第10話

 日が昇って、こう明るくては流石に気恥ずかしくて、婆沙(ばさら)丸は烏帽子(えぼし)を被るのを躊躇(ためら)った。

 夏草のそこここに脱ぎ捨てた狩衣(かりぎぬ)や指貫(さしぬき)や沓(くつ)──貴人装束の諸々をひとまとめにして小脇に抱える。

 幸いにも娘の残して行った被衣(かづき)の小袖がある。それを纏って屋敷へ帰ったのだが、こっちの方もそれなりに似合った。

 元来、異形が売りの田楽師。都大路を行き交う誰一人として、そんな婆沙丸を気に留める者はいなかった。


「婆沙丸が死んだというのは真実(まこと)か!?」

 一条堀川の通称〈田楽屋敷〉に弓箭(きゅうせん)打ち鳴らして沓のまま中原成澄(なかはらなりずみ)が駆け込んで来たのは二日後の昼過ぎのこと。

 要領を得ない笛役や太鼓役を蹴散らし、月次屏風(つきなみびょうぶ)の陰に倒れ伏したまま嗚咽を漏らしている狂乱(きょうらん)丸を抱き起こした。

「一体、何があった? この前会った時はピンピンしてたじゃないか! 事の成り行きをこの成澄にもわかるようキチンと話してくれ!」

「それが……俺にも……何が何だか……」

 涙に濡れた顔で狂乱丸は首を振るばかり。

「弟は物怪(もののけ)に取り憑かれたのじゃ。そのことは知っておろう? そもそもひと月ばかり前、戻り橋の上で見知らぬ娘に出会って以来、あれはすっかり物狂いになった……」

 兄は言う。

「だが、娘を捜している内はまだ良かった。それが突然、一昨日の晩、今度は〈水の精〉を探すとかぬかして、何処で手に入れたものやら貴人の装束で出て行ったきり夜が更けても帰って来ない。

 とうとうその夜は戻らなかった。そうして昨日、何とか無事に帰って来たと思いきや、玄関を入るなりバッタリ倒れて、俺が夜具まで運んだが……そのまま……」

「死んだか?」

 検非遺使(けびいし)は天を仰いで嘆いた。

「惜しい男を亡くしたものだ! いや、全く、あいつは見事な舞を舞った! それにあの声! 歌も素晴らしかった! いやいや、田楽ばかりではない。あの可愛らしい顔貌(かおかたち)! おお、あの美しい顔が今もこうして眼前に生きている如くちらつくぞ?」

「それは俺だよ、手を離せ、成澄!」

 兄の田楽師は咳払いしてから、

「それにつけても、恨むべきは橋下(はしした)の陰陽師だ! 有雪(ありゆき)の奴め! あいつが下らぬ卜占を聞かせたのが全ての始まり。こうなったからにはタダでは済まさぬ! 成澄、即刻引っ捕えて来てくれ!」

「おおよ!」

 検非遺使慰(けびいしのじょう)は涙を拭って力強く頷いた。 ※慰=位の呼称

「おっと、陰陽師もそうだが──清目(キヨメ)も呼ばねばな。鳥辺野(とりべの)まで可哀想な婆沙丸を運ばねば」 ※清目=葬送を司る集団 ※鳥辺野=埋葬地

「……そうだった」

 再び、見る見る狂乱丸の瞳に涙が溢れる。

「頼むぞ、成澄。婆沙丸が死んだと伝えれば、皆集まってくれるはず。弟は浮かれ騒ぐのが何より好きだった。せめて最期もこれ以上ないくらい賑やかに送ってやりたい」

「何人くらい入り用だ?」

「せめて……十人は」

「少ないっ!」

 カラリと襖が開いて弟の田楽師が叫んだ。

「五十人、いや、もっと、百人は欲しい!」

「──ば、婆沙丸?」

 腰を抜かしたのは検非遺使の方である。物凄い音を立てて成澄はその場に尻餅をついた。

 一方、兄の田楽師は宙を飛んで抱きついた。

「生き返ったのか、婆沙! よくやった!」

 呆れて鼻を鳴らす弟だった。

「元々死んでなどおらぬ。人を勝手に殺すなよ、兄者?」

「だって、おまえ、丸々二日間、俺の呼びかけに答えず、飲み食いはおろか夜具から出て来ない。俺はもう、てっきり果ててしまったものと──」

「ずっと考えごとをしていたんだ」

 兄の腕を優しく解きながら婆沙丸は言った。

「聞いてくれ、兄者。話がある。ちょうど良かった、成澄も。この二日間、夜具の中にいて俺は〈水の精〉に関しての謎を解いたのだ……!」

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