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本条は艦首下層にあるソナー室(水測室)に向かった。海曹たちの居住区に入り、ベッドの間の狭い通路から床のハッチを静かに開け、ステンレスの梯子を伝って降りた先がソナー室の前だった。この部屋が「ひりゅう」の眼と耳と言える。本条は軽い防音ドアを開ける。
照明を落とした部屋は防音用に分厚いカーペットが敷き詰められている。中央に深緑色のモニタと帯状の紙を巻き上げる記録器、左には音圧レベル計と回転式の選択スイッチを備えた機器がある。そこでヘッドフォンを付けた3人のソナー員がカーソルを動かしたり、スイッチを操作したりしている。
西野毅・二等海曹がモニタから顔をドアに振り向けた。
「あっ、船務士。どうかされたんですか」
「先日、貸してもらったCDを返しにきたんだけど」
「聞かれました?あの弱音の感情豊かで繊細な響き、堪らないでしょう?」
数々のコンクールで受賞した若手チェリストのCDだった。
「西野二曹の耳は違うね。心がふやけそうになった」
本条は礼を言ってCDをソナー・コンソールの端に置き、西野の肩を小突いた。
「魚雷戦の訓練では、よくもあんなに切羽つまった声で騙してくれたな」
訓練とはいえ、《魚雷、近い!突っ込んでくる!》と真に迫った絶叫にどれだけ狼狽したことか。あの時は副長のシナリオに沿って、西野がソナー室から魚雷が襲来してくる様を実況していたのだった。西野は笑いをかみ殺している。
西野は29歳。高校を卒業後、父親に倣って海上自衛隊に入ろうと決める。入隊後は広島県江田島の第1術科学校で4年間ソナーを中心とした教育と訓練を受け、潜水艦部隊に配属された。
西野の左隣に座る水測長の相原雅允・一等海曹は発令所に報告する。
「発令所、ソナー。西からまた雨が近づいてきました。今のところ、探知状況に大きな影響はありません」
相原はヘッドフォンで雨の音を確認している。監視系の記録器にもその音が影を落とし始めている。透明度が高い海でも光が届くのは深いところで約40メートルに過ぎない。1000メガヘルツの電波でも水深わずか10センチでエネルギーが1000分の1に減衰してしまう。光も電波も充分に届かない海中では、ソナーが外界の状況を知るほぼ唯一の手段となる。水測員などの海曹士は専門課程を修めた証として「ドルフィン・マーク」の他に、特技マークごとの「特技徽章」が付けられる。
「ひりゅう」の艦首に装備されているパッシヴ・ソナーは海中のさまざまな音の中から敵艦のエンジンや推進器から発する音を探知する。だが同時に潮流や波、海中生物の鳴き声などの雑音も入りやすい。ベテラン水測員の手にかかれば、スクリュー音を聴くだけで軍艦かタンカーか漁船かが瞬時に区別でき、回転数から速度まで計算できるという。
「本条二尉、聞こえますか?」
西野がヘッドフォンを手渡した。本条は耳をすませた。トントントンと、金槌で船体を打つような音が聞こえてくる。
「カニ?海老?」
西野は首をかしげた。
「もしかして、カーペンター・フィッシュかもしれませんよ」
「それ、どんな魚だっけ」
「昔のアメリカの潜水艦乗りがその音から、大工を連想して名づけた魚です。音を聴くことはあっても、誰も姿形を見たことがない幻の魚です」
実習幹部の時から、本条はしばしばソナー室を訪れては、外界の音を聴かせてもらっていた。四国沖に出た訓練航海では、クジラの歌声を聴く機会が運よく巡ってきた。西野はうっとりとした口調で本条にこう言った。
「愛をささやきあってますよ」
西野と同じ音を聞いていた本条はそんなロマンチックな音には聞こえなかった。自分の感性が乏しいのか。本条はそう思ったりもしたが、深海は愛を囁きあう場所ではないという風にしか思えなかった。姿を見せず音だけが聞こえる魑魅魍魎がうごめくジャングルという形容こそ相応しい。
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