烟気《けむり》
吾妻栄子
烟気《けむり》
「慮」という字の「思」を「男」に変えると、「
それを私に教えてくれたのは、お父様だ。
お母様と産声すら上げずに息を引き取った弟を共に埋葬し、
日がな一日、書斎に閉じこもり、女中が食事を運んでも殆ど口にのぼせないと聞いて、私が代わりに膳の上げ下げを始めた。
英国に留学中のお兄様が見たら「はしたない」と怒鳴りつけたかもしれないとは思うが、幸い、私の目のある所では、お父様も申し訳程度には箸を動かしてくれるのだ。
その日も、湯気立つ
また、
そこはかとなく残る匂いに、奮い立たせた気持ちが再び沈む。
お父様は文机の上に書きかけた紙と筆と硯を置いたまま、長椅子に腰掛けていた。
「お邪魔でしたかしら」
こちらに向けたお父様の
「いや」
振り向いたお父様は笑顔だったが、そうするとやつれた頬にますます深い
「お食事をお持ちしました」
返事の代わりにお父様は笑顔のまま頷くと、ふと文机の上に目を戻して小さく呟いた。
「
私が膳を持って近付く頃には、紙に書かれた文章の上には斜めに大きく墨の線が引かれていた。
「今日は蟹の身の湯をお持ちしましたの」
まだほのかに湯気を漂わせている皿を私は努めて笑顔で示す。
「今年の蟹は、特に美味しいそうですわ」
「そうかい」
ここにはお父様と私しかいないから、嘘にはならない。
しかし、お父様は二口か三口も食べると、蓮華を皿の上に置いてしまった。
また、失敗した。
知らず知らず屈みこんだ自分の
お父様の好きな蟹ならば、たくさん食べてくれると思ったのに。
暑い盛りが過ぎ、近頃急速に冷えてきた気候に合わせて仕立てた、朱色の厚地の旗袍までが、何だか間抜けに思えてくる。
「
ふと、前髪の辺りに大きな温かい手を感じた。
「大きくなったな」
十五でお父様に嫁いだお母様は、今の私より一つ下だ。
「お前にも
お父様の声が震える。
「私は女ですもの」
お兄様とは違う。
目を伏せたまま、口の端が寂しく笑うのを感じた。
「読み書きを教えていただいただけでも、御の字ですわ」
字も読めない女だって、珍しくはないのだ。
お父様のふっと息を吐く気配がして、私の前髪がさっと冷たくなる。
目を上げると、お父様は手に取った筆の先を硯に付けているところだった。
先ほど文机の隅に退けた、書きかけの文章に斜線を引いた紙をまた中央に戻すと、その余白に流れるように一文字記す。
「慮」
書かれた一文字に見入る私の耳に、お父様の声が響く。
「この字の『思』を『男』に変えると」
余白にまた新たな一文字が生じた。
「虜」
パタリと筆が置かれた。
「『
お父様は皺深い面を横に振って、乾いた笑いを漏らした。
「男子たる者、思うところ無くば、虜として一生を終えるのだ」
色褪せた絹の長衣の肩を苦しげに上下させてそう呟くと、お父様は新たに取り上げた
*****
「明日は、これを着ろ」
帰国してお父様の葬儀を終えるや否や、お兄様は窮屈だとばかりに喪服から洋服に着替えると、英国のものだという煙草を燻らせながら告げた。
「こんな服、私には合いません」
私は知らず知らず自分の白い喪服の胸元を掴んだ。
「お父様が亡くなったばかりなのに、そんな……」
紫の煙の奥からお兄様の眼鏡が冷たく光った。
「関係ない」
煙が目に沁みて、もう出尽くしたと思ったはずの涙がまた一つ零れ落ちた。
*****
「
背広を着込んだお兄様の脇で、花嫁さながら真っ赤な洋服を着た私は俯く。
袖も丈も明らかに長過ぎて、まるで大きな
「あまり外に出たことがなくて、この通り人見知りするんだが、素直で良い子だよ」
誰かその場にいない別の人についての話を聴いている気がする。
「ま、西洋かぶれした女なんて、細君には向かん」
そう
傍で紫煙を吸い込む私にも、これが体に良くないものだろうとは何となく察せられるけれど、言ったところで改めるお兄様でもないから、問い質したことはない。
不意に、洋服の赤いスカートの上に、はらりと一枚、薄桃色の花びらが舞い落ちた。
「ちょうど今みたいな
「よそにはない美しさだ」
振り向くと、川向こうにも海棠の木が列を成して並んでいて、薄紅の花が煙の様に散っていた。
*****
「奥様、お茶をお持ち致しました」
まだ年若い女中の声に、針を動かす手を止める。
「ありがとう」
夕方までには仕上げられそうだと思いつつ、まだ出来かけの
英国製の白い陶器のカップが卓上に置かれると、湯気と共にぱあっと甘い香りが広がった。
旗袍で西洋の紅茶を飲むのも妙な話だと思いつつ、女中が辞すのを見計らって卓上のカップに手を伸ばす。
夏向けに作らせたばかりの濃緑色の旗袍は、これが今の上海での流行りの型だそうだが、あまりにも体にぴったりし過ぎていて、人前で腕を動かすと、腋の下がびりっと裂けそうで不安になる。
無事に一口飲み下し、カップを卓上に戻して、ふっと息を吐く。
こんな風に着飾って西洋のものを飲み食いしたところで、所詮、見せる人もいないのに。
私としては嫌いではないけれど、あの人には飽き足らなく映るのかもしれないと目にする度に思う。
舌触りは甘いのに、後味はどこか苦いこの紅茶は、あの人が上海から送って寄越したものだ。
十七歳で嫁いでもうすぐ三年になるが、あの人が杭州のこの家で過ごしたのは、多分、全て合わせて一年にも満たない。
まだ湯気を漂わせている飲みかけの紅茶を置いたまま、窓辺に向かう。
窓際の壁には、三年前に撮った私たちの婚礼衣装姿の写真が引き伸ばして掛けられている。
婚礼自体は両家の親族が居並ぶ中、中国式に緋色の花嫁衣裳を纏い、真っ赤なベールで顔を隠したのに、あの人が後日、写真師を招いて撮らせた時には、西洋式の白い花嫁衣裳を着せられた(もっとも、写真だと、白以外の色は全て黒く映ってしまうのだけれど)。
西洋では、白は中国のように葬儀の色ではなく花嫁の色だそうだが、写真の中の私はまるで幽霊のように生気のない顔つきをしている。
隣のあの人は、いつも通りの穏やかに微笑んだ表情でいるのに。
後にも先にも私が写真を撮ったのはこれだけだが、他人が見れば、立派な男が随分つまらない女と結婚したと思うことだろう。
あの人が上海から滅多に帰らないのも、もしかすると、そのせいかもしれない。
私に出来る事といえば、せいぜい送られてきた紅茶を大事に飲むこと、上海で流行っている衣装の型を取り寄せて仕立てること、そして、「こちらではつつがなく過ごしています」と書き送るくらいだ。
上海の女は髪を焼いて縮らせているそうだが、さすがにそこまでする勇気はないし、流行の旗袍だって、部屋の中でしか着ていない。
結局、私は古い女なのだろう。
外の世界を知らぬままお父様を看取り、お兄様の命じるまま嫁ぎ、そして、今はあの人の帰りを待つしかない。
妓女が馴染みを変えるように次々男を渡り歩く「新しい女」になどなれはしないし、なりたいとも思わない。
お兄様のように実家にいれば女中に次々手を付け、上海にでも行けば
しかし、あの人の目に映る自分が、単に学友であるお兄様への義理立てとか、民国に入ってから傾いたとはいえ一応は名の知れた家の娘だからとか、そんな理由で娶った、お飾りの妻でしかないと考えるのは辛い。
――男子たる者、思うところ無くば、虜として一生を終えるのだ。
あの人の思うところは、私には分からない。
簾を微かに音立てて揺らす風は、中庭の藤棚を通り抜けてきたらしく、むせ返るように甘い蔓草の匂いをたっぷり含んでいたが、思いのほかひやりとしていて、我知らず剥き出しの自分の腕を抱いた。
「旦那様からです」
低く静かな声に振り向くと、いつの間にか部屋に入ってきていた初老の執事が、こちらに封入りの書状を差し出していた。
「ありがとう」
この前に届いた手紙が
便りがないのは元気な証拠、とこちらが割り切った時をまるで狙うかのように、あの人は報せを寄越すのだ。
汽車が煙を引いて遠のく音を聞きながら、私は窓辺で封を切る。(了)
*筆者注:「清明節」とは中国では四月上旬に行われる祭事です。そこから三ヵ月後ですから、物語の最後はちょうど七月上旬ということになります。
烟気《けむり》 吾妻栄子 @gaoqiao412
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