第20話 利休の遺言

(一)

 十一月末、大坂港への入港を港湾内整備を理由に拒まれた国兼たちは、南方の堺へと船を着けた。堺で国兼たちを出迎えたのは、下田忠助の子である才助、庄助の兄弟である。忠助には十七歳の長女お菊を頭に五人の子があるが、十六歳の長男才助は近江国友村で鉄砲鍛冶を学び、十五歳の弟庄助は山城の国粟田口で刀鍛冶を学んでいる。

 久しぶりに我が子と出会えた忠助は嬉しそうであったが、それよりもっとウキウキする出来事があるらしく、息子たちを急き立てて、半左エ門と共に堺の町中へ消えて行った。


「お酒でも飲みに行くのかな?大の大人が、あんなにワクワクして。」

いぶかしげに首を捻る五郎丸に国兼が言った。

「追いかけた方が良いぞ。何でも傀儡のからくり細工を見に行くらしいからの。近頃、京、大坂で評判となっておる出し物よ。人形がひとりでに動くそうじゃ。」

聞くや否や、五郎丸は目をキラキラさせて忠助らが消えた方へ走り出した。

「ちょっと、待ってよー。これだから男は!」

鈴が慌てて後を追う。


 それを見送った国兼は、猪三らに、わしらも行くかと言った。

 傀儡を見にではない。堺の奉行所へである。堺代官は小西行長の父である隆佐が辞任して以来空席だったが、現在は以前務めていた石田三成の父正継が臨時に務めている。太閤秀吉と面会するためには、最も信頼されている石田三成を動かすのが近道であるが、その三成とすんなり面会するために、父である正継の知遇を得るのが目的だった。


(二)

 喜内は国兼たちと別れ、ひとり町はずれにある南宗寺という禅寺に来ていた。四月に処刑された師匠千利休が、この寺に密かに祀られていると聞いたからだ。大名三好家の菩提寺でもあるこの古刹には、多くの立派な墓があった。奥に進むと、島井宗室から聞いた枯れ枯れした紅葉の木の根元に、西瓜大の丸い石がぽつんと置かれてあった。墓碑銘も燈籠も、罪人として処刑され、密かに祀られた利休の墓に、通常のそれらしいものは何もない。喜内には、むしろその方が利休らしい気がした。持ってきた花を置き、丸石に柄杓で水をかけ合掌した。

 仁王はん。どこからか優しく厳しい師匠の声が聞こえてくるようだった。


「あんた、ごっついなぁ。名はなんていうのや。」

利休と初めて会ったのは二十歳のころだ。日向の禅僧義天の紹介で、国兼の命である商人の修行をするために、堺で魚屋の屋号で倉庫業を営む納屋宗易という男の下で修業をすることになった。この宗易こそ千利休であり、初対面の一言がこれだった。

喜内の本名は、川畑三郎良行である。親からもらったこの名を、利休はいかめしい、商売には向かん名やと斬り捨てた。

「周りはなんて呼んでたのや?」

 悪童であり、故あって武蔵坊弁慶よろしく槍狩りをしていた若い頃の喜内は、鬼無しと書いてきないと名乗っていた。それでも周りは、小さい頃からのあだ名である仁王と呼ぶことが多かった。そこまで聞くと利休は言った。

 「鬼無しなんて物騒な名は商売には向かんわ。

 そうやな、喜ぶに内と書いてきない、これならええわ。これにしよ、な!仁王はん。」

 自分で喜内と付けておきながら、利休はその名で一度も呼ばなかった。仁王はんと言う呼び方がよっぽど気に入ったらしい。どこがいいのか、喜内をすっかり気に入った利休は、国内は大名屋敷から宮中でも、海外は朝鮮でも明国でも、どこに行くでも必ず連れて回った。

「ええか、仁王はん。何かあったら、お前が儂を守るんやで。」

 利休の商売の弟子で、警護役となった喜内が、茶の道に走った利休にならって茶道を行ったのは自然の流れだった。その頃は独立し、薩摩を拠点に全国で商いをしていたが、年に一度は必ず利休を訪ね、警護など弟子としての務めを果たした。自らも六尺を超える立派な体躯を誇り息子の無い利休は、どこか喜内を息子として扱っているようであった。

 そんな関係だったが、喜内はここ二年ほど利休と気まずくなり、堺や大阪などを訪れても、師匠の下に顔を出さなくなった。二人の関係が気まずくなったのは、主君国兼のことが原因である。三年前のあるとき、利休は訪ねてきた喜内を茶に誘い、二人きりになると重大な話をした。利休の養子となり跡を継いでくれというのだ。当時利休は、「公儀のことは大納言秀長に、内政のことは千宗易に。」の言葉通り、秀吉の内政の相談役として確固たる地位を築いていた。


「亀を貰うてんか。あの娘もそなたはんをえろう気にいっとる。」

亀は利休の末娘である。当時十四歳で、先年、十年連れ添った妻を、はやり病で亡くした喜内とは親子ほど年が違う。利休の弟子の間では、利発で美人として有名であった。利休は、喜内の商いにとどまらぬ実力を高く買っていた。

大変ありがたい申し出だが、喜内は固辞した。

「何でや!亀が気に入らんのかいな?」

そうではない。自分は梅北国兼の家臣である。それも代々島津本家の家臣であったものを、国兼に惚れ込んで、無理やり家臣となった経緯がある。その国兼を裏切ることなどできないと言った。


「わからんなあ。梅北国兼はんって、最近太閤様に降伏しはった島津のご家来やろ。もったいないで。あんたはんの器は、太閤様のご家来の一大名のそのまた家来の家来で終わるようなものやおへん。天下を相手に活躍しようとは思えんのかいな?」

喜内は静かに頭を振った。自分は、利休と同い年である国兼の夢に共鳴した。今後も、主君と一緒に、その夢を果たすため努めたいと言った。


「いつか話していたあの夢かいな。百姓も侍も無くす世を作るとかいう。申し訳ないが、そんなことできはせんで。この世に身分なるものが出来て数千年、もはやこれは否定しようがないものや。太閤はんは、律令を発して身分を明確にし、その異動を禁じようとしてはる。木は木、土は土、水は水、どうしようもないのや。人は平等とかいう考えは、現実を無視した暴論や。あんたはんの主人が、そんなことまともに言うておるお方やったら、それは狂人や。気がちごうてはるわ。な、喜内、悪いことは言わん…。」


 黙っていた喜内は一礼して席を立った。利休に対して初めて見せる態度だった。

「なんや、怒ったんかいな。冷静に話しよ。なぁ、なぁ!」

後ろから追いすがる師匠の声を振り払うように、喜内は利休の庵を後にした。


(三)

 手を合わせた。目から光るものがこぼれた。年の割に短慮であったと思う。何かあったら守るとの師匠との誓いを守れなかった。今ならわかる。いや、当時も分かってはいた。利休は喜内を思うあまり言い過ぎたのだ。そして、喜内にとって、利休より国兼がより近しい存在だった、それだけに過ぎない。


「あいやぁ!仁王はんや。仁王はん。」

黄色い叫び声とともに、突然後ろから抱きつかれた。

鼻をつく芳香は伽羅か、ふくよかで柔らかい固まりが背中に当たる。

「亀様。お久しぶりでございます。」

声を聞いただけでわかる。自分を仁王と呼び、こんなことをするのは、奔放な利休の末娘亀に間違いない。振り返ると、亀は幼いころよくしていたように、喜内の首に手をまわしたまま、潤んだ大きな目でごつっい顔を見つめてきた。噂ではその後利休の養子となった少庵の妻となり、一児を設けたらしいが、目の前にいる亀は、三年前のそのままだった。


「仁王はん、お父はんが、お父はんが…。」

そう言うと、大きい目から涙をぼろぼろ溢した。

喜内は、そっと懐紙を差し出すと、承知しておりますと言った。

高名な利休の娘で、一児の母とは思えぬさまで、亀は差し出された懐紙でずーと鼻をかんだ。思わず喜内の顔に笑みがこぼれる。

「変わりませんな。」

亀は真っ赤になって言った。

「仁王はんこそ!いけずは変わらんわー。こういう時は見ないふりするもんやわ。」


失礼いたしたと言うほかない。落ち着いた亀は居ずまいを正してこう言った。

「ここで会うたのは、お父はんの引き合わせや。仁王はんにお父はんの遺言があります。」

えっ。驚きが走った。利休が自分ごときに遺言を残してくれるとは。


「仁王はん、よく聞いてや。古田(織部)様の手引きで、聚楽第屋敷の庭に忍んだとき、障子の向こうから、お父はんはこう言いはった。

『仁王に会うたら悪かったと伝えてくれ。気が違っていたのは、どやらわしの方や。いや、今の世の中、政を司るものはみんなどうかしておる。

太閤はんも、本当にどうかされてしまわれた。豊臣家で正気に見えるものは皆狂人や。狂人に見えるほうが正気かもしれん。

仁王よ、狂気の夢に見えても貫きなはれ。自分らしく生きなはれや。』と。」


滂沱の涙が頬を伝った。感謝と後悔、と同時に、どうしても、亀に聞いておきたいことができた。


「亀様、知っているなら教えてくだされ。いったい、太閤殿下と師匠に何があったのです。」


(四)

 亀は自分が直接聞いたり、いろいろな弟子たちから聞き、知っていることを、自分なりに繋ぎながら話してくれた。


 今年の一月、大名諸侯に対し太閤殿下が初めて朝鮮攻略の意図を示し、準備を命じたとき、利休は珍しく激高していたという。

「正気の沙汰やない。朝鮮を平らげれば、明や天竺まで攻め込むのやと。一体どれだけの血と金、時間を費やすつもりや。こんな天下人、古今に例がない。決してほめ言葉やないで、ほめ言葉やないのや。」


 あるときは、李朝の白磁の花活けをしげしげと見乍ら溜息をついていたという。

「こないな優れた作品も、長い戦になれば作っている場合やないやろ。この世の美しいものがまた減ってしまう。」


 利休の鬱屈は、今年の三月、秀吉に久しぶりに召し出され、西国諸大名に黄金の茶室で茶をたてるように命じられた時に爆発した。諸大名の前で、秀吉の再三の命にもかかわらず、茶をたてることを拒絶したのだ。

秀吉は面目を失い、利休は聚楽第内の屋敷に軟禁された。


四月のある日、軟禁した利休のもとを、突然、秀吉自ら訪ねてきた。

「利休よ、少しは気が変わったか。」

秀吉は機嫌よく尋ねる。

「と仰されますのは?」

利休は腹を据えていた。口調は極めて冷静である。

「わしのために、わしの茶室で茶をたてる気になったかと聞いておるのじゃ。」

イライラして言う秀吉に、利休はゆっくり首を振った。

「お茶がご所望なら、今すぐに立てて差し上げます。どうしても、あの茶室でなければいけないので。」

秀吉は重々しく頷く。

「あの黄金の茶室こそ、この太閤秀吉の考える美の究極。千利休の立てる茶は、あそこでなければならぬ。」


利休は吐き捨てるように言った。

「ごめんこうむります。あないな、派手派手しい、あさましくすらある場所での茶は、心が落ち着かぬ。どんな銘茶も不味くなってしまいまひょ。」

秀吉のこめかみが、ピクリと浮いた。

「あさましいじゃと。不味い茶じゃと。」


利休は居住まいを正し、覚悟したように言った。

「そう申しました。殿下!目を醒ましておくんなはれ。あの、わしがほれ込んだ羽柴秀吉さまはどこへ行かれたのや。最近、帝の御落胤やらいう噂を流させておられると聞いております。お笑い種や、百姓の出、浮浪児が天下を取った。ええやないですか。人々は、そこに秀吉と言う男の凄みを見出し、好きになる。わが身に置き換えて夢を見るのだす。それを否定し、嘘で塗り固めることは、自分自身を殺していることと同じでっせ。秀長はんが生きてござれば、きっと兄者、情けないぞと仰ったに違いおまへん。どうか、利休の最後のお願いと思うて、元の秀吉さまに戻っておくんなはれ。朝鮮征伐じゃなどと馬鹿なことは言わんと。」


聞いている秀吉の顔は、熟した柿のように真っ赤になっていた。

ものも言わず、太閤がそのまま利休の屋敷を後にした後、利休は何を考えたか、珍しく一篇の漢詩を読んだ。


人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)

吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)

提ル我得具足の一ッ太刀 (ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)

今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)


翌日、秀吉から切腹の命が下り、この漢詩は事実上、利休七十歳の辞世となった。


この詩を聞いたとき、喜内は師匠らしくない荒々しさが、自分に向けられているような気がしてならなかった。

秀吉を討て、秀吉を討て。

あの師匠が、自分にそう言っている気がした。


「仁王はん。」

後ろを向いたまま亀が言った。

「このまま、うちを連れて、どこぞへ逃げてくれへん。」

びっくりした。何を言い出すのか、幼子もいると言うのに。

困った喜内を置いて、亀は振り返らずに駆け出した。


これが、喜内と亀の一生の別れとなった。

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