第5話

「〝その声〟をたまたま聞きつけたのが俺たちだったというわけさ!」

 使庁からの帰り、早速、田楽師の住まう屋敷に立ち寄った中原成澄(なかはらなりずみ)だった。※使庁=検非遺使庁の略称

 一条通りは桟敷(さじき)屋の連なる辺り。田楽新座を起こした先代師匠・犬王の屋敷である。

 犬王急逝の後、歳は若いが芸に秀でた兄弟が跡目を継いだ格好だ。

「俺と婆沙(ばさら)丸は一条橋から大宮大路を二条に向けて突っ走った。その際、俺の掲げていた松明(たいまつ)の火を見て〈水の精〉は逃げ出したらしい」

「では、結果として──」

 小者が運んで来た酒瓶を受け取り成澄に供しながら狂乱(きょうらん)丸は感慨深げに言う。

「一方の上げた叫び声のおかげでもう一方は命拾いしたことになるな?」

「まあな」

 盃を持った手を止めて成澄は神妙な顔で言った。

「友に感謝せねばな。俺は死体を検分したが──顔が削がれ血塗れの悲惨な状態にもかかわらず、源実顕(みなもとさねあき)殿はそれこそ絵巻から抜け出たような公達(きんだち)ぶりだった。 ※公達=貴人の若者

よくもまあ、あんな叫び声を出せたと思うくらい品の良い風情なのだ。きっと平生は声を荒らげたことなどあるまい。だから、あの叫び声は一世一代の〝大声〟だったのだろうよ。なあ、おまえもそう思うだろ、婆沙丸?」

 婆沙丸は先刻からムッツリと押し黙ったったままだった。

「嫌におとなしいな、婆沙丸? ハハァ、流石にあの無残な死体を見ては元気も出ないか?」

「そんなんじゃないさ」

 狂乱丸はせせら笑って、

「死体の一つや二つで今更萎(な)えるタマかよ? そんなもの我らは鴨の河原で見飽きておるわ。こいつの物思いは恋の病というヤツさ」

「うるさい!」

 兄のからかいに婆沙丸は席を立って縁に出た。

 巻き上げた簾(すだれ)の向こう、裏庭の井戸の辺り、先代の愛でた菖蒲の青が目に涼しい。

 師匠・犬王は兄弟を引き取った際、二人の名を菖蒲(しょうぶ)丸と杜若(アヤメ)丸にしようか大いに迷ったとか。

 それはさて置き──

 昨夜来、婆沙丸の心に刺が刺さったように引っ掛かることがあった。

 それが今、成澄の話を聞いて益々落ち着かない気分になった。

 勿論、このことは誰にも言っていないが──

  実は昨夜、悲鳴を聞いて婆沙丸があれほど懸命に走ったのには理由(わけ)があった。

 なるほど、成澄は検非遺使だからその使命感から悲鳴の出処へ走って当然だ。だが、自分を居ても立ってもいられない思いに駆り立てて〈あははの辻〉まで駆けさせたのは、そのものズバリ、〝あの声〟のせいだった。

 婆沙丸にとってそれは聞き覚えのある声だった。

 婆沙丸はそれをかつて一度耳にしたことがあった。

 そう、橋の上で〝腕輪をつけて娘が笑った時〟に。

 無論、笑い声と叫び声では全く一緒とはいくまい。だが、それにしても──

  間違いない、と婆沙丸は思った。あれはあの娘の声だ。田楽師の自分は耳には絶対の自信がある。

 その場所に娘がいると確信したからこそ、必死に駆けに駆けたのだ。

 ところが、辻には娘の姿は見当たらず、代わりにやんごとなき公達が打ち伏しているばかり。

 その上、叫び声の主は死体と成り果てた貴人、その人だと言う。

(一体全体、これはどういうことだろう?)

 婆沙丸はいよいよ頭がこんがらがってしまった。

 つまり、やはりこれは兄者の言う通り、〈恋の病〉のなせる技か? 俺は今や〝聞く声全て〟愛しい娘の声に聞こえてしまうのか?

 だとしたら、大変だぞ!

 〝見るもの全て〟あの娘に見え出さない内に、ここは何としても本物の娘を捜し出さねば……!

「よし」

 婆沙丸は強く心に喫した。

「おい、婆沙丸? そんなところで拳を握って何を独り頷いてる?」

「放っておけって、成澄」

 編木子(びんざさら)を引き寄せながら狂乱丸が誘う。

「それより、どうだ一曲、一緒に舞わないか? せっかくこうして顔を揃えたのだもの」

「おうよ! 待ってました!」

 破顔して、肌身離さず持ち歩いている朱塗りの笛を懐から取り出す検非遺使だった。

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