第10話『セイシ』
あの後、俺達は食堂で昼食を取った。未来以外の同級生の女の子と楽しく食事できたのはいつ以来だろうか。少なくとも、家族を失ってからはこんな経験はなかったと思う。
午後の授業も何事もなく過ぎていった。授業の合間の休み時間に潤井さんと話すようになったこと以外は、午前と変わりない。相変わらず、都築さんは俺の方に視線を向けることはしなかった。
放課後。
午後4時。俺とお嬢様は宝月学院を後にする。未来や潤井さんと一緒に帰ろうと思ったけれど、未来は女子テニス部の活動があり、潤井さんも家の方の用事があるとのことで、終礼が終わると早々に教室から出て行った。
今朝、お嬢様が言ったとおり、リムジンではなく徒歩で下校する。
「みなさん、忙しいんですね」
「そうね」
「お嬢様も何か部活に入らないのですか? スポーツが得意そうなイメージがありますが」
「部活に入ることも考えたことはあったけれど、愛莉みたいに家の方の用事が入ったら、そっちを優先しないといけないの。そういうことを考えたら、何だか乗り気になれなくて」
「そうですか」
それは俺のような一般人には縁のない、財閥に生まれた子息だからこそ抱える悩みなのかもしれない。お金と自由は不釣り合いなんだろうな。
「まあ、私の場合はお父さんが海外にいるし、愛莉に比べればあまりないよ。だから、週1で活動している文化系の部活だったらいいかもしれないわね。あとは同好会とか」
「高校なのに同好会があるんですか? てっきり、そういうのは大学だけかと……」
「同好会やサークルだと、生徒の数が少なくても活動できるの。ただ、部活とは違って活動場所は与えられるけれど、部費が出ないんだけどね。宝月学院には色々な人がいるから、非公認ながらも、派手に活動している同好会やサークルがあるって話も聞くよ」
好きなことをやるなら、同士が集まればいいからか。自分で参加できるイベントなら非公認でもいい。ケースバイケースってことかな。
「もし、真守が高校に通っていたら、どこか部活に入ってた?」
「入っても文化系の部活だと思います。茶道部とか」
「茶道部かぁ。宝月学院にもあるけど、女子の割合がかなり高いみたいだよ」
「……茶道部は止めておきましょうかね」
「あははっ」
お嬢様、別に声に出して笑わなくてもいいじゃないですか。茶道室という密室に女子がたくさんいたら、それだけで死んでしまいそうなんですから。
「そんなこと言っても、お昼ご飯の時は愛莉相手にも普通に話せていたじゃない。私には結構楽しそうに見えたけれど?」
「それは……お嬢様や未来がいたからですよ。潤井さんと2人きりだったら、目を合わせて話すことができなかったと思います」
「そうかしら? でも、昨日よりもずっと良くなっていると思う。これも、リハビリのおかげ……なのかな」
お嬢様は頬を赤くしながら俺のことをじろじろと見ている。昨日の温泉でのリハビリのことを思い出しているのかな。
「そうかもしれませんね」
あの状況に比べれば、というのは正直あった。肌と肌が直接触れてしまうのが一番きついことだからな。
そうだ、話題が女性恐怖症になったから、お嬢様にあのことを話すか。
「……あの、お嬢様」
「なに?」
「お嬢様、聞きたいと言っていましたよね。俺が女性恐怖症になった原因と、俺と都築さんの関係について。今なら話せると思います」
俺がそう言うと、お嬢様は真剣な表情になる。
「分かった。じゃあ、ゆっくりできるところに行こうか。私、いい場所を知っているの」
「そうですか。分かりました」
俺はお嬢様の後についていく。
数分ほど歩くと、金原市の中心を流れる金原川の横の道を歩いていた。金原川は一級河川で立派な川であるけど、晴天が続いているので今日の流れも穏やかだ。
「あそこのベンチでいい?」
お嬢様が指さした先には、川へと続く草原の上にぽつんと置かれたベンチだった。その周りには人気が全くない。
「いいですよ」
「うん、決まりね」
俺とお嬢様は近くにある階段で草原に降り、目的地のベンチまで行く。俺を気遣ってくれているのか、お嬢様はベンチに座るときに俺との間に学校のバッグを置いた。
「気持ちいい」
「そうですね」
「……私ね、悲しいときや悔しいときはいつもここに来ていたの。それで、何も考えずにずっと川を見てね。そうすると、嫌な気持ちが自然となくなっていくの。こんなことで悩んでどうするんだ、って」
「……そうですか」
お嬢様にとってここは癒やしの場なのか。俺もここで嫌なことを吐き出せって言いたいのかな。
穏やかに吹き抜ける爽やかな風に、日光からもたらされる確かな温もり。微かに聞こえる川のせせらぎが心を休ませてくれるのかもしれない。
「そろそろ話してくれるかな?」
「……分かりました」
俺の人生の分岐点。それは間違いなくあの出来事だ。それをお嬢様に話す。
「全てのきっかけは、3年前の俺の誕生日……4月13日でした。その日、13歳になった俺は風邪を引いて学校を休んでいました。その日は俺の誕生日ということもあって、父が早く家に帰ってきたんです」
「優しいお父さんね」
「ええ。優しい父でした。全然似ていませんけど、俺には双子の兄がいました。兄の誕生日でもあったので、俺が風邪を引いていなければ、全員で食事に行き、俺と兄はプレゼントとして好きなものを買ってもらい、帰ってきたらケーキを食べるはずでした」
「そうだったの。でも、実際は真守が風邪を引いていた……」
「ええ、それが運命の分かれ道でした。あの日、俺は欲しいものを両親に言って、1人で留守番をしました。その日は本降りの雨だったので、家族は車で買い物に行きました。プレゼントとケーキを帰ってくるから。母と話したこの言葉が、まさか家族と最後の会話になるとは思いませんでした」
あの日は大雨だった。雨音がうるさくて、風邪薬を飲んでもなかなか寝ることができなかったことを今でも覚えている。
「そういえば、昨日……温泉に入っているとき、家族を事故で亡くしたって言っていたよね。まさか……」
「そのとおりです、お嬢様。出発してから20分ほど経ったとき、俺の家族を乗せた車は事故に遭ったんです。正確に言えば追突事故です。そして、その発端になったのが都築さんだったんですよ」
「そ、そんな……」
さすがにお嬢様も複雑な表情をして、顔色も悪くなっている。
そう、都築さんとは3年前から繋がりがあったんだ。そのきっかけは、家族全員を失った交通事故という最悪の形だけれど。
「ここからの話は警察の捜査や裁判を通じて知った話です。事件当時は大雨で、車の運転をするにも、常にワイパーで水捌けをしなければならない状況でした。目撃者によると、横断歩道に家の車が進入したとき、都築さんが横断歩道を渡ろうとしていたんです。家の車は当然、急ブレーキをかけましたが、間に合わず都築さんに軽く当たってしまったらしいです。しかし、その直後……後続車がその道の規制速度を超えるスピードで追突したんです。そして、家の車と追突した車は炎上しました」
事件の発生した状況はだいたいそんなものだと聞いた。このことが警察による公式見解であり、裁判でも話された。
「事件当時、うちの車には俺の家族以外に、誕生日パーティーに参加する妹の友人がいました。その子は後部座席の左側のドアから自力で出ることが出来ました。顔を中心にひどいやけどを負いましたが、命に別状はありませんでした。ただ、うちの車に乗っていた人で助かったのは彼女だけで、俺の両親、兄、妹は亡くなりました。両親は黒間の炎上による一酸化炭素中毒。兄と妹は追突の衝撃が直接の死因だったようです」
妹の友人の証言によると、彼女の座っている部分に車が追突しなかったそうだ。無我夢中で外に出たようである。
「俺がその事故を知ったのは、発生してから1時間以上が経ったときでした。警察から家に電話がかかってきて、家族の死亡確認をしてほしいと」
「13歳の男の子にそんなことをさせるなんて、酷だわ……」
「生きている家族は俺しかいないですからね。実際には未来の母親である叔母と一緒に死亡確認をしました。両親の顔はまだ分かりましたが、妹と兄は損傷が激しく……顔を見るだけでは判断できない状況でした。着ている服や、外出するときにはいつも身につけている時計などで判断しました」
今でも、あのときのことを思い出すと吐き気がしてくる。お嬢様の言うとおり、13歳の少年に死亡確認をさせるのは酷なことだろう。叔母がいなかったら、とてもじゃないけど、あの場にはいられなかったと思う。
「それは、さぞかし辛かったでしょうね……」
「その場では泣くことも出来ませんでした。声すらも出せませんでした。遺体を見る度に息苦しくなったことを鮮明に覚えています」
事件が起こってから初めて泣いたのは、叔母の家に泊まらせてもらって、1人になったときだろうか。それまでは不思議と涙が出なかった。
「追突した車を運転していた犯人は軽傷で、すぐに現行犯逮捕されました。
「そう……」
「そして、都築さんは家の車にぶつかったときの衝撃で右足を骨折し、1ヶ月の入院となりました。退院した頃には大分治っていました」
「でも、どうして真守が女性恐怖症になるの? 都築さんと関わりがあることは分かったけれど……」
3年前の事件から、女性恐怖症には簡単に結びつかないよな。
「もちろん、話は終わっていません。事件から3ヶ月が経ったときです。三富に対する刑事裁判が行われている中、都築家は俺に対して都築さんの医療費を含めた賠償金を支払うようにと訴訟を起こしてきたんです」
「……思い出した。犯人への裁判と並行して、追突された車にぶつかったことに対する訴訟があったこと……」
「ええ。警察の記録にも、都築凛さんは家の車に当たったことで負傷したことになっています。しかし、運転していた父は亡くなっています。そこで、家族である俺に賠償金を払わせようとしたんでしょう。その額はどう考えても賠償金としては大きすぎる額でした」
「何が目的だったのかな。都築建設の面目を保つためかなぁ……」
「そこら辺の思惑はさすがに分かりません。ただ、彼女が怪我をさせたのは家ですから、訴訟があればある程度の額は払おうと考えていました。ただ、要求してきた金額は家では到底払いきれない額でした」
だけど、世間ではそれが妥当なのではないかという意見が多かった。都築さんの負った痛み、1ヶ月以上に渡って学校に通えなかったことを理由に挙げて。
「額を減らすべきだと、裁判で争っていたときでした。ある日、俺が学校から帰る途中に都築さんと取り巻きの女子数人が現れたんです」
「凛があなたに?」
「ええ。裁判の話がしたいからと。俺は逃げようと思ったんですけど、足がすくんでしまって逃げることはできなかった。家族が彼女に怪我を負わせてしまったからでしょうかね。結局、取り巻きの女子達によって人気のないところに連れて行かれたんです」
あのとき、都築さんを目の当たりにした瞬間から恐怖しかなかった。どうして、彼女が俺に会いに来るんだって。
「そして、賠償金を半分にする代わりに、俺は都築さんに強姦されました」
取り巻き達に体を押えられ、都築さんは俺に強姦してきたのだ。まるで、今まで溜まっていた不満、鬱憤、欲求……全てを俺にぶつけるかのように。
お嬢様も黙り込み、俯いてしまっている。そうなってしまうのも仕方ないか。
「そのことを機に、俺は女性を恐れるようになりました。特に俺に色目を使ったり、好意を持ったりする素振りを見せる女性に対しては。あのとき、都築さんは俺のことを何とも言えない笑みを浮かべながら見てきて、幾度となく無理矢理キスをしてきました。そのことを思い出してしまうからです。俺は再び、あの時と同じ目に遭ってしまうのではないかと思って」
その影響で、一緒に住んでいた未来でさえも恐れるようになってしまった。同年代の女性を中心に苦手なのは、都築さんが同学年だったからだ。
3年前に比べればまだマシになったものの、女性が怖いという根底の部分は何も変わっていない。
「……昨日、温泉でやけに緊張していたのは、発症した原因がそれだったからなのね」
「ええ。肌と肌が触れ合うことは、当時のことを特に鮮明に思い出させますから」
温泉でお嬢様が手を触れたとき、かなり緊張したのは強姦が原因だったからである。ましてや、互いに肌を露出している状態で起こったのでかなりまずい状況だったのだ。
「結局、強姦の事実を親戚に言えませんでした。そして、都築さんの方から賠償金を半額にすることもなかったです。親戚の尽力もあって、最終的にはある程度現実的な額で決着をつけることができました。全て支払いは終わっています」
「それは良かった。でも、あのときの凛を見る限り、今も3年前のことをまだ根に持っている感じに見えた。反論できる立場じゃないとか言ってたでしょ?」
「ええ。彼女は何を理由に俺を執事にしたいのかが分かりません。まあ、俺のことを束縛して、あのときのような快感を味わうつもりだと思いますが」
ただ、本気で俺を執事にしたいのであれば、いくらでもチャンスはあったはずだ。あのときのように、不意に俺の前に現れて俺を誘拐する。都築家の力があれば、そんなことくらい容易くできると思う。
「……まあ、今話したことが俺が女性恐怖症になったきっかけと、都築さんとの関係ですね」
「まさか、あなたの家族が亡くなる話から繋がっているとは思わなかった。まさか、凛がそんなことをしていたんて。ひどい話ね」
お嬢様はそう言うと、俺に同情しているのか物悲しげな笑みを見せる。
「叔母の家に住んでも、住まわせてもらっているという感覚しか持てませんでした。だから、中学卒業を機に就職をして、家を出たんです」
「でも、高校卒業認定を受けるつもりなんでしょう? 履歴書に書いてあった」
「ええ、将来……弁護士になりたいと思いまして」
「弁護士に?」
「都築さんとの裁判中にずっと感じていたんです。都築家という財閥の力が弁護士にかかっているなって。裁判全体もまるで魔法がかかったように、都築家が有利になる方向に大きく傾いているなと思いました。権力や金などで動かない、事実と向き合える弁護士になりたいと思ったんです」
俺のような目に遭った人がいたとき、その人の声を聞いて助けることが出来るような存在でありたいと考えている。あのときは親戚中が団結したから何とかなったからで、こちら側の弁護士も頼りなさそうな感じだった。
「大学に通わずに司法試験を受かった人も聞いたことがありますが、それは本当にまれなことで……ちゃんと大学で法律のことを勉強しようと考えて。だから、勉強しながら自分で大学に通うための費用を稼ぐことに決めたんです」
「それで、家を出て就職するという決断をしたのね」
「ええ。でも、その考えは甘かったみたいです。実際に、高校に行くべきだという理由で、就職した書店を解雇させられてしまいましたし……」
突然であったことを除けば、何も不満はない。大学の学費を稼ぎながら勉強をするなんていうのは甘い考えで、非現実的だったのだ。
「それでも、採用してくれた職場には感謝していますし、お嬢様にも感謝しています。こんな俺をSPとして雇ってくれたんですから」
俺はお嬢様に向かって深く頭を下げる。このくらいじゃ感謝しきれないほど、お嬢様には感謝している。
「……顔を上げなさい」
お嬢様にそう言われたので、ゆっくりと顔を上げるとそこには頬をほんのりと朱色に染めたお嬢様がいた。
「私は……真守にならできると思う。大学に通って、司法試験に合格して、自分の理想とする弁護士になること」
「……俺にできますかね」
「私ができるって言うんだから、絶対にできる。だって、真守は……とても辛くて苦しいことを乗り越えてここまできたんだから。真守の真摯な想いが伝わったし。だから、自分の決めた道を進みなさい。そのために頑張りなさい」
お嬢様は優しい笑みを見せる。強気な口調で言ってくれることがとても心強い。
何だかお嬢様に色々話したことで、結構心が軽くなったな。どんな気持ちでも、声に出すというのはとても大事なことなのかもしれない。
「お嬢様に話して、だいぶスッキリしました。ありがとうございます」
「いいのよ。私から言いだしたことだったんだし」
「今はお嬢様のSPとして全力でお嬢様を守ります。これからも宜しくお願いします」
「……そんな風にかしこまらなくても、真守の気持ちは分かっているから。だから、その……一緒にお屋敷へ帰りましょう」
「はい!」
そして、俺とお嬢様はベンチから立ち上がり、お屋敷に向かって歩き始める。
時刻は午後5時近く。住宅街だからか既に閑散としていた。
「こんなに静かだと、何だか寂しいわね」
「そうですね」
「家がたくさんあるんだから、もう少し賑やかでもいいはずなのに。家なんて、敷地がここら辺の住宅街全ての広さくらいあるから静かなのは分かるけど……」
「くるみさんと数人のスタッフの方だけですもんね」
それでも、お嬢様の言うことも分かる。俺が小学生くらいの時は、近所の子と一緒に公園で遊んだり、その近くの道ばたで母親同士が井戸端会議をしていたり、今のような静寂な時間はなかったように思える。
やがて、住宅街を抜け……九条家の外壁の側を歩く。九条家の敷地が広いこともあり、正門まではちょっと距離がある。
「真守」
「なんですか?」
「宝月学院は土曜日も授業があるから。午前中だけだけどね」
「土曜日までご苦労様です」
土日の連休がないのは辛いかな。ただ、私立だと土曜日に授業がある高校が意外とあると中学のときに友人から聞いたことがある。
「まあ、学校も近いしそんなに苦じゃ――」
そう言って、お嬢様が俺の方に振り返ったときだった。笑顔だったお嬢様は突如、険しい表情をして、
「真守、危ない!」
その瞬間、ドスン、と背後から押される。
振り返ると、そこには見ず知らずの男が立っており、彼の持つナイフが俺のスーツに刺さっていたのであった。
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