[17]
他のホールでもコンサートがあったらしく、ラウンジは混み合っていたが、ちょうど2人連れの席が空いたところだった。華やいだ雰囲気の中で、花菱葵を待っていると、ふと以前から約束していたような錯覚にとらわれた。
程なくしてワンピースに着替えた葵が現れた。背はそれほど高くないが、化粧を落とした素顔に近い顔は、意外に幼く色白で大きな瞳がまぶしかった。
「お花は楽屋受付に預けてきました。帰りに寄って、家に飾らせて戴きます」
「かえってお手数をかけましたね、カクテルでも?」
本条はメニューを開きながら、聞いた。
「では、軽いものを」
打ち上げを気にしてか、遠慮がちにブルーハワイを注文した。本条はウィスキーのロックを頼んだ。
「さっきのチェロのパッセージ、素晴らしかったです。ゆったりとしたメロディはもちろんですが、速い部分も」
本条はこんな表現でいいのだろうかと戸惑いながらも、感じたままを率直に口にした。
「本条さんは、音楽がお好きなんですね」
「プロの方の前で好きというのは恥ずかしいですが、休日にたまにステレオで楽しむ程度です」
ウェイターがグラスを2つ運んできた。本条はブルーハワイをどうぞと勧めながらも、後の会話が続かないのに焦り、当たり障りのないことを聞いた。
「チェロは小さい時からですか」
「ええ、最初はお稽古程度に習ってたんですが、高校生の時にちょっとした演奏会で、先月お別れした先生に出会い、それから本格的に指導を受けるようになって。本条さんのお仕事は?」
黒い瞳をまっすぐ向けた。本条は瞬時、返事につまった。
「海上自衛隊に勤務しています」
「はい?」
早口だったせいか、花菱葵はとっさに聞き取れなかったようだ。
本条は思い切って、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出して渡した。
『潜水艦 ひりゅう 船務士 二等海尉 本条薫』
葵は驚いたように名刺を見入った。
「では、もう1人の伍代さんも?」
「そうです。勤務している艦は違いますが、2人とも潜水艦乗りです」
「自衛隊の方にお会いするのは初めてです。まして潜水艦に乗っている方なんて・・・狭い音楽の世界で生きてるせいか、自衛隊そのものについて知識がなくて・・・台風や地震などの災害時に出動されるのをニュースで知る程度です」
葵はグラスを手に、申し訳なさそうに言った。
「それが普通です。おまけに海自では、そういうニュースになるような機会もあまりないですし」
「潜水艦というと、普段はずっと海の中を潜ったままなんですか?」
葵は興味ありげに聞いた。
「そうです。だから人目につかない海自の中でも、最も見えない部隊です。今も日本に潜水艦部隊があるんですかと、聞かれることがあります」
本条はウィスキーを飲みながら言った。
「でも、ぼくたちの任務はそれでいいんです。日本の周辺の海で、ぼくらは密かに警戒に当たっています。外国がそれを見て、日本は潜水艦が盛んに活動してるようだから下手な手出しをすると痛い目に遭いそうだと思わせるのが、理想なんです」
「なんだか、大変そうなお仕事のようですね」
「慣れてしまえば、そんなことはありません。当直についてる時は忙しいですが、休みの時間は音楽を聞きながらベッドに横になってることが多いです。その時は、深海魚にでもなったような気分になります」
そこまで話して、本条は自分でも恥ずかしいほど饒舌になっていることに気づいた。
「つまらない話をして、すみません。お時間は大丈夫ですか?」
時計を見て、慌てて聞いた。
「あっ、そうですね。カクテル代、お支払いします」
腕時計を確認して財布を出そうとする葵を、本条は制した。
「今日は僕の奢りですから。東京でまた演奏会がある時は伺いたいですが、予定はお決まりですか?」
「8月25日に上野文化会館で。チケットは手に入らない時がありますから、よろしければ私の方からまたお送りします。宛先はこの名刺のところですね。カクテルはご馳走様でした」
花菱葵は申し訳なさそうに言い、手を差し伸べた。しなやかで柔らかいその手に触れ、本条はそっと握り返した。
足早に去って行く後ろ姿を見送った後も、その場から立ち去りがたい思いを抱きながら、本条はホールの外に出た。冷房の中に長く居たせいか、むっとした風が頬を撫でる。かすかに潮の香りがした。
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