前日説明があったとおり、6時にチャイムが鳴った。

 しかしながら、すでに僕は5時位に起きていたのでこっそりと階下におり、敷地を出て呑気にタバコを1服などした。紙パッケージの中を見ると残りは2本。僕は1本を口にくわえ、ライターを捜してカーディガンのポケットをごそごそと探していると、塀の外の方の中の一人が僕に着目して、陽気な笑顔を浮かべながら近づいてきた。

 一時、病院内は禁煙という厚生労働省の通達だかなんだか知らないが、喫煙者たちがつらい思いをしたこともあったが、リヴィング・ウィル法によって、明確な職を受けたい人なんだか、痛み止めを打ちに来てるんだか、人の流れは乱れ、厳密なルール運用を病院は執り行なおうとしたが、そんな事知るかとばかりに無法状態の法の適用者に運用は曖昧にされてしまった。

「あの・・・、スイマセン。よろしければ1本いただけませんか?」

 その人は如何にもホームレスと言った感じの薄汚れた服を着て、長年の疲れだろうか肌には多くの皺が刻まれていた。・・・前歯も何本か失われていたな。けれども、何故か髪の毛だけは太く本数も多くしっかりとしており、整えられていた。ボリシーなのだろうか?

 僕は、この初老の方に分け与えてしまうと無くなってしまうので一瞬考えたが、

「えぇ、どうぞ。けれども純正品じゃないですよ?」

「あ、ありがとうございます。・・・いやぁ、久しぶりだなぁ~、タバコ」

 そういって、恭しく僕からタバコを受け取り口にくわえた。僕はライターで彼の分に火を付けてあげ、自分のタバコにも火を付けた。

 彼は、頬をすぼめてたっぷりと煙を吸い込み、しばらくかみしめるような表情をして、ゆっくりと煙を吐き出した。実にうまそうなタバコの吸い方である。

「いやぁ~、おいしいなぁ~、タバコ。」

 そういいながら、火のついた口をじっと眺める彼を見て、なんだか僕もほほえましい気持ちになり彼と同じように吸ってみたが、思わずむせてしまった。

「すいませんね、最後の1本だったんでしょ?」

 ・・・きっちり観察しているじゃないか。なかなか老獪な方である。

「そうですけれど、いいんですよ。もうすぐ手術があるし、それにもう止めようと思っていたんです。」

 そう、肺ガンとわかればタバコは止めるしかない。それに、入院という隔離の形を取られているので僕は身分証を提示して、正規のタバコを買おうとまでは思わない。3年ほど前に世論に押されるような形で、タバコは20本一箱で平均1000円くらいまで価格が上昇した。タバコ特別税の成立である。

「利用者負担の原則」

 と、称してヒステリックな一部の嫌煙団体が大々的なネガティブキャンペーンを行い、成立させた新税である。名目は「肺ガン及び喫煙の影響と思われうる医療費予算として充当する」とのことであったが、厚生労働省に十把一絡げで振り分けられるため、実際言葉通りに使われているかわからない。法案に反対する意見も抵抗もたくさんあったが、すでに世界的な禁煙推進の波を押しとどめることは不可能であり、喫煙者というマイノリティーはそれを受入れざるを得なかった。

 しかしながら、原価に対して税金の比率が過剰に大きくなると「闇製品」というものがはびこるのも社会のシステムである。大麻や覚醒剤のような「非合法ドラッグ」もそのうちの一つと言えるし、古くは禁酒法時代のアル・カポーネ。入手しにくいものを実際より安く提供することで、それでも原価は低いため確実に儲けになるのだ。闇タバコは口コミで広がり、一説によるとタバコ消費市場の60%を占める。・・・そのお金は誰の元に流れるのか? 多くは暴力団、外国系マフィア、新興国などだ。価格はおよそ500円~600円。1000円タバコに比べたら安い。これによって、タバコ税による税収は明らかに以前より落ち込み、メディアなどは、

「一世一代の失策。」

 と断罪していた。しかし、多くの人は知っている。ヒステリックな一部の嫌煙団体が先導して成立させたのだが、そいつらこそ闇タバコの販売利権を得るために入念なシナリオの元に組織された連中であることを。

 僕は近所のたばこ屋で闇タバコをこっそりと入手していたのだけれど、この状態じゃ買いに行くこともできなさそうだ。これをきっかけに止めるのが正しい道筋かもしれないな、と感じた。

「何か、肺に病気でも抱えたのですか? COPDとか・・・。」

「肺ガンです。」

 彼はちょっと複雑そうな表情をした。

「そうですか。闇タバコが流通してからさらに肺ガンの発生率が増えたと言いますものね・・・。なにやら、外国でこっそりと作られて国内に入ってくるから、純正タバコに比べて発ガン性の有害物質が余計に多いらしいですね。」

 彼はかなり学識のある人らしい。さっきもCOPD(慢性閉塞性呼吸障害)という病名を真っ先に口にしたし。

「そうですねぇ、あまりまともじゃないですね。」

 風のない秋晴れの朝に、天高く2本の煙が吸い込まれるように上っていく。喫煙が「害悪」とされていなければなかなか絵になる風景じゃないか? と僕は自問した。

「もしかして、あなたはリヴィング・ウィルの方ですか?」

「・・・はい。」

 そういって、吸い口まで短くなり熱くてもてなくなったタバコを彼は吸い殻入れに捨てた。

「私はかつて、ASHグループの営業マンでした。」


Associate of Success Holding


 オイルマネーを投資して立ち上げた産油国の新興企業だったが、日本の商事をまねて小物から武器まで儲かるものなら何でも扱う総合商社だ。当時平の営業マンでも年俸700万は受け取っていたという、今でも超一流の商社だ。

「就職氷河期時代を過ごして、くすぶった30代を過ごしていた私は、『年齢問わず、優秀な人材を求めています』という、その企業を受けて入社しました。フリーターのようなことを私はしていたのですが、ASHは基礎から私を鍛えてくれ、すぐに結果を出すことができました。もちろん、企業の背後には膨大なオイルマネーがあったので、他社が真似できないような圧倒的な低価格で日本の流通のシェアを奪うことができたのが要因ですけれどね。」

 確かにそうだ。この会社には多くの見捨てられた氷河期時代の日本人が入社し、彼らは外国人が真似ができないような勤勉さで一生懸命働いた。日本企業が氷河期時代の人材を取りこぼしたことに後悔の念を抱いたのは、そう遠くない時期だった様に思える。日本企業も真似をしてこの世代の人材をあわてて募集したが、報酬など条件の圧倒的な差によって、そして苦渋を舐めさせられてきた彼らは、その手のひらを返したような求人を徹底的に無視した。・・・私怨というのは実に恐ろしい、と企業に印象付けた出来事だった。そして、ジャパンマネーは海外へどんどん流失し、財政難に拍車をかける。

「やりがいがありました。あの当時は。だってどんどん結果がついてくるし、それに伴って収入もどんどん上がるんですからね。」

 そして、彼は燻っている吸い殻入れを見ながら、

「けれども、やがて疲れてしまいました。私は一生懸命働き、外国にもたくさん行きました。長期の出張も多かったです。そして、落ち着いたときには妻も離れ、子供は難病にかかり気が付いたときには手遅れでした。・・・自分を優先して、家族や親族を顧みなかった自業自得なんでしょうね・・・。」

 僕は反射的に、そんなこと無いですよ、と言いそうになったがそれは彼の苦悩を何も解決するものではないし、逆に適当な慰めになることに気が付き、黙って頷いた。

「それからまもなく会社を辞めました。会社は待遇に不満があるのかと感じたのか、色々な報酬アップやポストを提示して私を引き留めようとしましたが、もう私に必要なものは何もなかったのです。退職金はたくさん出ました。使い切れない位の貯蓄もありましたが、私はむなしくてやがてパチンコや競馬で使い果たして、この有様です。自殺する勇気すらないので、ただ毎日ここでタバコをたかって生きています。リヴィング・ウィル法もそんな頃に成立したので、すぐに申請したのですが、なかなか私は丈夫にできて居るみたいで死なせてもらえないようです。」

 そういう風に彼は言い、とても悲しそうな表情をして笑った。

「タバコ、ありがとうございました。また見かけたら声をかけてください。いつもこの辺りにいますので。」

「いえ、どういたしまして。僕も最後の連れタバコがあなたで良かったなんて思っています。」

「・・・私が?」

「はい。理由はうまく言えないのですが・・・」

「なんか私でもこんな時代に役に立つことが今でもあったのですね。」

 彼はとびきりの笑顔でこの場所を離れていった。


 そして、病室に帰ってきた頃にチャイムが鳴ったのである。

 しばらくして、朝のバイタルチェックのため宮原看護師がやってきた。

「あ、スイマセン。昨日先生から言われていたんですけれど、タバコは絶対に吸わないでくださいね。」

 そういって、僕に体温計を渡し血圧を測り始めた。

 

 ・・・今さら遅いよ。


 それからの3日間、毎日検査漬けたっだ。血液検査を何回もされ(当然、その度に注射の上手下手をつぶさに観察してやったのだけれど・・・)、宮原看護師の注射が一番痛かった。・・・退院するときに嫌みを言ってやろう。痰を採取される。胸部のCTにかけられる。エコーで胸部をくまなく観察される。そして、きつかったのは内視鏡検査と経皮肺針生検だ。一度局部麻酔をされて内視鏡で組織を取ろうとしたらしいのだが、矢口医師曰く、

「・・・上手に取れない場所だ。」

 と言うことで、次の日にさらに局部麻酔をされ、肺に針を刺して組織サンプルを取られた。麻酔注射自体が痛かったし、麻酔が切れた後、どちらもキリキリとした痛みが残った。いっそ、さっくりと解剖するみたいに胸をバキバキ開いてやっちまえよ、と思ったのだけど、診断が大事とのことで我慢した。母は、毎日見舞いに来てくれ、検査後に苦しむ僕を気遣ってくれた。そして、宮原看護師はいつものようにマイペースで僕の頭上で甲高い声で色々と話をしては、去っていった。インターンの彼は、気が付くと僕を観察していた。・・・彼は何というか、気持ち悪すぎる。

 なんだかんだで、検査は終わりゆっくりとした土日を過ごす。禁煙のぶり返しが辛かったので先生に頼んで、ニコチンパッチを処方してもらった。・・・うん、コイツは楽だわ。けれども、肌の弱い僕は貼った後にかぶれた場所のかゆみに悩まされるという苦痛も味わった。

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