二章~紅の戦い~

1在りし日のこと

 真っ青な空を切り裂き、夏の日差しが穏やかな海を照らしている。

 ポート・ノゾミ第一人工島、南岸の遊歩道。


 手すり付きの岸壁が、東西に数百メートルも続いている。見回してもベンチに座る俺と、手すりにはりつく流煌るき以外に人影はない。


『暑いな……釣りしてる奴もいねえ』


『大丈夫、風はあるから!』


 流煌が振り向いて笑う。確かにここは三呂市街から二キロ沖。潮の香りをはらんだ風が海から常に吹きつける。汗も少しずつ乾くようだ。


『あー、早く来ないかなあ』


 流煌の目は俺ではなく、海峡をはさんだポート・ノゾミ第二人工島へと向けられている。


 あっちはほぼ原野の殺風景な島だ。駐車場にしても使い切らず、サーカスが来るくらいだった。


 ただ一部だけが三呂空港になっている。ターミナルと滑走路、第一人工島との間には車とポート・レールを通せる大きな橋もかかっている。


『うーん、やっぱ三呂の昔の市長かなあ。開発に変な反対して国怒らせたから、国際便の発着もないし、国内便のターミナルも少ないしなあ……夜中のが増えても意味ないんだけどなあ……』


 流煌が腕を組んでぶつぶつ言っている。飛行機の離着陸を待つ身には、昔の三呂市の失政が許せんらしい。数十年前のことを根に持つ国もどうかと思うのだが。


 暑かろうが寒かろうが、まずここで飛行機を待つのが試験明けの俺達なのだ。


『お前よく、はしゃげるなあ』


『騎士くんがだらしないんだよー。なに、こんな暑さ』


 元気に飛びはねるが、全体的に地味だ。

 制服なのは、テスト明けだからまあいい。


 校則の申し子みたいな丈のスカートと、きっちり整ったブラウス。

 艶やかな黒い髪はほどくと長い。だが目立たぬよう、いわゆるポニーテール。


 変わっているといえば、誕生日に俺が送った、翼の蒔絵まきえがついたバレッタくらい。基本的に、女子の群れの中で一歩引いているタイプだ。


『元気だねえ……』


 ベンチに座った俺は、青すぎる空と、柵にかじりついて空を見上げる流煌の背を見守る。


 後ろ髪を揺らしながら、流煌が飛びはね、俺の方を振り向く。

 指を指すのは第二人工島の上空。


『来た。ねえ騎士君、来たよほら』


『あー、来たな』


 日差しを浴びて、機体をきらめかせながら、飛行機が滑走路に入ってくる。


 ポート・ノゾミにある高校の校舎からは、よく発着音が聞こえた。だがビルで機体は見えなかった。ここなら、離着陸の瞬間を見届けられる。


『ボーイングの737かー、まあ珍しくないなあ』


『機種分かるのかよ』


 知識があるな。飛行機なんて飛べばいいんじゃないか。

 流煌がポニーテールを揺らして振り向く。頬がふくらんでいる。


『有名なやつだよ。何十年も前から、8000機くらい作られてるの』


『それ多いの、少ないの』


 丸い目がきょろきょろと頭の中をたどる。小首を傾げたひょうしに、またポニーテールが揺れた。


『……多いと思うな。去年日ノ本で飛んでたジェット機が、500機あるかないかだから。その中の100機ぐらいが、あの737なの』


『へえ、そりゃすごいな』


 日ノ本で飛んでる、二割近くがあの飛行機なのか。


 確かにアニメのキャラや航空会社のペイントこそ様々だが、滑走路の機体はほとんど737型らしい。


 流煌は飛行機が好きだ。

 乗る方じゃなく、整備の方で仕事がしたいと言ってた。

 そのことを話したら、友達に驚かれたとも。


 待機していた別の737が滑走路に入った。じょじょに加速すると、日差しを浴びながら、青空へと浮かび上がる。なるほどなかなか美しい。


 離着陸を見守ると、流煌がこちらを振り返る。


『騎士君、つまらなくない?』


『何がだよ』


『いやほら、私女の子なのに、飛行機の話をしたり、統計とか知ってたり、可愛くないとか、生意気とか』


『いいじゃねえか。飛行機好きなんだろ』


 俺だけに見せてくれる一面だ。

 そう思うと嬉しくなってくる。


『えいやっ!』


 腹に穴が開くほどの勢いで、流煌が俺に飛びついた。


 胸に顔を押し付け、背中に手を回しながら、小さな声でつぶやく。


『……ずるいなあ。そういう事言うから、離れられなくなる。騎士君結構モテるから、心配なんだもん。私地味だし、釣り合わないとかいわれるかも』


 女子の前じゃナイーブなんだよな。


『放っとけ、そんなの。俺とは関係ねえよ』


 二年もすりゃ受験だ。


 良く知らんが、流煌が自分の夢に本気なら、普通の大学には行かないかも知れない。そうなったら、この関係もどうなるか。


 なんとか、続けていきたいけれど。


 ああ、そうやって。ぼーっと将来を思い描いちまう程度には。


 こうして、断片を思い出せる程度には。


 流煌のことは、大切だったんだな。


    ※※    ※※


 窓ガラスの破片、燃えカス、ガレキ。


 そして、悲鳴と断末魔。


 応戦する警官の銃声が、ときの声に押されて少なくなっていく。


 うつ伏せに倒された俺に、不快な体重がのしかかっている。

 喉元に突きつけられているのは、誰かの血で生々しく濡れた短剣だった。


 マンションを荒らすゴブリン、逃げる人々に矢を射かけるハイエルフ。

 子供でもあしらうように、警官隊を振り払うドラゴンピープル。


 好みの女に首輪をつけ、船に引きずるバンギアの人間達。


 この世の地獄を背景に、流煌は男に抱かれていた。


 いや、男というのが人間を表す言葉なら不適当だ。

 こいつは人間じゃない。


 生気を感じさせぬ青白い顔、酷薄な印象の鋭い目鼻立ち。

 流煌を抱きしめているのは、吸血鬼だ。女性や少女の血をすすっていた。


『騎士くん、ごめんね。私のこと、もう、忘れて』


 力なく微笑む流煌。恐れを包み隠そうとして、握った手が震えている。


 満足そうにその髪をなでながら。

 流煌を抱いた、右頬にえぐれた傷のある男の吸血鬼が唇を歪める。


『この世界の女は、淑やかでいいな。貴様は幸福だぞ。恐怖も悔恨も感じる事はない、美しさを保ったまま、この私の十五番目の下僕となるのだ』


 かっと口を開けて、細い首筋に噛みつく。


 流煌の目が、俺をみつめたまま、光を失っていく。


『流煌! よせ、よせおま……っ』


 喉元を、薄く切り裂く鋭利な感覚。


 俺を抑え込んだ女。こめかみから二本の角を生やした悪魔が、頬を寄せて囁く。


『邪魔をしないの、坊や。心配ないわ、下僕になれば、あの子はもっと美しくなれる。吸血鬼に抱かれることは、すべての女の憧れよ』


 その言葉を証明するかのように。


 流煌の瞳は今まで見た事のない恍惚に揺れていた。


 崩れそうになる身体を吸血鬼が支えている。


 あごをつかんで引き寄せると、蠱惑的な目でじっと見つめ、囁く。


『女よ、お前の名を言ってみろ』


『まだ……ございません、ご主人様の思うままに』


 せつないほどに、濡れた声。


 もう流煌は、流煌でなくなったのか。


 俺や、親しい人が呼んだ名は、記憶から消えてしまったのか。


 吸血鬼が満足げにうなずいた。

 大事な人形でもなでる様に、青白い指で流煌の髪をくしけずる。


『では名前を贈ろう。フィクス、お前はフィクスだ。良いな』


『はい、ご主人様』


 差し出された手の甲にくちづけ、愛おしげに頬を寄せる流煌。


 馬鹿な、こんな馬鹿な。


 吸血鬼が手を放すそぶりを見せると、流煌は自分の足で立った。


 改めて忠誠を示すかのように、スカートの裾を広げて、深々と一礼する。


 まるで何十年も勤めあげた忠実な使用人だ。


『顔を上げるんだフィクス。その男を見ることを許そう』


 うながされるまま、流煌が俺に歩み寄ってくる。


 姿は同じ、歩調も同じ、見慣れた同じ流煌。


 だがその瞳は、吸血鬼と同じ深紅だった。


『流煌、お前……大丈夫なのか』


『そのような方は存じておりません。あなたは、どなたですか』


 来ると分かっていた言葉でも、耐えられるはずがなかった。


 短剣の感触も忘れ、思わず叫んだ。


『騎士だよ! 丹沢騎士だ! お前が、お前が勉強見てくれた丹沢騎士! 飛行機の話をして、好きだって言ってくれて、一緒に高校に通』


 蹴り上げた革靴が、俺の言葉を遮った。


 道端のガムでも踏んでしまったかのような顔で、流煌は血を吐いた俺を見下ろす。


『もう十分です。私の心も身体も、全て、ご主人様のものですわ』


 目の前の存在は、流煌のはずなのに。


 今、生きているはずなのに。


 流煌は、俺の前から消えてしまった。


 信じられない、信じたく、ない。


『る、き……』


 制服も、いつもつけてくれていた髪留めも、全てそのままなのに。


 なぜだ、なぜ。


 吸血鬼が勝ち誇ったように微笑む。


 血を吸われたからなのか。あれだけのことで、俺と重ねた時間の全ては奪われてしまったのか。


『ご主人様、どうかこの男を処分なさってください。身に覚えのないことを、かようにわめき散らされて、耐えられません』


 ストーカーを、見る目だった。


 耐えきれず顔を伏せた俺の頬を、細い指がなぞっていく。

 柔らかく、しかし冷たい不快な感触が体を包む。


 悪魔の女が俺を抱きしめているのだ。


『駄目よ。この子は私がもらうもの。そういう約束でしょう?』


『そうだったな。すまないフィクス、君の望みには応えられない』


 苦笑した吸血鬼に、流煌は深々と頭を下げた。

 自分のわがままで、主人の機嫌を損ねたと思ったのだろう。


 吸血鬼はそんな流煌の髪をなでると、子供を甘やかすように囁く。


『だが、君の不快は取り除こう。これは彼のための慈悲だ』


 吸血鬼が近寄ってくる。


 かがみこむと、俺の頭をつかみ、無理やりに視線を合わせる。


 間近で見たその美貌に感じたのは、寒気どころじゃない。


 こいつ、こいつは本当に人間じゃないんだ。


 氷のように透き通った手、酷薄な笑みを浮かべた唇。

 こいつは楽しんでる、流煌を流煌でなくしたことを。

 人の心を、操ることを。


 深紅の瞳に見つめられていると、全てが消えていくような気がした。


 痛みだけじゃない、身体の感覚、視覚、聴覚、俺の全てが瞳の中に取り込まれてしまうかのような。


『……ふむ、愚かだ。女が鉄の塊を愛でることを許すとは。そうでなくとも、私のものを持っていた記憶は残しておけん』


 頭の中が、かきまわされる。脳のしわが直接広げられているような、何とも言えない感覚。


『私の慈悲だ、人間。女との思い出を消しておいてやる。手に入らぬものに焦がれることなく、今後は悪魔の僕として、幸福に暮らすがいい』


 やめろ、やめろ。


 頭の中からも奪われたら。


 流煌は、俺の前から完全に消えてしまう。


『よせ、よせよ、頼む、やめろ……』


 通じるわけがなくても、そう口にするしかない。


 俺の恐怖を楽しむように。


 赤い瞳から、灰色の光が近寄ってくる。


「やめろ、やめろ……ああ、うわああああっ!」


 叫び声と共に、俺は飛び起きた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る