第1部:訓練

[1]

神よ、我らが大いなる力よ。大洋の底に届くその長き腕を持ちて


深き海を行く男らを支え、守り給え。


我らが祈るときはその声を聞き、深みにひそむ危険から我らを遠ざけ給え。


神よ、祖国を守るため潜水艦に乗る男らを守り導き給え。


夜も昼も、静かな深みにあるときも、波高き水上にあるときも


いかなるときも彼らとともにおわし給え。


おお、神よ。彼らが海の危難のただなかでその名を呼ぶときは聞き入れ給え。


《アメリカ合衆国海軍賛美歌》より



 東京湾の浦賀水道は東西を房総半島、三浦半島に抱かれた船舶の航路である。

 初夏のよく晴れた朝、南寄りの風が群青色の海面を強く吹き渡る。海に白い波濤が立ち、はるか彼方の陸地には富士山の優美な山容が見える。

 幅1・4キロの航路の中央とその両端には、赤や緑のブイの標識が700メートル幅で浮かんでいる。外洋に出る船舶は三浦半島側を航行し、東京湾に帰港する船舶は房総半島側を航行するルールがある。

 船の長さが50メートル以上の貨物船、フェリーなど大型船は航路を走る義務がある。小型の貨物船やタンカーなどは航路の外側を走っている。この狭隘な航路を行き交う船舶は1日、700隻に及ぶ。

 真っ黒い不気味な船体の一部を浮かび上がらせた艦が浦賀水道を、ゆっくりと外洋に向かって進んでいた。海上自衛隊最新鋭のそうりゅう型潜水艦「ひりゅう」である。

「ひりゅう」は全長82メートル、最大幅8・9メートル、排水量2750トンの葉巻型潜水艦である。水上航行中でも、その姿を見せるのは、巨大な鯨の背びれを思わせるセールとその左右に付いている短い翼のような潜舵、上甲板の一部のみ。船尾から斜めに突き出たX舵が作り出す白い航跡を長く曳き、周囲の波濤と合わせて、水面下に隠れた艦体の大きさを物語っている。

 航路を安全に航行するため、「ひりゅう」のセール上部にある約1・5メートル四方の艦橋に艦長、副長、見習い哨戒長、電話員が身体を触れ合わせんばかりにして立ち並んでいる。艦橋真後ろのセールトップと左右に張り出した潜舵でも、それぞれ見張り員が手近なポールに掴まりながら、周囲を監視している。全員が首から双眼鏡を吊り下げ、時に眼に当て、視界内に衝突の怖れがある船舶を見つけた時は艦内の操舵員に連絡し、すみやかに針路や速度の変更を指示する。

「右見張り、右20度2000の漁船、航路内に入ってくる可能性あり、注意せよ」

 艦橋に立つ見習い哨戒長―本条薫・二等海尉が声を上げた。強風に吹き飛ばされないような大声で、右舷潜舵に立っている見張り員に指示を飛ばした。

 本条は28歳の船務士。錨のマークが入った黒の作業帽にグレーの作業服を着ている。近い将来に水雷長になることを予期して、今は見習い哨戒長の任についている。副長の山中充夫・三等海佐と艦長の沖田裕而・二等海佐が真っ黒に日焼けした顔を一瞬、綻ばせた。

 1時間後、「ひりゅう」は難所の浦賀水道を通過した。特別態勢が解除され、通常の航行に移った。

 三浦半島の観音崎灯台が遠のく頃には、前方に緑のビロードに包まれたような大島が見えて来た。伊豆七島の最初の島である大島あたりまで来ると、そこから先は黒潮がうねる太平洋の大海原だ。

「ひりゅう」が横須賀基地の第5バースから出港したのは、午前8時。11ノット(時速約20キロ)の速度で水上航行し、潜舵するポイントの5キロほど手前に到達したのは、正午過ぎだった。

 大島の上空にちぎれた綿雲が張り出し、強い風に流されるように移動している。真昼の陽射しは小波だった群青色の太平洋の海面をぎらぎらと照らし、真っ黒い艦体を一層、異様なものにしている。

「艦長、今回の航海訓練で8回目ですね」

 副長の山中が、背後の沖田に声をかけた。

「うむ」

 沖田は防衛大学校出身の41歳、同期で二番目に艦長に任命されたエリートである。副長の山中は36歳で商船大学を卒業後に海上自衛隊幹部候補生学校に入った一般大学組だが、艦長への道は近づきつつあった。

「おっ、珍しい」沖田が珍しく声を弾ませた。

 突然、近くの海面からトビウオの群れが飛び出し、胸びれを広げて空中高く飛んだ。蒼黒い群れが太陽の光を一杯に受けて輝いている。周辺の海域には時おりイルカ、鯨などの群れが現れることもある。20XX年の今でも、その光景は滅多に見られない。

 本条も紺碧の海を飛び跳ねるトビウオの群れにしばし見とれた。ふいに見習い哨戒長として操艦に当たっていたことを思い出して、双眼鏡に慌てて眼を戻した。

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