ストーブ

佐嶋凌

第1話 「訃報」

実家の母から電話がかかってきたのは、約三ヶ月振りのことだった。

三ヶ月前の電話は、年末は帰ってくるのかという用件に、康祐さん次第だと返したのだったと思う。

結局康祐さんは仕事がまったく落ち着かず、年末実家に帰るどころか、クリスマスを二人でのんびり過ごすことも叶わなかった。

ようやく予定が決まりそうだという段になってこちらから連絡を入れ、帰れない旨を伝えると、あんただけでも帰っておいでと言われたのを思い出す。

仕事に疲れた康祐さんを一人にしたくないと硬く断って、去年の暮れは年末になっても帰りの遅い旦那を労って過ごした。

とにかく三ヶ月ぶりに聞く母の声は、なんだかすっかり元気を失ってしまっていて、取り留めのない会話をしていてもまったく気もそぞろといった様子だった。


「どうしたの、母さん。なんか元気ないわね」


こちらがそう切り出してようやく、母は一番重要なことを話し始める。


「それがね……あんた覚えてるかしらね、お兄ちゃんのこと」

「兄さん? 忘れるわけないじゃない、康彦兄さんがどうかしたの?」


何を言い出すかと思えば。年子の兄をどう足掻いたら忘れられるというのだろう。

しかし母の声は依然として暗く沈んだまま、


「康彦じゃなくて……」


声が一度遠ざかり、


「貴文くんのことよ」


息を潜めて、母は聞き慣れない名前を口にした。


「ああ……、まぁ、覚えてるって言えば、覚えてるけど」


言われて思い出した、という方が正しい。

貴文とは、私より10ばかり年上の兄だ。康彦兄さんが私の一つ上だから、康彦兄さんからも10近く上の兄ということになる。

確か、康彦兄さんは、タカにいと呼んでとても懐いていた覚えがある。

私は……なんと呼んでいただろう。貴文兄さんが、私のことをアヤと呼んでいたのはかろうじて思い出せる。

アヤカのアヤ。思い出せるのは、『アヤ、あっちいってろ』と言われたことだけだった。

そのせいだろうか。貴文兄さんには、なんとなく怖いイメージがある。


「でも、貴文兄さんが出て行ったのって、私が小学校にあがる前のことじゃない。顔も覚えてないわよ」

「そうよねぇ……」


母の声に陰りが増した。

母にとってもあまりいい思い出ではないのだろう。

なにせ血のつながっていない思春期の息子だ。当時はよほど苦労しただろうと思う。


「……それで、その貴文兄さんがどうかしたの? まさかいまさら戻ってくるってわけじゃないでしょうね」


あの父に絶縁状を叩き付けて出て行ったのだ。二度と相馬の家の敷居は跨げないはずだ。

ともすれば、千葉県に入ることすら止められるかもしれない。

父ならやりかねない。


「それがね、貴文くん、亡くなったって言うのよ」


母は、声を沈めたまま、一つ一つ区切りをつけてそう告げた。


「え? 貴文兄さん、死んだの?」


思わず直接的な物言いをしてしまう。

顔も思い出せない兄が死んだと言われても、なんの実感も湧かないけど、それでも肉親の一人だ。驚きはする。


「そうらしいのよ。交通事故でね、わき見運転のトラックに突っ込まれたとかで……」

「そうなんだ……」


母の言葉は、私の頭で現実味を伴わずに流れていった。

なんだかキャスターに読み上げられたニュースを聞いている気分だ。こういうのを、対岸の火事というのだろうか。


「お葬式をね、するらしいのよ。奥さんから電話があってね」

「奥さん? って、ああ、貴文兄さんの」


反射的に聞き返してから、すぐに納得する。

結婚くらいしてるか。私だって結婚している。

10も年上の兄が結婚していなかったら、その方が心配になってしまう。


「えぇ、香織さんって言うらしいんだけどね。いい子だったわよ? 貴文さんは連絡しなくていいって言ってたけど、やっぱりこういうことは大事なことだからって。お通夜の時は気がつかなくてごめんなさいって謝ってくれてね」

「ふぅん……」


顔も思い出せない兄の、顔も知らない奥さんは、私からすればまったく知らない人間だ。

しかし兄が勘当されていなければ、私の姉になったかもしれない人ではある。

興味がないわけではなかった。


「だからね、私はお葬式に顔出してあげたいんだけど、お父さんがね……」

「あー、ダメって言われたのね」

「そうなのよ。あいつはとっくに相馬の家の者じゃないんだから、葬式に出てやる義理なんかない! って怒っちゃって……」


それでずっと小声なのか。

いくらなんでも、父が聞き耳を立てているとは思わないけど、実家の電話は廊下に設置されている。

父がトイレにでも立てば、誰に電話しているのかと訊かれるくらいはあるかもしれない。


「困ったものね、父さんにも」


父が怒る様子は容易に想像できた。子供の頃から幾度となく見てきた光景だ。


「もう15年は前のことでしょ? いい加減忘れてもいいのにね」

「20年よ。貴文くん、中学2年だったから」


20年前。その時の私は4歳だ。なにも覚えていないわけだ。


「でも、父さんがそう言うならしょうがないじゃない。どうせ行ったって、知らない人ばかりなわけでしょ? むしろ気が楽なんじゃない?」


母は父には逆らえない。康彦兄さんも逆らえない。

しかし父は、一人娘の私にだけは甘いところがあった。


「でもわざわざ連絡してきてくれたのよ? 行かなかったら悪いじゃない。私も、貴文くんになにもしてあげられなかったから、お葬式くらい出てあげなきゃ悪いと思うし……」


どうにも歯切れが悪い。これは愚痴なのだろうか。

母が私にそのようなことで電話をかけてくるのは珍しい。


「じゃあ、康彦兄さんに行ってもらったら?」

「ダメよ康彦は。会社もあるし、忌引きなんて使ったらあの人に筒抜けじゃない」


それもそうだ。会長となって一線を退いたとは言え、社内で何かあれば叔父さんから父に連絡が入るだろう。

『康彦くん今日忌引きで休んだけど、いったい誰が亡くなったんだい?』なんて訊かれでもしたら、父は一瞬で茹で上がってしまう。


「それでね文香。悪いんだけどあんた、お葬式に行って来てくれない? もうあんたしか頼める人がいないのよ」

「――えっ!? 私!?」


ひょっとしたら康彦兄さんがズル休みしたと思われるかもしれないな、などと考えていたら、母はとんでもないことを言い出した。


「無理よ私。だって貴文兄さんの顔も思い出せないのよ? なんて言ったらいいかわかんないわよ」


電話先には見えないというのに、思わず手を横にせわしく振ってしまう。


「そこをなんとかお願いよ。いくら出て行ったとは言え、貴文くんも文彦さんの息子なのよ。お葬式に誰も行かないなんて、ひどすぎるじゃない」

「それはそうだけど……急に言われても困るわよ、康祐さんのご飯だってあるし」


康祐さんは、私の料理を好きだと言ってくれる。

だから、出来るだけ毎日欠かさず、手料理で帰宅を迎えたい。


「康祐さんだって大人なんだから、一日くらい一人にしたって大丈夫よ」

「そりゃあ、そうだけど……」


けれど母にはそんなことは関係ないらしかった。

確かに康祐さんも、自分のことはいいからと言ってくれるだろう。


「じゃあお父さんに聞かれたらまずいから、もう切るわね。とにかく、一度康祐さんとも相談してみてちょうだい。あんたがダメなら、お断りの電話入れるから。じゃあね」

「あ、ちょっと母さん!」


そう言って、母は慌てて電話を切ってしまう。

受話器を置いて、私は一つため息をついた。


「困ったなぁ……」


康祐さんは、優しい人だ。

このことを話せば、私や母に気を遣って、断ることなど出来ないだろう。

だから出来れば、私が断っておきたかった。

断っておきたかったのだけど……。


「困ったなぁ」


私はもう一度大きなため息をつく。

とりあえず、夕飯の時にでも相談しよう。

康祐さんは今日も帰りが遅いだろうか。早いといいな。

あまり手短に済む話でもなさそうだから。


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