誘われた恋がいつしか……心も体もあなたに蕩けていく。
かにゃん まみ
第1話 幕開け
いつもの学校帰り。田んぼの畦道を高校三年生の僕らは歩いていた。
両脇に生い茂る草や林の細い道の先には坂がある。
そこを上りきると、広い眼下には緑色の鮮やかな茶畑が広がり、ふわりと茶葉の良い匂いが鼻腔の奥に優しく入り込んでくる。
モコモコした茶畑の遠く向こうには蒼い海と、逞しく盛り上がった力強い入道雲が見えその力強さに後押しされ自分がなんでもできそうなそんな解放感で満たされる。
初夏の雄々しく盛り上がった木々の葉が、海からの風と共に音を立てた。
微かな潮風が頬に当たる。それは僕らの髪や制服のシャツの裾まで揺らして……。
肩幅の広い体の大きな彼は歩幅が広いからいつも僕は遅れてしまう。
でも、そんな彼の後姿に胸の奥が疼く。
汗が体中に滲んできてじっとりと肌にシャツが張り付いてきた。
やっと彼に追いつけて嬉しくて鼻歌が自然に出てくる。
そんな陽気な気分の僕とは違って、今日はなんだか彼がいつもより無口だ。
影を落とす彼の表情が僕はなんとなく気になって話しかけた。
「今日のお弁当美味しかった?」
定番だけど、ほうれん草を混ぜた卵焼き、焼いた鮭、里芋の煮っ転がし、ぷちトマト。
「明日のお弁当は豚肉と野菜の味噌炒めなんてどうかな?」
「ん」
なんだか短い返事。
僕はさっきから彼の背中に、一人で話しかけている。
彼の様子がおかしい。いつもなら振り返って、お弁当の中身についてグルメレポーターなみにあれこれ笑いながら話してくれるのに。
そのうち足を止め、彼は重く息を吐く。
「あのさ……」
いつもの優しげな低い声に明るいリズムがない。
どうしちゃったんだろう? 体調でも悪いのかな?
「お前も、周り見てもう感じてるだろ? 俺達男同士なのにできてるって誤解されて。俺ちょっと参ってるんだ。色々世話になっておいて悪いけど、もう明日から何もしなくていい」
「でも、善くんにしてることは別に家族にもしてることだしっ、そのっ」
「勝手だってわかってるよ、でもこれ以上は僕もちょっときつくてさ。もう今後は何もいらないから、ごめん」
彼は背中越しに言うと、そのまま振り向くことなく駆けていく。
僕はしばらく何が起きたかわからず、ただ呆然とその場に立ち尽くした。
それが拒絶だということに気づいたのは立ち尽くしてから一時間経ってからだろうか。
ふと見上げた蒼空がぼんやりとして潤む。鮮烈に色鮮やかだったすべての景色が霞み、次第に色褪せていった。
僕は春原守(はるはら まもる)役者の卵。21歳。
身長171cmのいたって普通青年のつもりなんだけど、子供の頃は体の大きな姉とその取り巻きにいじめられた。
知らない人がいきなり写真を勝手に撮るという、不可解な現象も幾度がある。
もはやアニキと呼びたいほど逞しく成長した姉は、合気道の師範となり、田舎の道場で指導している。
姉にはしょっちゅう「お前は人に弄られる運命なんだよ」と意地悪く含み笑いをされていた。
僕の髪はほんの少し濃い目の茶色で、時折指で引っ張っては太陽に透かしてみると頼りなげない色で意気消沈してくる。
自分の性格が体に現れてる物の一つのようだ。
姉より背も低くて細く、子供の頃や学生の頃は随分色々な人に茶化されて凹んでいた。
でもそんな僕にも好きなことがある。お芝居だ。きっかけは幼稚園のお遊戯会で亀の役をやった時。
みんなから褒められた。
学校の文化祭で芝居をする度に、楽しかった、いつもの守くんじゃないみたい、と喜んでもらえる。
そんな僕の唯一つの夢は俳優になること。意気込んで高校卒業後上京した。
あることがあってから、地元にいるのも限界がきてた。
東京に憧れもあり、すべてが上手くいくようなそんな気さえして俳優の養成学校に2年通った。
卒業後はすぐに仕事がくる謳い文句だったから、その学校を選んだのだけど、世の中そんな甘くはなかった。
当然役などすぐもらえるわけもなく、気づけば素人が応募すれば誰でも参加できるエキストラばかりになっていた。
毎日そんな日々で焦ってくる。
住んでいるところも築四十七年の今にも朽ち果てそうなアパートの一階。住んでるのは僕と知らないおじいさんだけ。
家賃一万七千円、管理費二千円。バイトを掛け持ちしてなんとか生きていた。
今日も養成所に張り出されているエキストラの募集、オーディションの募集で何かめぼしいものはないかと、すがりに行く。
掲示板には色々なプロダクションの事務関係のスカウトとかオーディションなどの募集用紙が貼られてあって、僕はメモしていく。
申し込めるだけ申し込むつもりだ。
ポスターには僕が憧れている俳優さんや女優さんの姿がある。
そこにはため息の出るような色白の綺麗な顔をした髪の短い女優さんがいた。他にも色々な俳優さんのポスターがあり、僕はある人に目が留まる。
「滝川隆二(たきがわ りゅうじ)……名前からしてかっこいいなぁ~」
その人はまるで美術館に飾られる有名な彫刻家が掘ったような、メリハリのある綺麗な顔をした俳優さんだ。
僕は初めて見た彼の整った鼻筋、キリッとした切れ長の双眸、口角をきゅっと上げた形のいい唇と、少しだけ癖があっても嫌味のない黒髪、男らしい首筋と喉仏、そして彼を包み込むさりげないスーツの着こなし全てに魅了されてしまった。
女優さんも好きだけど、もともと俳優さんに憧れて入った世界なんだもんな。
「守くんじゃないか?」
いきなり背後で声がして少しびっくりした僕が振り返ると、以前からここら辺りで名刺を配りまくっている自称プロダクション社長だという人が柔和な笑顔で立っていた。
白髪の混じった短い髪と仕立てたスーツ姿でその人は一見ジェントルマンに見える。
「その後、何かいい役についたかね?」
「あー。ええと、はぁ、まぁ」
僕は苦笑いして言葉を濁す。
「ああ、みなまで言わなくてもいいよ。君も色々大変そうだからね! この後時間あるかい?」
その後社長さんが大事な話があるというので、つい飲み屋に行った。鳥吉という店は焼き鳥が美味しい。以前から行きたかったから嬉しかった。
目の前に沢山の料理を並べられて、普段お金があまりない僕は驕りという言葉についのせられてしまった。
「ああ、実はね、僕はこれから芸能事務所を立ち上げようと思うんだよ。で、是非、君に事務所専属の俳優として入ってもらいたいんだ」
自称社長さんという人がレモンライムのチューハイを片手に機嫌よさそうにしている。
鳥の手羽先を食べていた指を軽く舐めつつ、僕は内心どきどきしていた。
こんなチャンスめったにない。
「でもそれには条件があってね。いや、たいした物じゃないんだけど……」
店は混雑していた、店員の大きな掛け声が店内にこだまする。
お酒が入っているせいか、その日の僕は気持ちが大きくなっていたのだろう。結局、そのはずみについ事務所立ち上げの連体責任者になってしまった。それがどういうものかもわからずに。
ところが、数ヵ月後、社長さんの立ち上げたというプロダクションは突然倒産し、彼は未だ行方知れず。
結局連体責任者となった僕が借金を背負うはめになった。
そのせいで実家の両親にも顔向けできない。
借金の取り立てに来るやくざ風な男達も日に日に脅しがエスカレートしてきて、僕はもう何もかも嫌になり逃げ出した。
公園のベンチでへたりこみ、この先どうなってしまうのだろうと呆然としていた。
しばらくぼんやりしていると突如、僕の手に何か生暖かなぬるりとした物が当たる。
「うわぁああ!」
慌てて手の先を見下ろすと、いきなりぬうと現れた大きな犬が僕の手を舐めている。あたりを見回したけれど、首輪もしていなく、捨て犬のようだった。
この犬種はゴールデンレトリバーだよな。
「酷い事する奴がいるんだな、お前みたいな大きな犬平気で捨てるなんて」
僕が頭を撫でると犬はきゅーんきゅーんと人懐っこく鳴いた。そして何故か僕の傍を離れようとしない。
翌日、うとうとしていた僕らの前に灰色の作業着を着た人が現れた。
「な、なんですか?」
「保健所の者です、犬が野放しになっていると通報がありまして」
灰色の作業員の人が犬をそのまま連れて行こうとしたので、僕は慌てた。
「その犬、僕が飼ってる犬です!」
「え、そうなの? じゃ、ちゃんと首輪して管理してくださいね」
「はい、そうします」
自分がこんななのに犬飼ってどうするんだ。
その後、僕は百円ショップで買った犬の首輪とベルトを犬につけた。とにかく少しでも何か食べないとと思い、たこやきと水も買う。
寒空の下、真っ暗な公園で犬の獣の匂いのするもふもふとした毛に顔をうずめて、二人で震えながら身を寄せ暖め合い、野宿してるさまは人からどう思われるのだろう。
誰かに縋りたくて切なくてたまらなかった。
東京に出てからは何もかも必死で無我夢中だった。夜にはバイトで昼間は学校、とにかくただひたすら頑張り、夜は泥のように眠った。
あの出来事を忘れたくて忘れたくてひたすら忙しく働いたり勉強したりして思考を止めていたのだと思う。
忙しい日々を必死に送ればいつかは辛い想い出も消えて行く。
寒空には満月が眩しく煌々と瞬く。先ほどから犬が僕の体に頭を擦りつけてきている。
「お前、人懐っこいにも程があるぞ。知ってるか? 月ってどこまで行っても追いかけてくるんだ。そうだ、お前まだ名前なかったよなー、月、ムーンにするか」
「わふん」
「じゃあ、一緒にコンビニで買ったたこ焼きを食べよう!」
「くふん!」
「うわっ!」
たこ焼きの包まれたラップを剥がすと、ホワンとしたソースの匂いに負けたムーンが僕にじゃれついてきた。
「おまっ、なにすんだ! あ、こらっ、全部食べるな!」
真夜中に借金抱えた僕と、捨てられた犬が二百円のたこ焼きを奪い合う。結局ほとんどムーンに食べつくされてしまった。
それでもムーンの温かさが今はとてもありがたい。
しんと静まり返る公園で犬の寝息だけが聞こえる。
空白の時間が来ると嫌でもあの時の事を思い出してしまう。
どうして僕はこんな風なのだろう……。時間が空くとすぐ彼のことを思い出してしまう。
はぁ辛い、キツイ。もう終わったはずなのにまだしつこく自分の中では思い出す度に胸が潰れそうになる。
翌日少しだけぽかぽかとした陽気でベンチでうとうととしていると、今度は見知らぬ男が現れた。
「君、ここしばらくずっとそのベンチにいない?」
急に話かけられて、僕は怪訝そうに彼を見上げた。
「おおっと、そんな変な目で見ないでよ、俺別に怪しい奴じゃないからっ」
僕は社長に騙されてから少しは学習したと思う。
こいつは確実に怪しい。
僕が恐る恐る見上げると、髭面の男は笑いながら僕に名刺を渡してきた。
「撮影監督。海倉誠司?」
「いやぁ、君を以前養成所で見かけてからね、ずっと気にはなっていたんだよー」
年齢は30代くらい、無精ひげを生やした酒の匂いが微かにする男。日に焼けた黒い肌をしていた。
「なんか君、もしかして訳ありかなーなんて。ちょっと僕の勘がね、よかったらなんでこんなところで野宿しているのか教えてくれないかな?」
僕はここ数日話をしたのが保健所の人だけだったので、つい魔が差して話をしてしまった。
今までの経緯を軽く話しただけで、何か考え事をしながら彼は「うむっ!」と膝を手でぽんと叩いた。
「なんだーそういうことならもっと早く行ってくれってな。ああ、まだ知り合いじゃないから無理かー」
海倉はがははと豪快に笑った。
「ちょっと立ち上がってみてよ」
「えっ、あ、は、はいっ」
僕は彼の前に立つと、その海倉っていう男はまず僕の全身をくまなく眺めた。背後に回ったりして上から下まで丹念に見て回る。
そうこうしているうちに分厚い手で顎をくいっと上げられて、顔を覗きこまれた。
「うん、いいねー体つきもいいし、小顔だし、なかなかに優男的でいいっ、これなら腐女子さん的にOKだな!」
「はぁ……婦女子さんですか?」
「僕ね、これから実はネットで配信予定のドラマの撮影をするんだけど、よかったら君それに出ない?」
軽くウィンクまでする恐らく30代くらいの親父に、僕は戸惑ってしまった。
「あのさー実は僕前から君に目つけていたんだよね、だから、これは運命じゃないかと思うんだ」
「はぁ……」
あの社長もそんなこと言ってた気がする……。
テンションの低い僕に海倉さんは懐から厚みのある封筒を渡した。僕は渡された封筒を覗く。
な、中にはさ、札束が! 僕の手は思わず震えてしまった。
「あのっ、これっ!」
「うん? ドラマの前金だよ、借金してるんなら早いうちに渡した方がいいと思ってね」
「う、海倉さんっ……」
嘘だろ……。
その時僕は海倉さんが後光の差す仏様に見えた! 僕はどんな役でもいいから、きっかけがつかめた事が嬉しくて、胸が弾んだ。
そして内容もロクに聞かずに即OKしてしまった。
とりあえず伸び放題の髪の毛を切れと言われ美容室にも行った。
僕が家に戻ると案の定ごつい顔つきの取り立て屋が家玄関の前に居座ってる。
「おう、借金とっとと返しな」
この男の風貌は、とにかくごつく、体格はクマみたいに大きい。
すぐにでも食いつかれ、噛みちぎられそうな勢いだ。
睨みつけられただけで、僕は心臓が縮みあがった。
お金の入った封筒を差し渡すと、男の大きな手がそれを掴み取る。
中を覗き込んで、それなりに納得した様子で帰って行った。
はー。
少しだけ気が楽になる。はぁ、仕事にありつけたからなんとかなりそうだ。
ムーンは、アパートの年老いた大家さんに頼み込んで飼わせてもらうことになった。
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