翌日は、実によく晴れた昼だった。何というか眠りすぎである。

 そういえば、今日は柏木さんと面会しなくてはいけないのだった。・・・あんな手紙でも、待たれていると思うと無視できない性格だ。昔から。

 ・・・だから鬱になったりするんだよ。

 僕は、歯を磨いて、顔を洗いながらそんなことを考えていた。鏡を見ると、所々髪の毛に寝癖が付いてはねていたが、別にデートに行って甘い会話をするわけでもないので水を付けてピンで挟んでしばらく放置した。出かける頃には落ち着くであろう。時計の針は正午丁度を指していた。

 僕はパソコンに電源を入れて、ネットオークションの入札状況をチェックした。しかしながら、特定のビンテージパソコンキーボード以外にはこれと言って反応は鈍く、最初の値段設定を0円にすればよかったと後悔した。・・・送料無料で考えると1000円くらいの値段を付けないと慈善事業になっちゃうしなぁ。この辺りのさじ加減は、商売というカテゴリに全く才能を持っていなかった僕がいつも苦労するところである。たいていは、価値以上に低い値段で譲ったりしてしまう性格なのだ。

 さて、そんな風に夢中になっているとそろそろ出発しなければいけない時間である。遅刻したり約束を破ったりすることが嫌いなのも、鬱を持つ人の共通条件だったかなぁ、などと思いながら適当にいつも着ている服を着て外に出た。

 秋にしては太陽が少しまぶしく、風が少しあった。そう、暑いのだか寒いのだかよくわからない天候である。僕は、まぁいいさ、とすぐ近くの自動販売機で缶コーヒーを買って朝ご飯にした。正直固形物を食べるのが面倒なのだ。なんだか、のどがイガイガする。タバコを吸いすぎたせいだろうか? 痰が絡んだので、回りに誰もいないことを確認してからオヤジ達と同じように、かーっ!と絡んだ痰を出した。痰にはわずかながら血のような赤いものが混ざっていたが、コーヒーの残留物の色なのか、血なのかを判断するには僕には専門知識が足りなかった。けれども、確実に灰の中で余分な細胞達が増殖していることを実感し始めた瞬間でもあった。


 指定されたとおり、コンビニの駐車場にたどり着くと、例のエンジン音のやかましいジムニーに乗って柏木さんは待っていた。先日と同じようにブラウンのサングラスをかけながら、アンパン食べながら牛乳を飲んでいた。

「・・・すいませんが、どこの張り込み中の刑事さんですか?」

 僕は嫌みを言いながら誂う。

「・・・あなたを待ちながら、昼ご飯を食べていたのよ。・・・何か問題でもあったかしら?」

「普通の若いお嬢さんは、アンパンと牛乳の組み合わせはあまりしない。」

 そう? と言う表情をしながら、でかい口でアンパンを口の中に押し込み、牛乳で一気に流し込んだ。

「牛乳とグルテンというタンパク質、そして炭水化物。即エネルギーに変換するにはなかなか言い組み合わせなのよ?」

 ・・・あんまりそんなに合理的に食事のことを考えたことはない。

「じゃ、車に乗って。出発するから。」

「・・・どこへ?」

「着いてからのお楽しみの方がいいんじゃない?」

 まぁ、確かにそう思うけれど、この爆音エンジンの車では道中、あまり楽しそうではないな、と僕は彼女に言うことはできなかった。猫みたいに引っ掻かれそうだからな。

 彼女がイグニッションキーを捻ると、先日の懐かしい爆音が住宅街にこだまする。僕は根本的な違和感を禁じ得ない。一応かつては自動車が好きで趣味であった頃の血が騒ぐ。僕は彼女に言う。

「ちょっと待ってくれませんか? いくら何でもこのエンジンの音は異常すぎる。」

 彼女は黙ってエンジンの火を落とす。そして、好きにすればと言う感じでエンジンフードを開いた。

 フードの中は実に酷い有様だった。ラジエターの水が規定量を下回っている。ブレーキフルードの液面レベルが規定量を下回っている。彼女がブレーキを踏むたびにキーキー音がしていたからブレーキパッドがすり減って限界に近いのだろう。ベルト関係に劣化が原因と見られるヒビが入っている。そして、何より汚い。僕はフードを締めて、原因であろうと思うマフラーを見るために屈んだ。予想通り、マフラーの消音装置部分に穴が空いている。

(・・・整備不良ジャン)

 そう思いながら、再び助手席に座る。ドアは歪な音を立て、若干の違和感を手に残し閉まる。

 満足した? と言う感じで彼女はこちらの様子を伺う。

「まず、」僕は切り出す。

「マフラーに穴が空いている。やたらにうるさいのはそのせい。それに他にも整備不良の部分がたくさんある。こんなのでよく事故を起こしたり、途中で止まらなかったですね。」

「昔から余分に悪運がいいの。それにマフラーに穴が居ているのは知っているわよ。他にもオイル交換をしばらくしていないし、タイミングベルトの交換時期もとうに過ぎている。毎日点検しているから。」

 僕は信じられないと言う感じで、彼女を見据え、

「どうして、ちゃんと整備しないんですか?」

 と厳しく言い放った。

「お金がないから。それに、自分の健康をきちんと管理しないような人に言われたくないわね。用件はそれでいい? 出発するわよ。」

 と言い再びエンジンに火を入れ爆音を住宅街に響かせた。この最後の一言で僕は黙らざるを得なくなった。


 しばし、川沿いの高規格道路を流し、やがて市内を出ると田園風景が広がる。元々が山がちな地域で育った僕には心落ち着く風景でもあった。しばらく都会の雑踏しか見ていなかったので懐かしかったし、色々と昔のことを思い出したりもした。

 車内はラジオが点いていたが、あまりにうるさいため何を話しているのかわからなかった。特にマスメディアの情報など信用していなかったのでどうでもよかった。彼女はテキパキと勾配やカーブの形状に合わせて、マニュアルトランスミッションを切り替えた。変速時のショックというのはこの車の状態を考慮するとあまりに少なく、彼女の運転技術が高度であることを認めざるを得なかった。

 

 お金がないのよ。


 確かにそうかもしれなかった。区役所のアルバイト職員の給与というのは、後ろで茶を飲んで新聞を読んでいるような正規公務員に比べると遙かに少ないことは知っていたし、そんな中でも毎日車の状態をチェックするほどきちんとしていることに僕は感心した。他人の長所を見つけるのは僕の優れた能力である、と昔同僚に言われたことがあるが、今回もすぐに彼女のよい部分を見つけるのだった。しかし、その能力のおかげで余計な情がうつり、苦労してきたのも僕の確かな弱点でもある。

 1時間ほど運転した頃だろうか、遠くに大きめの建物が見えてきた。明らかに古い建物だとわかるのだけれど、きちんと手入れがされている様子で、車内からも外壁を補修している人の姿が見える。

 何の建物だろうなぁ・・・、と感じていたが彼女はやがてスピードを落としそこの駐車場(とはいうものの、単なる空き地みたいな場所なのだけれど)に入って車を止めた。

 彼女は僕に何も言わずエンジンを止め、エンジンフードを開け放ち、建物に向かって歩いていった。・・・多分オーバーヒート対策なのだろう。そして僕に、ついてこいと言うことだろう、と判断し彼女の後をついていく。建物の入り口には看板が掛かっていた。手作りであろう、けれども材質の良さそうな木製で達筆でこう書いてあった。


 最後の希望の家診療所


 どうやら医療施設らしい。彼女は建物に入っていき、事務所の職員に対して僕には見せたことの無いような素敵な笑顔で挨拶をし、

「今日は先生、暇ですか?」

と尋ねる。

「丁度、処置が終わった頃で皆さんと一緒に作業でもされて居ると思いますよ。」

「そうですか。じゃ、適当に散策しながら挨拶して帰りますね。それとこれ。工藤製作所の社長からいただいてきました。」

 そういって額面は見えなかったが小切手らしいものを職員に渡す。

「そうですか、また先生からお礼を言うように言っておきますね。」


 工藤製作所。


 聞いたことがある。日本屈指の金属加工技術を持った会社で、国内はもとより海外からも引き合いがある。注目を集めている会社で何度かネットの口コミで見た。目だった広告はしないし法人取引が中心。身体障碍者の雇用を助成金基準より多く受け入れていると言う話だ。しかしながら、沢山の大資本企業から買収や資本提携、技術提携、あるいは経営支援など。それに銀行からの融資も一切断る無借金経営として知られている。社長の人物像というのも、業界紙などのインタビューすら一切断っていると言うことでよくわからない。ただ、技術は確かなものなので安定した成長企業いう話を聞いている。そんな企業とこの施設との関連をこの時点で僕は理解できなかった。

「こちらは、新しい入所の方ですか?」

 職員は僕を見て彼女に言った。

「ううん、違うの。ただの見学者。」

「そうですか。」

 職員は、あぁいつものことか、と言う感じで僕を見つめこう言った。

「あなた、この施設をキチンと見て、きちんと感じることを自分の中で見つめてくださいね。」

 優しい表情だったが、そこには凄く大きな意味が感じられたし、深く重みのある言葉に感じられた。

「じゃ、行くわよ。」

 そう柏木さんは言って、僕についてくるよう促した。


 僕らはまず、外に出た。おそらく先生と呼ばれる人を探すためだろう。後から知ることになるのだが庭と呼ばれるその広い場所では、色々な作物が栽培され、ブドウなども栽培されているようだった。10人ほどの人が一生懸命手入れをしている様子が見えた。別棟では60歳代位の定年退職を過ぎた人であろうか、その人が若い3人の人たちに椅子の作り方を指導しているようだった。

 何かの、職業訓練所か、デイケアの施設かな?

 そんな風にに僕の目には映った。

 その建物の向こう、丁度1本のサクラの木の手入れをしている4人ほどの集団に向かって彼女は叫んだ。

「先生!」

 薄い水色の作業着を着た40歳代くらいの男性が、彼女に気が付いて手を振る。僕らはそこへ向かって歩いていった。

 サクラの木はかなりの老木らしく、「先生」は何か他の3人、初老の方と老いたサクラの木の手入れをしている様子だった。そして、僕らはそこに合流する。

「恵ちゃん、今日もよく来てくれたね。」

「はい、工藤さんところから預かりものがあったものですから。」

「・・・そうか。もし今度彼に会う時には、あまり無理をするなと伝えてくれないか?」

「はい、わかりました。お伝えしておきます。」

 僕と会話する時とは圧倒的に違う、「先生」に対する信頼の情が感じて取れた。そして、「先生」は僕の存在に気が付いて、彼女に尋ねた。

「彼は新しい入所希望の方かな?」

「いえ、今日はここを見学してもらおうと思って、ついでに連れてきたんです。」

「そうか。」

 そして、「先生」は僕に向かって、

「初めまして、伊里中と申します。」

 そういって握手を求めてきたので、僕はそれに応えて、はじめましてと挨拶した。

「一応僕はここの医師で、周りの人は先生なんて呼んでくれているけれど、そんなに偉いものじゃないので気にしないでざっくばらんに接してください。」

 笑顔で伊里中先生はそういう。人見知りの激しい僕にとっては、初対面なのに何か安心させるような人柄であった。

「まぁ、お茶の一つも出してもらってゆっくり見学していったくれないか? そういえば取れたばかりのブドウでジュースを作ったから、事務の山木さんにお願いして出してもらうと良い。」

 そう先生は彼女に言った。

「わかりました。ところで今日は何をされて居るんですか?」

「このサクラなんだけれどね。」

 先生は続ける。

「今年の春、花の咲きが悪くてさ。彼らの知恵をもらって越冬に向けてどういう処置をしたらいいか、相談していたところなんだ。」

「そうですか。このサクラ、いつも春に綺麗に咲いてくれてましたもんね。私、最初に見た時に感激したんですよ。」

「そうだろう? だから何とか前みたいに咲いてもらいたいと思ってさ・・・。」

 そういって感慨深く先生は老木を見上げた。

「じゃ、先生。私たち家の方によって帰ります。伊里中先生もあまり無理しないでくださいね。」

「男40歳なんて、ちょっと位無理をしたって倒れやしないんだよ。」

 そういって、軽快に柏木さんに屈託の無い笑顔で応えた。


 僕らは再び「庭」を横切り、建物へ向かって歩き出す。沢山のトンボが空を舞っていた。すっかり秋だ。都会の喧噪とはかけ離れたすてきな場所に思えた。

「ここ、良い場所ですね。」

 僕がそういった瞬間、彼女の顔色と表情が変った。

「・・・ここは地獄との接点なのよ。」

 僕は意味がよくわからないまま、家へ向かう彼女の後ろ姿をただ見つめるだけだった。

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