第3話 「香織」



式場に入ると、右手に大きな開き戸があり、左手には一段あがってお座敷が見えた。

廊下は奥へと長く続き、突き当たりは大きな両開きのドアになっているのが見える。


「どうぞ、履物を置いてあがってください」

「あ、はい」


場内の様子を眺めていると、背中から香織さんの声がかかった。

パンプスを脱いできれいに揃えてから、お座敷に上がる。

お座敷は三部屋の間仕切りを開放した広いものだった。


「かけて待っててください。今お茶をお持ちしますから」

「そんな、お構いなく」


私がそう言って振り返った時には、香織さんの姿は既に見えなかった。

行動的な人だ。

お座敷に向き直ると、たくさん用意された座布団のどこに座ったものかと悩んでしまう。

確か、こういったものには上座とか下座とかがあるのだったか。

そう思いはするものの、どちらが上でどちらが下なのか、はたまた自分はいったい上なのか下なのかも分からない。

結局どこに座っていいものか分からないでいると、


「あら、そんな立ってないで座ってください!」


お盆に二人分の湯飲みを乗せて、香織さんがやって来る。

香織さんが私の目の前に湯飲みを置いたので、私は礼を述べながらそこに座った。

香織さんは私の向かいにもう一つの湯飲みを置くと、テーブルを回り込んで私の正面に座る。

立っていた時には私よりやや低かった香織さんの目線が、ほとんど私と同じ高さになった。

香織さんは、お茶を口に運ぶ私を見て、何が嬉しいのか顔を綻ばせている。


「遠いところをありがとう。疲れたでしょう」

「いえ、新幹線で一本でしたから。間に合って良かったです」


香織さんがお茶も飲まずに喋り始めるので、私も湯飲みを置いて言葉を返した。


「東北新幹線ね、開通したのよね……ごめんなさい、昨日の今日で、無理を言ってしまって。来てもらえなくても仕方ないなって思ってたの」

「ええ、まぁ、急なことでしたから、母は都合が合わなくて。私が母の代わりに出席させていただくことになりました」

「そうよね、本当にごめんなさい。アヤカさんだけでも来てもらえて本当に嬉しいです。ありがとうね」


そう言って、香織さんは傍らにおいてあった手提げ袋から何かを取り出す。

写真だった。

それを私に差し出す。


「これね、半年前に撮った、私たち家族の写真なんです。タカくん、ずっと連絡の一つもしてなかったみたいだから……何かもらって欲しくて」

「はあ、ありがとうございます」


私は写真を受け取って、眺める。

写真には、ポロシャツにスラックス姿の恰幅のいい男性と、可愛らしい格好の香織さんと、男性の肩に乗ったTシャツに短パンの男の子が映っていた。

つまり。この男性が、貴文兄さんなのだろう。

私には見覚えがない男性だった。


「これが、貴文兄さんなんですね」


確認のために呟くと、香織さんは、


「ええ、そうよ。肩車されてるのが、私たちの子供。裕貴って言うの。もうすぐ4年生なのよ。元気なのが取り柄なんだけどね、ちょっと元気すぎて困ってるの」


と、写真を指差して教えてくれた。

裕貴くんというらしいその男の子は、男性の肩に乗って、とても楽しそうに笑っている。


「お子さんが、いらっしゃるんですね」

「ええ。今はお義母さんに預かってもらってるけどね、ここに来てるのよ。良かったら会っていって」

「……」


香織さんはそう言うけれど、私は正直気が進まなかった。

なんと名乗ればいいのだろう。お父さんの妹です、とでも言えばいいのだろうか。

貴文兄さんは、このポロシャツの男性は、私のことを、子供に話していたのだろうか。


「アヤカさんのことはね、タカくんからよく聞いてたの。あと、ヤスヒコくんよね? 二人とも、俺にとっても懐いてくれてたって……二人を残して来てしまったこと、タカくん、ずっと後悔してたのよ」

「貴文兄さんが? 後悔を?」


驚いて顔を上げると、香織さんのまっすぐな瞳が私を捉える。

その目には涙すら滲んでいた。

私が、兄の訃報を聞いて駆けつけてきた妹なのだと信じて疑っていない、そういう目だった。


「ええ、お酒飲むとね。いっつも言ってたわ。二人には恨まれても仕方ない、俺は兄貴だったのに、二人を見捨てて出てきてしまったって……お父さんのことは、ずっと許せなかったみたいだけど、自分のことも、ずっと責めてたわ。そういうの、上手に誤魔化せる人じゃ、な、かった、から……」


最後の方は、嗚咽交じりになっていた。

この静かな会場では、しゃくりあげるようなその声は、とてもよく響く。

私がハンカチを差し出すと、香織さんは自分のがあるから大丈夫よ、ありがとうと言って、手提げ袋からハンカチを取り出す。

そのハンカチは、既にくしゃくしゃになっていた。

私は、戸惑っていた。

貴文兄さんが、ずっと私たちのことを覚えていたということ。それ自体が、私には驚くべき事実だ。


「……貴文兄さんは、私たちのことなんて、忘れていると思っていました」


素直にそう口に出すと、香織さんは鼻を啜りながら口を開く。


「そんなことないわ。きっと一日だって忘れたことなかったと思う。連絡しなかったのはね、きっと怖かったんだと思うわ。アヤカさんやヤスヒコくんに、責められたらどうしようって、それが怖くて……だから連絡できなかったのよ」

「そんな、私は恨んでなんて」


恨んでなどいない。忘れていた。

貴文という兄がいたこと自体を、ほとんどすっかり。

その方がひどいのではないか。

胸が少し重くなったような気がした。


「私もね、そう言ったのよ。きっと連絡を待ってるはずよって。タカくん、受話器を持つところまではいけたの。でもね、番号いくつか押したら、そこまでで……本当に辛そうで、私もそれ以来、強く言えなくなっちゃってね。ごめんなさい」

「いえ……香織さんに謝っていただくようなことじゃないですから」


頭を下げる香織さんに対して、私はそう言ったけれど、それは決して慰めるような気持ちからではなかった。

本当に、謝ってもらうことなどないと思ったのだ。

謝らなければいけないのは、ひょっとして、私の方なのではないだろうか。

胸の奥のほうで、ぬらつく澱のようなものが、どろどろとたゆたっているようだ。


「だからね、アヤカさんが来てくれて、私本当に嬉しいの。これでタカくんにちゃんと言えるわ。ほら、恨まれてなんてなかったでしょって。死ぬ前に一度でいいから、頑張って連絡しといたらよかったね、って……」


一度は止まった嗚咽が、また響く。

私は、もう一度ハンカチを差し出した。

大丈夫よ、と言って笑う香織さんに、


「使ってください。もう一枚、必要だと思います」


半ば押し付けるようにして、受け取ってもらう。

ありがとうと笑ってハンカチを握る香織さんに、私はどういたしましてとは言えなかった。

私にも必要だったのだ。なんでもいいから、この人の力になることが。

そうしてこの胸に凝ってしまっているぬらぬらとした澱を、少しでもいいから濾したかったのだ。

そんな安っぽいエゴに感謝してもらうことが申し訳なかった。


「平野様。住職様がお見えです」


唐突に、お座敷の外からそう声がかかる。

斎場の人だろう。きちんと礼服に身を包み、上から下まで隙がなかった。


「もうそんな時間なのね。お話に夢中になっちゃった。ごめんなさいね、アヤカさん。良ければ、式が終わったらまたお話しましょう。その時は、裕貴も一緒に」

「あ……すみません、新幹線の時間があるので、あんまり時間が」

「そう……そうよね、ごめんなさい。また今度、ゆっくりお話しましょうね。それじゃあね」


せめてタカくんに顔見せてあげてね、と残して、香織さんはお座敷を出て行った。

斎場の人と思しき男性も後に続く。

私は一人残されて、どうしていいか分からず、少し座ったままでいた。

香織さんからもらった写真に目を落とす。

ポロシャツの男性と、香織さんと、裕貴くんが映った写真。

貴文兄さんと家族の写真。

貴文兄さんは、怖い人だと思っていた。

あの恐ろしい父に逆らい、相馬の家を捨てて出て行った、怖い人だと。

『アヤ、あっちいってろ』と、私をのけ者にする怖い人だと。

それが事実だったとしたら……千葉に私たちを残したことを、悔やむような人ではないはずだ。

貴文兄さんが、いったいどんな人なのか、本当に何も知らないことが、ようやく分かった。

私は写真をカバンにしまうと、立ち上がり、お座敷を後にする。

パンプスを履き、正面の大きな開き戸から、式場に入る。

たくさんのパイプ椅子があった。

きれいに整列したパイプ椅子が向かう先には、白く横長の棺と、その奥に花祭壇がある。

祭壇の中央で、見知らぬ男性が笑っていた。

モノクロの、弾けるような笑顔を見せるその男性は、写真に映っていた男性と同じ顔をしている。

息子を肩に乗せて、幸せそうに笑っていたあの写真と、同じ顔だ。

棺の前には、列ができていた。

貴文兄さんの顔を一目見ようと言う人々が列を成している。

私は、その列を横目に見て、パイプ椅子の一番後ろの列の、一番出口から遠いところに座った。

ここに上座と下座があるとすれば、そこが最も下座に値すると思った。

私は、あの列を成している人々よりも、貴文兄さんを知らない。

この葬儀に来る誰よりも、私が一番、貴文兄さんのことを知らない。

香織さんに対する申し訳なさがなければ、今すぐにでもここを立ち去ってしまいたいとすら思った。

葬儀が始まるまでの時間、私はずっと貴文兄さんに微笑まれて過ごした。

貴文兄さんは、私をずっと覚えていたという。

お酒を飲む度に、私に対して謝っていたという。

私は、貴文兄さんが出て行ってから20年、まったくと言っていいほど貴文兄さんのことを思い出しもしなかった。


「……ごめんなさい」


小さく、こぼれた声は、貴文兄さんに届いただろうか。

届いて欲しいとも、届いて欲しくないとも思う。

貴文兄さんは、葬儀の間中もずっと、私に微笑み続けた。

香織さんが涙ながらに弔辞を述べた時も、私がお焼香を上げた時も、写真の貴文兄さんはずっと微笑んだままだった。

そして私は、葬儀が終わると、たくさんの人に囲まれる香織さんに一礼してから、逃げるように斎場を後にした。

胸の奥の凝った汚泥は、ずんと重みを増していた。

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