ニシヘヒガシヘ

とんとんとん

ニシヘヒガシヘ

”西へ”


”まさかオレの秘密がバレるなんて考えたこともなかったから、今すごくキンチョーしてます。でもバレたのが西でよかったと思うんだ。西も北野のこと好きだったとわかったし! オレはよくあいつの隣でエロいことばっか考えてる。北野のことキスして抱きしめて押し倒して、首筋からゆっくりなめてって、それで下着に手を————”

 以下略。


 頭の悪そうなミミズみたいな文字が、ノートにみっちりと並ぶ。それは下品な言葉満載の「愛の讃歌」だったけれど、私はこの人生で初めて、純粋な生き物に出会えたと思えた。


        


 高校最後の夏————これでもか!と鳴く蝉の声にイラつきながら私は図書室へ向かっていた。周りは見渡す限り、山、山、山。駅まで車で40分。せっかく行っても1両しかない電車は1日に朝昼晩の3本だけ。そんなど田舎にあるうちの高校では、「夏は避暑地並み」という頭の沸いた教師たちの言い訳に基づき、クーラーがあるのは図書室と保健室のみの荒行が強いられている。

 35度を超えるこの暑さの中、避暑地をサイクリングして家に帰る前に、私はなんとしてでも体を冷やしておきたかった。友達やカップルで勉強に励む生徒を横目に火の鳥読むぜ!そんなことを思いながら、リュックを背負う。

 「ニシュラン、豚汁出てるー」クラスメイトのJKが、いじわるそうに笑いながら私のほうに視線を向けた。だねー、なんて適当に返事をし、ちらりと自分と彼女の太ももを見比べる。

 たいして変わんないじゃん。スカート短いぶん、あんたのほうが競輪選手っぽさ出てますけど。


 「マシュマロ女子」なんて言葉でもてはやされるのは都会の話。着々と身についてくれたこの肉のおかげで、私はあのタイヤ野郎のような不名誉なあだ名をつけられている。せっかくの青春もそんなポジションで過ぎていくのだと思うと死にたくなったけれど、こんな田舎でくたばるより、大学進学を機に都会で一花咲かせることが今の私の生きがいになっていた。若い頃から田舎でやりまくってるビッチより、間違いなく私の方が心も体もきれいだし。


 まさかの三階にある図書室へ向かう階段で、私は早くも力尽きてしまいそうだった。リア充どもが上ではしゃぐ声がキラキラ降ってくる。あいつらの横を通り過ぎていかなければならないのかと思うと、気分はいっそう落ち込んだ。


「夏の俺を自撮りー!」

 二階と三階をつなぐ踊り場から、暑苦しい聞き覚えのある声がした。

「おーい、早く来ないと図書室うまるぞー」

さらに上からも、聞き覚えのある声がする。踊り場のバカを窘める、落ち着いた低音のその声は、蝉の合唱をバックにしても校内に涼しく響きわたって、私の心は一瞬穏やかさを取り戻した。


 ————北野がいる。


 成績優秀、スポーツ万能、切れ長の目と八頭身をした超イケメン、という完全無欠の男。クラスにおいて不可触民である私とは真逆に位置する北野は、「ニシュラン」というあだ名がついた私を唯一「西」と名字で呼んでくれる正真正銘の「できた男」だった。

 (いや、踊り場のバカもか。)

 とにかく、私はそんな北野のことが好きだった。もちろん、タイヤのあいつのような存在である私は、そんなこと口が裂けても言えないのだけれど。


「カシャ」


 踊り場に差し掛かった時、自撮りバカのスマホが軽い音で鳴った。背景は白だか黄色だかわからない薄汚い壁。こんなとこで夏アピールしてどうすんの、と思いながら通り過ぎようとした時、思い切り腕を伸ばしたバカのスマホ画面がキラリと光った。

 なんとなく、私の視線はそこにとどまった。やたらと大きいスマホ画面におさめられた被写体。それはまるでananか何かの表紙のように絶妙な色気を醸し出していて、ゴクリと唾が喉の奥に入っていくのを感じる。


「東」

 うっとりするほど綺麗な、けれど思いもよらなかったその画面に釘付けになった私は、思わず自撮りバカの名を口にした。

 だってそこに写っていたのは、このベタベタした暑さでくせっ毛を陰毛ほど暴れさせた自撮りバカじゃない。シャツの裾から引き締まった腹筋をチラつかせ、私たちをアンニュイな表情で見下ろす芸術的なその被写体は、まぎれもなく、北野だった————


「あんた」

 段上からヒヤリとする空気が吹き下ろしてきた。誰かが図書室のドアを開いたのだろう。腕を伸ばしたまま、私の方を見て硬直する東の陰毛が心地よい風にふんわり揺れた。見開かれた丸い目は今にもポロリとこぼれ落ちてきそう。東の顔は日に焼けていてもはっきりとわかるくらい、みるみる真っ赤に染まっていった。それはほんの一瞬のこと。


「東ー! 早くしろー」

 段上の王の声で、私たちの時間はまた動き出した。が。その一瞬で私は確信したのだ。

慌ててスマホをポケットにしまい、一段目を踏み出してつまづく。体勢を立て直し駆け登ろうと、左右の足が同時に出、なぜかうさぎ跳びで二段目を登る。三段目、四段目と行く姿は、後期高齢者どころの話しではない。

(東、おまえってやつは)

 夏休みはすぐそこ。それは、カースト下位に甘んじていた私が一発逆転を意識した、初めての出来事だった。




”東へ”


”あの時あんたが撮った写真、今度プリントアウトして! すっごくいい角度から北野が撮れてた! 私もあの筋肉に抱きしめられて、あの低い声で囁かれたい。それで耳をきゅっと甘噛みされて強引に唇を奪われ、舌を押し込まれながら————”

 以下略。

 

 東から連絡が来たのは、あの出来事の数時間後だった。私は一応「3−2forever friends」というダサいグループ名のついたクラスのトークメンバーにひっそり加わっていたので、きっとそこから辿ってきたのだろう。終業式の後、学校から歩いて数分、大通りを一つ入った細い道の先にある空き家で私たちは会うことになった。

 昔何かの店だったその家の、腐りかけた縁台に腰掛け空を見上げる。大通りとは名ばかりの旧道はしんと静まりかえっていて、真っ昼間というのに車の音はおろか人の声すら聞こえない。背にした空き家も相まって、みんなゾンビに食われたんじゃないかと思うほど。そうだったらいいのに。ただただ広がる合成したような青い空と白い雲に、やっぱり蝉の音だけが響いていた。


「西!」

 背後からやたらとハイテンションな声が聞こえたかと思うと、案の定、東が軽快に駆けてくるのが見える。このクソ暑い中、なぜ彼はこうも元気なのだろう。

「来てくれてありがとう! でさ、俺北野のこと好きなの!」

 唐突だな。

 なんの遠慮もためらいもなく、東は到着するなり身を乗り出してそう宣言した。下剋上並みのトップシークレットを手に入れた私は、この陰毛バカをどう脅してやろうかと思っていたのに、突然のカミングアウトに少しまごつく。呼吸を整え、「知ってるよ。だってスマホ見えたもん。」と冷静に返した。はは、と今さら顔を真っ赤にして、東はくしゃりと笑った。

それから彼は、驚くほど正直に、自分が北野を「そういうふうに」好きなこと、それはもちろん誰にも内緒で、私が初めて打ち明けた相手だということを、息つく暇もなくベラベラと喋った。東の調子に乗せられて、私も少し気になってるんだよね、とうっかり口を滑らせると益々彼の顔は明るくなった。何?ライバルじゃないわけ?と思ったけれど、どうやら私は東に仲間として認識されたらしい。


「それでさ!」

ようやく一息ついた東は、背中に背負ったままだった、くたびれた黄色いリュックから一冊のノートを取り出した。それは、私がまだ辛うじてニシュラン化していなかった時代に使っていたような、「ジャポニカかんじれんしゅうちょう」だった。

「なにこれ、懐かしい。」

「でしょ! 俺さ、これで西と連絡取り合おうと思って! 北野についてね!」

 素晴らしいアイディアと言わんばかりに、東の丸い目はきらきら輝いている。

「なんでまた……」

「メールやLINEだと誤爆が怖いじゃん。でも、これなら高校生なんてだれも使ってないし、学校のノートとも間違えないと思って!」


 いやいや。私はなんであんたと連絡取らないといけないの、ってことを言ってるんですけど。

 でも、いつにも増して生き生きしている目の前の東にそれを言うのは、ちょっと気が引けた。受け取ったノートを裏返すと、バーコードのところに「森田文具店」のシールが貼ってある。スーパーの一角にできた100円ショップに押され、その文具店は今や店主の趣味程度に営業している。そこでこのジャポニカをワクワクしながら買う東の姿を想像したら、とても冷静に突っ込む気にはなれなかった。


「なるほどねー」

 私が断ったり、みんなにバラしたりしたらどうするつもりだったんだろうと思ったけれど、ハチ公みたいな目で私を見つめる東を見ると、到底そんなこと考えていなかったということが丸わかりだ。「水を得た魚のよう」とは、まさに今の東のようなことを言うんだろうな、と思いながら、私は彼の話を聞いていた。

 クラスの、いや学校のてっぺんにいる北野の横には、いつも彼の右腕である東がいる。東は、唯一ユーモアセンスだけに欠ける北野のフォローに回っていた。北野は何もしていなくても目立つので、彼の周囲には良くも悪くも人が集まってくる。東もきっとそいつらのように、横でおちゃらけておこぼれに与かろうとしているんだと、にぎやかな教室で私は観察していた。でも、それもこれも、東が北野を好きだったからなんだとわかった今は妙に納得がいく。

 完全にリア充北野の金魚の糞だと思っていたけれど、あんたも金魚のほうだったんだ。


 そうして「夏休み限定」ということで、私と東の秘密の交換日記は始まった。互いにこれまで胸に秘めていた「いろいろ」をぶつけ合うそのジャポニカは、かんじれんしゅうの線を無視した、筆圧も中身も、濃いようなどうでもいいような内容で1ページずつ埋まっていった。




”西へ”


”今日塾の帰り、北野、テニス部の女子に告られてた! オレ相談されたんだけど、その子前の彼氏と別れたばっかで。本当に北野のこと好きなのか、ちょっと心配になってさ。北野が幸せなら全然いいんだけど。あいつが傷つくの見たくないし。こんなこと言うの恥ずかしいけど! 西だから言える! せめてオレといるときは、北野に幸せでいてほしい! あー抱きたい!笑”


 今まで誰にも言えなかった秘密を共有できる相手を見つけた東は、いつも大きな力強いくねくね文字で北野への愛を綴ってきた。私のことを信用しているというよりも、クラスで発言力も影響力もない「ニシュラン」だから言えるんでしょうよ、と思うと少しイラつく。

 早くここを出たい私とは対称的に、一日一日を惜しむような東のページは高校生の青春そのものだった。夏休みでも所構わず発生する様々なイベントは、まるで別次元のことのよう。私はジャポニカを通してそれを知るだけだったけれど、なんだかリア充の仲間入りをしたみたいでおかしくもあった。


”東へ”


”北野、相変わらずモテるね。でもわかる。私も北野が傷つくの見てられない。1学期、ソフトしてた時、顔面にボール飛んできて北野かばってくれたんだよ。何か始まっちゃうかと思って期待したけど笑。そんな優しい北野を傷つける女は絶対ダメだよ! あー抱かれたい!笑”




「大人になったとき、このノート見たら笑えるよね」

 東が北野と予定のない日、ジャポニカを交換するついでに、私たちはちょこちょこあの空き家で熱いトークを繰り広げていた。時間が止まったようなその空間での対談は非日常的で、不本意ながらも少しわくわくするひとときだった。

 今日も作り物みたいな大きな入道雲が真っ青な空で夏をアピールしている。とっくにつぶれた電気屋のうちわで、私と自分を交互に仰ぐ手を止め、東は「ひっ!」と大げさにのけぞった。

「オレ無理! 恥ずかしくて見れない!」

「じゃあ私が音読してあげるよ」

「ほんとやめて! じゃあオレ、もう一生とも西に会わない!」

 東はそう言ってケラケラと笑った。

「いいよ、だって私たち別に友達じゃないもん」

 わかってるし、そんなの。

 確認するように自分で言ったくせに、なんだか少しダメージを受けてしまう。どんなに頻繁に会っていても、絶対に言えない秘密を共有していても、やっぱり私は東や北野とは違う。どんなに頑張ってもそこには登れないんだ。

 うつむくと隣に座った東の赤いスニーカーが見えた。下手くそな蝶々結びは今にもするっとほどけそう————そんなことを思っていると、電気屋のうちわと生ぬるい風が、ふわっと目の前に飛び込んで来た。


「なんてうっそー! オレ、卒業しても西といたい!」

「なにそれ。超テキトー。」

 嘘なんだか、本当なんだかわからない、いつもの軽いノリで東が笑う。きっとこれまでもこんな感じで世の中うまく渡ってきたんだろう。コミュ障の私には死んでもできない芸当だった。

 私はどうしても話題を変えたくて、必死に頭の中を探り続きそうな会話のネタを探す。


「でもあんなに完璧なのに、なんで北野って彼女いないんだろうね」

 やっと引っ張り出したネタは、北野の最大にして唯一の謎だった。

「西がなったらいいじゃん!」

「は?」

「そしたら三人で遊べるし!」

 三人で遊ぶってまさかアダルトな意味じゃないよね、と思ったけれど口にするのはやめておいた。


 大きな雲のほんのはしっこが私たちに覆いかぶさって、それまでの暑さが少し和らいでいく。きっと女子同士ならここで「東が付き合ったらいいじゃーん!」なんて続ければ、キャッキャと大いに盛り上がるんだろう。でもまさか、そんなこと言えるはずなかった。

 「オネエ」だとか「ゲイ」だとかが認知されているのも、私たちにとってはテレビや遠い世界のことだった。田舎でそれがバレると待っているのは間違いなく地獄だ。そんなリスクを冒してまで書くこのノートって、一体どれだけ意義があるのかな————


 答えに困っている私のほうをじっと見つめる東の視線に気づき、はっと我に返る。東はうちわを扇ぐ手を止めると、さらに私をのぞき込んで、

「俺、西ともっと早く友達になっとけばよかったなー」

と笑った。


 一瞬の雲の切れ間で、体の温度もじんわり上がっていく。東はまた自然に、電気屋のうちわをパタパタと交互に振り始めた。私はいろんなものを必死に堰き止めて、はいはい、とそっけない返事をした。

「わー冷たい!」

 東がまた無邪気に笑う。

 私は人生で初めて、過ぎて行く夏を惜しい思った。



 夏休み中も関係なく、いつも北野の隣にいる東と違って、私のページは過去にさかのぼって数少ない彼との交流を書くか妄想全開のイタイものだった。けれど、そんなことにも東はいちいち共感したり、うらやましがったりする。それくらい、東にとって北野は本当にかけがえのない存在なんだろう。


”西へ”


”それ覚えてる! オレなんてあの時、うわーって自分が目つぶちゃって。危なかったよね! あんな場面で咄嗟に動ける北野ってすごすぎ。オレにもソフトボール飛んでこないかなー笑”


 ほぼ一日置き、あっという間に私の手元に戻ってくるジャポニカを見ながら、複雑な気持ちになる。


”東へ————”


 見開きになった左ページを埋めようとするのに、シャーペンが動かない。

 もし、私が残り2学期で追い詰められるようなことがあれば、これを写メしてグループトークに投下する————そんな保険の意味でも、このジャポニカは私にとって重要なアイテムのはずだった。それなのに、右のページに並ぶ東の文字を見ていると、そんな自分がクソみたいに思えてくる。


”東へ————”

 一心不乱にシャーペンを走らせ、私はまたろくでもない妄想を書いてノートを閉じた。




”西へ”


”昨日北野と市民プール行ってきた! 西も一緒に行けばよかったのに!”


 そう言えばこの前、東に誘われたんだっけ。あんなリア充の聖地に行けるはずもなく、私は完全にスルーしていた。


”超暑かったけど超楽しかった! 北野、子どもに泳ぎ方教えたりして超優しいんだ!  この夏もいい具合に焼けてて、バタフライで超泳いでてかっこよかったよー”


 ちょうばっかじゃん。思わずくすりと笑いがこぼれる。


”西にもあの姿を見せたかったー! 写真もいっぱい撮ったからまた現像して入れとく!”


 夏を満喫する二人の姿がすんなりと目に浮かぶ。高校生の夏はかくあるべき、という私の幼い頃の夢を彼らは実現しているんだ。

 このノートを現役で使っていた頃、私も高校生になったら二人のような夏がくるのだと疑ってもいなかった。部活に勤しんで、友達とプールに行って、彼氏と花火大会でキスして————そんな少女まんがな夏は来ないと気づいたのはいつだっけ。


 クーラーの効いた居間の座椅子にもたれ、またあっという間に私の元に帰ってきたノートを見ていると、胸の奥から勢いよく何かが込み上げてきそうになった。あぶないあぶない、とその何かを必死に押し戻す。

 「ねーちゃん、ヒマなんだねー」弟がプール支度をして、そう言いながら廊下を通り過ぎていった。

「うるせー受験勉強してんの」



”東へ”


”私は相変わらず退屈に過ごしてるよ。あんた達がうらやましい! 私もあと10キロ痩せてたら、北野とプール行きたかったな。”


 私のここでの夏は終わる。でも、


”大学に行ったら絶対変わるの。超勉強してダイエットして、男遊びもいっぱいして”


 そう、それで、


”同窓会で北野を驚かせるの。で、北野に言い寄られて二次会抜け出して、そのまま二人で熱い夜を————”




 東の家は、私のうちから自転車で20分くらいの坂の上にあった。周りに住宅は少なく、他に同級生の家も彼らが寄るような店もない。連続猛暑日って朝テレビで言ってたっけ。勢い良くTゾーンを流れる汗が目に染みてぴりぴり痛い。途中、急に傾斜が酷くなる上り坂で自転車を降りアスファルトに立つと、サンダルの底がじんわりと暑くなっていくのがわかった。顔を上げて坂のてっぺん、右端にある東の家を確認する。

「はぁ」

 自分でも何やってんだと思う。ただ「保険」と言い聞かせつつ、苦労してこの坂を登るほどには、私もこの秘密を楽しんでいた。


 まさか高校最後の、いや。このクソ田舎最後の夏、こんな思い出ができるなんて夢にも思わなかったなあ。

 そんなことをぼんやり考えながら、ハンドルに力を込め、前のめりになった時だった。


「西!」

 ヒグラシの鳴き声に混じって、背中のほうからハツラツとした声が聞こえた。振り向くと、そこには逆光に照らされた二人の姿が見える。

「東?」

 ————と、北野だ。

「西ぃ!」

 なんのためらいもなく、まるで平坦な道を進むように、東が手を振りながら上り坂を駆けてくる。軽い足取りのまま、自転車にもたれ掛かった私のそばまで来ると、昔からの友達みたいに「今日も暑いね」と少しだけ息を切らしながら言った。

 ソーダか何かのあまったるいにおいがした。そのにおいに包まれた時、トクン、と自分の胸が鳴った気がした。


 あれ、私たち北野の前でこんなオープンに話してていいんだっけ。ああ、だから少しどきっとしたのか————何かに言い聞かせるように、私は頭の中でそれを繰り返す。


 東は口パクで「キ、タ、ノ、イ、ル、ヨ」と、ちょっといたずらっぽく目を輝かせながら続けた。見りゃわかるよ、と言おうとしたけれど、なぜだか額からますます汗がわき出てくるので、きゅっと口をつぐむ。きっと私が喜ぶと思ったのだろう。東は「ガンバッテハナシテ!」と北野に見えない位置で、彼を指差しながら何やらパクパクやってくる。「イイノイイノ!」と私も口を思いっきり横に広げながらパクパクを返した。脈が、トク、トク、早まっていくのが聞こえたけれど、一生懸命無視した。


 東は私の自転車のかごにある茶封筒を発見すると、

「ノート持ってきてくれたの! ありがとう!」

と目を細め、またくしゃっと笑った。


 なんの疑いも、なんの企みもない純粋な笑顔だった。


今度は胸の奥がぎゅっと、にぶくくすぐったくなっていくのがわかった。私はなんとなく、やばいな、と焦りを感じて、心の中の何かを正そうとした。


 後ろには、いつものアンニュイな表情を浮かべゆっくり歩いてくる北野がいる。西日を背にして歩く姿は、この前昼にテレビでやっていた映画のワンシーンそのものだ。なんであんなに彼はいつも絵になるんだろう。北野を取り巻く何もかもが、フィクションみたいに完璧だ。

 

 ————でもちがう。北野じゃない。


 「さっき現像したから、ここに入れとくよー」小声でそう言って前かごの茶封筒を取り出し、代わりに写真屋の封筒が透けたコンビニ袋がポンと置かれる。ありがとう、と言おうと顔を上げると、東はにっと笑ってピースサインをした。日に焼けた顔に、歯並びのいい真っ白な歯。頭の陰毛はいつも無造作に、隠れもせず揺れている。


 ああ、私、東が好きだ。


 自分でも驚いたけれど、それを認めた瞬間、心がふっと軽くなった。

 誰にでも素直で、ちっともひねくれていない。好きな人のことに必死で、だからって無理強いしたりしない。私は東のページを見るたび、汚い字を鼻で笑いつつ、本当は尊敬していたんだ————


 今さらそんな気持ちに目覚めたって、何かできるわけでもないし、結果は目に見えている。そもそも、東はそっちの人だし、私も次の春にはここにはいない。あーあ、私って。

 頭の中を考えられる限りの否定で一生懸命塗りつぶしていった。そうでもしないと、目の前の東に思い切り抱きついてしまいそうだった。


 マイペースに坂を登ってきた北野が「なんのノート?」と聞いてきた瞬間、一瞬頭をよぎろうとした東とのアバンチュールも光速で消え失せていった。案の定焦る東に「1学期のまとめだよね?」と目配せをする。八の字眉毛にほっとした笑みを浮かべ「う、うん!」と、東はどもりながら返事をした。




”東へ”


”昨日は久しぶりに雨だったね。私は図書館に出かけて勉強してたよ。東は受験勉強進んでんの? てか、どこの大学————”


 ————いや。これじゃ普通の交換日記だ。

時折窓から来る涼しい風が、私を現実に引き戻す。すぐそばに置いた消しゴムを手に取り、勢い良く文字を消しにかかった。ノートにうっすら残る跡がせつない。私たちの関係は、あくまで「北野」という存在を通して成り立っているんだ。


”昨日、北野の夢を見たよ!”


 それは「北野(仮名)」であり、頭に浮かんでいるのは紛れもなく陰毛の髪と子犬みたいな目のあいつだった。


”東————”(————じゃなくて!)


 消しカスが絡まった消しゴムをまた手に取る。テレビの横の窓を遠く見つめながら、私は今朝方の夢を思い出そうとした。それは100パーセントあり得ない、でも本当に一日中幸せに浸っていられる最高の夢だった。


”北野と私がなぜかアイルランド?の海が見える高原にいるの。”


 それはいつか何かで見た憧れの景色。


”そこに、おしゃれなピクニックシートひいて、ワイングラス持って乾杯してるの。”


 そして東が


”ずっとここで暮らしたいねーって”


あのくしゃっとした笑顔で


”笑って、寝っ転がって、二人でぼけーっと空を見てんの。別に何かするわけでもないんだけどね。私はその時間を本当に幸せだと思っていて、たぶん一生ここでのんびり”


東と


”一緒に年をとっていくんだなーって”


そんな幸せな夢。


我ながらイタイな、と思う。けれど、何度思い出してもその空間はすごく幸せで、目覚めてから何回もまぶたを閉じて夢に戻ろうとチャレンジした。

 これまでに楽しいことがひとつもなかったわけじゃない。でも、私はどうにかこの「今」をいつも抜け出したくて、早くこんな学校や町を出て行ってしまいたかった。ここを出れば変わる、変われる自信があった。それだけを生きがいに、友達がいなくてもニシュランといじられてもひっそりと頑張ってきたんだ。いつか、あんたたちを見返してやるって。でもその前に。


 東に


”会えてよかったなーって。”


視界の下がキラキラ光り始める。シャーペンを持つ手が次第に滲んで、なんだかわからないぼんやりとした姿に変わった。

 もう少し早くこの関係が始まっていたら、私がひねくれていなかったら、何か変わっていたのかな。ちょっとでも人並みに青春を過ごせたりしたのかな。

窓の外にある庭の木から、眩しい蝉がジグザグ飛んでいくのが見えた。




 いつもなら消えてしまいたい9月1日。私の足取りは軽かった。ジャポニカはあの後一往復半して、今は東の元にある。新学期が始まればこれまでのような時間はなくなるし、また卒業まで同じような毎日がだらだら続く。それでも、たったひと月ちょっとの秘密は、大袈裟ではなく私のこれからの生きがいになったと思う。


 下駄箱に靴を入れ、頑張って白くなったよれよれの上履きを手提げから取り出した。教室に続く廊下を足早に進み、ドアを開ける前に一呼吸置いて自分に言い聞かせる。

(あと二学期の辛抱)


 楽しそうなクラスメイトたちの声と黒板のにおいが、開くドアに比例してきつくなって、一瞬怯みそうになる。「わ! ニシュラン痩せた?」リア充JKのクラスメイトが、軽いノリで言った。はは、といつものように適当に返事をし窓際の席に向かう途中、後ろの棚の上に腰掛けた東とその横に突っ立っている北野が視界に入ってきた。

 どきっとしたのを隠して目を逸らそうとすると「西!おはよー!」と、あの明るい声が聞こえてきた。顔の温度が一瞬で上がったのがわかって、冷静に、冷静にと暗示をかけながらあいさつを返す。相変わらずの人懐っこい笑顔で、東は肩をすぼめながら私に手招きした。横にいる北野も相変わらずな表情でそれを見ている。


「ノート見た?」

「え」

「1冊目終わりそうだったから、2冊目入れちゃった!」

「そうなの!?」

 照れながら笑う東の顔を見て、思わず私も笑みがこぼれた。まだこの関係を続けられるんだ————期待でふわっと胸が膨らんでいく。

 私、やっぱり東が好きだ。東が私を生かしてくれてる。ばかばかしいけれど、本当にそう思った。


 ————いや。でも。


「ノート、東のとこだよね?」

 そう。私この前、きっとこれが最後だなと思いながら東の家のポストに持って行ったんだ。

「え。俺、一昨日の昼、西んちのポストに入れといたよ?」

 目の前にいる東の目が徐々に丸くなっていく。

 その時だった。


「みなさーん!」

 がやがやした教室の中で、一際よく通る声が響いた。ホームルームかな、と思い皆の視線がそちらに集まる。けれど、黒板の前に立っていたのは先生ではなく、東たちとはまた別のリア充グループに所属する男子だった。私は彼を見た瞬間、なぜだかぞぞっと心臓が縮こまっていくのを感じた。


「弟がすごいの見つけたんですけど!」

 そう言ってニヤつく彼は、三代目かというほど気合の入った新学期ヘアをしている。彼女と交換した違う色のネクタイを誇らしげにつけ、ビミョーな着崩し方をした制服が逆にダサくて痛々しい。

 けれど、変に捲り上げられたシャツの袖から伸びた手に持たれたものを見て、私のそんな思考は止まった————

 ドッドッドッとさっき縮こまった心臓が、早く大きく全身にこだましていく。


 彼が手にしていたのは、「高校生なんて誰も使ってない」「ジャポニカかんじれんしゅうちょう」だった。


 手にしたジャポニカをこれ見よがしにパラパラとめくり、悪意に満ち満ちた目で彼はこちらを向いた。でもその視線は私からわずかにずれていた。はっとして後ろを振り返ると、そこには真っ青になって引きつった東がいた。ごちゃごちゃになった私の頭の中で、さっきの東の話とジャポニカを手にしたエセ三代目の言葉がぐるぐるとすごい勢いで回っていく。おととい、ジャポニカ、弟————


「あ」


 うちの弟、あいつの弟と同級生————

そう気付いてから、2時間サスペンスのように、すべてがフラッシュバックしていった。おととい、母さんが郵便を持ってパートから帰ってきたこと、弟に小言言いながら「しまっとくよ」と何かをランドセルに入れていたこと、私はテレビ見ながら「アホだねー」と悪態ついていたこと————

 そこから、あのジャポニカがどんな旅をしたのかはわからない。けれど、あのエセ三代目が持っているものは間違いなく私たちのジャポニカだと確信した。


「どうした東?」

 何も事情を知らない北野が真っ青になった東をのぞき込んだ。まさか、あのジャポニカに、自分があられもない姿であられもないことをされているとは思いもしないだろう。しかも今心配しているその本人に。


「これ見たい人ー!」

 世の中には、こんなに底意地の悪い奴がいるんだ。そう思うと、ふつふつと殺意がわいてきた。もうこのエセ三代目を殺してジャポニカを回収するしか道はない————本気でそう考えて、今自分が持っているありもしない武器を思い出そうとした。

 ショットガンがあれば、その自慢の髪ごと一発でふっとばしてやるのに。手榴弾でもいい。あいつや周りのどーでもいいやつらに向けて思いっきり投げてやるのに。

 頭の中で、奴がいろいろな死に方をしていく。けれど、それはどれも現実味がなくて、下手なB級映画のようだった。


 なんでこんなところで、なんでこんなエセ三代目に、なんで私たちの人生踏みにじられなければいけないんだろう。たった40日そこらの、ひと夏の、ここでの一番綺麗な思い出だったのに。なんてひどい世界なんだろう。


 砂糖を見つけたアリのようにみんながクソ野郎に群がっていく様子を、私は硬直したまま見ていた。ざわざわした音が耳の奥で遠くのことのように聞こえてくる。

 後ろの東に目をやると、もう完全に生気を失いゾンビのような顔色になっていた。あの東が、いつも生気の塊でしかない東が、北野のことを楽しそうに嬉しそうに話す東が、だ。

 なんでなんでなんで————

 何もかもが滅茶苦茶だった。気が狂ったように暴れまわりたかった。こんなちっぽけなところで私の人生が終わるはずなかった。でも————


「それ全部私が書いたんだよ!」



 もやもやした気持ちと一緒に全て吐き出すように、気づけばきっとこれまでで一番大きな声で私は叫んでいた。たくさんの視線が今度は私に突き刺さる。皮肉だけれど、今私は初めて教室の中心にいると感じることができた。愛は叫べなかったけどね、と心の中でつっこんで怒りを必死に抑えようとする。


 長い長いこの田舎での、あとたった2学期の辛抱だった。それを乗り越えれば、私は何事もなく外の世界に行けたんだ。そして何年か後、あのジャポニカに綴ったように華麗な変身を遂げて、颯爽と、このイタイ同級生たちの前に戻ってくるはずだった。


 ————でも、いやだ。


 自分でも驚いたけれど、そんな未来のことよりも、私は今、この瞬間に東に笑っていてほしいと思った。


”東へ”


”東は陰毛をなびかせた明るいバカでいて。そんな真っ青にならないで。悩むこともあるだろうけど、優しくて素直なあんたにはきっとそれ以上に明るい人生が待ってるの。だから、こんなクソ野郎の陰謀で底辺まで落ちちゃダメだよ。だから東————”


 心の中で必死に綴る。私の使命はここで東を地獄にやらないことだと、本当にそう思った。彼女のネクタイしたダサいあんただってそうでしょ? きっとバカやりつつも、彼女が危なくなったらかばって撃たれたりするんでしょ? どうせ序盤で死ぬキャラだろうけど。


 ざわつきが一瞬消え、しんとした教室の外で蝉が大きく鳴き始めた。


「西」

 いつもとトーンの違う落ち着いた声が背中のほうから聞こえてきた。振り向くと、東が悟りでも開いたかのようにおだやかに笑っている。ああ、こんな笑い方もするんだ、そんなことを私は今さら発見してしまった。ずっと北野のオーラに隠れていてわからなかったけど、

「東」

 あんた、意外とイケメンだったんだね。

「ありがと、西」


 そう言うと、いつものくしゃっとした笑顔に一瞬で戻った東は、横にいた北野の肩をぐっとつかんだ。そして、まるで皆既日食かとでもいうように、ゆっくりと、東の顔は日焼けした北野の顔を覆っていき————


 キーンコーンカーンコーン


 一瞬の間を置いて、始業のチャイムと共に教室じゅうが床や壁に伝わるほどどよめいた。

「北野ごめん! 俺、お前のことこーいうふうに好きなんだ!」

 顔を真っ赤っかにした東は上ずった声でそう宣言すると、「ねっ?」と私の方を振り向いた。

「ぷっ」

 私は思わず、ため息か笑いかわからない風を漏らす。

 今度は東の横で、北野が日焼けした顔を、たぶん真っ青にして固まっていた。エセ野郎もジャポニカを持つ手を下ろし固まっていた。あちらこちらから、いろいろな声がミンミン一斉に聞こえだして、外の蝉の声はあっというまに遠くなっていった。


あと2学期、私だけ耐えればなんとかなったのに。

「東、あんたすごいね」

「どーも!」

 東はいつもの調子で明るく笑った。私もつられて笑った。外の残暑がそのまま流れ込んだ教室は、今日もじめっと気持ちの悪い暑さで、でもそんなこと忘れてしまうほど、私の心は爽やかだった。なんて気持ちの良い日だろう。私はこの掃き溜めで初めてそう思えたんだ。



 これから私たちはどうなるのかな。目も当てられないような酷いいじめにあう? いや、まずはLINEのグループから外されるか。クラスのみんなだけじゃなく、北野にまでガン無視されたりして。


 でも


”東へ”


”私あんたがいれば生きていけると思うの。重いけどね笑。でも白状すると、私もあんたと仲良くなれて本当によかった。”


”だから、もし二人して学校キツくなって不登校になったりしたら、一緒に辞めてバイトでも始めよ。それでお金貯めてパスポート取って、アイルランドでもどこでもいいから旅立つの。あんた実はイケメンだし、絶対海外でもモテるよー。そこで北野よりいい男二人して見つけて凱旋帰国しよう!”


”きっと今リア充気取ってるあいつらは、あっという間に結婚して離婚して老け込んでるはずだから。そこに海外でさらに垢抜けて磨かれた私たちが、颯爽と各々イケメンを伴って登場して————”

 以下略。






 少しずり落ちてくる制服のスカートをウエストで二度折り曲げて、私は自転車のハンドルを握った。リーロリーロと、規則正しい虫の声が薄暗くなった草むらから響く。上り坂に沿って頭を垂れたすすきが風に揺れて、そうっと私の足元をなでた。


「はぁ。あと一息か。」

 見上げた空は高く、鰯雲が夕焼けに重なってどこまでも広がっていた。その下に広がる山々は、濃い色で緩やかに空との境界線を描いている。

「きれい」

 もう一つため息をつき、全体重をハンドルに乗せて前のめりになった。


「西!」


 坂の下から聞きなれた明るい声がした。私はそれを聞いた瞬間、この空に舞いあがれるくらい心が軽くなって、思い切り緩んだ笑顔でそちらを振り返った。

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