[34]

―太平洋上―

「本条二尉、森島船務長より伝言です」

 本条は顔を上げた。発令所で戦闘日誌をまとめているところだった。船務科の隊員が続けて言った。

「自分は艦橋に上がるので、代わりに上甲板の指揮を執るようにとのことです。当直は私が代わります」

「分かりました。後を頼みます」

 本条は発令所から上甲板に上がった。多数の乗組員たちが左右の潜舵の上や狭い甲板に出て海面に眼をこらしている。

 太平洋の海面は少し波があった。

「ひりゅう」は横須賀基地から来た潜水艦救難母艦「ちよだ」と合流していた。いま停泊している海域は日本の領海内だが、航行する船舶の数は少ない。本条が哨戒直として潜望鏡を確認したところでは、沿岸を進む商船が遠くにちらほらと見えただけだった。

「ひりゅう」は緩やかなローリングを続けていた。潜水艦は海面に浮上している時が最も揺れる。「ひりゅう」の上甲板と「ちよだ」の間にロープと舷門板が渡され、両艦の隊員が協力して「ひりゅう」の負傷者の移送が行われていた。

 本条は艦橋を仰いだ。山中や森島が双眼鏡で遠方の海を監視していた。その視線の先に、佐世保から派遣された護衛艦「あしがら」が航行している。はるか西の海域を航行する中国海軍の駆逐艦「広州」の動向を監視している。「広州」の近くに航行不能にさせた原子力潜水艦がいるはずだが、その姿は遠すぎて望むことは出来ない。

 本条は周囲を見渡した。艦長の姿はどこにもなかった。数日前にソナーから敵の原子力潜水艦から緊急浮上する音が聞こえるという報告があった時、発令所の張りつめていた空気が弛緩する。本条は艦長の顔を一瞥した。かすかな苦笑を浮かべていた。潜水艦が緊急浮上するということは、艦に何か異常事態が発生したことを意味する。艦長は敵が艦を失う辛さを思ったのかもしれない。

 夕暮れ時に報道ヘリが1機、低空で舞い降りてきた。ドアから半身を乗り出したカメラマンが執拗にシャッターを切り続けた。次第に空と海が灰色に染まり、午後6時を過ぎた頃はもはや何も見えなくなった。

 北風が強く吹きつける。顔を切り裂くように冷たかった。本条は上甲板の解散を命じた。乗組員たちは甲板から1人ずつ去って行った。最後まで甲板に残っていた隊員が本条に声をかけてきた。

「寒いな。とても夏の海とは思えない」

「艦長⁉」

「君は半袖じゃないか。これを着なさい。私は慣れてるから」

 沖田は自分のジャンパーを本条に手渡した。本条はおそるおそる白い半袖の制服の上にジャンパーを羽織る。艦内に戻ろうとした際、本条はその場で立ち止まった。沖田が空を見上げていた。本条も顔を上げる。

 仄暗い空に星がかすかに瞬いている。沖田は口を開いた。

「子どもの頃は星空が怖かった」

 本条は何も言わなかった。沖田は構わずに続けた。

「自分があの闇に、あの星の間に落ちていくような気がしてね。それで怖かった」

 本条は沖田を見た。ぼんやりとしたシルエットが認められるだけで、その表情は分からない。本条は尋ねる。

「今はどうですか?」

 我ながら意地悪い質問であるように思えた。

「これだけキレイな星空を陸で見れるのは、滅多にないからな。それに背を向けて、光も届かない世界に潜っていく自分を哀れに感じてしまう」

「仕事ですからね」

「そうだ、その通りだ。本条二尉は私よりずっと大人になったな」

 本条は苦笑を浮かべた。この数週間、自分は何か変わったのだろうか。いつかは経験するであろう瞬間に立ち会っていたのは間違いなかった。それが周囲より幾分、速かったか遅かったか。それだけの違いでしかない。沖田は不意に言った。

「本条二尉、家族は元気か?」

「両親とも亡くなりました。ずいぶん昔に」本条は言った。「兄弟はいません」

「恋人は?」

「・・・いません」

「返事が遅れたな。ということは、ミスターひりゅうにも春が来たかな」

 沖田は笑みを浮かべていた。照れくさい気持ちに胸がどきまぎする。本条は星空を見上げる。

 想いはある女性に移った。貴女と話がしたい。その時、自分は貴女にどんな顔を向けられるだろうか。本条は無性にそんなことを考え続けた。

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