第6話

 続く十日あまり、婆沙(ばさら)丸は橋の近辺を飽かず徘徊した。が、遂に娘には出会えなかった。

 最初は面白がった兄もこの頃になるともはやからかうどころではなくなった。

 弟は本当に物狂いになってしまったようだ。

 それもこれも、あの胡散臭い橋下(はしした)の陰陽師のせいだ。あいつがくだらない卜占など聞かせるから──

 双子のくせにこの兄は弟と違い占いの類を一切信じない人間だった。夢見勝ちな弟の気質が母に似たのか、はたまた父のそれか、ふと首を傾げる狂乱丸である。

 とはいえ、父も母も兄弟はその顔さえ憶えていないのだが。

 二人は五つの歳に田楽を生業(なりわい)とする先代犬王に買い取られたのだ。

 無論、そのことで両親を恨んでなどいない。

 立派に生き存なからえて、今こうして一端いっぱしの暮らしができるのも習い憶えた芸あってのこと。

 狂乱丸は(そして、多分、弟の婆沙丸も)現在の生活に心から満足していた。

 舞い歌うのも浮かれ騒ぐのも性にあっている。美しい装束も、都の風景も、周りに集う種々雑多な仲間たちも、何もかも。

 これらを絶対失いたくはない。

 そういう風に考えて行って、ふいに狂乱丸は思った。

 こんな幸福に行き着けたのもひとえに〝一人〟でなかったからではあるまいか? 

 親元を離れて辛い修行の日々を耐えられたのは、いつも傍らに自分とそっくりの、分身のような弟がいたから。やっぱり兄弟〝二人〟だったからだ。肉親とはありがたいものだな?

 待てよ、と言うことは──

 今後、もし、おまえに何かあったら? 

 おまえがいなくなってしまったら、俺はどうすればいい?

(なあ? 婆沙丸よ……?)


 その婆沙丸、兄の心配をよそに、ここへ来て一つの賭けに出ることにした。


「これは意外。私に会いたいというのはおまえか? 検非遺使(けびいし)ではなくて?」

 穢に触れて物忌ものいみしていた件(くだん)の貴人、藤原雅能(ふじわらまさよし)の邸を一人訪れた婆沙丸である。

 中御門富小路に一町家(いっちょうや)を誇るその邸は目を見張るものだった。  ※一町家=一区画全部。約120m四方。

 屋根は、車宿(くるまやどり)や厩(うまや)に至るまで檜皮葺(ひかわぶき)。

 本殿に渡殿(わたどの)で結ばれた北・東西・西の対屋(たいのや)。

 南には種々の珍しい樹木が植えられ、季節の花々が咲き競う広大な庭が広がっている。

 鑓水(やりみず)を引いた池では反橋や泉殿(いずみどの)を巡ってゆっくりと群れ泳ぐ水鳥たちの姿も見えた。

 かくまで豪奢な暮らしぶりは、当家の主・藤原大納言貞能(さだよし)が院の年預(ねんにょ)を長く務めたせいと言う。  ※年預=出納係

 雅能は一人息子で邸の西の対屋に住している。貴族の子息に似合わず学問が好きで未だに大学寮で学び続けていた。

 とはいえ、この雅能が近い将来、父の富を継ぎ、父の位を超えて隆盛して行くだろうことは誰の目にも明らかだった。

 片や、恋の病に侵された婆沙丸には恐れるものなど何もない。胡乱な目で見る舎人(とねり)にしつこく取り次ぎを依頼して、見事、〈廂(ひさし)の間〉で対面の運びとなった。 ※舎人=使用人

「しかしまた……どうして私に会いたいと?」

 舎人同様、頻(しき)りに訝しがる雅能だった。

 婆沙丸は率直に打ち明けた。

「私の名は婆沙丸。御覧の通りの下臈、田楽師にございます。本来なら貴方様などとは一生関わりのない身。それが先日の不幸な出来事により偶然にも知り合うことになったのです」

「ふむ。それで?」

「その縁に縋(すが)って、お願いがございます。どうか、どうか……貴方様の装束を私めにお貸しください!」

「何と……?」

 突拍子もない申し入れに扇の陰であんぐりと口を開けた貴人の若者。

 構わず婆沙丸は言い切った。

「私は〈水の精〉に会いたいのです! それには、是非とも〝貴人の装束〟が必要なのです!」

「〈水の精〉だと──?」

「はい。〈水の精〉は貴人しか襲わないと聞きました。ですから、貴人の風体をして歩けば、ひょっとしてこの私でも行き逢えるかも知れません」

「おまえ……正気か?」

 益々困惑の色を濃くする公達(きんだち)に、屈託なく笑って婆沙丸は続けた。

「貴方様は一度〈水の精〉に遭遇している。その貴方様の装束なら──再び〈水の精〉を惹きつけるのではないかと考えた次第です」

 床に額を擦りつけて婆沙丸は懇願した。

「あの夜、あの辻で出会ったのも何かの縁。どうか、何卒(なにとぞ)、私めに貴方様のお召し物をお貸しください!」


 

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