第46話 徐々に立ち込める暗雲

 がらんとした宮殿に妖艶な感じの琴の音が響く。男たちの笑い声と、女たちの嬌声も微かに聞こえてくる。がしゃがしゃと甲冑の音が反響する中、小西行長はむっつりとした顔で足を進めていた。

 響いてくる琴の音の方へ近づいてゆく。まったく、あやつは何を考えよるんじゃ。太閤様のきついお申しつけじゃと言うのに、いくら勝ちまくっておるとは言え、油断が過ぎるのではないか!


「清正!」

 赤ら顔をした加藤清正が、美姫三人を侍らせて、朱色の毛氈の上で大杯を傾けている。ここは首都漢城府より北の開城、漢城府落城の際、李氏朝鮮王朝が遷都しようとした都である。結局、宣祖は日本軍の急進撃の前に、この都をも放棄して更に北へ逃げ去ってしまい、国王を捕えるという目的は達成することが出来なかった。

 しかし、首都漢城府には一番乗りを果たせなかったものの、この開城に一番乗りを果たした清正は、国王追尾の任務も放棄して、上機嫌で祝杯を上げているのだ。

「なんじゃ、今頃ご到着か。」

 酒臭い息を放って清正が言った。

「なんじゃも無いものじゃ!国王宣祖はどうしたのじゃ!」

 行長の問いに、清正は座った眼を向けて言った。

「知らん!どこぞへ逃げ出したのではないか。」

 行長は呆れて舌打ちをした。

「国王を捕えよというのは、太閤殿下の勅命ぞ!それも果たさぬまま、酒など飲んで何をやっておる。ましてや、宮殿を宿所とすることは固く禁じられておるはず、この状態を朝鮮人民が見たら何と思うか!ただの簒奪者、盗人と思うてしまうではないか!」

 清正は手を振りながら、よろよろと立ち上がった。

「薬屋、固いことを言うな!もう朝鮮王朝は終わりよ。国王を捕えて何ほどのことがあろう。それほど気になるなら、お主が探したら良いではないか。」

 薬屋と呼ばれて行長はかっとなった。清正の前に立って睨み付ける。文官の印象すらある行長だが、体格は清正に勝る。軍事能力も、この朝鮮で示したように、おさおさ劣るものではない。

「なんじゃ、やる気か?」

 言いながら、清正はよろけてひっくり返った。行長は手近にあった水差しの水を、転んだ清正にばさりと浴びせると、立ち去りながら言った。

「馬鹿者が!少しは酔いを醒ませ!」


 朝鮮軍は”金命元”を大将として、漢城北の臨津江を防衛線とし、江南一帯を焼き払って、江に沿って一万二千人で陣を敷いた。小西行長は、開城に向けて密かに書簡を送り、和睦交渉を開始しようとしたが、今回は”宣祖”がこれを拒否した。

 五月十八日、臨津江の朝鮮軍防衛線は、二番隊の加藤清正ら二万の日本軍の猛進撃の前に、あっさり突破され、”金命元”は逃亡した。”宣祖”は開城を逃げ出し、翌日、加藤清正らは開城を制圧したのだった。


 ここまで、いいように日本軍に攻めまくられている朝鮮軍だったが、日本軍の進撃路から外され、戦力を温存できている全羅道の軍隊と、故国の危機に徐々に立ち上がり始めた義勇軍によって、着々と反撃の体制が整えられつつあった。

 一万人を率いる全羅道長官”李洸”は、義勇軍を糾合し、その兵力は今や十万人を超えるほどだった。”李洸”は、目標を漢城奪還と定め、漢城南方の水原まで軍を進めている。これに対して、日本軍は総大将宇喜多秀家以下、釜山にいる諸将の軍十万五千人を漢城に集結、日本軍は総勢十五万人余りとなった。


 ここで、朝鮮軍を狂喜させ、日本軍を驚愕さす報告が入った。

全羅道水軍が、日本水軍を打ち破ったのである。


 去る五月四日、全羅道水軍の大将”李舜臣”と”李億祺”は、水路を熟知する将軍”魚泳潭”を先鋒とし、”権俊”と”具思稷”を副将として、艦隊総数八十六隻で全羅道水営を出撃した。水軍は、翌日には唐浦に到着、慶尚道水軍大将”元均”の率いる、生き残りの六隻を加え、慶尚道水将”李雲龍”と”禹致績”を先鋒に加えて、九十隻を超える大船団で進軍を続けた。

 五月七日、北に向かっていた”李舜臣”らは、斥候船の報告により、巨済島東岸の玉浦に日本船がいると聞いて進路を南に転じ、同日正午頃、玉浦に接近した。

 玉浦に停泊中の日本艦隊は、藤堂高虎、堀内氏善を将とする紀伊・熊野水軍五十隻だったが、敵船の接近を知ると、数的劣勢をものともせず、船を漕ぎ出して猛然と迎撃してきた。敵の勢いの凄さに、先鋒の慶尚道水軍ら六隻は、戦闘を待たずに逃亡、それでも”李舜臣”は、味方を鼓舞して突撃を命じた。

 朝鮮水軍の伝統的戦術は、敵船とある程度の距離を保ち、弓矢や火砲で敵兵を倒し、火矢で敵船を焼き払うというものだった。一方、日本水軍は、船を接舷させて斬り込む接近戦を得意とした。”李舜臣”は巧みに距離を取らせ、射撃・砲撃戦で圧倒、日本水軍を近づけなかった。この戦法の前に、接舷を試みた藤堂・堀内勢の船は次々と炎上、五十隻の藤堂ら水軍は全滅した。藤堂ら将兵は、海中に身を投じて泳いで岸に向かい、蜘蛛の子を散らすように、逃げ散る有様だった。


 この勝利は、多勢で無勢を討つ当然と言えば当然のもので、被害は全体として少なかったが、負け続けの朝鮮軍にとって、初めての勝利であり、朝鮮軍、特に民衆から成る義勇軍を大いに勇気づけた。

 同時に、日本軍にとっては、初めての敗北であり、戦前から聞こえていた”李舜臣”の名を改めて印象付けるものとなった。

 こののち、全羅道を中心に、多くの義勇軍が立ち上がり、日本軍の輸送隊を狙って活動したため、日本軍本営は、この対処に時間を割かれることになる。そしてこれが、多くの病人や餓死者を出した朝鮮出兵の悪夢の始まりとなるのである。



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