第38話 開眼 渦流陣
(一)
ぎぃやああああああ。
霧島山中に、途切れない悲鳴がこだまする。
「思い知ったかい!あたしをなめやがって!あんたたちを土に戻すくらい簡単なんだからね!」
地中から這い出した太い弦に絡みつかれた青白い裸身が、目の前に吊るされている。焼け焦げた体、頭は力なくがっくりとうなだれ、気絶をしているようだ。
「ええぃ腹が立つ!勝手をしたうえ、貴重な戦力の四童子を二体まで失いやがって!もう少し地獄の炎でいたぶってやろうかね!」
覇王太夫の両手から、勢いよく赤黒い炎が噴き出す。足先から銀色の毛髪まで炎に包まれた茨木童子は、再び断末魔の悲鳴を上げた。
突然、茨木童子の前の土がもこもこと盛り上がり、現れた巨大な裸身が覇王太夫の炎を防いだ。
「酒呑童子!邪魔をするんじゃあないよ!」
叫びをよそに、茨木童子の様子をちらっと見た酒呑童子は、覇王太夫に向き直ると怒りをあらわに問うた。
「覇王太夫!これはどういうことだ!」
覇王太夫は、にやりと口の端を歪めて言った。
「いやね、ご主人様が誰かわかっていない犬を躾けていたのさ。」
「犬だと!」
怒気を露わにする酒呑童子に、覇王太夫は手を振って言った。
「怒らない、怒らない!忘れんじゃないよ、誰がお前たちをこの世に呼び戻したかを。」
「だからと言って、お前の手下になったつもりはない!」
覇王太夫は、額に手を当て頭を横に振った。
「わかっちゃいないねえ。お前らを土に戻すのは簡単だと言うだろう!それとも何かい、また冥府に戻りたいのかい。」
酒呑童子の顔に一筋の汗が流れた。
「わかったようだね、いい子だ!早速準備しな。近江に野暮用だ。」
覇王太夫は闇に溶けるように消えた。茨木童子を縛っていた弦を引き裂いた酒呑童子は、気を失った妻の身体を抱きしめて言った。
「見ておれ!そのうちに必ず。」
いつの間にか後ろに狼童子が控えている。牛童子と虎童子が討たれたのは、先程の話で分かったがはて?
「熊童子はどこだ?」
酒呑童子の問いに、狼童子は分からないというように頭を振った。
㈡
乾いた木刀がぶつかり合う音が、早朝の道場に響き渡る。
続いてふたつの裂帛の気合!まだまだ寒い三月の朝を、熱気で包まんとするのか。音と気合は切れ間なく続いた。
「なんだ。甚兵衛様かと思っちゃった。」
ひょこっと覗いた顔が残念そうに言う。ぶつかり合っていた両者は動きを止めた。
「なんだは無いだろうお美代坊、先生に用事かい!」
打ち合いを止めて、筋骨隆々とした大男が話しかけた。
「寅さん。坊はやめてってば!私はもう十六なんだから!そもそも、あんたと私は三つしか違わないじゃない。大人ぶらないでよ!」
娘は、可愛い顔を真っ赤にして怒った。
「ははは、寅よ一本取られたなあ。」
細身だが、寅に負けないくらい長身のもう一人が言った。
「うるさいぞ辰二!お前、俺よりふたつ下のくせして、大人ぶりやがって。」
「年と精神年齢は別だ。」
「何だと!やるか!」
「おお、望むところ。」
「もうやめて!お味噌汁が冷めちゃう。甚兵衛様はどこ?」
美代は忠助の長女だ。正妻の猛女、お竹の子だが、親に似ず気立ての良い可愛らしい娘に育った。もうとっくに嫁に行って良い年で、良縁の話も多いのだが、なぜか美代自身が断り続けている。
忠助は、子供の中でこの娘が一番可愛く、目に入れても痛くない様子で、わがままを許し続けている。美代は、甚兵衛が湯之尾にいるときは毎日、道場にご飯を作りに訪れていた。お弟子さんが多いからというのだが、忠助は弟子の中に好いた男でも出来たのではないかとやきもきしている。
「先生なら、裏で刀を研いでいらっしゃるはずだが。」
湯之尾の八百屋の次男である辰二が言った。百姓の次男の寅も、こくこくと頷いている。この二人は甚兵衛の弟子で最も有望株、共に甚兵衛隊の兵士でもあり、周囲からは、二人の名前をもじって甚兵衛門下の竜虎と言われている。二人に共通するのは、腕が立つことだけではない。二人とも、密かにお美代に恋をしているところも同じだった。そして二人とも、どうやら自分たちの恋は成就しそうにないことも分かっていた。
「ありがと!」
そう言うとお美代は、嬉しそうに裏へと駆け出した。
残った二人が目を見合す。
「寅よ。」
「なんじゃ?」
「お前情けない顔をしておるぞ。」
「辰二、お前もじゃ!」
㈢
ずいぶん小さくなった。宝刀といえども、激しい戦いによって痛む。そして通常の刀より丈夫とは言え、金属である以上、研げば研ぐほど小さくなっていく。最初は脇差より大振りだったこの宝刀も、今は鎧通しより少し大きいくらいである。
その名は”神威”と”古丹”、十年前、蝦夷地で人食いの妖熊「銀兜」を退治したとき、死にゆくアイヌの戦巫女チカプとサロルン姉妹から託された聖なる宝刀である。水をかけ乍ら丁寧に砥石で削ってゆく。思いは先日の戦いに跳んだ。
銀兜が生きていたとは。
甚兵衛の脳裏に、鮮明に十年前の思い出が沸き起こる。
アイヌの大族長シャクシャインからの使いである少年トンコリが、国兼をいきなり訪れたところから話は始まった。アイヌを始めとする蝦夷地の民が、人食い熊の圧迫により難渋していると言う。家族で行動し、通常群れないはずの熊達が、一匹の巨大熊”銀兜”の下に数百頭の群れを作り、集落を荒らしまわって人々を恐怖のどん底に落としていると言う。アイヌは強靭な戦士の軍団を派遣し、熊達を退治しようとしたが、強大で狡猾な銀兜に統制された熊達はアイヌの軍を返り討ちにし、アイヌの集落に戦士たちの首を届けた。
ヤマトの大名である蠣崎家も、人食い熊の跳梁に困り果て、数千の軍隊を送って退治しようとしたが、アイヌ同様に返り討ちにあった。どうやら銀兜は、妖しい力を持っているらしく、その体は通常の刀槍では歯が立たないようだった。
アイヌの大呪術師タンコタンは、幼い頃から鍛え上げた双子の戦巫女チカプ(17歳)とサロルン(17歳)姉妹に金の宝刀”神威”、紅い宝刀”古丹”を渡し銀兜を退治するように命じた。戦巫女は戦神を降臨させて戦う聖なる戦士。多くの資格者の中から大呪術師が選び抜き、死と隣り合わせの厳しい修行に耐え抜いてきた者たちだ。一生を神にささげ、男性と交わることも、家族を成すこともない悲しい宿命に生きる女性たちだった。
一方、シャクシャインは魔物を退治する槍の話を聞きつけ、頭脳明晰で神童と評判のトンコリに、槍の持ち主を探し出し銀兜退治を依頼するよう命じた。槍の噂をたどって薩摩に到ったトンコリは、国兼の快諾を得て、猪三、忠助、半左エ門、甚兵衛、喜内らと共に、大黒屋の安宅船で蝦夷地へと帰った。新兵器種子島を持った忠助は、留守番の次右衛門から、妖に効くという銀の弾丸を渡される。
国兼たちは、途中立ち寄った奥州の港で、三郎と名乗るマタギ(熊取り猟師)の子供と出会う。三郎は父の仇である銀兜を討つため、国兼たちが持っていた新兵器種子島を盗もうとして捕まったのだ。三郎を仲間に入れ、蝦夷地に向かった国兼たちを待っていたのは、アイヌの民の、ヤマトの侍への不信感と冷たい仕打ちだった。特にタンコタン、チカプ、サロルンの態度は敵に対するものの様だった。
銀兜退治の準備をしていたある日、狼の群れに襲われていた姉妹の妹サロルンを甚兵衛が助けた。その日以来、サロルンは甚兵衛に惹かれ、それを咎めた姉チカプもまた、強さのみを求める生粋の武人甚兵衛に心惹かれて行った。
族長会議はヤマトの侍を聖地に入れたシャクシャインに反発し、降魔の槍の持ち主とアイヌが一致して銀兜を倒すという目論見は失敗した。仕方なく国兼たちは単独で銀兜征伐に向かうが、狡猾な銀兜の待ち伏せにあい、国兼は降魔の槍ごと崖から落ちて行方不明となった。三日後雪の中で、猪三によって発見された国兼は奇跡的に生きていた。アイヌ犬の子供”福王丸”が、国兼に寄り添い温め続けていたのだ。
国兼が目を覚まさぬ中、族長会議は双子の戦巫女を先頭に、再び銀兜退治の軍を進発させる。放ってはおけない甚兵衛、半左エ門、喜内、父の仇を討とうとする三郎は、国兼を看病する猪三と忠助を残して銀兜の砦へと向かう。砦では、既にアイヌ軍と熊達の激戦が始まっていた。体力に勝る熊達に、アイヌの戦士が次々と倒される中、舞うように戦うチカプとサロルンの姉妹は、次々と熊の集団を突破し、大将銀兜へと迫った。狡猾な銀兜は、手下の熊を盾に使い、部下の熊達にわざと突き立たせた宝刀を抜けなくしておいて、まずサロルン、続いてチカプをその爪にかけて行った。瀕死の姉チカプは、駆け付けた甚兵衛に愛を告白すると、「我ら姉妹の魂と共に宝刀神威古丹を預ける。」と言った。
襲い来る銀兜に、甚兵衛の波平の太刀はへし折れ、慌てて掴んだ二つの宝刀は、手の中で不思議な輝きを発する。「信じられん。アイヌの宝刀が、ヤマトの戦士を持ち主に選びよった。」タンコタンの嘆きを背に、銀兜と対峙する甚兵衛。銀兜の左右の爪の攻撃に苦戦するが、駆け付けた三郎が放った銀の弾丸が、敵の額を射抜き、隙を見て懐に入り込んだ甚兵衛は、敵の心臓目がけ神威、古丹を突きたてた。
銀兜はどうと倒れ、アイヌや蝦夷地の人々を苦しめ続けた心臓はその動きを永遠に止めた。そう思っていたのだが。
㈣
研ぎ終わった直刀両刃の刃先が、朝日を反射してキラキラと輝く。座敷に上がった甚兵衛は、宝刀を大事そうに神棚に収めた。研ぎをかけるときは、いつもそうしている。神に祈りをささげると、不思議と二つの宝刀を通じて、巫女たちの魂が語り掛けてくるような気がしていた。
「甚兵衛様!」
後ろから元気な声がかかった。
「おお、お美代坊か、今日も来てくれたのか。」
縁側から覗きこんだお美代が、坊と呼ばれてふくれっ面をした。
「坊だなんて甚兵衛様まで!わたしもうお嫁に行ける年なんですかね!」
甚兵衛は困ったような顔をして笑った。
「悪い悪い。小さい頃から知っておるからついな。」
甚兵衛の困った顔を見て、お美代にも笑いが込み上げてきた。
「朝餉の準備ができております。冷めないうちにどうぞ。」
甚兵衛は頭をかきながら言った。
「いつもすまんな。悪いから毎日来なくていいぞ。年頃の娘を道場に出入りさせると、わしが忠助から怒られる。」
お美代はぷんと怒って言った。
「私が好きでやっているのです。嫌なら奥方でも貰われたらいかがですか。」
言ってからしまったという顔をする。
「奥方か。」
甚兵衛の目が意識せずに神棚に向いたのを、お美代は見逃さなかった。体がかっと熱くなる。
「父上から聞いたことがあります。十年も前に死んでしまった巫女に、操でも立てているのですか!愚かなことです。妻をめとって家を作り、子をなして家を続かせるのが武家の御役目ではないのですか。」
甚兵衛が優しい目をした。
「わしか?わしは良い。剣に生き、剣に滅ぶと決めた身だ。それよりお美代坊、婿の世話をしてやらんといかんな。辰二や寅はどうだ?二人とも不器用だが、心根の優しいいい男だぞ。」
お美代の目から止めどなく涙が溢れた。あれ、私、泣くつもりなどないのに。どうしてだろう?
それを見て甚兵衛は慌てた。
「すまん、また癖で坊と言うてしもうたの。それとも、辰二や寅が気に入らんかったか。」
あくまで優しい甚兵衛に感情が爆発した。この鈍感男!
「もう知りませぬ!二度とここへは参りませぬ!」
そう言うと後ろも見ずに駆け出していった。
ああっと後を追おうとした甚兵衛だが、妙な気配に気が付いた。
「出てこい!何を探っておる。」
くくくと、庭木の上から忍び笑いが聞こえてきた。
「いいもの見せてもらったがい。女とイチャイチャするとは、甚兵衛よ、お主鈍らになったか。」
ひらりと黒い影が木の上から降りてきた。
「覗きか、島津の直臣が感心せぬの、強兵衛。」
押川強兵衛は、上唇を下でぺろりと舐めた。
㈤
お美代はめちゃくちゃに走っていた。なにもかも嫌になった気がした。甚兵衛も、父忠助も、そしてあんなことを言った自分も嫌いだった。どこか知らないところに行ってしまいたいと思った。ここはどこだろう、気づけば森の中だった。
森林の清浄な空気を吸い込んで少し冷静になった。帰ろう。我ながら子供っぽかった。だから坊と呼ばれるのよ。そう思って踵を返したお美代を、黒い影が包んだ。
「もう一度聞く。誰の命で、何をしに来た。」
油断なく間合いを取りながら甚兵衛が聞く。
「馬鹿め!御役目のことが口にできるか!」
甚兵衛の口が緩んだ。
「馬鹿はお前だ。役目なのだな。なら島津本家の命だな。」
一瞬、強兵衛の顔色が変わったが、すぐ元に戻った。
「お前の主人こそ、何を考えておるんじゃ。」
核心を突かれ、対峙する両者の目が細まった。殺気がびんびんと高まっていく。
そこへ
「先生!」
血相を変えた辰二と寅が走り込んできた。
手には布きれを握っている。
「これは!」
布きれを見た甚兵衛も顔色を変えた。
お美代の小袖の切れ端だ。しかも血で何事か書かれている。
「何ですかね、これ。」
刃物ではない、獣の爪で引き裂かれたような切れ端に血で書かれたそれは渦のように見えた。こんなことをするのはあ奴だけだ。甚兵衛はぎりぎりと歯噛みをした。そこにお美代を探して忠助がやって来た。察しの良い忠助は小袖を見て真っ青になった。
「お美代を、お前の所に出入りさすんじゃなかった。わしは何度も言ったのだ。あいつはただの剣術バカだ。近づくんじゃないと。ましてや、惚れるなんぞ。」
忠助の言葉に、さすがの甚兵衛もはっとした。
「あいつを覚えておろう。あいつの好物は女、子供なのじゃぞ!お美代が今頃どうなっておるか。わしは、わしはもう。」
忠助は座り込み泣きじゃくっている。
どさくさに紛れて、強兵衛はいなくなっていた。
㈥
銀兜こと熊童子は、曾木の滝の河原にいた。傍らに気を失ったお美代が倒れている。あいつと決着をつけてやる。今、誇り高い銀兜を支配するのは、その思いだけだった。戯れに作った帝国でも、滅ぼされたことで、自分の存在を否定されたことに違いない。しかも、伝説の降魔の槍の持ち主でもないただの人間ごときに。銀兜にとって、人間とは、ただの餌、いたぶって遊ぶおもちゃ以外の何物でもなかった。復活した銀兜にとって、甚兵衛とは倒さねば前に進めない障壁そのものだった。
来たか。一瞬そう思ったが臭いが違う。しかし何だこれは、人と言うより獣の臭いに近い。
「あの謎かけはやはりここか。しかし、おい(俺)も化け物じゃと、家中でしばしば言われてきたが、本物の化け物は初めて見る。」
そう言いながら、擦り切れた野良着に褌一枚の薄汚れた男が現れた。この男、臭くってしょうがない。しかし、油断のない足の運び、只ものではないことは、初対面でもすぐわかった。
ぐるるる。
銀兜は不快そうな唸り声をあげた。
押川強兵衛はにやりと笑い、背中にしょった大鎌を引き抜いた。
「わしの戦歴に足らぬものの一つ化け物退治。今日ここで果たさせてもらおうぞ。」
そう言うと、銀兜目がけて大鎌を投げつける。物凄い勢いで回転し乍ら、大鎌は正確に銀兜の胴を切り裂いたかに見えたが、灰色の毛皮がまるで鉄板のように大鎌をはじき返した。銀兜がニヤリと強兵衛の方を見たが、そこにもはや姿はなかった。キョロキョロと探すと、上空から頭を狙って鉄菱の雨が降り注いだ。慌てて前足で顔を覆うが、数十個の鉄菱が、銀兜の鼻づらや眼を強打した。
「体毛や体皮がいかに固くとも、目や鼻づらの弱点は隠せまい。往生しいや化け物。」
銀兜は前足で潰れた目の辺りを抑えている。すかさず強兵衛は次の攻撃を繰り出した。懐から取り出した釣り糸で、銀兜の身体をぐるぐる縛る。
「鉄粉を塗り込んだ糸じゃ、身動きすれば手足がばらばらになるぞ。化け物にいくら言うても分からんかもしれんがな。」
言いながらぎりぎり縛り上げる。銀兜が苦痛の声を上げる。
流石の銀兜もばらばらになって終わりかと思われた次の瞬間、筋肉に力を入れ、身体を膨張させた銀兜によって糸はバラバラにちぎれた。渾身の力で引いていた強兵衛がひっくり返る。
慌てて起き上がった強兵衛が見たのは、潰れたはずの眼をぎらぎらと燃やした銀兜の姿だった。左右の前足の鉤爪を、猛然と振るいながら近づいてくる。苦無で慌てて受け止めようとしたが、物凄い力で苦無を弾き飛ばされ、胸を十字に引き裂かれた強兵衛は、もんどりうって曾木の滝へ落ちて行った。
逃がさん。怒りに燃えた銀兜は続いて滝に飛び込み、前足で強兵衛の首をぎりぎりと締め上げた。珍しく唸り声が、強兵衛の口からこぼれた。
このまま首を引きちぎってくれる。
強兵衛が次第に白目になっていく。
そのとき、銀兜の耳が立ち、鼻がピクンと動いた。
やっと来たか。
前座は終わった。待ちかねた人物の到来だった。
㈦
良かった生きている。
お美代を忠助に任せ、甚兵衛は曾木の滝へ飛び降りた。気を失った強兵衛が下流へ流れていく。
銀兜へ向け、静かに神威古丹を抜き放つ。
激しい流れに足場は最悪だが、何度も修練した修行場だ。地の利はこちらにある筈だった。
銀兜が流れをものともせず走って来る。甚兵衛の前に立つと、猛然と左右の鉤爪を振り回した。流れに足を取られ、よろつきながら、銀兜の襲撃をただ受け止める。このままでは、いつか力尽きてしまう。何か手はないか。宝刀を振るいながら必死で考えた。一刻以上受け止めたろうか、流石の足元が震えてきた。何とか、起死回生の一手を。そう考える甚兵衛は、頭の片隅で呼びかける声があることに気づいた。体力が無くなり幻聴が聞こえているのか。最初はそう思ったが、その声は次第にはっきり聞こえてくる。
甚兵衛、甚兵衛
聞き覚えのある声だ。遠い昔、そう、こうやって銀兜と戦っていたとき。
はっと思い至った。
チカプか?
今度は違う声だった。
甚兵衛様
お前はサロルン。
死人の声が聞こえると言うことは、わしの命脈はもう尽きるのか。
そうではありません。
よく聞いて甚兵衛。
二人の声が重なって聞こえた。
滝の流れに逆らわず一体になる。そう、滝と同化するのです。
滝の声を聞いて、滝に身を任せて。
滝と同化する。滝と同じになる。そうか。
甚兵衛は目を閉じた。
覚悟したか、銀兜はにやりと笑った。
一層力を込めて、甚兵衛を引き裂こうと鉤爪を繰り出す。
甚兵衛のいた位置で残像が揺れた。
滑るように回転した甚兵衛は、二本の宝刀で銀兜の脇腹を切り裂いた。
間欠泉のように血が噴き出した。
ぐぅおおおおおおお。
断末魔の叫びが上がる。
銀兜は信じられないものを見たかのように、甚兵衛のいた場所を見た。
いない?
そのとき、銀兜の懐に潜りこんだ甚兵衛が、腹の下から上へ宝刀を一閃させた。あばらが砕け、今度は胸から滝のように血が流れる。
一度引き抜かれた宝刀二本は、銀兜の心臓へ吸い込まれていった。
ずううううん。
あおむけに倒れる瞬間、銀兜は太陽を見た。日の光を初めて眩しいと思い、なぜか嬉しくなった。
「終わったのか。」
訪ねる忠助に甚兵衛は頷いた。
「終わったというか、掴んだ。」
確かな手ごたえ、渦流陣の神髄を掴んだ。
あの声が微かに聞こえてきた。
甚兵衛
甚兵衛様
私たちの魂は、神威、古丹の中に
いつまでも、あなたと共に
「こやつ、笑うておる。」
しゅうしゅうと溶けだした銀兜を見て忠助が言った。
同じころ、桜島へ向かう船の上に、小さな若侍の姿があった。
「だんな、悪いことは言わねえ。やめておいた方がいい。命がいくらあっても足りねえぞ。」
若侍は噴煙を上げる桜島から目を離さずに言った。
「いんや、あ奴に勝つためには、半端な修行では駄目じゃ。わしは突き抜ける。突き抜けてあ奴を倒す!」
ギラギラ燃える目で、火山を見つめながら薬丸伴左衛門は言った。
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