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「特令事項の合戦(潜航)準備を行います」

 本来の当直哨戒長である機関長が艦橋に上がってきた。徳山幹郎・三等海佐、34歳。周辺海域に潜航を妨げる船舶がないと判断して、沖田に報告したのだった。

 沖田はうなづいた後、艦橋から内部に通じる昇降用の狭い梯子を降りて行った。山中と本条もその後に続いた。

 艦橋の指揮官旗や救命浮輪など潜航の妨げとなる物が手早く片付けられる。見張り員たちも順に艦内へ降りて行った。独りで最終確認を行っていた哨戒長の徳山に艦内から報告が入る。

《特令事項の合戦準備終わり、艦内潜航準備よし》

 沖田が続いて「潜航せよ」と命じる。徳山は「潜航、潜航」と繰り返し、艦内に降りて艦橋ハッチをしっかりと閉める。これで「ひりゅう」は完全に密閉された。

「ひりゅう」の頭脳に相当する発令所は船体の中央より少し艦首寄りに設けられている。艦内から唯一、外部を覗くことができる潜望鏡を中心に、広さは約30平米しかない。左舷に操縦席、その後方に機械操縦盤や注排水管制盤、海図台が置かれている。右舷側に戦術戦闘指揮装置のモニタが並び、15人の乗組員が所定の配置についていた。

 最後に艦橋から発令所に降りてきた徳山は潜望鏡の左右2つの取手を両手で握り、やや腰を屈めるようにしてレンズを覗いた。倍率を変えながら360度ぐるりと回し、潜航の障害になる物がないか注意深く確認する。確認を終えた徳山が艦長に告げる。

「近距離目標なし、深さ18につきます」

「ひりゅう」の艦内は前方が二層、中央部が三層、後部が一層の階層構造になっている。前方の下部がソナー室(水測室)、上部が発射管室。中央部は第二防水区画が発令所と乗員居住区、前部電池室。第三防水区画が士官居住区と食堂、後部電池室。後部はAIP機関室が二層、主機械室と主電動機室が一層で横並びに続いている。

 艦首の発射管室では、濃緑色の89式魚雷が十数基しっかりと固定されている。魚雷のすぐ前方に533ミリ発射管HU-606が上部に2門、下部に4門装備されている。その魚雷と隣り合わせに、乗り組んでくる実習幹部用の予備ベッドが固定されている。

 浦賀水道を抜けて「合戦準備」が下令されて以降、乗組員はそれぞれの担当区画で、艦内のありとあらゆる所を走っている配管、数千に及ぶ弁やスイッチの点検を終えていた。

 最終点検が行われた後、発令所では潜航指揮官である先任海曹が徳山の指示を受けて号令を発した。

「ベント開け」

 ベテランの油圧手が注排水管制盤のスイッチを操作して、バラスト・タンク(潜航と浮上のための海水の注入と排出を行うタンク)頂部の弁が開いた。途端にタンク内の空気が押し出される。その代わりにタンク底部の穴から海水が内部に流れ込んでくる。

 空気が吐き出される凄まじい音が艦内に響き渡る。水圧がぎしっと締め付けるようにかかってくる。「ひりゅう」は2750トンの鋼鉄の塊のような艦体を、徐々に海中に沈めて行った。

 潜航指揮官がトリム・タンク(艦の前後の傾きを調整するタンク)の海水量を調節して艦体のバランスを取った。その後、沖田が命令した。

「深さ100に入れ」

「深さ100、ダウン3度」

 潜航指揮官が復唱し、操舵員に号令を下す。

 航空機のコクピット内と似たさまざまなパネルの前で操舵員は復唱した後、2本のジョイスティックをゆっくり前方に倒し、「ひりゅう」を3度の緩やかな角度で、深度100メートルに潜航させて行った。上甲板に聳えたつセールもマスト類も巨大な渦を残しながら、海中に没する。

 海面は真昼の太陽が照りつける太平洋の黒潮がたゆたうだけになった。

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