第9話

「名を教えてくれ」

 漸く息がつけるようになってから婆沙(ばさら)丸は訊いた。

「俺は婆沙丸。田楽師じゃ」

「私はナミ」

 零れて纏(まと)いつくナミの髪はひんやりと冷たくて火照(ほて)った体に心地良かった。

「変な男じゃな、婆沙丸? 田楽師と言うのが本当なら……なんでそんな格好をしている?」

「それは──おまえに会うためさ。おまえは貴人ばかり狙うんだろ?」

「私ではなくて、館(タチ)の奥方の躾(しつけ)じゃ。貴人は皆、裕福だし安全だからと。その上、非力で乱暴はしないと奥方は言うておられる」

 ナミが体を起こすと丸い肩が月のようにポッカリと闇に浮かび上がった。

 婆沙丸はたまらなくなって再び地面に押し戻してしまった。

 両の月をすっぽりと己(おの)れの胸に抱く幸福。

「教えてくれ」

「名なら言うたはず」

「何故、あんな真似を続ける?」

 婆沙丸が訊いたのは〈貴人殺し〉についてだった。

「貴人ばかりを付け狙うのは──憎いからか? ナミは男どもを恨んでいるのか?」

 娘は俯(うつむ)いたきり黙り込んでしまった。

 やはり手順を間違えた、と婆沙丸は後悔したが遅かった。

 この手の話は会ってすぐするべきだった。思う存分好きにした後で、それをする男を恨んでいるかと聞くとは。

(今となっては俺も同罪だ……)

 赤面する田楽師の腕の中で、しかし、娘は意外な返答をした。

「私が一番恨んでいるのは、私をここへ連れて来た連中じゃ」

 自分は五つかそこらの頃、拐われたのだとナミは言った。

「故郷は何処?」

「遠い処。海の近くの邑(むら)。難波津(なにわづ)とか言うと館殿(タチどの)が口にするのを聞いたことがある」

 渚で遊んでいた時、いきなり袋を被せられて、気づくとこんな遠い都まで運ばれていたのだとナミは教えてくれた。

「今となっては憶えているのは自分の名と、これだけ」

 白い手首で腕輪が揺れた。

「母者がつけてくれたお守りと言ったな?」

 婆沙丸は腕輪の上に手を重ねて、

「帰りたいか?」

「当たり前じゃ。寝ても覚めても故郷のことばかり思うておる。何より──波の音が恋しい。潮騒の届かない処は人の住む場所ではない」

「そこまで言うか?」

 笑う婆沙丸の耳元で赤い石が鳴った。娘の指が項(うなじ)を撫で上げる。

「良いものじゃな? 男(おのこ)の髪に触れるのは初めてじゃ。公達(きんだち)はいつ何時なんどきも烏帽子(えぼし)を被っているから……」 ※公達=貴人の若者

「?」

 海の中にいる気がする、と婆沙丸の髪を梳きながらうっとりと目を閉じてナミは言うのだ。

「一掻きごとに水を掻く……指の間を流れる水はこんな感じだった……」

「へえ? そんなものかな?」

 山国育ち故、海を見たことがなく、従って泳いだ経験などない田楽師には毛頭わからないことだった。

 だが、ナミを抱いていると水の中を揺蕩(たゆと)う気持ちは容易に想像できた。

 先刻、感じたあれ。何やら体中が弛緩して……フワッと浮いて……まるで……

「なあ? 俺は泳げはしないが、水の中を行くのは空を飛ぶ感じと似ている気がするぞ?」

「あんなことを言って! ならば聞くが、婆沙丸は空を飛んだことがあるのか?」

「あ! いや、それもないか……」

 娘は一頻(ひとしき)り例の──橋の上で聞いたと同じ愛くるしいさざめき──笑い声を上げた。


 目を醒ますと傍らにナミの姿はなかった。

 体の下に被衣(かづき)にしていた小袿(こうちぎ)が残っている。起こすのを躊躇(ためらっ)てそのままにして去ったのだ。 ※小袿=小袖

 娘の心遣いに思いを馳せてから、改めて陽の光の中で周囲を見廻して婆沙丸は腰を抜かしかけた。

 何と、そこは、〈神泉苑〉……

 荒れ果てているとはいえ、帝の庭園である。

 昨夜、闇に紛れてナミが連れ込んだ〈森〉とは京師(みやこ)の〈神泉苑〉だったのだ!

 確かに、〝ここ〟なら何処よりも静かで、且つ安全に商売ができよう。それに──

 婆沙丸は思わずニヤリとした。

(なるほどな?)

 あの娘は〈水の精〉だから? ならばここはピッタリの場所ではないか。

 古来、〈神泉苑〉には善女竜王という名の竜神が住むと聞く。竜神も水の精も、存外一緒なのかも……

 最近は絶えて久しいがその上古(じょうこ)、日照りが続くとこの苑で祈雨の儀式や疫鬼疫病を祓う御霊会(ごりょうえ)が頻繁に執り行われたことは婆沙丸も知っていた。

 だが、昨今の荒れ様たるや凄まじい。苑には壁もなければ垣もない。東門だけ辛うじて形をとどめている悲惨極まる状態なのだ。

(これなら、犬や遊女でも容易に潜り込める……)

 こんなことをあれこれ考えていた婆沙丸は、再度、驚いた。

 それは──それこそ、〝自分がまだ生きている〟ことだ。

 てっきり、昨夜の内に、あの娘、〈水の精〉に殺されるものと思っていた。

 それは当然のことだ。命のやり取りをする覚悟なしに、どうして〈水の精〉とわかっている娘と会ったりできよう?

 また、今生の夜だと思えばこそ、昨夜は後先も顧みず大胆不敵な振る舞いができた。

 あんなにも激しく娘を抱きしめて……その全てに触れ……その全てを見た……

「──」

 中天高い太陽を見上げて婆沙丸は首を傾げた。

(それにしても、何故、〈水の精〉は俺を殺さなかったのだろう?)

 俺が、本物の貴人ではなかったからか?

 

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