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航海7日目に入った「ひりゅう」は深度100メートルで航行中だった。海域は秋田県男鹿半島の沖合100キロの地点である。
今朝の日本海は波が穏やかだった。初夏とはいえ、陽が照り続ける海表面と水中の深いところでは、温度差が大きくなる。水中の温度差が大きい海では、水上を行く艦船はすぐ近くに見えているはずが、音は聞こえない状態になる。
「そろそろ始めるか」沖田は言った。
直の哨戒長に就いている森島が答えた。
「了解しました。私もこの季節、この海域で、しばらく音波伝播調査のデータを取っていませんでしたから、やりたいと考えていました」
直の哨戒長である森島が答えた。
沖田は艦長室に退いた。こうした定常的な作業に、艦長が立ち合うことはなく、出来るだけ哨戒長に権限を委ね、乗組員たちが自主的に行動するようにしている。
音波の伝わり方はその海域の水温や塩分濃度、海底の地形などによって微妙に変化する。そうしたデータを採集することは、潜水艦にとって必要不可欠な仕事だった。
発令所、ソナー室などの直の乗組員たちが態勢を整える。森島は命令を発した。
「XBT(投下式水温水深計)発射用意!」
艦首のソナー室が命令を復唱する。XBTの発射はソナー員が電動機室で行う。ソナー室から一番若手の山本・三等海曹が急いで艦尾方向に走った。まもなく山本の報告を発令所の電話員が中継した。
「発射用意よし」
「XBT発射、用意、テー(撃て)」
電話員が森島の命令を電動機室に中継する。山本が水圧発射スイッチを押した。ワイヤにつながれた小型魚雷に似た形のXBTはいったん海面まで上昇した後、海底に向かって沈み始める。XBTは海底に着くか、ワイヤが途中で切れるまで記録を続ける。水深と水温がソナー室の記録器紙面にグラフとなって表示される。
相原はグラフを確認しながら図を作成する。グラフから水中の音波伝播状態を把握し、音が届きにくく敵艦や自艦が隠れやすい深度や、反対に音が届きやすく捜索が容易な深度などを直ちに計算する。
「ソナー、発令所。全没状態の潜水艦を捜索するための最適深度は、どのあたりだ」
森島が聞いた。
《発令所、ソナー。この計算結果からすると、深度200メートル付近が最適かと思われます》
「了解、発令所」
森島と相原の交話はいったん止んだが、しばらくして再開された。
「ソナー、発令所。これより200に入って全周精密捜索を行う」
《発令所、ソナー。了解》
森島はベテランの先任海曹である潜航指揮官に下命する。
「深さ200」
潜航指揮官は左舷の操舵席で操作している操舵員の志満に命じた。
「深さ200、ダウン3度」
操舵員の志満武雄は北海道の富良野出身である。航空機のパイロットを目指して高校卒業後、まずは海上自衛隊で航空技術を学んでから転身を考えていたが、入隊教育中に潜水艦を見学してその虜になった。興味の対象を空中から水中に変えてしまった変わり種である。
身体の重心をわずかにかけるような手つきで、志満がジョイスティックを操作する。それに従い、「ひりゅう」は徐々に深度を下げていった。
深度計の目盛りが動いていくのを見つめながら、志満は「深さ160、深さ170」と読み上げる。深度が180メートルまで到達する瞬間、潜航指揮官が「前後水平」と下令した。
志満は姿勢角を調整して深度が200メートルを超えないように、少し手前で潜舵を戻した。今度は潜舵を上げ、潜入の勢いを止める。深度計がちょうどの目盛りを示したところで「深さ200」と報告した。
「前進微速」
森島が命じた。航走雑音を抑えて、捜索するためだ。4ノット(時速約7キロ)に近づいたところで再び命じる。
「ソナー、発令所。全周精密捜索、始め」
ソナー室から復唱があった。
森島は捜索の状況を見守った。発令所の天井付近に設置されたモニタを見上げる。濃緑色の画面に、さまざまな音を示す白っぽい輝点が尾を引いて流れる。
水中を伝播する音は空気中の4倍から5倍の速度で伝わる。光も電波も役に立たない水中では、音が唯一の有効な捜索手段である。
《発令所、ソナー。
相原は報告を続ける。声音は落ち着いている。
《発令所、ソナー。不明音探知。22度感1、かすか・・・あれ?》
数秒後、かすかに緊張した声に切り替わっている。
《これは新目標、S140とする》
本条は神経を研ぎ澄ました。ソナーが尋常ではない何かを捕捉したのではないか。他の乗組員も同じことを考えていた。
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