでしょう。桜さん……」

「……決まっているだろう。長瀬葵として生きていくべきだ」


 さすがに桜さんは冷静だった。難しい表情こそ見せているものの、その判断は早かった。これが大人と子供の差なのだろうか。


「様々な事情があったことは分かった。でも、長瀬葵が生きているという事実が明らかになった以上、見過ごすわけにはいかない。葵さんの未来を考えても、長瀬葵として生きるのが一番いいと思うよ。どうだろう、長瀬葵さん」


 決めつけて終わるのではなく最後に問いかけるのは、警察という身分も関係ない日向桜という人間の優しさがそうさせているのだと思った。


「生田萌になってしまったのは警察側にも原因がある。君が3年間、生田萌として生きていたことを法的に裁くつもりは全くないよ。君が長瀬葵として生きる手続きはこちらが責任を持って行う。君のことは私や真守君達がサポートする。ここにいるのが辛かったら、私と一緒に住んでもいいし」


 桜さんは長瀬葵として生きていく勇気を出そうとしているんだ。桜さんの言うとおり、俺やお嬢様達は葵を支えていくつもりだ。


「だけど、私はたくさんの人に迷惑をかけてきた。萌の死を利用して、お兄ちゃんと結ばれたいって思った最低な人間なんですよ! そんな私が長瀬葵として生きていくことなんて許されない……」

「……本当にそうかな、葵」

「えっ……」

「確かに葵のしたことは間違っていると思う。だけど、葵はそれが分かっていたから、葵の声が出るようになって、亡霊の噂になった」


 葵の本音が不意に出ていたんだ。このままじゃ駄目だという本音が。


「俺は葵が生きていることを知ったとき、素直にこう思った。葵が生きていて嬉しいって。もちろん、同時に萌ちゃんが亡くなったことも分かったから、悲しい気持ちも湧き出たよ。それでも、葵が生きていることが本当に嬉しいんだ」


 それが俺の素直な気持ちだった。葵が生きていることの喜びはとても大きい。家族が生きていたんだから。


「だから、葵として生きてくれないかな。それだともちろん、俺とは結婚できないけれど。だけど、俺の妹って葵しかいないんだ。それはこれからもずっと変わらない。それって、俺との確かな繋がりじゃないかな……」


 俺との確かな繋がりを持っていたい。葵はそれをずっと願っていた。


「葵は生まれたときからずっと、俺との繋がりがあるんだよ。でも、生田萌として生きるということはその繋がりがなくなるんだ。それに、俺は九条由衣という女性とこの先も一緒に生きていくことを決めているから。だから、葵の願いは叶わない」


 そんな葵にとっての一番の悲劇は、葵が俺と結婚できないことだろう。それをこの先の未来で知るよりも今知った方がいい。

 葵の心の中にあった柵が解けたのか、葵は軽やかな笑みを浮かべた。


「そっかぁ……」


 ため息交じりに葵はそう呟く。


「……私は本当に幼くて、馬鹿なことを考えていたんだ。真守お兄ちゃんとは、産まれたときから兄妹っていう確かな繋がりがあったのに」

「葵……」

「ねえ、お兄ちゃん」

「なんだ?」

「……今から長瀬葵として生きていけるかな。萌にちゃんと罪滅ぼしができるかな?」


 それは自分が長瀬葵としてのリスタートする合図だと分かった。葵は非常に大きな一歩を踏み出そうとしている。

 俺にできるのは、兄として葵が自分で走り出していく勇気を与えることだけだ。


「どうだろうね。でも、葵が葵として前を向いて歩いて行ければ、きっと萌ちゃんにもその気持ちが伝わるんじゃないかな」


 だけど、萌ちゃんなら……葵が長瀬葵として生きることを決断し、一歩を踏み出せばそれで良いと思っているだろう。彼女はそんな優しい女の子だった。


「……そうだよね。私は葵なんだから、長瀬葵として生きないとね」


 その言葉は、葵は長瀬葵としてのリスタートを切った証拠だろう。ここからしばらくの間は厳しい道を歩かなければならなくなるかもしれないけれど、葵ならきっと乗り越えられるだろう。俺達も精一杯サポートしていくつもりだ。

 3年ぶりに葵が長瀬葵として生きることになったのだから、生田萌としての旅から帰ってきた彼女を迎え入れよう。


「おかえり、葵」

「……ただいま、真守お兄ちゃん」


 葵は涙をボロボロとこぼした。

 端から見れば萌ちゃんが微笑んでいるように思えるだろう。だけど、俺にとっては葵が嬉しそうに笑っているように見える。3年ぶりに見る葵の笑みはとても眩しかった。

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