救いの霊薬
これだけははっきりと断言できることだが、俺はあの時確かに、明確に意識を失った。
だからこの感覚が一体いつからあったのかと問われると、正確に返答することは出来ないのだけれど、俺は確かにその時少しだけ意識を取り戻しかけていた。
それは宛ら、高熱に魘されて意識の覚醒が曖昧である時と少しだけ似ていた。
しっかりと聞き取ることは出来ないが、それでも誰かが何かを話しているのが聞き取れる。
圧倒的な気怠さと、体中を焦熱がジワジワと時間をかけて焦がしているような感覚。
そのあまりの心地悪さに、完全に意識を覚醒しきれない状態だった。
だが、どうしてそんな状態になっているのか――その経緯を思い出せる程意識が覚醒していない俺には全く為す術もなく、ただただ現状に流される事しか出来なかった。
……いったいいつまでこのような状態が続くのか。
纏まらない思考ではあったが、そんなどっちつかずな状況に俺は無意識に歯がゆさを感じていた気がする。
――不意に、口内に何かを流し込まれた。
俺はその口の中に流れ込んだ冷たい何かを、半ば条件反射的に飲み込んだ。
味を感じ取るだけの意識のない俺は、しかし、摂取したそれが瞬く間に体に染みこんでいく事だけは感じ取っていた。
――瞬間、言いようのない衝撃が俺の体を貫いた様な錯覚を覚えた。
大きく、正確に、力強く――ドクンッ!! と、体の中の何かが戦慄く。
――それは合図だった。
感じるのは体中を何かがはい回る様な感覚――否、そのような表現では生ぬるい! これは体内をジグソーパズルのようにバラバラにして、再配置してゆくような強引すぎる移動。
体の中を他人によって強引に作り替えられている様な錯覚さえ覚える。
「――ギ■ッ、アガア■ァツァァ!!」
あれだけ重かった瞼を瞬時にこじ開け、意図せず不明瞭な叫びを上げる。
――ジュウジュウと何かが弾ける様な、耳障りな音。
――眼前は白で覆われ、何も見えない。
――痛いを通り過ぎ、体のいたるところが変に痙攣する、息が吸えない。
兎に角苦しかった――その苦しさを紛らわせたくて、俺は無我夢中で体の動く部位と言う部位を無茶苦茶に動かそうとした。
だが、その思考に答えてくれる箇所は余りに少なかった。
「――テッ■、貴方■足を抑■■さい。■ルク■■んっ、気を■っか■持ちな■い‼」
「――しっか■しろ■■クスっ、俺たち■■険は■だ始まった■かり■ろっ、な■にこん■■ころで死んだ■■さねぇ■らな!!」
{――アルク■、頑■る、ですのっ}
――バキバキ、ブチブチと、体の内側から聞こえてくる音の向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえた。
如何やら誰かが俺の体を押さえつけているらしい。
――為す術の無い俺は、両掌を強く握りこんだ。
「アル■ス様、確りこっち■見てく■さいっ!! 呼吸を整■てっ!!」
一番大きな声が聞こえた。
目の前の白の合間に、揺れる青色を見る――
俺は目の前の青の言葉に縋って、乱暴に呼吸を繰り返した。
浅く吸って、荒く吐き出す――短く吸って、区切って吐き出す――詰まる息を飲みこんで、肺の中身を空にする――
…………一体どれだけその行動を繰り返しただろう。
無我夢中で呼吸と言う行為を繰り替えしていると、体内の不快感は徐々にその生りを潜めてくれた。
それに伴って目の前の白が晴れて行くのが分かる――如何やら白いそれは蒸気の様なものであったらしく、驚くべきことに俺の体から立ち上っていたものらしい。
――体が見る見る内に楽になってゆく。
「アルクスさんっ、大丈夫ですか? 私の事分かりますかっ」
視界から青が少し上にずれたかと思うと、今度は赤いそれが下から飛び込んできた。
何時も凛としているその瞳も、今は少しだけ滲んでいた。
「――フィ、アンマ、先輩? それと、クレーネ先輩も」
荒い呼吸を繰り返していた為か、すっかり喉が掠れてしまったらしい。
俺は情けない程か細い声で、何とか目の前の人物達の名を呼んだ。
「――はぁぁっ、……良かったです本当に。如何やら峠は越えたようですね」
クレーネ先輩が深い溜息を吐き出しながら言った。安堵が声からにじみ出ている様な気がした。
不意に両足の圧迫感が軽くなったかと思うと、視界に左側からもう一つの赤が割り込んできた。
「やっぱりお前も冒険者だよなぁ、抑えつけるのもしんどいしんどいっ」
「……テッド」
見るからに快活な笑みを浮かべる我が相棒――如何やら暴れる俺の両足抑えていたらしい。
……なるほど、体が動かないのには道理があったらしい。
頭はクレーネ先輩の両手で抑えつけられているし、馬乗りになっているフィアンマ先輩によって胴体と両腕が確りと固定されている。
更に手首には地面から映える水枷で打ち付けてある始末――これを行っているのは恐らくプルウィさんなのだろう。
――完全無欠の雁字搦めだった。
これを強引に抜けるのは、熟練の奇術師とて不可能だろう。
と言うか、これはちょっとよろしくなさすぎる。
クレーネ先輩もフィアンマ先輩も顔が近いっ、フィアンマ先輩に至っては体勢もヤバイっ。
自分の置かれている状態を認識して、顔面が一気に熱く成るのが分かった。
「先輩たち、すみませんっ、プルウィさんも――退いていただけると嬉しいのですがっ」
慌てた俺の言動を見て数拍――ポカンとしていたフィアンマ先輩の綺麗なお顔にも火が灯り、慌てて俺の上から飛びのいた。
「私としたことが、なんてはしたないっ!! い、いえ、先ほどのアルクスさんは明らかに重症でしたしこれは不可抗力、そう、不可抗力ですわっ!! それに貴方は私の専属騎士になる方ですから、何の問題もありませんのよ!?」
あわあわとしながら良く分からないことを口走るフィアンマ先輩を尻目に、拘束が解けた俺も慌てて上体を起こした。
「――ぐっ!!」
だが、如何やらまだ無理をするには少しだけ早かったらしい。
体の芯に言いようのない鈍痛が響き、俺は思わず膝をつく。
それと同時に俺は非常に重要なことを思い出した。
先ほどまでは圧倒的な痛みで忘却の彼方であったが――俺たちは気を失う直前まで、戦闘の最中にあったということに。
――俺は慌てて顔を上げ辺りを見回して見た。
「――すみません、さっきまでの戦闘は――あのスライムはどうなりましたかっ!?」
「まぁまぁ落ち着けって、――ほらよ」
慌てる俺に対して行動を起こしたのは、意外なことに我が相棒だった。
テッドは誇らしそうに、俺に向かって掌に乗せたそれを見せてくる。
テッドの大きな掌でさえも握り覆うことの出来ない大きさの魔石が、そこにはあった。
「――カハハっ、しっかし流石だよなっ、ヒビが入ってたとは言え、こんなでっけー魔石を素手で割るなんてよ」
「テッド!! 笑い事ではありませんっ、なによりアルクスさんは無茶し過ぎですわよ!! 治療する前の貴方の腕は血塗れで、変な風に曲がっていて――それはもう酷い有様だったのですから!! レーネが
俺が負った怪我がどれほどのものだったかは分からないけれど、俺の意識を容易く刈り取った
その規模が如何程だったかは、今現在真っ赤に染まった俺の衣服がその様子をアリアリと語っていた。
――だというのにそれに反して、今は体の節々が痛む程度で済んでいるのだから、紛うことなくかの霊薬のおかげなのだろう。
――先輩は見事に夢を実現させたのだ。
その現実を実感した俺は、自然とクレーネ先輩の方へと顔を向けていた。
そして俺は眼前に映った光景に思わず言葉を失ってしまった。
「……よかった、です。本当に、助けられて、よかった……」
クレーネ先輩はポロポロと涙を零しながら、心ここにあらずと言った感じでペタリと地面に座った状態で俺の方を茫然と見つめてきている。
緊張の糸が切れて放心状態の先輩がそこにいたのだ。
そんな先輩の様子が可笑しくて、少しだけ笑いそうになったが、俺は口角を引き締めて強引に真顔に戻した。
俺の為に尽力してくれたクレーネ先輩の事を笑うなんて失礼極まりない。
だからこそ笑うより先に、彼女に大事なことを伝えなければならない。
「――ありがとう、ございます。助けていただいて、本当に、ありがとうございます」
俺は頭を下げながら半ば衝動で礼の言葉を口にしていた。
言った後に、もっと気の利いた事を言えばよかったと少しだ後悔したが、それ以上の言葉は頭を下げている今も思い浮かばなかった。
気の利かない自分が情けないと思った。
だが、それも今更なことだろう。容易く死にかける俺が情けないのは自明の理なのだから。
「……そ、んな――も、元はといえば、わ、わたくしが、貴方様に依頼をしたことが全ての原因なのですよ? わたしくしが貴方様がたにこの様なことを頼まなければ、あのような目に合うことなど、そもそもなかったですのに」
「それは違いますよ。そもそもあの化物を倒すための道筋を考えたのは僕ですから、これは言うまでもなく僕の見通しが甘かっただけなんです。……今考えれば、あの時だって無茶をしなくて済む方法があったかもしれません」
――それは紛うことなく俺の本心だった。
よく考えれば、同時に二つの魔石を破壊しなければならない理由は無かったのかもしれないと、今になって思う。
それこそ風の魔石のみを先に破壊し、一旦仕切りなおした方が良かったのかもしれない。
そもそも、あの二つの核を宿すスライムは存在自体がイレギュラーなのだから、核を一つ破壊するだけで倒せたかもしれない。
……かもしれない、……かもしれない、……
もしを考えたらいくらでも予想は出来るのだ。
それなのにあの時の俺ときたら、直感的に
悪い癖だと思う。いざと言うとき、俺はどうしても思考が直感的になり、視野寂寥になってしまうのだ。
「だからこの怪我は、僕の自業自得なんですよ。だけどあなたは無茶をした僕を助けてくれた。とすれば、恨むことなんてありません。逆に
俺のそんな言葉に、先輩はまだ何か言いたそうな顔をしていた。
だが、そんなクレーネ先輩には申し訳ないが、これ以上俺は考えを変えるつもりはなかった。
俺が自分で死にかけて、クレーネ先輩の作った
今あるのはその現実だけなのだから。
俺はゆっくりとその場で立ち上がった。体は軋んだが、動くことは出来そうだ。
そうして俺は未だ座りつくす先輩に手を差し伸べた。
「――さぁ、帰りましょうか。帰って試験に備えましょう。
いつも大きすぎる課題を負わされてきたために、才能が実際よりも乏しく見える人は少なくない。クレーネ先輩はその典型なのではないかと思う。
だが、クレーネ先輩の力は、
後は其れを有るべき場所で晒すだけ――それでクレーネ先輩の才能は世に示される。
――なれば急ごう
この場所に来るまで三日の時間を費やしている。と言うことは単純に考えて帰るのにも同等の日数がかかってしまう。
順調に帰れれば問題は無いけれど、イレギュラーが無いとも限らない。
卒業試験に間に合わないと言うのは、一番由々しき事態なのだから。
――先輩は零した涙を両手で拭い、微笑みながら俺の手を見る。
「……はい、――はいっ、ありがとう、ございます」
俺の差し出した手を取り立ち上がった先輩の瞳には、確かな光が宿っていた――
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