第14話
次の瞬間、闇の一部分が薄く揺れて二人の行く手を塞いだ。
「?」
目を凝らして透かし見て、それが何か見極めるまで婆沙(ばさら)丸はなお暫く時を要した。
緑の闇──秘色の直衣(のうし)に夏蟲の指貫(さしぬき)。
「あなたは……中御門の若殿……?」
装束を貸してくれたあの藤原雅能(ふじわらまさよし)だった。
「〈水の精〉に会いたがった可愛い田楽師よ。どうだ、願いは叶ったのか?」
公達(きんだち)は悲しげに嘆息して、 ※公達=貴族の若者
「〈水の精〉を見つけた暁には、一言、私にも知らせて来るものと楽しみに待っていたのだが?」
「あ、その節はお世話になりました」
婆沙丸は深々と頭を下げた。
「ただ、今は──御覧の通り時間がない。私たちは先を急いでいるのです。今回の事柄の詳細は検非遺使(けびいし)の中原成澄(なかはらなりずみ)様にお聞きください。中原様が全てを説明してくださるはず。結局、〈水の精〉は存在しなかったのです。ともあれ、私はこれで。行くぞ、ナミ!」
ナミの手を取って驚いた。
あの、いつも鳥のように軽やかな娘が岩のように固まって動かない。
白い喉から悲鳴が漏れた。
「キャーーーー!」
あの夜と同じだ。
あの夜、〈あははの辻〉を切り裂いた悲鳴──
── キャーーーー…… … …
「ナミ? どうした? 来い!」
「いや……ダメ……その男……」
「え?」
戸惑う婆沙丸。一方、藤原雅能は笑った。
「やはり、〝見ておった〟な?」
「何の話だ? ナミ? 雅能様? え? え?」
「その女をこのまま行かすわけにはいかぬな。大切なものを見知った女なれば……」
「──?」
「まだわからぬのか? 田楽師風情(ふぜい)にしては頭が切れると感心したものだが、買い被りであったか、婆沙丸?」
躙り寄りつつ、絵巻から抜け出たような若い貴人は言った。
「〈水の精〉は存在するぞ。この世を甘く見てはならぬ。おまえが思っているほど娑婆(シャバ)は単純でも清浄でもない。厭離穢土(おんりえど)……魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界なれば……」
雅能は直衣の袖をまさぐって妙な塊(かたま)りを取り出した。
それこそ、結んだ縄。いつも死人の傍らに落ちていたと言う、あれ──
「ほうら! おまえのために、今夜も用意したぞ?」
「では……まさか……〈水の精〉とは……」
「いかにも、この私よ!」
全ては自分がやったこと、と雅能は微笑んだ。
「幾人もの若い貴人を襲い、その美しい顔を削ぎ、命を奪い、縄を置いた……」
あの夜、〈あははの辻〉で予(かね)てから狙い定めていた朋輩の源実顕(みなもとさねあき)を襲った時、たまたま闇の中にいて一部始終を目撃してしまったのがナミだった。その際、発した恐怖の叫びこそ婆沙丸と成澄が聞いた〝それ〟だったのだ。
「まさか近くに遊女がいたとは思いもしなんだ。その場で始末しようとしたが、思いの他早く近づいて来る松明(たいまつ)に虚を突かれ、まんまと遊女に逃げられた上、あの場は私自身の身を取り繕うのが精一杯……」
雅能は遊女と田楽師を順に指差しながら、
「私の顔を見た女が生きている限り安心はできないと憂慮していたが、幸いにもこうしておまえが見つけてくれた。嬉しいぞ。おまけに、おまえときたら──」
公達は蛇を思わせる細くて赤い舌で唇を舐めた。
「殺し甲斐がある。今宵、貴人の装束でないのが惜しまれるが……私は既におまえのあえかな公達姿を見ているものな?」
「何故、こんな馬鹿な真似をする?」
思わず婆沙丸の口を突いて出た言葉だった。
これを聞いて雅能は狂喜した。
「おお! そうだった! おまえは〈水の精〉に会ったら、そのことをぜひ訊いてみたいと言っていたものな?」
理由などない、と大納言の息子は言明した。
「私は昔から自分と同じ美しい者たちを見るとたまらなくなる質(たち)でな。滅茶苦茶にしてやりたくなる。ただそれだけのこと。おまえが案じたように苦悩などしておらぬ。いや、むしろ──今は無上の喜びを感じるな!」
歌うように雅能は続けた。
「それで、この楽しみを誰にも咎められず、止めさせられることもなく続ける方法を考え出したのだ。
私の通う大学寮にほど近い冷泉院(れいぜいいん)にかつて出没したという〈水の精〉の話。
これを読んだ時は踊り出したくなるくらい嬉しかったぞ!
人間以外の──物怪(もののけ)の仕業となれば、さしもの検非遺使どもも手が出せまい?
私はこれからもずっと、存分に、この秘密の楽しみを続けられるのだ……!」
惜しむらくは、と少々口惜しげに舌打ちする。
「この話を載せた物語集がまださほど世に知られていないこと。〈今昔物語集〉は未完ながら稀代の傑作じゃ! もっともっと多くの人に読まれるべきよ」
今度、直衣から引き出された雅能の手には、貴人の子が生まれた時、最初に与えられるという護刀(まもりがたな)と思しき刀子(とうす)が握られていた。
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