すべて、知ること、できたなら

春野

1―始まりの日

 瞼の裏に焼きついている。

耳にこびれついている。

車のブレーキ音、漏れ出たガソリンの臭い、聞こえる悲鳴、光を失くした眼。

…俺は、茫然とへたり込み、傍にいた人はどこにもいなかった。

覚えていることは、大人たちの容赦の無い叱責、怒号、罵声。

そのとき思ったのは、なぜ自分は生きてるのだろうか、ということだけ。

「人って変われないのよ、ずっと」

誰かにかけられたその言葉は、いつまでも響いたまま頭の中を反復していた。

 もう、諦めていた。

後ろを振り返らずに、前を向いて生きていく人生を。自分にはもう何も残っていない。前を見る力も、懸命に今を生きようとする意志も。

ひたすらに過去を恥じて、過去を見つめながら、惰性で生きていく。自ら死を選ぶ勇気なんてのも無いし、きっと俺には、そんな人生がお似合いなのだ。

なにを考えても良い方向には考えられない。

実際、この身にふりかかる出来事は全て最悪なことだらけだ。

だけどまあ、ツイテないのはもうどうだっていい。死ななきゃいいだけだ。

…あんなことが無ければ、俺の人生も少し楽しいものになっていただろうか。


 季節は春。

高校生活2年目の春だ。外には美しい桜が連なって咲き誇っており、風が吹くたびに花弁が舞い散る。

散った花弁は、風にさらわれ、落ちた仲間と共にどこかへ行こうとしている。俺は、桜の木よりも落ちた花弁を眺めていた。風は教室内にも吹きこみ、柔らかなピンク色のカーテンはまるで桜のように揺れ動いている。

俺はいつもこうして過ごす。理由なんてものは無い。ただ窓の外を眺めては、季節の移り変わりを見つつ、それでもなお変わらない、いや、変われない自分を呪う。今日もその例に漏れず、外に目を向けていた。


「――なぁ、アカシックレコードって知ってるか?」

横から唐突に聞かれたその問いに、俺は窓の外に目線を残したまま、困惑した表情を浮かべた。

聞いたことはあるし、なんとなく知ってはいるが、本当にあると考えたことは無い。

いや、だってそうだろう。そんなものが実際にあると明らかになれば世紀の大発見どころではないからだ。

「いや、名前は知ってるけど、なんでまた?」

「ははっ、まあ、あったらいいなーと思ってよ。だって、全部わかるんだぜ?俺が誰と結婚できるかもな!」

結婚できる前提かよ、とは口には出さずに飲み込む。第一、そんな都合の良いものが実在するわけないだろう。

それに、過去も未来も現在でさえわかるなら、そんなにつまらないことも他にはあるまい。

「三浦、お前がその、アカシックレコードとやらを見ることが出来たとしてだ。お前の結婚相手が好みじゃなかったらどうする。未来を変えようとするか?」

俺は三浦と呼ばれる友人に問いかける。

しかし、当の三浦は狼狽しながらうめき声に似た音を発するのみだった。

あるかもわからないものに現を抜かして未来に期待することも、現在を懸命に生きてなにかを残そうとすることも、俺にはできない。過去に縛られ、過去に寄り添われ、過去と共に生きていく。それしか、俺にはできそうにないからな。


―放課後、外は朱の中に佇んでいる。

校門をくぐり、しばらく歩くと下り坂が現れる。そこを下れば、駅を中心に栄えた大きな繁華街の中央通りだ。

ここでは連日、買い物帰りの主婦や近くにある女子高の生徒、会社帰りのサラリーマンなどとすれ違う。

皆、違う顔をしている。ある人は疲れていて、ある人は早く帰りたそうに目を輝かせており、またある人はなにか考え事をしている。しかし、彼らは一様に、今のことや明日のことを考えている。それが俺には眩しくてたまらなかった。

気が付くと、次第に風景は住宅街になる。ここまで来れば自宅まではあと少しの距離だ。

電柱に掲げられていると書かれた看板が目に入る。

その看板を通るとすぐにT字路が現れ、右に曲がってしばらく歩くと自宅が見える。

「ただいま…って、今日は誰もいないのか。」

俺は母の弟、つまり叔父さんの家に居候させてもらっているが、叔父さんも叔母さんも仕事が忙しく家を空けがちだ。叔父さんたちの子ども、俺にとっての義姉もいるが、今日は帰ってこないだろう。

俺はアカシックレコードのことなど忘れて眠りにつく。また明日がやってきたら、生きていかなければならない。過去と抱き合いながら。


翌日。

いつも通り登校し窓の外を眺めていると、時間はいつしか流れ昼休みになっていた。弁当は毎度のことではあるが持参していない。俺は「購買」とだけ呟くと重い腰を上げ教室を出る。

購買へ向かう道中、廊下に不自然な人だかりができている。あれは掲示板の前…校内新聞でも更新されたか。人だかりの後ろをそそくさと通ろうとすると、聞き慣れた声に呼び止められる。

「ねえ、宗弥、ちょっとこれ見てよ。」

その声は同じクラスの西条沙織さいじょうさおりのものだった。

俺は翻り眼鏡をかけたショートカットの女性、西条を一瞥する。彼女とは一年のころからクラスが一緒でクラス委員を2年連続で務めている才女だ。俺のことをなぜか名前で呼ぶが、特別親しいわけではないのが不思議でならない。

黙ったまま掲示板に近づくとなんのことはない、いつもの校内新聞が掲示してあった。

-これで32連敗!氷の女王、またも男子生徒を一蹴!-


――そんな見出しが踊っている。いや、先週と一緒じゃないか。先週時点では氷の女王とやらは25人の男子の心を砕いていたと記憶しているが。

「こんなもん見てなんて言えばいいんだ。」

「そこじゃないわよ、ここよここ。」

間髪入れずに反論してきた西条は新聞の端にあるコラムコーナーを指差す。誰も読まないようなコーナーだ。そこには横文字が並んでいた。

‐アカシックレコード‐

そう書かれていたコラムコーナーは特に目新しい情報も書いておらず、百科事典に載っている内容を転載しただけのなんのことはない情報しか載っていないようだった。

「あぁ、アカシックレコードの事ならさっき話したよ。三浦と。」

西条は俺の顔を見て、「あんたも?」と言うと、掲示板に視線を戻す。

「まあね。ところでさ、西条、なんで俺のこと名前で呼ぶの?」

前々から抱いていた疑問をぶつける。1年のころから名前で呼ばれているが、他に男子を名前で呼んでるのは、自分の知る限りほかにいない。

「それは…それは、なんでだろ…。全然わかんない。でもなんとなくそう呼んでたような気がして。」

まあ、いいけどさ。

すると、西条は俺の腕を掴み歩き始めた。

「おい、どこ行くんだよ。俺まだ昼食食べてないぞ。」

俺の不安と不満がない交ぜになった声に西条は一言、

「学食」

とだけ口を動かした。


学食は嫌いだ。どうしてか、と聞かれると、人が多いからと答えるだろう。

この学園内で一番騒がしいところはなにを隠そう俺が今居る学食なのだ。こう騒がしいと誰かと話す気分にはなれないし、なにかを食べる気分にもなれない。ゆえにいつもは購買で済ますのだが、連れ込まれてしまった。なぜ、こんなところに。

「で、俺はなんで連れてこられた。西条と飯なんて食ったこと無かったよなたしか。」

そうだ。たしかしなくても西条とは一年のころからずっと同じクラスではあったが、彼女はクラス委員長を歴任していたし、俺を名前で(勝手に)呼ぶくらいの仲であっても2人で行動したことは無い。つまり、飯も一緒に食べたことは無い。

「いや…アカシックレコードについて聞きたくて。」

そう西条は答えた。

「いや、俺は詳しいわけじゃないぞ。たまたま会話に出てきただけでー」

「そう、でも、話せることはあるはずよ。」

西条は声を落ち着いた様子でありながら重いトーンで俺の言葉を遮る。

「落ち着けよ西条。俺に話せることは特にないが、とりあえず何か食べよう。腹減っててさ。」

西条を半ば強制的にたしなめると、一緒に席を立ちカウンターに向かう。

今日も混み合っているようだが、話も聞かなくてはいけないしここで済ますしか無い。

「おばちゃん、これください。BとD定食。」

カウンターで食券を2人分渡し、定食が出てくるのを待つ。

「なんでアカシックレコードのことを?」

「聞いたのよ…本当にあるって話を。」

初耳だ。アカシックレコードという単語ですら久しぶりに聞いたのに。違う世界線にでも来たのか俺は。

というか今日はなんかあるのか。出かけテレビは見てこなかったが、星座占いは最下位に違いない。血液型占いも同様だろう。

ようやく来た定食を運んで席に戻ると西条は話を続けた。

「聞いた話なんだけどね、実在するってこと。なんでも、管理する人がいるって話よ。」

「ちょっと待ってくれ。なんでその話を俺に?俺は信じていないんだぞ。そんな都合の良いもの。」

「それは、特に、理由は無いけど…」

歯切れが悪い。

そんなにアカシックレコードになにかあるのか。

「まあいい、アカシックレコードが本当にあったとしてどうする。俺たちは見れる術もないだろ?あったら皆が見たがるだろうし、悪用するやつもいるかもな。」

「あったら、自分のすべてがわかるから…過去のことも。」

三浦はもっと具体的だったが、西条はなんだかアバウトに用例を述べる。

「そんなこといったって、つまらなくなるだけだろ。過去や未来がわかってどうする?それが辛いものだったら、一生それを背負わないといけないんだぞ?特に、過去なんて、捨てなきゃどうしようもなくなる。…まあ、過去は捨てたくても捨てられないけど」

「そうだけど、知らないことは知りたいと思うのが普通でしょう?」

要領を得ない話が早々に行き詰るのは、アメリカでもブラジルでもきっと未知の惑星でもそうだろうが、ここ叶入学園学食内でも同様のようだ。俺たちの周囲は、この騒がしい学食内で唯一沈黙に包まれていた。

正直に言って、俺は誘われた側だが、これは心苦しい。

「隣、空いてるかしら?」

沈黙が続くアカシックレコード議論会場に知らない声が突然聞こえた。

背後に立っていたのは、凛、とした雰囲気を周囲に漂わせた長い黒髪の女性だった。

「どうぞ」と軽く返答すると、箸を口に運ぶ。

アカシックレコードだのなんだの知ったことか。飯を前にしてなにも食べないなんて、本来ならあっていいことじゃない。

ベートーヴェンだって楽譜とインスピレーションを持っている状態で曲を書かないことはなかっただろうし、アルキメデスだって数字を目にすれば計算せずにはいられなかっただろう。

俺にしてみれば、飯は楽譜であり数字だ。目の前にしたら食べざるを得ないものなんだ。

単に食欲に勝てなかっただけの俺が、頭の中でぐるぐると上手くもない喩えを考えていると、横に座った女性が口を開いた。

「それで、ここは葬式会場なのかしら。」

「否定はできませんが、だとしたら喪主は誰でしょうね。」

黒髪の女性は口元を少しだけ緩めた。

「そのアカシックレコードの話、気になるわね。」

彼女はさも興味がないように言ったが、目は俺を見据えていた。

「気になるのは結構ですけど、俺はあなたを知りませんよ。」

「彼女は、氷の女王よ。名家の娘。」

氷の女王、ああ、校内新聞に毎週載る、夢見る男たちを氷漬けにする血も涙もない人間か。

「そういえば、そんな二つ名で呼ばれることもあったわね。」

ふむ、氷と形容される意味もわからなくはない。

良いように言えばさきほど抱いた印象のように凛としているが、その反面、近寄り難い空気も纏っている。

氷の女王とかいうひねりのない二つ名も合点がいく。

「私の名前は、氷沢美貴ひさわみきといいます。わりと有名人だと思っていたわ。どうやら自意識過剰だったようね。」

「申し訳ないが先輩のお名前までは。あなたの活躍は存じていましたがね、女王様。」

「宗弥、そこまで。その、氷沢先輩。なんの用でしょうか?」

西条がようやく口を開く。顔にいくらか不満の色が見えるが、話を進める。

「そうだな、氷沢先輩が興味がある理由はなんです?」

そう問いかけると、氷沢は少し悩むように空を仰ぐとそのまま答えた。

「過去が知りたいのよ。未来なんてどうだっていい。私が興味あるのは過去だけ。」

「どんな過去?聖徳太子の顔や長篠の鉄砲隊が本当に存在したか知りたいんですか?」

「あるいは、自分の?」

 今度はとくに悩む素振りも見せず氷沢は「そうね、皆瀬君が正解よ。少しだけ。」と言うと、急に立ち上がり「放課後に空き教室に来るように。特別校舎三階よ。」と俺たちに告げ、去って行った。

数分のみで終わったその邂逅に呆気に取られていると、予鈴が鳴る。

ああ、まずい。まだ食べ終わってない。


――――…


 氷沢と会ってから数時間が経ったころ、外の景色は変わりはじめていた。

西条に声をかけて空き教室へ向かう。指定された空き教室は、通常の授業外で使う化学室や家庭科室などがある特別校舎の三階端にある。

最近になってどこかの部室として利用されているようだが、詳しくは知らない。

人気のない階段を使い三階に到着する。空き教室を捜そうとしたが、その必要はないらしい。

奥の教室の前に、氷沢が立っていた。

「来ましたよ、氷沢先輩、西条も連れてきました。」

氷沢はこちらをちらりと見ると後ろ手に教室のドアを開けていざなう。

礼を言って中に入ると、複数の長机が長方形を形作っていた。隅にはパイプ椅子が畳まれ、たくさん置かれている。そして、奥には見知らぬ人間が座っていた。

俺を見ると驚いたような、かつ不思議そうな顔をしていたが、気にせず空いている席に腰掛ける。

「場所も時間も改めてどうしたんです。あの話はあれで終わりじゃ?」

腰掛けてから一呼吸も置かずに氷沢に聞くと、彼女の代わりと言わんばかりに見知らぬ女性が口を開いた。

「終わりもなにも始まってすらいないわ。」

三人の視線は、その見知らぬ女性へ注がれる。

ショートカットでありながら快活な印象は受けないどこか落ち着いた感じの女性は続けて話す。

「まだ、なんの説明もしていないんだもの。」

「じゃあ、その説明とやらをお願いしたいのですが。」

彼女はにっこり笑うと説明し始めた。

「まず、なんで呼んだかというと、アカシックレコード探しを手伝ってほしいの。」

またそのワードか、と思ったが、見知らぬ女性はお構いなしに話を続ける。

「アカシックレコードは地球だけではない、太陽系やそのほかのすべてのことに至るまで過去と現在、過去に起こったこと、今起こっていること、未来で起こることを収集し記録するいわば、。私はある人からそれが本当にあると言われた。だから私はそれを探すことを生き甲斐にしている。そして、氷沢さんは個人的な理由から手伝ってくれているわ。」

「なぜ、俺なんです。もっと協力的なやつがいるでしょう。」

俺は、一番初めに頭に浮かんだ疑問をぶつける。

すると、彼女は――「あなたが一番、この話に興味が無さそうだから。」と言った。

そうだな。おそらくはそうかも知れない。だが、興味がなさ過ぎてあってもなくてもいいんだ。

「あいにくですが――」

「お願いするわ。皆瀬君。あなたにお願いしたいの。新聞部の部長、土浦葵つちうらあおいとしてね。」

「だから、あいにくですが無理ですよ先輩。興味がないものを無闇に探すなんて俺にとっては拷問に等しい。」

「私からもお願いするわ、皆瀬さん、私たちと一緒に探しましょう。」

氷の女王も加担していたのを忘れていた。

「宗弥。やりましょう。きっと自分たちのためになるわ。」

…西条、お前もか。俺がカエサルの気持ちに共感している間に土浦は続いてまくしたてる。

「なによりこんな美少女たちに囲まれるのよ?役得だとは思わないかしら?」

まあたしかに俺の知るところによれば、西条はクラスの中で人気があるようだし、氷沢は新聞にもあったように告白ばかりされている。

この新聞部の部長のことは知らないが、顔だちは整っている。

得か否かと問われれば得なんだろうが、期待するまでもなく彼女たちに異性として好かれてはいないことは火を見るより明らかだ。それにこの先、そんな関係になることを俺が望もうと彼女らの眼中にはないだろう。

「それは関係ないですよ。ただ…そうだな、実在してるとはカケラも思えませんが、あなたたちがなぜ探したいのかの理由を教えてくれれば検討くらいはしないこともないです。」

そうだ。理由も知らずに協力はできない。実在することがわかっているならともかくあるかもわからないものを探すんだ。ワケは聞かせてもらおう。

「そうね、じゃあ、私から。私は、アカシックレコードを見つけたらスクープとしてすっぱ抜くわ。絶対にあるって信じてる。それにさっきも言ったけど昔、ある人に言われたの。大切な人にね。それに、一介の女子高生がこの世の常識を根底から覆す発見をしたら引く手数多だわ。間違いなく。」

どうやら土浦は、過去に出会った人物との出来事における証言と自分をジャーナリストかなにかとして名を上げたいという理由から探しているようだ。

「私は…過去が知りたい。自分の過去。」

西条は、理由がわからないが、自分の過去を知りたいと考えているようだな。

「私も過去を知りたいわ。食堂でも少し言ったけれど。でも、私が知りたいのは、過去のある出来事だけよ。それ以外はどうでもいい。」

氷沢も同様に過去が知りたいようだが、かなり限定的。皆、深くは教えてくれないが、理解はできた。

「…皆の理由は、わかりました。とりあえず、保留にします。今日一日は考えさせてください。明日また寄りますから。」

俺が腰を上げて、教室のドアを開けると、氷沢は「それと、私の事は美貴と呼んで。苗字は嫌いなの。冷たくて。」と俺に話した。

俺は「そうさせてもらいますよ美貴先輩。」とだけ返答すると教室を出た。


校舎を出ると、既に外は朱と黒の境界線に立っていた。

校門をくぐって坂を下る。繁華街を通って家までの帰り道を歩いていると、なにかがおかしいことに気づく。

校門をくぐってからというもの、人に遭遇しない。今まで、そんなことはいつだったか、台風でもないのに雨が強かった日くらいしか経験が無い。

いや、そんな日でさえ、1人には会った。あの日会ったのは確か――

待て、まだ、なにかおかしい。今、歩いている道は何の変哲も無い家が軒を連ねる住宅街が続いている。

しかし、なにかがおかしいのだ。道を歩き続けながら、そのおかしな点を探す。自宅まではもういくらも無いが、見つけることができない。

しばらく歩き続けると、ようやくそのおかしいと感じていたなにかを目の当りにする。この道の先はT字路になっていたはずだが、行き止まりになっていたのだ。

「入った道間違えたか?」

いや、しかし佐内歯科の看板はさっき通った。ここで間違いないはず。

じゃあ、どうして?

自分に起こったことが飲み込めずに当惑していると、行き止まりの塀にかかっている一枚の鏡に視線が向く。

どうやってかかっている?ここはゴミ捨て場でもない。不自然だ。

スクウェア型の鏡は、トイレにかかっているような平平凡凡たる鏡だ。

なにかわからない感情に駆られ、恐る恐るその鏡を覗き込むと、その刹那、鏡は目を開けていられないほどのまばゆい光を放ち、周囲は包まれた。


―――…


 どのくらいの時間が経ったか。心地いい、浮遊しているかのような感覚に包まれている。

目を開くと、あたりは見たことのない空間に変わっていた。

円を描いたような空間、360度全てが本棚で埋め尽くされている。そしてその本棚には隙間なく本が詰まっていた。

見上げれば、それらは上にどこまでも続いているかのようだ。入りあぶれた本はそこかしこに積み上げられ、乱雑な印象も受けるが、不思議と汚くは見えない。そこでようやく俺は自分の置かれている状況を理解し始める。

「どこだ、ここは…図書館…?こんなでかいとこ見たこと無いぞ。国立図書館の比じゃない。」

「あら?いらっしゃい。」

通路の奥から顔を出したその女性は、金色に染まった長髪をなびかせながらこちらに向かってくる。

「意外と驚いてらっしゃらないのね?」

「…いや、驚いて…驚いて、いますよ。頭のキャパシティを超えたから落ち着いてるように見えるだけで。」

「そう?ふふ。じゃあ、ついてきて管理人さん。」

管理人さん?なんだそれは、管理人は未亡人と相場が決まってるはずだが。

まあいい。ここにいても仕方がないし、俺は立ち上がって彼女の後をついていくことにした。

 しばらく歩くと、大きな広場に出る。広大な景色に俺は言葉を失った。

広場の中心には螺旋階段があり、その途中からは無数の通路が伸びている。通路の先にはおそらく、この広場のような空間があるのだろう。

「いまさらですが、ここはどこです。そもそもあなたは誰ですか?」

「もう少しで到着しますから、そこでお話を致します。」

終わってしまった。

ヒントが少なすぎる。街の地下にこんな空間があるとは思えないが、どこからか光も差し込んできている。

そこから導き出される答えは……これは夢ということだろう。間違いない。なんかあったかいし。螺旋階段をひたすら踏みつけ上り続けていると、少しだけ広い空間に出た。

テーブルと、椅子が置かれている空間には、サッカーボールほどの球体がひとつ悠然と浮いている。

「おかけください。」

彼女は椅子に座るよう促す。座って間もなく彼女はまた口を開いた。

「それで、管理人さん。今日はどうやってここにいらしたのですか?人は、久しぶりなもので実は私も驚いています。」

彼女は質問を投げかけてきたが、今はそれどころではない。

知らなきゃいけないものがたくさんある。逆に俺が質問を投げ返す。

「ここはどこなんです?俺は帰ろうとしていただけなのに道は変わってるし鏡を見たらここに飛ばされるし意味がわからないんですよそれとあなたは誰ですか?それと管理人とは?俺は一介の高校生ですなにも理解できないんですよ俺が置かれているこの状況に今まで泣き喚いて発狂しなかっただけ自分を褒めてあげたいくらいですそれに―」

呼吸ひとつ置かずにまくしたてると、彼女は俺をいさめる。

「ちょ、ちょっとお待ちください。順番にお答えしますから落ち着いて。」

そう言われ俺は腰をしっかり落ち着けてから、彼女の顔を見据えた。まさか帰れないなんてことはないだろうな。

「まず、ここは、“アーカイブ”と呼ばれる図書館です。あなたの世界で言う所のアカシックレコードのような場所と言えばイメージが湧きやすいかと思います。」

彼女は俺の質問に続けて答える。

「私はカナーリス。ここの職員をしています。そして、あなたはこの区画の管理人としてここに来たのかと思い、管理人と呼びました。」

「管理そのものの意味がわからないんですが。まあいいです。じゃあ、ここには、過去、未来ありとあらゆる情報があるということですか?アカシックレコードがここに?」

「全ての情報があるということは間違いないですが、正確にはアカシックレコードではありません、あなたの惑星の中で一番近い概念だというだけです。それと、残念ながら鏡を見たらここに飛ばされたというのは私は存じ上げません。ですので、こちらがあなたをお呼びしたのかは私にはわかりません。」

「…そうですか。」

俺は力無く返事をすると、椅子にもたれる。

どうしたものか。

四方を塞がれたわけではないが、少なくとも三方向は塞がっている。俺は結局、なぜここに連れてこられたかはわかっていないし、帰る術すら無い。ここは、より情報収集をしなくてはならないな。

「それで、カナーリスさん。申し遅れてすみません。は、皆瀬宗弥です。以後、よろしくお願いします。まだいくつかご質問をしてもよろしいでしょうか。」

「宗弥さんとおっしゃるのですね。ええ、どうぞお聞きください。」

「ありがとうございます。それでは、まず、僕が管理人であると仮定した場合、どのようなことをすればよろしいのでしょうか?それと、ここについてもう少し詳しくお聞かせください。」


「そうですね。さきほどは私のはやとちりでしたが、まず、管理人であるか否かは、館長の判断に委ねられます。して、その判断は間もなく到着するはずです。管理人は担当した惑星の出来事、そして起こることへのアクセス権が得られます。管理とは、なんのことはありません。アーカイブに所蔵されている記憶を欠けないようにするだけです。欠ける要因についてですが、それはまたお話しましょう。当然、これを口外することは許可できません。それから、このアーカイブについてですが、あなたの住んでいる惑星には存在しない場所です。じゃあどこだ、と言われても困りますが…ここは、2187エリアのアーカイブです。代々、この区画の職員数は慢性的な人手不足に陥っていましたので、お力添えを頂けるのであれば非常に助かります。また、ほかの区画には別の管理人、職員がいますが、基本的にお会いすることはないでしょう。」


「なるほど。あと、これが一番大切なことですが、僕はどうやったら地球に戻れるんでしょうか。」

「ああ、確かにそれは死活問題ですね。お帰りの際はあちらのドアからどうぞ。」

「そんな簡単に帰れたのか…わかりました。ここへはいつでもこれるんでしょうか?」

「普通は来れるはずですが…」

歯切れが悪いな。なにかあるのか?


「お待たせしたねえ!」

突如知らない声が聞こえる。

「君が新しく来た人だね?おや…君は?」

「どうかされましたか?館長」

「あ、ああ、すまない、よろしくね皆瀬クン。」

館長と呼ばれたその女性は、俺の顔をと見る。ポニーテールの小柄な女性は非常に好意的なようだ。

「あ、はい、よろしくお願いします。あなたは…」

「申し遅れてすまないね、私はエリス。ここの館長だよ。」

館長であるならもう少し情報が手に入るかもしれない。

「館長、遅いですよ~。私よくわかんなくて困ってたんですから~」

「ごめンよカナ―リス。すこしイレギュラーなことがあってね。これはまたあとで話そう。」

館長はエリス、そして職員のカナ―リス。職員はまだいるのだろうか。

「あの、すいません、その、エリスさん?僕は一体どうしたらいいのでしょうか。」

「ああ!そうだったね!すまない、話をしよう。」

エリスはカナーリスの隣に座ると、話し始めた。なんだか所作がいちいち大きい人だな。

「先に結論を話そう。正直に言うと、君が選ばれた理由は不明なンだ。私にもわからない。おそらく、総館長ならわかると思うんだけど、彼女はいつもどこにいるかわからないからねえ。ま、多分、じゃないかな?」

結局、館長をもってしても俺がここに飛ばされた理由はわからないようだ。

「選ばれた理由はともかくだ、その総館長からお達しが来たよ。皆瀬宗弥クン。君は、アーカイブ2187エリアの管理人補佐にするとのことだ。まあ、補佐もなにも管理人がいないから、実質、君がここの管理を担当することになるけどね。」

「なるほど、じゃあ僕がやはり、ここの管理人になるということですね?頭が追い付いていませんが、なんとか理解できました。」

「ま、そうだね。だからよろしく頼むよ。ところでカナーリスたそ、彼にはどこまで説明したのかな?」

「た、たそ…?ゴホン、えーと、ここがどういう場所か、管理人の仕事はなにかを大まかに説明致しました。記憶が欠ける要因についてはお話していません。」

「そうか。じゃあね宗弥クン、もう少しだけ説明させてもらうね。カナーリスから説明があったように、アーカイブの管理人が行う仕事は、ここに所蔵されている記憶を欠けないようにすることなンだ。でも、どうしたら記憶が欠けるのか。正確に言うならば、どのようにして記憶が改変されるのか。それは、違う地球との部分的な融合によるものなンだよ。」

「違う地球とは?地球はひとつでしょう。まさか、異なる世界線とでも言うんじゃないでしょうね?」

「まあ、そう考えても間違えではないだろうね。でも、異なる世界線ではなくて、違う地球なンだ。平行しているわけじゃない。もう1つの地球には、君も、君のご友人もいると思う。でも、歩ンできた人生や取り巻く環境、現在の地位、文明は少しだけ異なっているはずだ。」

どういうことかと戸惑っているとカナーリスが補足する。

「わかりにくくて大変申し訳ないのですが、皆瀬さんがおっしゃったような異なる世界線というものは、平行して時が過ぎている地球があって、その異なる平行線にある二つの地球がなんらかの形で影響しあうというものであると思います。」

「キミが想像してるのはアメコミでよくあるアース2みたいなヤツさ」

エリスが補足しようとするが、カナーリスは続ける。

「そして、館長のお話でいう違う地球というのは、本来、さきほど言ったような影響はしあわないはずのものだったのです。両者は平行しているわけではないので、この二つの地球が重なり合ったりはしません。二つの地球の間に延々と続く鏡があると想像していただければわかりやすいかと思います。鏡を見てみればわかりますが、鏡の向こうに広がる世界は、似て非なるなにかですから。しかし、鏡があるのにどうして部分的に融合するのか?結論から言えば、その方法はありません。」

どういうことだ?

方法が無いなら管理する人間も必要無いはずだ。疑問を投げかけようとするとエリスが話し始める。

「誤解のないように言っておくと、方法が無いというのは、普通の人に出来ないということで、実際には少しあるンだよ。…そして、それが出来るのは、つまり地球と地球の間にある鏡に穴を開けることができるのは、アーカイブにいる人間だけなンだ。もしくは…いや、この話はやめておこう。」

地球ともうひとつの違う地球を部分的に融合できるのは、ここにいる職員だけということか。

「この組織は、体系上の問題からそれぞれの区画が独立してるンだ。それらを統べるのは総館長だけど、彼女は空席にしていることが多くてね、各区画担当は自ら自治を行う。したがって、アーカイブを改変しようとする人が他の区画にいてもわからないンだよねえ。」

「では、敵は身内にいるということですね。よくあることなんですか?というか、チェック機関がないならどうやって防ぐのでしょう?」

エリスは、一瞬悩む素振りを見せたあと口を開いた。

「うーん、まあ、あまりないね。それに、ここの管理人は無作為に選出されているといってもある程度の下調べはしているからそのようなことをしようとする人間を迎い入れることはないと思う。だから安心していいと思うよお。」

「そうですか…ふう。その、まあそれはともかくとして、頭が追い付いてないのという状況は一向に改善されないので一回帰って整理してもいいですか?」

さっさと帰りたい気持ちもあったが、とんでもない事態に巻き込まれていることに今更ながら俺の精神が驚いてきたようだ。

「いいよン。あ、でも、わかっているとは思うけど、忘れないでねえ。誰にも言ってはいけないってこと。」

「え、ええ。わかってます。こんな話、触れ回っても変人扱いされるのがオチですから。」


――


 光が漏れ出ている扉を開けると、その先はもう自分の家の玄関だった。

扉をくぐり振り返ると向こうでは、カナーリスとエリスが手を振っていた。

ドアが閉まる直前、「”無作為ねえ”…」とエリスが発した言葉がなぜか鮮明に聞こえたが、今の俺に疑問に思うほどの余力は残っていなかった。

「今日は面倒なことが起こり過ぎた…」

力なく呟くと、疲労が雪崩のように押し寄せ、靴も脱がずにそのまま倒れるように眠りについた。

俺はこれからどうなるのだろうか。過去を忘れられない俺が未来を考えられるわけも当然無く、日はまた昇り始めた―

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