第5話『リハビリ方針』

 SPとして採用もされたので、荷物を取りに戻るために家に帰ろうとしたら九条さんに止められた。

 実は九条家の手配した引越し業者が、既に俺のアパートから荷物をお屋敷に運んでいたのだ。まるで最初から俺をSPにすることを決めていたかのように。九条家の絶大な力を垣間見た気がした。

 俺の部屋を用意いただいたので高認試験の勉強もちゃんとできる。これはとても嬉しいことだ。

 引越しの作業が終わったときにはすっかりと日が暮れていた。

 くるみさんの作ってくれた夕飯を食べ、九条さんとくるみさんのご厚意で俺は一番風呂に入ることになった。


「うわぁ、広いな……」


 脱衣所から何もかも立派なホテルのようだ。1人で入るにはもったいないくらい。これでも民家のお風呂なのだから驚きだ。

 髪と体を洗って、さっそく大きな湯船に浸かる。


「はあっ、極楽だぁ!」


 お湯の温度も絶妙だ。とても気持ちいい。

 まさか、書店を解雇されたときには、脚を目一杯伸ばして湯船に浸かることができるとは思わなかった。昨日まではずっと仕事ばかりで疲れていたし、この際だからゆっくりと体を癒やそう。


「あれって……」


 大浴場の中を見渡すと、外へと繋がる扉がある。行ってみるか。


「どれどれ」


 扉を開けて外に出てみると、そこには露天風呂があった。1人か2人くらいしか入れないこじんまりした感じではなく、10人は軽く入れそうな立派なものだ。ここが個人宅とは思えない。


「凄いな、九条家……」


 住んでいるところは今までと同じ金原市なんだけどな。ここだけ異世界のようだ。

 露天風呂に入ると、ここのお湯もちょうどいい温度だった。ゆっくりと肩まで浸かる。

 4月も下旬になったけど、夜になるとまだまだ肌寒い。ただ、露天風呂を満喫するにはちょうどいいかな。入浴することは好きなので、露天風呂があることに感動している。だって、これから毎日入れるんだもん。


「これこそ贅沢の極みだよなぁ……」


 お風呂は癒やされるなぁ。溜まっていた疲れが取れてきたぞ。


「ゆっくりと浸かっているのね、真守」

「はい。露天風呂があるなんて感動しましたよ、九条さん……って、えええっ!」


 な、何で九条さんがここにいるんだ! しかも、九条さん……タオル1枚で前を隠しているだけだし。彼女の白い肌がすぐそこにある……あぁ。

 まずい。ここまでの肌の露出はまずい。しかも、お互いに裸なので一気に恐怖に煽られてしまう。露天風呂に入ってぽかぽかなはずなのに、今は背中に悪寒が走っている。


「どうして、九条さんがここにいらっしゃるのですか?」

「入浴するために決まっているじゃない。あと、さっきから私のことをずっと九条さんって呼んでいるけど、他の呼び方にしてよ。私のSPになったんだから……」


 そう言って不機嫌な様子で露天風呂に入らないでくれませんか。まともに考えられなくなっちゃうじゃないですか。


「え、ええと……では、お嬢様と呼ぶのはいかがでしょうか?」

「お嬢様? 確かに、私はここの令嬢だけど……」

「私、こういうお金持ちに住んでいる人のことをお嬢様って言いたかったんですよ! 小さい頃からずっと憧れていまして」

「そういうことならかまわないけれど」


 良かった、納得してもらえて。正直、これが一番自然に呼べると思ったのだ。


「あと、言葉遣いはあまり気にしないから。同い年なんだし」

「分かりました。……じゃあ、俺はそろそろ出ますね!」

「待ちなさい!」


 露天風呂から出ようとするけれど、お嬢様が俺の手を強引に掴んでくる。


「うひゃああっ!」


 女性恐怖症のせいで、甲高い声を上げてしまう。互いに裸の状態でお嬢様に手を掴まれるのは相当な衝撃だった。

 俺のそんな醜態を目の当たりにしたお嬢様は慌てて手を引っ込め、申し訳なさそうな表情で俺のことを見ている。


「ごめんね、真守。私、真守にもうちょっとここにいて欲しくて」

「……い、いえ。いいんですよ」


 俺は再び露天風呂に浸かる。しかし、お嬢様からなるべく距離を置いたところで。


「私と一緒にお風呂に入るのは、やっぱり刺激的過ぎたかしら」

「……はい。お嬢様はとても素敵な女性ですし。それに、こういう場所で、しかも服を着ていない状態で肌と肌が触れ合うのはちょっと……」

「なるほどね。いきなり、こんなことをしちゃってごめんなさい」

「気になさらないでください。お嬢様は何も悪くありません。悪いのはこんな体質の俺なんですから」


 それでも、お嬢様が露天風呂に入ってくるとは思わなかった。本当にただ、露天風呂に入りたかっただけなのかな。


「あの、お嬢様。本当にただお風呂に入りたかっただけなんですか? 脱衣所を見れば、俺が入っていたことは分かったはずです。何か別の目的があると思うのですが」


 思い切ってそう質問してみると、お嬢様はにこっと笑った。うわぁ、何だか嫌な予感しかしないんだけど。


「その通りよ、真守」

「やっぱり。それで、目的は何なんですか?」

「……真守のリハビリよ」

「リハビリ?」

「そう、女性恐怖症を克服するための、ね」


 なるほど、こういう風に一緒にいることで、女性に対する耐性を身につけようとお嬢様は考えているのか。その気持ちは有り難いけれど、一緒に露天風呂に入るのは最初から飛ばしすぎではなかろうか。


「こういう風に女性と一緒にいれば、真守も女性に対する恐怖心がなくなるかなって」

「それはいいと考えだと思いますけど、いきなり露天風呂は大胆すぎでしょう」

「……相手が真守じゃなかったらこんなこと絶対にしないわよ」

「……そうですか」

「それに、一緒に露天風呂に入れるようになれば、普段は服を着ているわけだし、大抵のことは乗り越えられるんじゃないかしら」

「……そんなものですかね」


 お嬢様の言いたいことは分かるけど、ちょっと違うような気もする。いきなり一緒に露天風呂なんて入ったら、症状を悪化してしまう危険だってある。幸い、相手がお嬢様だから、今のところ全身に寒気が走っただけで済んでいるけど。


「ねえ、真守。隣に行ってもいい? 変なことは絶対にしないから」

「……絶対にしないと約束できるのであれば」


 俺がそう言うと、お嬢様は俺のすぐ隣までやってきた。お嬢様の白くてスベスベとした肌が今にも触れそうだ。

 緊張感が高まる一途を辿る。ここから逃げないように意地で座っているけれど、そのせいかお湯が波立っている。


「こんなに波打つ露天風呂なんて初めて。頑張っているのが凄く伝わってくるわ」

「は、はい……理性をフル稼働させて何とかここにいます」

「でしょうね。真守の声がとても震えているから。本当はここから逃げたいんだよね……」

「……お嬢様には申し訳ありませんが、その通りです」


 俺がそう言うと、お嬢様は寂しそうに笑った。


「そうだよね。私だって緊張しているし。同い年の男の子とこうして2人きりで入るのは初めてだから、真守の気持ちもちょっと分かるかな」


 じゃあ、お嬢様は自分が緊張している中で俺のことを考えて、一緒に風呂に入ってくれたのか。


「ありがとうございます、お嬢様。俺なんかのために……」

「……なんか、じゃないわよ。私がそうしたくてやっているだけよ。真守に女性恐怖症を克服してほしいし」


 お嬢様は湯の中で俺の右手に触れてきた。手を掴まれたときの衝撃が相当なものだったからか、このくらいは何とも思わなくなっていた。


「ねえ、真守」

「何ですか?」

「……ご家族は? 今までどこにも連絡してなさそうだったから」

「家族は全員、3年前の交通事故で亡くしました。そのときに妹の親友の女の子も一緒だったんですけど、彼女だけは何とか助かって」

「そうだったのね」

「家族を全員亡くした俺は、中学を卒業するまで叔母のところに住まわせてもらっていたんです。お風呂から出たら、叔母の家に連絡するつもりです」

「そうなの。事故の直後はとても辛かったでしょうね」


 そう言いながらも、お嬢様も俯いてしまう。きっと、俺が家族全員を失っていたとは思わなかったからだろう。


「辛かったのもそうですけど、事故を引き起こした犯人に許せない気持ちの方が強かったです。もう今は法律に則って裁かれたので吹っ切れました」

「……そう、なんだ」


 お嬢様も母親を亡くしているから共感できることがあったのかもしれない。今の俺の話を聞いて心を痛めているようだった。


「俺のことを必要としてくれる人がいることを知って、きっと家族もあの世で喜んでいると思います」

「……私を守るって言ってくれて凄く嬉しかったよ。真守、これからよろしくね」

「はい、お嬢様」


 もう、これ以上自分の大切な人を失いたくない。だからこそ、お嬢様がCherryから命を狙われていることを知ったとき、彼女を守りたいと思う気持ちがより強くなった。人の命を絶たせるような行為は絶対にさせない。


「じゃあ、今日のリハビリはこれで終わりにしようか。頑張ったわね」

「……はい、ありがとうございます」


 お嬢様の笑顔がとても可愛らしく思える。

 お嬢様から少し離れても体の震えが止まらないのは、久しぶりに女性と一緒に入浴し、たくさん話をしたからだろうか。


「真守、先に上がっていいよ。私はもうちょっと浸かっているから」

「分かりました。それではお先に失礼します」


 軽く頭を下げると、お嬢様は笑顔で手を振ってきた。素敵な笑顔の持ち主だなと思う。

 もしかしたら、俺が脱衣所から出て行くのを待っているかもしれないので、さっさと着替えて脱衣所を後にしたのであった。

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