作られた聖女と造られた軍神

千里亭希遊

遠くに響く土煙

 ぴるぅりぃいい~……

 山の合間に笛の音が木霊する。

 ピッ!

 それがひときわ鋭い音を響かせたとき、家畜――ソワと呼ばれる毛や乳をとるための獣だ――たちの群れはは一斉に進む方向を左へと変えた。

 一糸の乱れもなく一塊になって移動していく。

 こうして時々指示を出してあげなければ、ソワたちはあらぬ方向に進んでいってしまい、酷い場合は崖から落ちるものが出かねないのである。

「慣れたもんだなぁ」

「……あぁ、ロイ。こんにちは」

 誰かが傍まで近づいてきているのは分かっていた。けれど別段危害を加えようという意思などは感じられなかったのでそのままにしておいたら、それは麓の村の青年だった。にこりと笑って挨拶をする。

「おう。家からの使いで来たんだ。母さんの奴ミルクが切れてたのすっかり忘れてたらしい」

「お母様のことを『奴』なんて呼んではだめよ」

「うぉぅ、エリルに説教されてしまった……」

 青年は大げさに首をすくめた。

「ふざけてないで、ミルクでしょう? 小屋に父様がいたはずなんだけど……」

「それが呼んでも出ていらっしゃらないんだよ。まだ寝てるのかな?」

「もう……こんな真昼に寝ている訳がないでしょう? きっと貴方の声が小さすぎたのだわ」

 おどけたように言う青年に、エリルは少しだけ口を尖らせる。

 この青年はいつもどこかふざけているように思う。

 ヮァァァァァ……

 エリルが青年に向かって、たまには凛々しく登場してみせなさいよ、などとと思わず言いかけた時、遠くのほうからかすかに雄たけびが聞こえてきた。

「……まだやっているのね」

 この山からは遠くに見おろした場所にある大平原からのものだ。黒い塊と青い塊が衝突している様子がかろうじて見て取れる。

「……ゴア国とアライ国、か。ここ数日はあのあたりが前線になってる。もう数十年も続いているらしいな、あの二国の争いは。ミノアに戦火が飛び火しなければいいが……」

 珍しく真剣にそう呟くロイの横顔に、エリルは何故かどきりとする。

 どきりって何よどきりって、と思いつつ、慌てて(何を慌てる必要があるというの!?)視線をロイから戦場に移した。

 蠢く黒と青のドットたち。あれの一つ一つがすべて命ある一つ一つなのだ。

 優勢なのは青の群れ。黒の群れをじりじりと後退させている。

 一気に脳裏が冴え渡り、心の温度が冷えていく。

(……あれでは駄目。あぁ……そんな風に動いたら、囲まれてしまうわ。ほら、そっちががら空きじゃない……)

 エリルには遠い戦場の動きがはっきりと視えていた。

「……エリル?」

 じっと戦場を見つめながら黙り込んでいるエリルに、ロイが不思議そうに声をかけた。

「あ……」

 はたと我に返る。いけない、戦など女には(ましてただのソワ飼いだ)関係のない世界だ。

「ゴアはただ単に士気が足りないのだと思うわ。負けてばかりだから、勝てるという希望が持てないのね」

 さりげなくあっけらかんとした様子を取り繕って、エリルは身も蓋もないことを言う時のように振舞った。

「ははは、まぁ、それはそうかもしれないな」

 ロイは笑って頷いた。

 エリルは少しほっとした。

「エリルー! 散歩は中断だ、ソワたちを一旦柵の中に戻してくれー!」

 そこへ大きな声が飛んできた。エリルの父、アクセルである。

 見れば森の端の方で、狩猟用の弓を抱えた父がこちらに手を振りながら叫んでいる。

「あら。父様森へ出ていたのね。どおりで出てこないはずだわ」

「こんにちはおじさん! ミルクを分けて頂けませんか!?」

 ロイがアクセルに向かって叫ぶ。

「おぉ、ロイじゃないか。わざわざ訪ねて来たのか。少し待っていてくれ! すぐ小屋に帰るからな!」

 アクセルはロイの姿を認めると、その豪快な笑顔を惜しげもなく送りながら叫び返した。そのまま森の方へ入って行く。

「……何か大物でも捕まえたのかしら?」

「む、それは楽しみだな。おじさんのことだ、きっと三メートルくらいある角でも生えた怪物を……」

 エリルの言葉にロイは期待満々といった笑顔を見せる。

「もう、ふざけてばかりなんだから。……ソワたちを誘導しないと」

 ひゅるるぃりぃぃいいい……

 山間に、澄んだ笛の音が響く。




 アクセルが捕まえてきたのはゴルノアと言う猛獣だった。

「と、父様……」

「………………」

 これでは先ほどのロイの冗談が冗談と言えなくなってしまう。

 体調こそ一.五メートル程度だが、角が三本ある、とても獰猛な動物だ。一体で名のある騎士四人を一度に屠ったという伝説級の噂話まで持つ、毛の長い、四足の哺乳類である。その危険さと引き換えにと言うわけではないが、その肉は非常な美味であり、さらにその毛は織物の材料とすることができ、なかなかに上質だ。

 しかし、命がいくつあっても足りないのでまず捕まえようとする者はいない。

 彼がそんな本の挿絵でしか見たことのないような生物を肩に担いで小屋に入ってきたので、二人は開いた口が塞がらなくなった。

「い、いったいどうやってそいつを……」

 ロイは頬を冷や汗がつたうのをはっきりと自覚しながら、なんとかそれだけ言った。

「ん? あぁ……たいしたことはない。草陰で息を潜めて、隙を突いて急所に矢を一撃よ。誰も真っ向から勝負挑むなんてあほなことはしてねぇぜ」

 胸を張ってアクセルはそう豪語する。

 それにしたって勇気あるというか無謀な行動だ。

「けれど……この山にも本当にいたんですね、そんなのが……」

「わんさかいるぞ。学校で習わなかったか? 見かけたらもう一巻の終わりだって」

 そう、見かけたら手を出すな、とか、興奮させるな、とか、死んだ振りしろ、とかそういうレベルの問題ではなく、ただ、『終わり』なのである。

「いや……習いましたけど見かけたって話は聞かなかったから……」

「そりゃ見かけてたら殺されてっからだろ。かはは」

「…………」

 物騒なことを平気で言ってあまつさえ大笑いである。

 時々ロイはこの気さくな中年男性が恐ろしい。

「エリル、こいつをさばくのを手伝ってくれ。暇ならロイもな。土産にやるよ」

 ロイが作業を手伝ったのは言うまでもない。

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