第2話 始まりは純白

目が覚めると白い壁があった。見たことない壁。いや、何度か見たことがあるおかと思い直す。


意識がゆっくりと覚醒していくのを感じる。自分の両手を見下ろして手を何度か握ったり開いたりしてみる。


僕の手を動かそうとする意思にすぐに答えて手の指が動く。


そこで自分がベットに寝ていることに気が付く。


首を動かして辺りを見回す。


見慣れないけれど懐かしい景色がそこには広がっていた。


「病院……?」


自分のいる場所を確認するように口に出す。


少し大きめの部屋にベットがいくつか並んでいる。ベットの周りには仕切りをできるようにレール付きのカーテンが取り付けられていた。


病院で入院するための病棟だ。


前にも入院したことがあるので覚えている。


「僕はなんで病院にいるんだっけ」


単純に思いついた疑問が口からこぼれた。


あてがわれていたベットは窓際でカーテンを開けてみると太陽の光し込んできて僕の住んでいる街並みが見渡せた。


高さから考えてここは4階か5階ぐらいの高さなのだろうと思う。もう一度室内を見渡してみると同じ部屋に置かれているベットにはそれぞれ患者がいるらしくカーテンが閉まっていたりベットで眠っている人たちの姿が見て取れた。


ふと左隣から視線を感じて振り向くと、隣のベットに座っていたおばあさんがこちらをじっと見つめていた。


僕が振り向いたことで視線が合い見つめあうような状況になっていたので、とりあえず僕は会釈をして愛想笑いを浮かべる。


おばあさんが驚いた表情を浮かべ、突然何かに気が付いたようにナースコールのボタンを押した。


僕がどうしていいかわからず愛想笑いの表情を浮かべたまま固まっているとおばあさんがまるで漫画のように手を上下に振りながら話しかけてきた。


そんな動きで話しかけてきたので「あらあらまあまあ」と言うのかと思っていたのだけれど現実は違った。


「よかった。目が覚めたのね」


「はぁ。ありがとうございます」


自分自身の状況がよく分かっていない僕はあいまいな笑顔を張り付けたまま答えるしかなかった。


「あの、目が覚めたっていうのは?」


自分自身の状況確認の一番簡単な方法は目の前の人に聞くことだと判断して質問すると、予想通りにおばさんが僕の状況を説明してくれる。


「あなたが運ばれてきたのは二日ほど前だったわよ。最初はICU、集中治療室っていうんだっけ? そこに入っていたらしいんだけど、昨日ここの病室に運ばれてきたのよ。命に別状はないけど目が覚めなかったから連れてこられたみたいね。原因? 私も看護師さんから聞いただけなんだけどね。どうも、あなた交通事故にあったみたいよ。

 骨折とかはしていないみたいだけど、頭を強く打ったから意識をうしなっていたみたいね。あ、そうそうあなたは偉いわねぇ。女の子を助けようとして車の前に飛び出したんだってね。

 最近の子は薄情だと思っていたけどあなたは違うみたいねぇ。おばさん見直しちゃった。あと十年若ければアタックしちゃうのにな」


予想以上の返答がすごい勢いで、返ってきた。ちなみにあと十年ぐらい若返るぐらいでは僕のストライクゾーンには入らないと思う。


「ありがとうございます」


思っていることは素直に口に出さない程度の大人である僕は状況を新設に教えてくれたおばさんにとびっきりのよそ行きの笑顔で答えた。 


「高橋さん。どうされましたー」


間延びした声を響かせながら看護師さんが病室に入ってきた。先ほど高橋さんが押したナースコールの対応にやってきたのだろう。これで、高橋さんの話も途切れるだろうと思いながら視線を外して正面を向くと隣から信じられない言葉が飛んできた。


「ほら、隣の斎藤くん目が覚めたみたいなのよー」


まさか僕のためにわざわざ呼んでくれたらしい。大変ありがたいことです。僕は看護師さんのほうに向きなおり頭を下げる。


「あ、どうも」


頭を下げると看護師さんは僕のそばに近づいてくる。僕の表情を見て様子をうかがう。


「斎藤君。自分がどうしてここにいるか覚えている?」


「いえ、あまり。交通事故にあったらしいということは高橋さんから聞きましたけど」


「そう。一応怪我はないし脳にもダメージはないみたいだから心配ないとは思うけど、今先生呼んでくるから待っててね」


看護師さんが病室を出ていくのを見送ってから僕はふと違和感を覚える。


目が覚めてから時間がたって来たからだろうか。意識がはっきりとしてきて記憶が戻ってくる。


違和感。やっぱり違和感がある。


いや、違和感というよりも完全に間違っている。


確かに、僕は交通事故にあった。


女の子を助けようとしたというのは高橋さんの勘違いだ。


結果的にそうなったというだけで、僕は彼女を助けようとして交通事故にあったわけではない。


それは、別にいい。


向かいのベットには誰もいなかったけれど、デジタル時計が置かれていた。表示されている日付を確認する。


四月七日。僕が交通事故にあったのは四月五日。それは間違いない。


問題なのは西暦表示だ。


二○一五年。


そう、確かに僕は交通事故にあった。


二○一五年の四月五日。





ちょうど一年前にだ。


もう一度デジタル時計の表示を確認する。何度見てもそこには二○一五年が表示されている。


僕の記憶には二○一六年の四月までの記憶がある。ついこの前まで二○一六年だったはずなのだ。


辺りを見回して壁にかかっているカレンダーを確認してみると、やはりそこには二○一五年のカレンダーだった。


意味が分からない。何が起こっているのだろうか。


「あのすいません」


僕はあまり気が進まないものの高橋さんに話しかける。


「あら。何かしら」


「今って何年ですか?」


自分で聞きながらおかしな質問だと思う。高橋さんも不思議そうな顔をする。


「二○一五年よ」


高橋さんは首をかしげながらも親切に教えてくれる。


「ありがとうございます」と高橋さんに頭を下げながら考える。


やっぱり二○一五年でまちがっていないらしい。


でも、僕の記憶には確かに一年後までの記憶がある。


僕の頭がおかしくなっているのだろうか?



病室の入り口から白衣を着た男性と先ほどの看護師が入ってきて僕のベットの傍に立つ。


「気分はどうかな? 斎藤君」


医者の胸元に池田というネームプレートを付けた先生が質問してくる。看護師さんの胸元には朱里と書かれたネームプレートが付けられていた。


あかりと読むのだろうか? 名前のような苗字だなと思う。


目の前からの視線に意識を引き戻されて池田先生の質問に答える。


「体に特に不調は感じません。ちょっと記憶がまだはっきりしませんけど」


「そうか」と先生はうなずき手に持っていたカルテらしきものに、何やら書き込んでいく


「斎藤君は交通事故にあってね。頭を打っているから記憶が少しあいまいなのかもしれない。特に異常は見つかっていないからそのうち記憶もはっきりしてくるだろうから心配しなくてもいいよ」


先生がにこやかに笑いながら言った。


記憶ははっきりしているのだけれどその記憶が現実と一致しない場合はどうすればいいのだろうと思う。


けれど、そんなことを言っても記憶が混乱しているんだろうといわれそうなのは目に見えていたので、とりあえず黙っておくことにする。


一通りの診察を終えると池田先生は病室を出て行った。特に問題はないようで順調にいけば明日には退院できるだろうということだった。


「もうすぐご両親も到着するから心配しないでね」


朱里さんの言葉にふと記憶が刺激される。


そうだ、僕が目が覚めたとき、両親は血相を変えて病院にきて病室でないてくれたのを思い出す。


人前で恥ずかしい反面、こんなに大事に思っていてくれたんだとうれしく思ったんだった。


「あ、それとね。君が助けた女の子。水下桜っていうんだけど、一度会ってお礼が言いたいんだって。会ってあげてくれる? よ、色男」


朱里さんがにやにやと笑いながら肘で脇腹とつついてくる。


「発言がおじさんですよ」


僕の突っ込みにあははと笑って答える朱里さん。


「ま、それは冗談だけど。お礼を言いたがっているのは本当だから一度会ってあげてよとお姉さんからもお願いするよ」


「でも、僕は助けようと思ったわけじゃなくて、たまたま僕が事故ったおかげで車が彼女のほうに行かなかっただけですよ」


そうなのだ。確か、一年前も不思議に思ったのだ。僕は確かに交通事故にあった。でもそれあ彼女を助けようとしたわけではないのだ。


たまたま自転車で信号待ちをしていた時、対向車の車がふらふらと揺れているのが見えた。気になって運転席を見てみると、居眠りをしているのか運転手が船をこいでいるのが見えた。


その時の僕の心情は、おいおい危ないだろあれ。だ。


特別、危機感があったわけでもなく。どちらかといえば他人事だった。


それでも一応の義務感として自転車のベルを何度か打ち鳴らした。


こんなもので起きるとは思わなかったけれど、もし目が覚めたらラッキーぐらいの気持ちだった。


実際は意外にもそのベルの音で運転手は目が覚めた。


僕の自転車のベルが通常よりも大きめのものが取り付けられていた事と運転席の窓が開いていた事でベルの音が聞こえたのだろう。


運転手は確かに目が覚めて、自分の運転していた状況が突然わかって驚いた。


そして、運転操作を誤ったのだ。


結果。その軽トラックはハンドル操作を間違え、道路から僕の走っている側道とその背後にある歩道の方向へ突っ込んできた。


僕は驚いて硬直し、動くこともできずに軽トラックと衝突した。


その僕のいた場所のすぐ背後の歩道に彼女、水下桜がいたというわけだ。


確かに僕がその場所から逃げていれば彼女に軽トラックは突っ込んでいただろう。


そして、当時車椅子に乗っていた彼女にはそれを避けることはできなかっただろうとは思う。


でも、結局のところ僕がベルを鳴らさなければ軽トラックは突っ込んでくることはなかったし、僕は彼女を守るためにその場を動かなかったのではなく、ただ硬直して動けなかっただけなのだ。


それを守ったと言われるのは、やはり違うと思う。


「まぁ、君がどう思うかは別にしてお礼が言いたいというんだから素直に受け取っておくべきだと思うよ」


朱里さんに念を押されてしぶしぶ頷く。ふと一年前も同じことを思ったなと思い苦笑する。


「分かりました」


「素直でよろしい」


朱里さんは快活に笑って僕の頭を撫でた。病室を出ていく朱里さん見送りながら不思議な気持ちになっていた。


やはり一年前の出来事が繰り返されている。


そう、僕と桜は退院する日に初めて出会ったんだ。


頭の中ではそんなことはあるはずがないと思いながらもどこかで本当に時間が巻き戻っているのではないかと思い始めていた。


僕が病院を退院する日、向かえに来てくれた両親に連れられて病院を出た。


父親が駐車場に車を取りに行っている間に僕は少し緊張しながら立っていた。


僕の記憶ではこの時に朱里さんに声をかけられるのだ。


「斎藤君」


僕の心臓の動悸が早くなる。


後ろを振り返ると朱里さんと車いすに乗った女の子がいた。


「朱里さん」


「紹介するね。この子が水下桜さん。君が助けた女の子だよ」


朱里さんがにやにやとした笑みを浮かべながら紹介する。


女の子は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして首を横に振った。


「何言っているんですか。いや、助けてもらったのは本当なんですけど」



わたわたと慌てる姿がとても愛嬌があって可愛らしいなと。僕はもう一度同じ感想を持ち、一年前と同じように水下桜に好感を持った。


「助けていただいてありがとうございました」


桜は車椅子で目の前まで来ると頭を深く下げた。長い髪の毛が耳の横から落ちる。


「こんな格好で申し訳ないですけど」


「いや、僕も何かしたわけじゃないから……ないですから」


思わずなれなれしく話しかけてしまいそうになり慌てて敬語に直す。


「あ、この車いすは交通事故じゃないから心配しないでくださいね。もともとちょっと足が悪くて。歩けないほどじゃないんですけど」


ああ、そうだった。こんな会話をしたなとおぼろげに思い出す。


たった一年とはいえ会話の内容なんてあまりはっきりとは覚えていないものだなと思う。


「これ、大したものじゃないんですけど」


桜が車いすの後ろから少し大きめの紙袋を取り出して僕に手渡してくる。


何だっただろうかと思いながら受け取り中を覗くと可愛らしい袋にラッピングされたクッキーだった。


「クッキー」


「ええ、ちょっと看護師さんに頼んで調理場を貸してもらいました。あんまり上手じゃないですけどよかったら食べてください」


「ありがとう」


僕は素直に思ったことを口に出した。


ああ、そうだった。この時手作りのクッキーをもらったんだった。


二度目の記憶でもやはり嬉しいものは嬉しいようだ。


クッキーの袋の横に一枚のメモ用紙が入っていたはずだと思い覗くと、やはり可愛らしい模様のついたメモ用紙が入っていた。


僕はそれを取り出してメモ紙を開く。


「あ、それは。あのその……」


桜が慌てたように手をあたふたと動かす。


僕はその様子が可愛くて思わず笑ってしまう。


メモ用紙には桜の電話番号とメールアドレスが書かれており、下に小さな字で「もしよかったら、私の話し相手になってくれませんか?」と書かれていた。


「あのその」と桜は顔を真っ赤にしながらうつむいていた。


「僕でよければ」


僕は一年前と同じように桜に返事をして手を差し出し


「よろしくお願いします」


と桜は僕の手を握り返した。


病院での桜とのやり取りを両親にからかわれながら一人暮らしを始めたばかりのアパートに送ってもらう。


にやにやした表情を浮かべたまま見送る両親を手で追い払いながら数日の入院生活で使用していた着替えが入った鞄を肩に担いで階段を昇る。


扉の前に立って部屋のネームプレートを確認する。


真新しい自分の名前の入った紙を眺める。


自分の記憶の中にあるものよりも奇麗だなと思う。


扉を開けると短い廊下と右手には小さなキッチンがある。


廊下の奥には六畳ほどの部屋がある。


見慣れた僕の部屋だ。


壁際には背が低い本棚。部屋の中央に二人座れば手狭になりそうなテーブルがひとつ。


その目の前のラックにはあまり大きくないテレビが置かれている。


男一人が暮らせる程度の家電がそろっているだけの小さな部屋。


それでも、僕自身は割と気に入っている部屋だった。


特にお気に入りは窓際に置かれた人一人がちょうど寝転がれるソファだった。


その僕のお気に入りの場所に女が寝っ転がっていた。


「あ、おかえりー」


女が体を起こして陽気に手を振った。


「おかえりって言ってるでしょー。聞いてる?」


黙っている僕に繰り返し手を振ってくる女はにこにこと笑ったまま近づいてくる。


目の前で手を左右に振り様子をうかがっているようだった。


「あなた誰ですか?」


僕は素直に疑問に思ったことを口に出す。


すると、女は今度はにやにやと笑いながら言った。


「誰に見える?」


その質問に答えることはできた。


その見知らぬ女の顔は


水下桜だったからだ。


答えることはできたけれど、僕はその名前を口にすることはできなかった。


「んー。大体わかるんだけどねー。当ててみようか?」


ソファから立ち上がって女は近づいてくる。


僕の目の前まで来て立ち止まる。


何かを言いかけようとした僕の唇を人差し指で押さえながら言った。


「君の場合だと水下桜あたりかな?」


僕の答えを聞かずとも正解を知っているという顔で笑う。


「あなたは誰なんですか?」


やっと出た言葉に女は唇から指を話して踵をかえす。


「斎藤さん。あなたは今、不思議に思っていることがあるでしょう?」


僕に背中を向けている彼女の表情は見えない。


「何のことですか?」


言ってもいいのかどうか分からないので質問で返すことになる。


「時間が巻き戻ってるんじゃないかって思っているでしょう?」


彼女はこちらを振り返り真面目な顔で僕に告げた。


「ちょっと待ってください」


色々言われて頭の中がショートしそうになる。


いったい何がどうなって。


頭を抱えて考え込む。


「いいですよ。ゆっくり考えてください」


にこにこと笑顔の表情を浮かべて言う。


「まず、ここからはっきりさせてください」


一息。呼吸をはいて自分の心を落ち着かせる。


「あなたは誰なんです?」


「そうですねー。何といえば分かりやすいですかね」


 彼女は顎に人差し指を当てて考え込むように言う。


「一言で言えばですね」


 彼女も間をあけるように一息呼吸を吸った。


「神です」


 あっけらかんと言った。


「は?」


 思わず口から零れ落ちた言葉は疑問符だった。


「斎藤さん。馬鹿みたいな顔していますよ?」


「いやいやいやいや。何言ってんの?」


思わず敬語を忘れて素で聞いてしまう。言うに事欠いて神様とは大きく出たものだ。


「そうですよね。さすがに神様って呼ぶのは気恥ずかしいと思いますし、私のことは神楽って呼んでくれたらいいですよ」


にこにこと告げてくる。僕が言いたいのはそういうことではない。


いや、確かにこの人のことを神様と呼びたくないというのは本当なのだが。


「でも、今あなたの身に起こっていることを一言で説明できるまさにご都合主義的な答えですよ」


「それはそうかもしれないけど、そうかもしれませんけど」


「ああ、敬語とか使わなくてもいいですよ。神様の私は寛容なので。それにいつでもあなたの側に這いよる神様が私のモットーなので」


「なんだその嫌すぎるモットーは」


彼女、神楽は本当に自分が神様と言い切るつもりのようだった。


「じゃあ、神様らしいことしてみてくれませんか?」


「神様らしいことって何ですか?」


神楽が不思議そうに首をかしげる。そんな仕草を水下桜の顔でしないでほしいと思う。


「そうですね。空を飛んだりとか、雨を降らせるとかですかね?」


「あはははははは」


神楽がおかしそうに笑う。


「何がおかしいんですか」


「いえ、何というか古いですね」


「ほっとけ」


神様らしいこととは何だろうと考え直してみる


「そうだ。死んだ人を生き返らせるとかどうですか?」


「あはは。できるわけないじゃないですか」


にこやか笑った後に真顔になって言った。


「それに、できたとしてもやりませんよ」


確かにそれはそうだと思う。


「でも、あなたの願いを叶えることはできますよ」


「僕の?」


「正確に言うともう叶えてあげたんですよ」


僕の願い? 何かあっただろうか。神様にお願いしなければならないほどの望みなんて。


「この時間の逆行。タイムリープって奴は斎藤さん。あなたが望んだことなんですよ」


まったく身に覚えがなかった。


「神様って奴は嘘をついていもいいんですか?」


僕は嫌味を込めて言う。


「神様だって嘘ぐらいつきますよ。だって神様ですからね。でも、この話は嘘じゃないですよ」


嘘だ。と僕は心の中で反論する。僕が過去に戻りたいと思うはずがない。だって僕は自分で言うのもあれだけれど幸せに生きていたのだ。


過去に戻ってまでやりたいことなんてない。むしろやり直したくなんてないんだ。



「やっぱり僕が過去に戻りたいなんて望むとは思えません」


「どうして?」


「別に自分の人生に不満を持ったことはありませんから」


神楽が僕の顔を凝視するように眺めた後


「あはははははははははは」


とお腹に手を当てて笑い始めた。


「何がおかしいんですか?」


僕が不満げに抗議すると、僕の言葉を遮るように手を前に突き出す。仕方なく黙り込むが神楽はそれからしばらく笑い続けた。


笑いが収まると笑いすぎて流れた涙を指で拭いながら神楽が言う。


「いやいや、すいません。悪気があったわけじゃないよ。でもなかなかいないよ。自分の人生に不満を持っていないなんてあっさりと言える人は」


「でも、僕は実際に不満はありませんよ」


「そうだね。今のあなたには不満はないだろうね」


僕は意味が理解しきれず首をかしげる。


「斎藤さんあなたはちょうど一年後に願うよ。やり直したいもう一度この一年を繰り返したいってね。その理由は教えてあげられないけどね。自分で思い出してよ。これは自分で望んだことなんだ、そして私はその願いを聞きとげた。ただそれだけの事だよ」


「神様なんだったらその理由ぐらいに教えてくれてもいいんじゃないんですか」


神楽は首を横に振ってまたニコニコと笑う。


「神様って言うのは願いを叶えるだけじゃなく、試練も与えるものでしょう? だからこの一年をあなたにあげる。どう過ごすかは斎藤さんあなたが自由に過ごせばいいよ」


自由にと言われても困るというのが素直な感想だった。


神楽は腰かけていた窓枠から立ち上がると僕の肩に手を軽く置いて通りすぎていく。


「ではよい人生を」


玄関口で靴を履く姿を見つめながら、神様も靴を履くんだなと思った。


「あ、待ってください」


僕は背中に声をかけて呼び止める

 

 


神楽がこちらを振り替えって首をかしげる。


「なにか?」


「まだ聞き忘れていたことがありました」


「何でしょう?」


僕は神楽の顔を指差し質問する。


「その顔はなんですか?」


ふふっと口許に手を当て優雅に笑う。


「この顔とは?」


「何で水下桜と同じ顔をしているんですか?」


「それは斎藤さんあなたが水下桜さんを大切な人だと思っているからです」


神楽の言葉に息を飲む。

 

 

   

「私自身今自分がどんな顔をしているかわからないんだよ。私の顔は見た人の分だけある。人間はね見たいものを見るんだよ。だから神様として顔を持たない私は見た人が一番大事に思っている人の顔に見えるのさ」


にやにやとした笑みを再び浮かべ僕の様子をうかがっている。


「それは母親だったり父親だったり友人だったり恋人だったりする。どうした斎藤さん顔が赤いよ」


からかうような言葉に僕は神楽を睨み付ける。


「まぁ、水下桜さんはいい子だよ」


あははと笑い神楽は部屋を出ていった

 

 

   

ばたんと音をたてて閉められた扉を呆然と見つめながら僕はしばらく立ち尽くしていた。


「いったい何なんだこれは?」


思わず疑問が口からこぼれる。神様? タイムリープ? 本当にそんな事がありえるだろうか。


普通に考えればあり得ない。でも実際に一年前起こった事が再現されているのは確かだ。


事故に水下桜との出会い。僕が一度体験したことが再び起こっている。

 

 

   

部屋の様子も一年前と同じのような気がする。夏頃に買い換えたはずのテーブルは実家から持ってきた古いちゃぶ台だし、カレンダーも2015年の物がかかっている。


「テレビでもあればな」


ぼやくが、無いものは仕方がない。というか、この島にはテレビというものが限られた場所にしかないのだ。


そう。島ここは日本海に浮かぶ小さな島の一つなのだ。

 

 

   

この島が生まれ故郷というわけではない。


高校生になってこの島に引っ越してきたのだ。


青春真っ只中の時期にわざわざこんな何もない島にやってきたのにはもちろん理由がある。


僕が通う雄星高校は進学校だ。島の唯一の高校ではあるが、偏差値は高く進学率も高い。


「自然の中にある高校で集中して勉学に励もう」が雄星高校のコンセプトであり売りでもあった。


物は言いようで、ほとんどの店が午後八時に閉店し、島唯一のコンビニもコンビニとは名ばかりで午後九時には閉まるような場所なら遊びに惑わされることなく勉強できるだろうということだ。


雄星高校には寮があり多くの学生はそこに入寮している。朝昼晩の食事は寮にある食堂でとることができ、店と言えば、自転車で三十分以上走ったところにあるスーパーとデパートとは名ばかりの古くから地元の人が経営している小さな個人店が入っている三階建ての建物があるだけの場所は悪い言い方をすれば島に学生を軟禁状態にしているとも言える。


僕は団体行動というのが苦手なので、寮には入らず島にある数少ないアパートを選んで一人暮らしをしている。


家事は自分でこなさなければならないがその分自由はある。とはいえ、一人暮らしだろうと寮暮らしであろうと島での軟禁状態に違いはない。


でも、僕はこの環境が気に入っていた。

 

 

   

勉強は割と好きなほうだったし、この島では苦手な友人関係に多くの時間を割かなくていいというのは僕にとって行幸だった。


わざわざ親に頼んでこの学校を選んだ僕はこの学校に通っている生徒の中でも珍しいほうだろう。


そういう環境をできる限り整えようとしているので、学生が多く住んでいる寮には基本的にテレビがない。学生がまとめて食事ができそうな大きな食堂に一つテレビが置かれているが、それも自由に見ようと思うと他の学生たちに許可を取ってから見る必要がある。


携帯電話も禁止されているわけではないが、今だにガラケーを持って最安値のプランを選んでいる僕にはインターネットもあまり見られるような環境ではない。

 

 

   

携帯電話と取り出してインターネットに接続しようとして画面を開くが読み込み画面から一向に進もうとしない。


「なんだ? 調子悪いのか?」


結局五分ぐらい待ったところでウェブ に接続できませんの文字が表示されるだけでネットに接続することはできなかった。


「このテレビが映ればいいんだけどな」


部屋の中央に置かれているテレビを撫でる。テレビを置いているもののあまりテレビ番組というものを見ない僕の部屋にあるこのテレビはアンテナがつながっていない。


だから、テレビ番組が映ることはなくもっぱらDVD再生用のモニターと化している。

 

 

   

「うーん」


神楽が言っていたことが本当かどうかは分からない。友人に連絡して確認してみたいところだったが、まだ入学したばかりでまだ一度も学校に行っていないこの時期では携帯電話に友人の電話番号は登録されていない。


仕方がなく携帯電話に登録されている母親の番号に電話をかける。数回のコールの後慌ただしい声が答えた。


「はいはい。もしもしー。母ですよー。どうしたー。もうホームシックかー?」


母の騒がしく元気な声が携帯から聞こえてきて少し携帯を耳から離す。


「もしもーし」


「ああ、母さん。元気そうで何より」


「はっはっは。元気が取り柄だからねー」


声だけでも胸を張って笑っている母の姿が思い浮かぶ。

 

 

   

「で、どうした。本当にホームシックなわけじゃないでしょ?」


母が少し声のトーンを落として聞いてくる。


「うーん。ちょっとね。おかしなこと聞くかもしれないけど」


「言ってみな」


「今って何年?」


受話器の向こうで戸惑った空気が流れる。


「一人暮らしを初めてぼけたのかー?」


しかし、すぐに母の陽気な声が返ってきた。


「今年は二○一五年に決まってるでしょ」


僕はもう一度カレンダーを見る。母もカレンダーと同じ年月を言ってきた。


「やっぱり、そうだよね」


「本当にどうしたのさ。大丈夫かい?」


 事故で頭を打っていることもあって母は本当にこちらの心配をしているようだった。


「いや、何でもないよ。ちょっと確認したかっただけ」


「本当に大丈夫?」


「うん。なにか異常を感じたらすぐに病院に行くよ」


僕の言葉を聞いてようやく安心したのかほっとした空気が流れる。


電話を切ってからもう一度考える。どうやら時間が戻っているのは本当らしい。信じられない気持ちはまだまだ残っているが、あまり深く考えても仕方がない。


そうなると、気になるのはこの一年に何があったのかということだ。


世間にはタイムリープ物の映画や小説、漫画あふれ返っている。僕も何個か読んだことがある。


タイムリープ物のセオリーと言えば、過去の記憶を使って未来を変えるとか、過去の悪い出来事を防ぐとか言う話が多い。


それを踏まえてだ。


困ったことがある。何せ一年前の記憶だ。



正直に言って。





ほとんど覚えていないのだ。

 

 

   

さすがに大きなできごとは覚えている。


細かいところまでは覚えていないというのが本当のところだ。


この一年であったことを覚えている限りで書き出してみるか。


部屋の隅にある棚からノートとボールペンを取り出し を開く。


「この一年のできごとか……」


色々な事があった気がするが、いざ思い出してみようとするとなかなか言葉にできない。


・4月。交通事故にあい水下桜と出会う。


・4月下旬。水下桜の秘密を知る。


そこまで書いてボールペンをノートの上に投げ出した。

 

 

   

そう。まずこれなのだ。


交通事故に会い、桜とそれなりに話すようになって知ってしまった事実。


確かに、この出来事がなければ僕たちはあんな関係にはならなかっただろうし、なれなかっただろう。


それがいいのか悪いのかは分からない。


あの関係を僕はもう一度築きたいのだろうか?


分からない。


僕と彼女の関係は僕にもよくわからない。


でも、ひとつ分かっていることは彼女は重大な病気に侵されているということだ。

 

 

   

「あー。もうやめよう」


考えるのが面倒になって床の上に寝転がる。


今、考えても分からないものは分からないのだ。


「なるようになるでしょ」


自分に言い聞かせるように呟いて考えるのを放棄して目をつぶる。


そのまま僕はいつの間にか眠りの中に落ちていった。

 

 

   

「おはようさーん」


翌朝、僕は陽気な声でたたき起こされた。重たいまぶたをゆっくりと開けると目の前に神楽の顔があった。


「うわー」


「何んですか。その心の底から嫌そうな顔は」


「心の底から嫌なんですよ」


僕は素直に答える。


「失礼な。朝からこんな美女に起こしてもらえるなんて男のロマンでしょうに」


「その顔で言うのやめてもらってもいいですか」


あははと笑いながら神楽は僕から顔を離す。


「そんな床で寝ていると風邪をひくよ」


そういえば、あのまま床で寝てしまったんだと思い出す。体のあちこちがぎしぎしと痛む気がした。今日からは布団で寝ようと心に決める。

 

 

   

痛む体に鞭を打って立ち上がると、テーブルに神楽が行儀よく座っていた。期待するようにこちらを見ている。


「何をしているんですか?」


「ご飯まだかなーと思って」


にっこりと笑っていつの間に取り出していた箸を持っている。


僕はため息をついて一応聞く。


「神様は食事しなくても平気なんじゃないですか?」


「あはは。そんなわけないじゃん」


いつものように真顔で笑って神楽が言う。


棚から菓子パンを取り出すと皿の上にのせて目の前においてやる。


「え。これだけですか?」


「充分でしょう」


「えー。肉とか食べたいですねー」


「仮にも神様を名乗るんだったらそんな事言わないでくださいよ」


自分の分も適当に皿に出してテーブルの上に置く

 

 

   

神様と食卓を囲むというのもシュールな絵面だなと思いながらもパンを口に運ぶ。


神楽は思ったより気に入ったのか、こちらを見ることもなく食べ続けている。


僕の視線に気が付いたのか、いったん食べるのをやめると僕をにらみつけてきた。


「人の食事風景を眺めるなんて良い趣味じゃありませんね。恥ずかしいでしょう」


「あ、ごめん」


素直に謝り自分のパンを再び口に運ぶ。二人ともがパンを食べ終わると、一息ついた後に神楽が聞いてきた。


「私が神様だと信じる気になりましたか?」


「いや、もう分からないからどっちでもいいかなと」


僕は面倒になって投げやりに答える。


「いやいや、斎藤さんらしいですよ」


僕は肩をすくめて二人分の食器を流し台に下げる。

 

 

   

「じゃあ、僕は学校に行かないといけないので準備しますね」


「お好きにどうぞー」


神楽は食事を食べると僕にもう用はないのか、勝手にテレビをつけて眺め始める。


鞄の中身を確認して、制服を備え付けのクローゼットから取り出す。


廊下に出てなるべく神楽の死角になる場所で着替えると部屋に戻って声をかけた。


「じゃあ、学校に行ってくるので」


神楽はこちらよりもテレビに興味があるようで手だけ振って答えた。


玄関を出て鍵を閉めると僕は学校に向かって歩き出した。

 

 

   

目的地の雄星高校は島の中心にある小高い丘の上に立っている。学校の敷地内には校舎やグラウンド体育館などの施設のほかに生徒が寝泊まりする寮も立っている。


大半の生徒は寮から通うため、学校前の登坂を歩く必要はないのだけれど、アパートに暮らしている僕は当然、毎朝この坂道を登る必要がある。


自転車通学も考えたが、この坂道を入学前の説明会の時に見た時点であきらめた。


長い登坂を登って学校の教室につくと、中ではクラスメイト達が仲良さげにおしゃべりをしていた。


僕は交通事故で入院していた為、今日が初登校ということになる。


教室の扉をくぐると視線が一瞬こちらにあつまるが、すぐに自分たちのグループに戻っていく。


教室の中を見渡して空席を探す。まだ入学してそれほど期間がたっていないので、席順は出席番号順のはずだ。


窓際の列に僕の席らしい空席が見つかったのでそこに向かう。


鞄を横にかけて席に座ったところで時計をみると八時十五分を回ったところだった。

 

 

   

始業時間までまだしばらくあるなと思い、一時限目の準備をしようかと鞄に手を伸ばしたところで、後ろの席から肩を叩かれた。


振り返ると、茶髪で耳にピアスをしている男が笑って手を振っていた。


「えっと……」


僕がリアクションに困っていると、彼が自分から口を開いた。


「君、斎藤明だろ?」


「そうだけど」


「俺は後ろの席の高柳って言うんだ。席も近いし友達になろうぜ」


「何、他人行儀な事いっているんだよ。亮二」


僕の言葉に驚いた後に、怪訝な顔をする亮二。


「何で俺の名前知っているんだ?」

 

失敗したなと思った。そうか、一年前だとまだ亮二とは友達になっていなかったのだ。同時に思い出した。登校初日、こんな風に亮二に話しかけられて友達になったんだった。


「ああ、ごめん。入院しているときに一応クラスの名簿はもらっていたから。そこで名前を見てたんだ。出席番号も近いしね。僕も友達になれたらいいなと思っていたんだ」


「変な奴だな」


亮二はまだ怪訝そうな顔をしながら首をかしげた。


「また。どうせ馬鹿な事言っているんでしょ」


亮二の横から南晴香が話しかけてきた。


「何だよ。馬鹿な事って」


不満そうに頬を膨らます。顔が整っている亮二がやるとそれでも様になっている。


「あ、私は南春香っていいます。よろしくね。斎藤くん。私とこいつは幼馴染なんだ。亮二と仲良くしてあげてよ。頭はいいけど悪いんだ」


「どういうことだよ」


「そのままだけど」


二人がじゃれつくのを見ながら俺は苦笑する。

 

 

   

晴香は亮二の事が好きなのだ。前回はまったく気が付かなかったが、今こうして見てみると確かに晴香の行動は分かりやすかった。


この二人が夏頃には付き合い始めることをすでに知っている僕は二人がいがみあっている姿はただじゃれついているだけにしか見えず思わず笑ってしまう。


「何を笑ってるのよ。明もこいつに言ってやってよ」


もうすでに名前呼びになっている。ああ、このこちらの様子をうかがいながらも距離を近づけてきてくれる晴香に僕は随分助けられてきたんだろうなと思う。


「そうだよ。そんなににやけてないで、言ってやってくれよ」


亮二も不満そうに言ってくる。僕は笑いながら二人に言ってやった。


「二人ともあんまりいちゃいちゃするなよ」


僕の言葉に二人が同時に顔を真っ赤にする。


『してないよ!!』


否定の言葉までそろっていて、僕はさらに笑ってしまう。

 

 

   

「ほらほら、静かにしろー」


教室の前のドアが開いて二十代半ば頃の女性が入ってくる。担任の中村秋穂先生だ。


先生の言葉を聞いて散り散りになっていたクラスメイト達がバタバタと自分の席に戻っていく。


「全員いるかー」


間延びした声で聞きながら教室を見渡して中村先生は僕と視線が合ったところで視線を止める。


「斎藤ー」


「何ですか?」


僕が聞き返すと、肩をがっくりと落とす。


「言っただろ。一度職員室に来いって。お前今日初登校なんだから」


ああ、そういえば病院にいるときにそんな連絡をもらった気がする。


「すいません。忘れてました」


「まぁ、いい。斎藤の席はそこで合っているからな。それともう一人今日からこのクラスに復帰する人物がいるから、皆仲良くしてやってくれ。入ってきていいぞ」


中村先生が手招きをして人を呼び込む。

 

 

   

教室の中に入ってきたのは見知った顔だった。いや、当然なのだけれど。僕はこの時誰が入ってくるのかも覚えていたはずなのだ。


それでも、僕は驚いてしまった。


教室に入ってきたのは水下桜だった。病院で見た車いす姿ではなかったが、右手には体重を支えるためだろう、杖を持っていた。僕はガタリと音を立てて立ち上がってしまう。


「どうしたー。いや、驚くのは先生も分かっていたけどな。だから最初に職員室に来いって言ったんだ」


「水下桜と申します。ちょっと事情があって通学が遅くなってしまいましたけど、よろしくお願いしますね」


深々と頭を下げた後に見せた表情は魅力的な笑顔だった。


「ああ。水下さんか」


僕はほっとして椅子に座りなおした。神楽が学校にまで来たのかと思ったのだ。


本物の水下桜だと分かり僕はあからさまに安堵していた。

 

 

   

「あの娘が明が助けたっていう桜ちゃんか」


後ろから亮二がひそひそと話しかけてくる。


「可愛いじゃん」


「別に顔を見て助けたわけじゃないし、そもそも僕が助けてわけじゃないよ」


「そういうことで、このクラスがようやく全員そろったわけだから皆よろしくな。水下の席は南の後ろだ」


中村先生にうながされ自分の席に向かって歩きだす。僕の横を通り過ぎる時に小さく微笑んで横を通り過ぎた。


 

 

   

放課後、晴香が桜を引き連れて僕と亮二の席にやってきた。


「これからカラオケに行こうよ!」


第一声に目的を告げられて僕は肩をすくめる。


「また、いきなりだな。南は」


亮二が呆れたように言う。


「いきなりだからいいんでしょ。初対面だから相手のことを知りたいとおもうじゃん」


「それでいきなりカラオケはハードル高いんじゃないの?」


亮二がもっともな事を言う。


「でも、桜ちゃんは良いって言ってくれたよ」


後ろを振り返ると桜が小さくうなずいた。というか、すでに桜ちゃんと呼んでいる晴香に素直に感心する。


「じゃあ、いいか」


「一応僕にも聞いてくれる?」


一応ツッコミを入れてみる。


「あ、本当だ。ごめん忘れてた!」


亮二が手を合わせて謝ってくる。


「いや、わざとだね」


「いやいやいや。本当に忘れてただけだって」


「あーあ。僕は亮二に忘れられるほど存在感が薄いってことだ」


「いやいやいや」


亮二は何度も繰り返して首と両手を振って全身で否定する。

 

 

   

僕らのやりとりを見て桜がくすくすと笑う。


「水下さん笑うところじゃないから」


慌てて否定する亮二の様子がさらにツボに入ったらしく笑いが止まらなくなる。笑いすぎて涙が出てしまうしまつだった。


「ごめん……ごめん」


「あー亮二が桜ちゃんを泣かせたー」


「そうだぞ。謝れ」


僕と晴香が口をそろえて言い立てる。


「お前らなー」


本当に困った表情を浮かべる亮二に僕は相好を崩す。


「まぁ、亮二をからかうのはこの辺りにして。本当にカラオケに行く? 水下さんも大丈夫?」


「ええ。大丈夫だよ」


「じゃあ、近くにカラオケあるからそこの行こうよ。二人の歓迎会も含めてさ」


まだ不満げに頬を膨らませている亮二を引き連れて僕たちはカラオケに向かう。

 

 

   

カラオケに向かう途中、亮二と晴香が先頭を歩き道を案内してくれた。必然、僕と桜は二人並んで歩くことになった。


「同じクラスだったんですね」


「ええ。私は知っていましたけど。というか敬語で話すはやめませんか? 私もあまり敬語は得意ではありませんし」


桜の提案に僕はうなずく。


「そうだね。僕もあまり敬語は得意じゃないんだ」


「じゃあ、病院でもお願いしたけど。これからよろしくね。明」


言って、桜は笑う。でもその笑顔はどこかぎこちなく。無理して笑っている、恥ずかしがっているのを一生懸命隠しながら笑っているように見えた。


僕の胸が騒いだ。


ふと感じる違和感。でもそれが何かわからない。


 

 

   

「どうしたの?」


黙っていいる僕に不安になったのか、桜がこちらの顔をのぞき込んでくる。


「いや、何でもないよ。こちらこそよろしく」


「桜でいいよ」


桜が言った。


「え?」


僕は戸惑った声を出してしまう。


「桜」


もう一度彼女が自分の名前を言う。


僕は。一年前なんて答えたんだったか。


こんな風に桜に名前で呼んでほしいと僕は同じように言われたのだろう。


でも、僕は桜のことを名前で呼んだことは一度もなかった。


だから。この時僕は結局はぐらかしたのだろう。


期待した顔で桜が僕をのぞき込んでいる。

 

 

   

「よろしく。桜」


僕は初めて彼女の名前を呼んだ。


呼んでもいいと今なら思えた。


今、この時のタイミングを逃すべきではないと思った。


「はい。よろしく!」


元気よく桜が手を挙げて返事をした。


「どうしたの?」


桜の声に気が付いた亮二と晴香がこちらを振り返る。


「なんでもないよ」


桜が二人の間に走って行ってそれぞれの両腕を引っ張って歩いていく。


僕はしばらく呆然と立ち尽くしていた。


彼女の見せた表情。その笑顔に僕は。


………していた。


カラオケは素直に盛り上がることができた。


僕は自分の歌は下手なほうだと思っていたが、亮二の音痴はそれに輪をかけてひどかった。


「音程なんて、高い普通低いの三音程しかないだろ?」


真顔で言う亮二には晴香と僕、それに桜の三人全員がツッコミを入れざるを得なかった。


「いいだよ。歌なんて楽しく歌えれば。大事なのは魂だよ。ソウルだよ」


確かに、下手でも全力で楽しそうに歌う亮二を見ていると自然と楽しく感じられたし、自分の歌の上手い下手など気にならなくなっていた。


晴香は女子高生らしく、流行りの歌を歌って盛り上げていたし、桜は九十年代の歌謡曲という渋いラインナップだったが、その歌声は驚くほどにうまかった。


思わず、僕と晴香は聞き入ってしまったほどだ。


亮二は構わずタンバリンを叩いて楽しそうだった。

 

 

   

二時間ほどカラオケを歌った後、僕たちは部屋を出てロビーにたむろっていた。会計をまとめた晴香がカウンターに並んでいる間に僕はトイレに向かった。


店の奥まったところにあるトイレ行く途中の通路で僕は見つけてしまう。


すっかり忘れていた出来事。


一年前に確かにあった出来事。通路の壁に一人の女の子が数人の男に囲まれていた。同じクラスメイトの堺香澄。見覚えのあるその女の子はどうみても友好的ではない男たちに何やら詰め寄られているようだった。この位置から会話の内容は聞こえない。


僕よりも大きい体。年齢にすると二つか三つは年上だろう男たち。堺さんは何かを言われているようだったがその表情に特に変化はなく無表情で口を閉じていた。


ああ、失敗したな。


素直な感想だった。この事をすっかり忘れていた。覚えていればトイレになんて来なかったのにと思う。


一年前はどうしたんだっけ? と自分の行動を振り返る。


はっきりとは覚えてはいないが、おそらく見なかった振りをして店員か誰かを呼んだと思う。

 

 

   

今回も同じように店員を予防と踵を返したところで、頭ににやにやと笑う神楽の顔が浮かんだ。


思わず、足を止める。


なんだよ。なんで神楽の顔を思い出す。


一年前に戻って。僕は何をしたい。


いや、何もしたくない。


ただ平穏な生活を送りたい。


そう思っている。思っていたはずだ。


でも、神楽が言葉を言わずともその小憎たらしい表情で語りかけてくる。


『それでいいんですか?』


『それでいいんですよ。あなたがそれでいいならですけどね』


『この繰り返しはあなたが望んだことなんですよ』


「分かったよ。分かった」


僕は自分の頭の中に浮かぶ神楽に叫ぶように言った。


「やってみればいいんだろ」


僕は再び踵を返すと堺さんのもとに向かって歩き始めた。

 

 

   

「やあやあ。ごめんごめん。お待たせ」


僕は声がうわずらないように極力トーンを下げて堺さんが囲まれている輪の中に歩いていく。


男たちの間を「ごめんなさいね」と呟いて割って入っていく。


堺さんの腕を掴んで強引に引っ張っていく。


「あの。痛いんで離してもらっていいですか?」


堺さんが露骨に嫌そうな顔をして僕の手を振りほどく。

 

 

   

「いやいやいや。ちょっと空気読もうよ」


僕は思わず堺さんに言う。


「でも、痛いので。離してもらっていいですか。後、あなた誰ですか?」


小首をかしげながら心から不思議そうな顔をする。


「君のクラスメイトですよ。堺さん。覚えてないの?」


首を反対側に傾げて頭の上にはてなマークを浮かべる。


ああ。そうか。僕は今日が初登校だった。僕の顔を覚えていないのも仕方がないか。


「とにかく行こう」


僕は再び手を取ろうとして、堺さんは手を咄嗟に引っ込める。


「どこへですか?」僕は思わず大きなため息を吐いた。

 

 

   

「とにかく……」


僕が言葉を続けようとしたところで肩をたたかれた。


振り返ると取り囲んでいた男の一人が額に血管を浮かべながらこちらをにらみつけていた。


「おい。お前は何なんだよ。邪魔するならお前も一緒でもいいんだぞ」


「うはは。やっぱり怒ってますか?」


僕の質問に誰も返事をしてくれない。唯一目の前の男の表情が言葉にせずとも僕の質問を肯定していた。


「この子が何かしたんですか?」


僕が男に聞くが、男は答えない


「トイレの前でたむろしていて邪魔だから。邪魔だよ。ピーピー吠えるな犬どもって言っただけですよ」


男の代わりに僕の後ろにいた堺さんが無表情のまま答えた。

 

 

   

僕は思わず頭を抱える。空気が読めないなんてレベルじゃない。もう悪意があるとしか思えない。


実際になるのかもしれないが。まわりの男たちには漫画のような血管が額に見えそうな表情をしている。


無言で目の前の男が拳を握りしめるのが見えた。


腕を振り上げたところで僕は男に向かって突進する。


「ああっ!?」


男が驚きの声をあげるが体ごとぶつかって男と一緒に床に転がる。


すぐに立ち上がって堺さんの腕を掴んで無理やり走り出した。

 

 

   

「行かせると思ってんのかよ!」


別の男が僕の背中を掴む。いきなり後ろに引っ張られて大きくバランスを崩した。


足がもつれて地面に転がる。すぐに足が顔面に向かって飛んでくる。


咄嗟に両腕で頭を守るが、三人の足が無秩序に飛んでくる。衝撃と痛みで頭がぐらぐらと揺れる。


あ、これはヤバい。やっぱり関わるんじゃなかったと後悔しはじめた時、桜の声が聞こえた。


「店員さん! こっちです!」


ばたばたと数人の足音が近づいてくる。


「ちっ」


男たちが舌打ちをして、僕を蹴り飛ばすのをやめる。


「これに懲りたらあんまり調子に乗るなよ!」


三流の悪役らしい、テンプレなセリフを吐き捨てて男たちは店の裏手の入り口に走って行った。

 

 

   

「大丈夫!?」


桜が駆け寄ってくる。


「大丈夫そうに見える?」


「全然見えないね」


桜の後ろには店員と亮二、晴香とそろっていた。


「店員呼んでくれたんだ。助かったよ」


「何か騒がしかったから様子見に行ってみたら明が絡まれていたみたいだから、急いで店員さんを呼んだんだよ」


言って後ろにいる店員さんを指さす。


「お客様大丈夫ですか?」


どこからか持ってきていた救急箱を手に聞いてくる。


「いえ、大丈夫です。すいません。お騒がせして」


「何なら奥の部屋で休みますか?」


「大丈夫です。すいません」


店員さんの気遣いを丁寧にお断りして、堺さんのほうに向きなおる。


「あ、じゃあ。私はこれで。ごきげんよう」


頭をぺこりと下げて僕の横を通り過ぎようとする。


「いやいや。それは違うんじゃないの!?」


亮二が驚いて堺さんを呼び止める

 

 

   

「違うとは?」


堺さんが不思議そうに首をかしげる。


「俺たちはともかく、明は堺さんを助けようとしたんだからお礼ぐらい言うもんじゃないの?」


「助けてくださいと頼んだ覚えはありませんし」


堺さんの言葉に亮二が言葉を詰まらせる。それとは対象的に堺さんは亮二が何を怒っているのか心底分からないようで首をかしげたままだ。


「いいだよ亮二。僕が勝手にやったのは本当のことだし」


「でもさ……」


「いいんだ」


僕は繰り返す。本当に僕が勝手にやったことだから、感謝されるようなことでもない。


それに、僕が何もしなくても堺さんはもともと店員に助けられる事を知っていた僕は本当に自己満足でしかないことも分かっていた。


「うん。よく分かりませんが、一応あなたが私の為に気を使ってくれたということは何となく分かるのでお礼だけは言わせてもらいますね。ありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げて堺さんの長い髪が床に向かって垂れる。その時、僕の視界に映ってほしくないようなものが見えてしまった。


「では、私はこれで。今、人に頼まれごとをしている途中なので

。失礼します」


まっすぐと背筋を伸ばして店を出ていく堺さんを見送りながら僕は息をのんでいた。


「まったく。変な奴だったな……」


亮二がまだ不満げにぼやく。


「まぁ、でも悪い子ではないと思うよ。ちょっと変わってるだけで」


晴香は堺さんをフォローするように言う。


 

 

   

でも、僕には二人の言葉は頭に入ってきてはいたけれど、ほとんど聞き流していた。


というよりも、言葉を脳が理解できなかった。


それほどに、先ほど見えた物は僕に嫌な予感を残していったのだ。


「……明。見えました?」


僕の側にそっと寄り添ってきた桜が視線を堺さんが立ち去って行ったほうを向けたまま聞いてきた。


「うん。見えてしまった」


「あれ。もしかして……」


桜は先の言葉を選ぶように迷った後、言葉を飲み込んだ。


そう、あれは明らかに痣だった。


堺さんの首元には何か硬いものか拳で殴られたような青黒い痣ができていたのだ。

 

 

   

「明」


桜が僕に目配せをする。僕は桜の意図をくみとって小さくうなずく。


むやみに人に話すなということだろう。


原因ははっきりとは分からないがおそらく堺さんは誰かに暴力を受けているらしい。


それはデリケートな問題なのだろうということは簡単に想像できた。


そして面倒な問題であるということも

 

 

   

翌日、学校に行くと堺さんを見かけた。


声をかけようかどうか悩んでいると向こうが先にこちらに気が付いた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


向こうから話しかけてくるのは予想外だったので反応が少し遅れる。


堺さんは挨拶をした後、僕の横に並んで歩き始めた。同じ学校に向かっているのだから不自然なことはないのだけれど、意外ではあった。


もっと僕の記憶では堺さんはもっと取っつきにくいイメージがだったのだけど、どうやら僕の勘違いだったのかもしれない。

 

 

   

二人で並んで歩きながら、学校に向かう。一緒に歩くこと十分。驚くべきことにまったく会話がなかった。


「堺さんも歩き通学だったんだね」


「……違う」


違うんだ……。


「いい天気だよね」


「曇ってるけど」


その通りですね。自分の発言のうかつさに頭を抱えそうになる。


誰だ、会話に困った時に天気の話をすればいいと言ったのは。


嘘じゃないか。


「この坂登るの辛いと思わない?」


「本当に毎日歩いて通学しているの人の気がしれない」


「それ、僕に言う?」


また無言の時間が流れていく。


……一体何なんだこれは。


 

 

   

「私の痣見えたでしょ」


突然、堺さんが言った。


「……気が付いていたんだ」


「まぁ」


僕はそれ以上言葉をつなげることができずに無言で坂を登り続ける。


堺さんも何も言わないまま僕の横を並んで歩き続ける。


坂の終わりが近づいて校門が見えてきたところで堺さんが再び口を開いた。


「どうするの?」


それはこっちの台詞だと思った。


「どうするっていうのは?」


「私のこと皆に言うの?」


僕は首を横に振る。そんな面倒に巻き込まれそうなことを自分からする気はさらさらなかった。

 

 

   

「ふーん。斎藤は変わってるね」


「別にそんな事ないと思うけど」


堺さんが僕のことをじろじろと眺める。僕はなされるがままに棒立ちする。


「やっぱり、斎藤は変わってるよ」


堺さんは僕に背を向けて校門に向けて走り出す。


僕はそれをただ何も言わずに見送り残り少ない校門までの坂道を再び登り始めた。

 

 

   

「それで、君はその堺さんをそのまま放って置くつもりなんだ」

学校をいつもと同じように過ごし、家に帰ってきた僕を待ち構えていたのはソファに寝転がりながら雑誌を読んでいる神楽だった。


しかも煎餅を口にくわえている。


「そうだけど。何か問題あるの?」


「別に。特に何もないよ。私が関わるようなことじゃないし」


「あんた神様なんだろ。助けてあげようとか思わないのか?」


ごろりと寝返りを打って、神楽が玄関から入ってきた僕に向きなおる。


「神様がいちいち皆の願い事なんか叶えられるわけないじゃん」


「なんで、神様なんだろ?」


僕は疑問を口にしながら鞄をおろし、冷蔵庫に向かう。扉を開けて中に入っていたパックのコーヒーを取り出してコップにそそぐ。


「誰かの願いを叶えるっていうのは誰かの望みを踏みにじるっていうことなんだよ。だからみんなの願いを叶えるなんて不可能」


自分もいつのまにか用意をしていたカップを僕に突き出して言った。


「神様は全知全能で無為無能なんだよ。あ、私にもコーヒーね」

 

 

   

「自分で入れなよ」


僕はため息を吐きながらも神楽のカップにコーヒーを入れる。


「というか、何で堺さんの事知っているんだよ」


あまりにも普通に話しかけられて思わず会話をしてしまったけれど、僕は神楽に堺さんの痣のことは何も話していないはずだった。


というか、この前別れてから神楽に会うのは今が初めてだった。


「私は何でも知ってるからだよ」


「何者だよ」


「神様だよ」


真顔で即答された。

 

 

   

「斎藤さん。君はこれから選択をしていかなくちゃいけないんだよ」


ソファに座りなおしてコーヒーを受け取ると神楽が言った。


「選択?」


「そう、これから君は再び高校一年生の一年間を生活することになる。一回目と何が違うか分かる?」


「さぁ。僕が記憶を持っていることですか」


神楽は口に持って行ったコーヒーを一口飲んで「苦っ」と呟いた。そして、すぐに僕の方をまっすぐ見つめてくる。


「その通りだよ。斎藤さん」


格好つけながら指をさしてくるが、いまいち様になっていない。


「君が記憶を持っている。これから起こることを完全ではなくてもある程度知っている。これは大きな違いだ」


「それが、重要な事だとは思わないけど」


僕は自分のコーヒーに牛乳を入れてかき混ぜる。神楽がうらめしそうにこちらを見ていたが、きっと気のせいだろう。


ブラックすら飲めない神様なんていないはずだ。 


「君は記憶を持っていることで選択できるんだよ。記憶がなければ知らなかったですんでいたことが知っていることで選ばなくてはならなくなる。知っていて行動するか、知らなかったことにして見なかった事にするか」


言われてみると大きな違いではあった。見なかったことにすれば現実に起こることに違いはないかもしれないが、僕の精神的なものは大きく違う。


「僕に、堺さんを助けろって言ってるのか?」


神楽は肩をすくめてみせる。


「私は何も言わないよ。好きにすればいいさ。いつも選択するのは君たちだから」


僕は無言で神楽を見つめ返した。

 

 

   

無言の時間が数秒流れる。神楽がコーヒーを再び飲んで同じように顔をしかめた。


ピコンと軽い電子音が室内に響いた。僕のポケットに入っていた携帯が鳴ったのだ。


画面を見ると桜からメッセージが届いていた。


『堺さんの事でちょっと相談があるんだけど聞いてもらっていいかな』


あまりのタイミングの良さに僕は驚いた。神楽の仕業だろうか?


神楽のほうを見ると、いそいそと冷蔵庫に向かい牛乳をコーヒーに流し込んでいた。


 

 

   

『痣の事?』


『そう。私、やっぱりあのままにしておけない』


ストレートな桜の言葉は素直に凄いなと思った。しばらく悩んだ後、僕は返事を返す。


『僕は、下手に触れないほうがいいと思う』


桜からのメッセージが返ってこなくなった。桜は怒っただろうか。僕のことを見損なっただろうか。


でも、僕の本音でもあった。


堺さんは助けを求めていない。僕たちにも誰にも。まだ、彼女は歩み寄っていない。


ただ一人、暗闇に立っている。孤高に孤立している。


心臓に悪い数分間が過ぎた後、携帯が鳴った。


『君ならそう言うと思ってた』


僕も君ならそう言うと思っていた。

 

 

   

気が付くと神楽はいつの間にかいなくなっていた。携帯に気を取られているうちに出て行ったのかもしれない。


僕は携帯をテーブルの上に放り出してソファに寝転んだ。


桜からこれ以上返信はこないと分かっていたからだ。


デジャブのような感覚に襲われていた。


この会話を僕は一年前も同じように桜としていたのだ。


そして、僕は一年前と同じことを桜に言った。


桜も同じ反応だった。


僕は一年前も今も自分の考えが間違っているとは思っていない。

 

 

   

週末の土曜日は病院に行く日だった。


事故の怪我の後遺症がないかどうかの経過観察だ。


一週間ぶりに来る病院だったがそれほど懐かしいとも思わなかった。


病院前のバス停でバスを降りて受付ロビーに向かう。大きな病院ということもあり、今日も混雑していた。


特に僕が受信する整形外科前は患者があふれ返っており、椅子には座れそうになかった。


まだ、しばらくは呼ばれないだろうと思った僕は比較的に人の少ない中央ロビーの隅に向かう。


受付やエレベーターから離れた場所にあるソファはあまり人目につかないこともあり、予想通り誰も座っていなかった。

 

 

   

ソファに座ろうと近づいて、僕は思わず足を止める。


思い出した。


前回、僕はここで彼女の秘密を知ってしまったんだった。


このソファに座ってしまった為に、彼女おそらく隠しておきたかったであろう事を僕は知ってしまう。


僕が彼女と親しくはなくとも仲良くなったきっかけの出来事。


ここに座っていいのだろうか。


また、僕は知ってしまっていいのだろうか。


一瞬の躊躇。


でも、僕は結局そのソファに座ることにした。

 

 

   

僕はもう、知ってしまっているのだ。ここで例え知らない振りをして立ちさっても、僕はその事実を知ってしまっている。


ここを立ち去っても結局僕は彼女の前でその事実を知っていることを知らない振りをしなければならない。


僕には彼女の前で知らない振りを続けられる自信がなかったのだ。


小さく息を吐いて覚悟を決めるとソファに座った。

 

 

   

持ってきた本を開いて時間を潰していると奥の階段から足音が聞こえてきた。


中央にエレベーターとエスカレーターがあるこの病院では階段は建物端にある非常階段も兼ねているここしかない。


しかし、階段をあえて使う人間はほとんどいない為、ほぼ使われていないような状況だ。


ただし、患者はエレベーターやエスカレーターに集中する為、この階段を使ったほうが実は早く移動できたりする。


この階段を使うのは主に病院関係者か長期入院をしていて、この病院に詳しい患者ぐらいだ。


人から聞いた情報を思い浮かべながら足音が近づいてくるのを待つ。

 

 

   

ゆっくりと近づいてきていた足音が僕の座るソファの後ろで止まる。


足音は二人分。特に会話は聞こえなかった。ただ、緊張している空気が伝わってくる。


「……ごめんなさい」


後ろにいた一人が先に歩いていた人物に謝る。


僕の座っているソファはちょうど柱の影になっているため、二人は僕の事に気が付いていないようだ。前回と同じように。


「謝ってもしょうがないよ。お母さん」


聞き覚えのある声。水下桜の声が聞こえた。

 

 

   

「でも、私が健康に産んであげられなかったから」


泣きそうになるのを堪えようとしているのか、水下桜の母親の声は震えていた。


「お母さん」


桜が母親に向かって言葉を遮るように言った。


「私はお母さんに産んでもらえてよかったと思っているよ。病気はお母さんのせいじゃない。もちろん私のせいでもない。誰が悪いわけでもない。強いて言いうなら運が悪かっただけだよ」


「でも……」


「いいんだよ。お母さん。私はさ、本当に感謝しているんだ。今ここにいること。立って歩いていること。それ自体がまるで奇跡みたいじゃないか」


桜は雄弁に語る。


「人生には二つの生き方しかない。この世に奇跡なんてないと思って生きるか。この世には奇跡しかないと思って生きるかだ」


桜が好きなアインシュタインの言葉だった。


「桜無理してない?」


弱弱しく母親の声が聞こえる。


「無理はしてるよ。もちろん。後一年しか生きられないと聞いて、動揺しないはずがないじゃない」


僕の心に戦慄が走る。分かっていた事ではあった。僕は一年前にこの事実を聞いていたのだから。


それでも、心の準備をしていても僕はやはり動揺してしまう。


母親が再び言葉を失う。


「でもね、お母さん。だからこそ私は落ち込んでいる暇なんてないんだよ。後一年。たった一年しかないんだ。私は今を。これからを楽しく生きると決めたんだ」


一呼吸を置いて母親に言い聞かせるように。まるで子供に教え諭すように自分の母親に桜は言った。


「だから、お母さんも協力してほしいんだ」


何度かうなずくのが気配で伝わってきた。

 

 

   

「ほら、お母さん。お会計の番号表示が出てるよ」


今にも泣き崩れそうな母親の背中を桜が軽く押す。母親はゆっくりとそれでもしっかりとした足取りで僕の横を通り過ぎて会計カウンターに向かって歩いて行った。


母親を見送るようにして立っていた桜がすぐ横のソファーに座っている僕に気が付いて、目を見開いた。


僕は小さく手を挙げて声をかける。


「やぁ」


無言で桜は僕を見続ける。


「ごめん。聞く気はなかったんだけど聞こえてしまった」


嘘だ。


一年前は確かに偶然だったけれど。今回僕は自分で選んでこの話を聞いた。

 

 

   

「明……」


「明だけど」


桜は気丈な子だった。すぐに表情を立て直すとにっこりと笑って見せる。


「まさか、よりによって明に聞かれるとは。不覚」


「嘘や冗談じゃないんだよね」


「私がこんな嘘を吐くほど性格悪いと思ってるの?」


随分と砕けた言葉遣いになっていた。この話し方が桜本来の話し方なのだろう。


一年間、僕が聞き続けてきた桜の話し方だった。

 

 

   

「桜は重たい病気なのか?」


「そうだね。具体的に言うと一年後に死んじゃう感じ」


桜がにこやかに言う。


「そう」


僕はそれだけ言ってまた本に目を落とす。


「おおう。その反応はちょっと新しいな」


「二回目だからね」


「あはは。明は面白いこと言うね」


桜がけらけらと笑う。

 

 

   

僕は肩をすくめて見せた。


「桜は怖くないの?」


僕は本を閉じて桜に向きなおる。


「そうだねぇ。怖いよねぇ」


まるで他人事のように言った。


「でもさ、怖がっていても長生きできるわけじゃないからね」


「それはそうだけど。頭で分かっているのと気持ちでは別物でしょ」


ちっちっちと桜が口の前で指を左右に振る。


「私はこの病気になってもう長いんだよ。ベテランさ。もう、その場所は数年前に通り過ぎてる」


数年前から病気に侵されていた。


その事実に僕は少なからず驚く。


初めて知った情報だったからだ。

 

 

   

一年以上付き合いがあっても知らないことはいくらでもあるのだと実感してしまう。


いや、それとも。


「明は他人に興味がないよね」


僕は自分が思っていたことを桜に言い当てられて心臓は激しく揺れた。


「そんな事はないよ……」


何とかそう言い返すのがやっとだった。


僕の気持ちを見透かしているのだろう。桜はにやにやと僕を眺めてどや顔をしていた。

 

 

   

「そんな明にお願いがあるんだけど」


にやにやと笑みを浮かべながら桜が言う。桜ってこんな性格だっただろうか。ふと疑問に思う。


「何?」


「私は堺さんの事をどうにかしてあげたいと思っているんだ」


僕は分かりやすく嫌そうな表情を浮かべる。


「僕たちにはどうしようもないよ」


「そんあのやってみないと分からないじゃない」


「分かるよ」


僕は断言する。

 

 

   

「ごめんごめん。言い直すね。お願いじゃなくて命令」


「は?」


僕は思わず桜を見つめる。


「あはは。明は驚いた表情も素敵だね」


「何を言っているんだよ」


「君はもっと人の為に働いたほうがいいよ」


「僕は割と人に親切だよ」


ちっちっちとまた指を左右に振る。


「人に親切にするのと人の為に動くのは似て非なるものだよ」


僕は言われている意味が分からず首をかしげる。


「親切にするのは義務感で動けるけど、人の為に動くには人の気持ちを考えなくちゃいけないから」


ふふんと胸を張って言った。


僕はため息を吐いた。

 

「まぁ、とにかく明日は堺さんの家に行くから明も一緒に来てくれるといいよ」


「何で僕が」


「ふむ。君はクラスメイトが困っているというのに助けようと言う気持ちがないのかな?」


「助けられるものなら助けたいとは思うけれど、僕にできることなんて何もないよ」


「それだ」


桜が僕の鼻先に指を突き付けて言った。


「その何もできないっていうのは誰が決めたんだい?」


「誰と言われても。ちょっと考えればわかるだろう?」


僕は困ったように言う。

 

 

   

「はっはー。私はあんまり頭がよくないから分かんないよ。教えてくれないかな。どこをどう考えれば君にできることは何もないとわかるのかな?」


「まず一つ。堺さんは関わられたくないと思っている。これは本人にも確認した。二つ。本当に家庭内暴力が起こっているという証拠がない。三つ。本当に暴力が振るわれているとして、それが誰によるものなのか、理由は何なのかが分からない。四つ。本当に止めることが正しいことなのかどうかが分からない。五つ。僕たちはまだ高校生という子供だ。何の権限も権利も持っていない。……どうしたの? ハトが豆鉄砲を食らったような顔をして」


目を見開いたままこちらを見つめている桜に僕は疑問を投げかける。


「いや、意外ときちんと考えているんだなと思って」


顔が赤くなるのを自覚する。恥ずかしいという気持ちが心の奥底から湧き上がってきて思わず桜から視線を外した。


「いやいや、恥ずかしがることはないよ明。君は私が思っていたよりも人にやさしい人みたいだ。そして、私が思っていたよりもはるかに素敵な人らしい。ごめん。見誤っていた。侮っていた」


ぱちぱちと小さく拍手をしながら感心したように言う。


「うるさいよ。僕だって堺さんのことが気にならないと言えば嘘になるからね。でも、僕はいつだって人のことを考えるけど実行したことはない。それが僕という人間だから。ああ、もう一つあったよ。僕が何もできない理由。最後に最大の理由だ」


「何かな?」


目をきらきらさせながら桜は僕に顔を近づける。思わずのけぞって顔を離した。


「六つめ。僕は自分自身が被害を被りたくない。だから、堺さんに関わりたくない」


僕の意見を聞いて、桜が盛大に笑った。


「君って意外と素直なんだねぇ」


「知らなかったのかな。僕はいつだって自分に正直だよ」


肩をすくめてこの話はこれで終わりと話を打ち切る。

 

 

   

「でもね。正直者の君だけど。駄目だよ」


お腹を押さえながら笑っていた桜が僕に向かって言う。僕の肩に手をのせて言う。


桜の髪の毛が僕の頬を撫でた。


「明日、私は堺さんの家に行くから。実は約束もしてるんだ」


「じゃあ、桜だけで行って来ればいい」


「駄目だよ」


「どうして?」


「私、病弱なんだよ」


思わず顔をしかめた。


「あー。堺さんの家に行く途中で倒れちゃうかもしれないな」


ちらりとこちらを見る。


「行き倒れてそのまま死んだら、悲しいしなぁ。誰かがついてきてくれたら助かるかもしれないのに。ああ、でもそんなのは無理か。そんなので人を憎むなんて駄目だよね。全部社会が悪いんだ。私を病気にした世界が悪い」


ちらりと再び僕を見る。


「僕は行かないよ」


「ああ、世界って冷たいねぇ」


桜は大仰に嘆き、手を目の上に当て天を仰いだ。


「どういったって僕は行かないから」


僕は吐き捨てるように行ってソファから立ち上がり階段を登った。

 

 

   

翌日の日曜日僕は結局桜との待ち合わせ場所である駅前に立っていた。


絶対に行かないとは言ったものの、結局来てしまう辺り流されやすいというのか何というのか。


桜が言ったことがあながち冗談ではないというのも僕がここにきている理由の一つではある。


彼女の病状は普通に生活する分には特に不便はない。しかし、いつ容体が悪くなるとも分からないものなのだ。


「おはよう! 明」


僕が物思いにふけっているといつの間にか桜が目の前に立っていて僕に手を振っていた。

 

 

   

「おはよう。桜」


僕が挨拶を返すと満面の笑顔で


「うん。おはよう」


ともう一度挨拶を返してきた。その表情に一瞬動揺するがすぐに平静を装った。


「なんだかんだ言って結局来てくれる明が私は好きだよ」


あっけらかんと言ってくる。


「僕は君の強引なところが苦手かもしれないけどね」


「またまたー」


桜はけらけらと笑う。


本当によく笑う子だなと思う。感情表現が豊かなのかもしれない。


初めて会った時とはずいぶん印象が違うなと一年前と同じ感想を抱く。

 

 

   

「どうしたの? 初老のおじさんが孫を見つめるような顔で私を見て」


「何その具体的で地味に嫌な表現」


「だって明はたまにおじいちゃんみたいな顔しているから」


「もとからこういう顔だよ」


肩をすくめてみせる。


「で、どうしたの?」


適当にはぐらかそうとしたのだけれど、質問をスルーすることは許されないらしい。


「いや、桜は初めてあった時と今では随分印象が違うなと思って」


ふと、頭に違和感が浮かぶ。初めてとはいつの事だろう。一年前か。それとも今年の春の事か。


自分で言った言葉に疑問を感じるが、その答えが出る前に桜が笑いながら答えを投げかけてきた。

 

 

   

「そりゃあ、だって君は一応私の命の恩人だからね。猫ぐらい被るよ」


身も蓋もなかった。


「たしかに一応だけどね」


「あれ? 不満?」


「いや、事実その通りなんだけど桜本人の口から言われると微妙」


「え? 本当に? でも、感謝しているのは本当だよ?」


急に真顔になって桜が言ってくる。


「分かってる。分かってるから」


顔が近いので離れてほしい。

 

 

 

「ふーん。まぁいっか。じゃあ、堺さんの家に行こうか」


「本当に行くの?」


ここまで来ておいて何だがやはりあまり深入りしないほうがいいような気がする。


「大丈夫だよ。遊びに行くぐらい。それに約束はしてあるから」


「え?」


僕は間の抜けた声を出す。


「昨日のうちに電話で明日遊びに行ってもいいかどうか聞いておいたから」


行動が素早い。素直に感心する。

 

 

   

「堺さんは来ていいって言ってたんだ?」


「ううん。全力で否定された」


「おい」


思わずツッコむ。


「あはは。大丈夫大丈夫。最終的にはOKしてくれたから」


「本当に」


「本当だよ。嘘は言ってないよ。いやいや頷かせた感はあるけど」


「大丈夫かな」


「あはは。明は心配しすぎだよ」


桜は心配しなさすぎだと思う。

 

 

   

堺さんの家は学校近くの駅から二駅行った先の住宅街にあった。


駅から歩いて二十分歩いて駅前の喧騒から離れ静かな場所だった。


表札に堺の名前が書いてあるのを確認して桜がインターホンを押す。


ピンポーンと軽い電子音が流れて数秒後に「はい」と返事があった。


「すいません。香澄さんの友達の水下桜ですけど」


あっさりと友達と言い切る桜に素直に驚く。インターホンの向こうの相手も少したじろいだ空気がある。


「香澄さん。約束通り遊びに来たよ」


インターホンの相手が堺さんだと気が付いているのだろう。というか、堺さんって香澄って言う名前なんだ。


「入って」


簡潔な答えがあって玄関の扉のカギが開く音がした。

 

 

   

玄関の扉が開いて堺さんが顔を出す。眠たげな目でこちらを見つめているというか、僕をにらみつけているような視線を向けている。



「はは。僕もきてしまいました」


なぜか敬語になってしまう。だって、堺さんの目が怖いのだ。堺さんは小さくため息を吐いたが何も言わなかった。


代わりに視線で室内に入ることを促すと自分は中に入ってしまう。


「お邪魔します」


桜が堺さんに続いて家の中に入った。僕もそれに続く。


家の中は奇麗だった。


物があまり多くないのもあるだろうけど、まめに掃除をしているのだろうと思う。それとも僕たちが来ると言うことで掃除をしたのだろうか。


リビングに通されて部屋の真ん中にあったテーブルに促されて座る。


どうやら、コーヒーを入れてくれるらしく、堺さんはキッチンでお湯を沸かし始める。


「私も手伝うよ」


桜が言って堺さんのところに駆け寄る。僕も手伝おうと立ち上がったが、三人入るにはスペース的に厳しかったので、仕方なくテーブルに再び座りなおす。


手持無沙汰になってしまい、視線を室内にさまよわせる。あまり人の家をじろじろと見るのもどうかなとは思ったがサイドボードの上に載っている写真立てが目についた。


写真立ては十個近く並んでおり、そこにはどうやら堺さんのお母さんらしき人物が写っていた。


どれも堺さんと二人で写っているものばかりだったが、それよりも気になったのは写真の中の堺さんは笑顔ばかりだったということだ。


僕は見たことがないが、堺さんはいい笑顔で笑うんだなと思った。

 

 

   

写真の中の堺さんのお母さんはかなりの美人だった。切れ長の目にほっそりとした輪郭や鼻が絶秒のバランスを保っていた。


しかし、美人ではあるけれども奇麗とは思えなかった。


それは表情のせいだったのだろう。笑顔の堺さんとは違いお母さんのほうはまるで精気が失われているかのように顔色が悪くやつれて見えた。


かろうじて左手でピースをしているのだが、無理をしているのが見え見えでそれがなおさら違和感を増長していた。


「はい。これ明の分ね」


桜が目の前にコーヒーカップを置いてくれる

 

 

   

「ありがとう」


「どういたしまして」


うやうやしく頭を下げる桜。


「あはは。素直にお礼を言われるとちょっと恥ずかしいものがあるね」


「ここ、私の家なんだけど」


笑っている桜の後ろから冷めた堺さんの言葉が飛んできた。


「ごめん」


思わず僕が謝ってしまう。


「別に斎藤に言ったわけじゃないけど」


「それもそうだね……」


言って黙り込んでしまう。堺さんもどこか気まずそうに黙り込む。


「そんな、暗い顔しないでさせっかく来たんだから。楽しくやろうよ」


それができたら僕だってしたい。


「別に来てって頼んでないよ」


堺さんがまた絶対零度の言葉を桜に投げかける。


「またまたー」


桜は心臓にコートでも着こんでいるのだろうか?

 

 

   

「香澄さんは素直じゃないよね」


いつの間にか下の名前でしれっと呼び始めている。堺さんが半眼でにらみつけているのに桜は気が付いているだろうに、まったく意に介していない。


僕は胃が痛くなってきた。なんだろう家に帰りたい。


目の前の現実から目をそらしたくてコーヒーを口につける。


「あ、うまい」


僕は思わず口に出していた。それほどコーヒーに詳しいわけでも色々飲んできたわけではないけれど、匂いと味が妙に合っていてとても美味しく感じたのだ。


「でしょ。さっき私も飲んでみたんだけどとっても美味しいよ。香澄さんの淹れてくれたコーヒー。あ、明の奴も淹れてくれたのは香澄さんだよ」


桜が僕のカップを指さす。


「そうなの?」


堺さんに聞き返すと、堺さんは少し視線をそらしてうなずいた。


「うん。コーヒー結構好きだから普段から色々自分でやってみてるから」


確かにキッチンの戸棚には詳しくは分からないがコーヒーを淹れるための器具であろうものがいくつか並んでいた。


「そうなんだ。凄いね」


「そうなんだよ! 凄いんだよ!」


桜がうなずいて堺さんに抱き着いた。堺さんは驚いて体を固くしている。


 

 

   

「そんなことないから。あと、あなたには私コーヒー淹れてないから。自分で淹れたでしょ」


「うん。適当に。でもさっきキッチンで香澄さんが淹れてくれた奴ちょっとだけ飲んだから」


「やめて」


「でも、本当に美味しかったんだよ」


「……ありがとう。でも、私に抱き着くのはやめて、あと香澄さんもやめて」


言われて桜は両手をあげながら堺さんから離れる。


「ごめん。ごめん。香澄」


呼び捨てになっていた。堺さんはあきらめたようにため息を吐いて何も言わなかった。

 

 

   

しばらくは、三人で適当にコーヒーを飲みながら会話をした。


会話をしたといってもほとんど桜がしゃべっていたんだけど。


「香澄は好きな食べ物は何?」


「特に」


「趣味は」


「別に」


「休みの日は何してるの?」


「寝てる」


「好きな人はいないの?」


「いない」


「気になる人は?」


「……」


「あ、分かった明だ」


「何言ってんの?」


そこで初めて口を挟んだ。


「違う」


「あ、やっぱり?」


「やっぱりってなんだよ」


「いや、友達としてはともかく恋人としてはあんまり歓迎したいタイプではないなと」


「何気にひどいこと言うね」


「でも、悪い人ではないとおもうよ。斎藤は」


意外な反応にちょっと驚く。


 

 

   

「でも、変わってる奴だとは思う」


「全然フォローになってないよ」


「フォローしたつもりはないから」


「堺さんも何気にきついね」


あははと桜が笑った。


終始そんな会話が続いて、それほど盛り上がったわけではなかったけれど、それなりに楽しい時間ではあった。


口の悪い言い合いではあったけれど、それはおふざけでどこか居心地の良い空間だった。

 

 

   

結局三時間ほど堺さんの家にお邪魔した後帰ることになった。


「今日は楽しかったよありがとう。香澄」


桜が玄関先で頭を下げた。堺さんは驚いたように目を見開いた後に視線を床に落とした。


「別に。何もしてないし」


「いやいや、充分だよ。ね、明」


「そうだね。僕も楽しかったよ」


同意を求められたので素直に応じる。堺さんは心なしか顔が赤くなったような気がする。


「また、今度遊んできてもいいかな?」


桜が聞く。


「勝手にすれば」


堺さんは目線をそらしたまま答えた。

 

 

   

「ありがとう。じゃあ、また今度ね」


桜が堺さんの手を握ってぶんぶんと振る。


「分かったから。離して」


「あはは」


笑って手を離す。玄関から二人して出て堺さんが扉を閉めるまで桜は手を振っていた。


堺さんの家から帰る途中、桜が僕に話しかけてきた。


「ね、香澄は良い子でしょ」


「思っていたよりはとっつきやすい人ではあったと思うよ」


でも、それは桜だからこそなのかもしれないとも思う。僕と堺さんが二人では会話が続くかどうかは自信がない。


「口数があまり多いほうじゃないからね。でもそれも香澄の良いところでもあるよ」


「……桜は凄いと思うよ。僕には真似できない」


「あはは。しなくていいよ。朗らかに話しかける明とか気持ち悪いもん」


「いや、自分でもそう思うけどね」


僕は肩をすくめて答える

 

 

 

「今日は、両親はいなかったんだね。留守だったのかな」


僕が堺さんの家で一番気になっていたことを桜に聞く。


「香澄のお父さんはずいぶん前になくなっているよ。今はお母さんと二人暮らしなんだ」


そうなのかと思う。僕は堺さんの事はほとんど知らない。


「じゃあ、お母さんは仕事だったのかな」


桜は今日初めて渋い顔をする。


「どうかな。私たちが来るから家を出ていたのかも」


「どういうこと?」


「明は気が付いた?」


僕の質問には答えず桜は質問を投げかけてくる。僕は明確にうなずく。


「堺さんの痣が増えていた」


桜もうなずいた。


「堺さんは週末になると痣が増えている気がする」


桜が真剣な顔をして考え込む。どうだろう。僕はそこまで観察はしていなかったので分からない。


「まずは、週末家から連れ出すことから始めよう」


「頑張ってね」


僕が言うと桜は僕の両肩に腕を置いて言う。


「もちろん君も手伝うんだよ?」


「……だと思ったよ」


僕はため息を隠しもせず吐いた。

 

 


とりあえず、桜とは別れて家に帰って玄関の鍵を開けようとして、本日何度目か分からないため息を吐く。


鍵が開いている。もちろん出かける時には鍵は閉めて出ている。


あきらめて扉を開けると玄関口に僕のではない靴が置かれていた。


「まぁ、そろそろ現れるだろうとは思っていたよ」


「んー。分かってきたじゃないかぁ」


テーブルで缶チューハイを掲げて神楽がぐだっていた。


「神様が酒を飲むのかよ」


「神様だから飲むんだよ」


まぁ、確かにお神酒という言葉があるぐらいだからね。と自分を無理やり納得させる。

 

 

   

「今日は堺さんの家に行ってきたみたいだね」


「そうだよ」


「堺さんを助けてあげようという気になったかな?」


僕は首をかしげる。どうだろう。助けてあげたいという気持ちがないということはない。


でも、積極的に助けたいというかとまだ何とも言えない感じだ。


「明くんはクールだねー」


ぐでぐでと体を動かしながら神楽が呟く。


「神様が酔っぱらうなよ」


「んー。それはそうかも」


「素直に認められるとそれはそれで気持ち悪いな」


「神様に対して無礼だな君は」


はぁ。とため息を吐く。なんだろう。ため息の吐きすぎで体の中の酸素がすべてなくなってしまいそうだ。


いや、ため息で酸素はでていかないんだけど。出ていくのは二酸化炭素だ。

 

 


「それで、君は堺さんを助ける気になったのかな?」


先程と同じ質問を僕に投げかけてくる。


「ああ、うん。そうだね」


僕は曖昧にうなずく。


神楽は半眼で僕を見つめてくる。


「君はさ……」


神楽は缶チューハイの縁を指でなぞりながら言う。


「自分で気が付いているのかな? それとも気が付かない振りをしているのかな?」


「何の事?」


「ここは二回目だってことは分かっているよね」


「まぁ、一応は」


未だに半信半疑ではあるのだけれども。

 

 

   

「君はさ、何かを変えたくて私に願ったんだろう?」


「どうだろう。何せ覚えていないから」


実際どうだろう。僕は本当に何かを変えたかったんだろうか。


「……ごめん。私が間違っていた。君は分かってやっているんだね」


「何のことですか?」


僕は首をかしげる。缶チューハイを傾けて飲み干すと神楽は僕に人差し指を突きつける。








「君、一年前と寸分違わず同じ行動を取っているんだよ」


僕は頷いた。まったくその通りだったからだ。

 

 

   

「どうしてなんだい?」


僕を責めるわけでもなくただ不思議そうに神楽は聞いてくる。


「どうしてとは言われても」


僕は単純に思った。別にやり直したいと思わないからだ。


一年前に戻ったと言うのなら。一年前と同じように過ごすだけだ。


「君はさ。本当にやり直したいことはないのかな?」


「僕は変化が嫌いなんで」


わざわざ未来を変えたいとは思わない。変えた未来の先が今よりも、前の一年よりも幸せになれるとは限らないのだから。


「別に私は神様だから、君がどうしようと特に止めるつもりはないんだよ。君には選ぶ権利があるからね」


僕は神楽を見つめる。


神楽も僕から視線をそらさずに言った。


「でもね、せっかく一年前に戻ったんだ。リプレイよりもリテイクしたほうが楽しいと思うよ」


笑った。


神様の笑顔は素敵だなと素直に思った。

 

 

   

「本当に未来を変えたいなんて思っていないんだけどな」


僕が呟くと神楽は僕の顔をじっと見つめてくる。


「あんまり人の顔をじっくり見ないでほしいんですけど」


神楽は肩をすくめて見せて言う。


「君は変わってるね」


「そうかな?」


「普通、未来を知っている状態でタイムスリップしたらより良い未来を目指すものだと思うよ私は」


確かにフィクションの主人公はそんな行動を取ることが多い。


「まぁ、身の程ってものを知っていますから」


「君には向上心ってものがないね」


「僕はいつだって平和に暮らしたいと思っているだけですよ」


冷蔵庫から炭酸ジュースを取り出して神楽の向かい側に座る。


 

 

   

「お、いいね。付き合ってくれるの?」


神楽が嬉しそうに缶チューハイを掲げてくる。僕はそれにジュースのペットボトルを合わせる。


「お酒は飲みませんよ」


「えー」


露骨に不満げな声を出してくる。


「そもそもずいぶん酔ってるじゃないですか」


「酔ってませんよー」


「酔っ払いはみんなそう言うんですよ」


「ぐー」


「寝るなよ」


「寝てません」


「寝てる人はみんなそう言うんですよ」


「いや、さすがに言わないだろう」


意外としっかりとしたツッコミが返ってきた。

 

 


「まぁ、いいや。君の人生だからね。好きにしたらいいよ。なんかもうどうでもよくなってきた」



神楽がテーブルに突っ伏しながら空になった缶をぶらぶらと揺らしている。


「適当ですね」


「まぁね。神様だからね」


全部神様だからと言えば許されると思っているんじゃないだろうか。こいつは。


いや、神様だから許されるのか?


「でもね。一つだけ言っておくと」


完全に頬っぺたをテーブルにひっつけながら神楽が僕を見もせずに言った。


「二度目はあっても三度目はあると思うなよ」


そのまま神楽は意識を失って高いびきをかき始めた。


何度か揺すってみたがまったく起きる気配はない。


仕方がなく僕は毛布をひっぱりだして神楽にかけてやった。


すやすやと眠る寝顔を見ながら僕は呟く。


「分かってますよ」


自分は部屋の隅にうずくまって眠りについた。

 

 

   

翌朝目が覚めると神楽の姿はなくなっていた。いつものことだ。ただ神楽にかけていた毛布がとても奇麗にたたまれていた。


僕はソファから起きると学校に向かう支度をしていつものように登校した。


教室にはすでに何人かの生徒が登校してきていて、それぞれのグループ同士で楽しそうに会話をしている。


窓際に堺さんの姿を見つけた。相変わらず一人で窓の外を眺めている。僕の視線に気が付いたのか堺さんがこちらを振り返った。


僕は挨拶のつもりでぺこりと頭を下げた。


堺さんも戸惑いながらも小さく頭を下げ返してきた。


これだけでも少しは関係が進歩したのかもしれない。


まぁ、これも前回と同じなのだけれど。


前回と今回の僕の行動の違いと言えばカラオケで堺さんの喧嘩の仲裁にはいったことぐらいだ。


でも、それで何か変わったのかと言われれば何も変わっていないと思う。


細かいところは覚えていないけれど、結局前回も店員を呼んで仲裁したことで僕は堺さんと少し話すようになったし、桜が僕を堺さんの家に連れて行ったのも実は前回と同じだ。


僕が多少の行動を変えたぐらいでは未来というものは変わらないらしい。


少し安心する事実だった。


おおむね前回の人生に不満を持っているわけではない僕は自分の行動で未来が簡単に変わることほど怖いことはない。


未来を変えたくないのであれば前回と同じ行動をすればいいのかもしれないが、正直自分の行動なんていちいち覚えていないのでそれは現実的な案ではないのだ。

 

 

   

おそらく、今日の放課後には桜は今週末に堺さんと買い物に行こうという話をしてくるだろう。


もちろん僕も連れていく気だ。


そして、その話を聞いていた晴香と亮二もついてくることになる。


放課後にはそこまでは何とか思い出すことができた。


「明は今週末は暇でしょう?」


桜が僕が覚えているのと同じセリフを言ってきた。


「暇じゃないです」


「はい。嘘だね」


「決めつけるなよ」


「今週何の用事もないことはすでに調べがついているからね」


「どうやって調べたんだよ」


「簡単だよ。君の交友関係は狭いからね」


事実だった。

 

 

   

「君は部活動には入っていないし、君の数少ない友人である私と亮二と晴香は週末に用事がないのはすでに聞いてある。つまり、君に用事がある人はいないということだ」


ちっちっちと指を左右に振って自慢げに話す。


「いや、ほら家族とかと出かけるかもしれないじゃないか」


「明が?」


そこには怪訝そうな顔が浮かんでいた。まぁ、確かに僕が休みの日に出かけるということはない。


ないのだけれど。どうして桜はそこまで確信できるのだろう。


前回ですら僕は家族の事を桜には話していないのだけれど。


「ちなみに晴香と亮二も一緒に行くから。すでに約束済みです」


ん? と疑問符が浮かぶ。


すでに約束済み? そんな話だっただろうか?


「そうそう。ちょっと楽しみなんだよねー」


僕の後ろから話題に入って来たのは晴香だった。


すぐ横には亮二もパンを食べながら立っている。


 

 

   

「堺さんとはちょっと話してみたかったんだ」


晴香は堺さんの席に視線を送りながら言う。堺さんはすでに帰宅していて席には誰もいない。


「ちょっと感じ悪いけどなー。むぐむぐ」


パンを最後に飲み込んで亮二が言う。パンは食べきってから話せと思う。


「亮二。パンを食べながら話さないでよ」


僕の言いたかったことを晴香が言ってくれる。


「それに堺さんは少し不愛想なだけだよ」


あれは不愛想というのだろうか?


「そうかぁ?」


亮二は首をかしげている。

 

 

   

「結構面白い子だよ」


桜が晴香を援護するように補足する。


「確かに分かりづらいけど話してみると面白いよ」


「そうだよね! 私もそう思うよ」


晴香が手を胸の前に合わせてうなずく。


「なぁ」


亮二が僕のすぐ横にきて耳打ちしてきた。


「どうした?」


「桜ってあんなキャラだったか?」


亮二の疑問はもっともだった。桜はもう地の性格を隠すつもりはないらしい。亮二たちにしてみればいきなり印象が変わったように見えるだろう。


晴香は特に気にしていないようだが。晴香はもともとそういうことはあまりに気にしないタイプだ。


「地の性格はあんな感じみたい」


「ふーん」


亮二は特にそれだけ言ってそれ以上は何も聞いてこなかった。そういうものだと判断したのかもしれない。

 

 

   

「たぶんウィンドウショッピングになると思うけど、亮二はそういうの平気なの?」


亮二は見るからに女子の買い物に付き合うのが楽しめるタイプには見えない。


「もう慣れたよ」


言って亮二は肩をすくめる。僕が首をかしげると亮二は補足する。


「昔から晴香の買い物に突き合せれているからな。それなりに自分が退屈しない方法は分かってるからな」


「そっか」


「お前はどうなんだよ」


「僕はもとから主体性がないからね。自分で何かを決めるより人についていったほうが楽だ」


「あー。なんかそんなイメージだな明は」


「主体性がないってよく先生とかには怒られるけどね」


「いいんじゃねーの。それが明には合ってるんだろ」


あっさりと言ってくれる。亮二はこういうところがある。


包容力とでも言うのだろうか。相手を受け入れる器が大きい。


「明ってなんか草食系みたいだしな」


いや、ただ何も考えていないだけかもしれない。


「というわけだから、週末は十時に駅前ね」


僕たちが話している間に予定はすでに決まっていたらしく晴香言う。


「遅刻しないでよ」


亮二を指さす。


「お前もな」


「私は遅刻したことないよ!」


「俺が迎えに行ってやるからだろうが」


「ぐ……」


晴香は押し黙ってしまう。


本当にこいつらは仲がいいな。


「夫婦漫才はそこまでにしといてね」


僕が言うと二人は同時にこちらを向いた。


『夫婦じゃない!』


ツッコミどころは漫才ではなく夫婦のところらしかった。


「あはは」


そんなやり取りを見て桜は妙に嬉しそうに笑っていた。

  

週末の土曜日僕は早めに家を出て待ち合わせの十五分前には駅前に到着していた。


駅の周辺には少し大きめのビルと商店街が広がっており、この辺りの買い物はすべて駅前でそろってしまいそうなぐらい店が集まっている。


駅前の通りにはさまざまな人々が行きかっているのが見える。


この町の人々が全部集まってきているのではないかと思うほどの人込みだった。


待ち合わせも多いのだろう時計を見ながら立っている人たちがちらほらと見える。


まだ待ち合わせには僕以外は来ていないようだった。

 

 

   

目の前の大通りの人の流れを眺めているとその流れの中から亮二と晴香の二人が出てくるのが見えた。


晴香が両手を振りながらこちらに近づいてくる。亮二はその右後ろについて歩いている。


「お待たせ」


「いや、僕もさっき来たばかりだから」


「ま、俺が起こしたんだけどな」


「それは言わないで」


晴香が頬を膨らませる。本当にこの二人は仲がいいなと思う。


二人がいつもの通り絡んでいる姿を眺めているとその後ろの人の流れから桜の姿が見えた。


桜は誰かの手を引っ張るようにして歩いている。


おそらく、堺さんだろう。

 

 

   

桜はするすると人込みを流れるように抜けてくる。その後ろには手を引かれながらもしっかりと堺さんがついてきていた。


「やぁ、お待たせ。皆早いね」


時計を見ると待ち合わせの九時五十分。待ち合わせまでまだ十分ほどある。


堺さんは一度こちらを見つめた後、視線を落とした。


「堺さん。おはよう」


晴香が堺さんに話しかける。


「おはようございます」


視線をそらしたまま堺さんは答えた。


「おはよう」


僕も堺さんと桜それぞれに挨拶をする。「ああ。おはよう明」と答えた桜とは対象的に堺さんは頭を小さく下げただけだった。

 

 

   

「じゃあ、行こうか」


桜が駅ビルに入っていこうと歩きはじめる。堺さん、晴香、亮二、僕が後ろに続く。


「今日は何をするんだ?」


亮二が先頭を歩く桜に聞く。亮二も僕と同じく今日の目的を詳しくは聞いてはいないようだ。


おそらく、買い物がメインだろうとは想像しているだろうが。


「そうだねー。ちょっと春物の服を見たいなって思ってるんだよ。堺さんもファッションは嫌いじゃないんだろう?」


「そうだね」


堺さんは簡潔に答える。


「堺さん。体細いし、色も白いから明るい色とか似合いそうだよね」


晴香が言った。


「別にそうでもないと思う」


「好きな色とかあるのかな? 私は結構ビタミンカラーの明るい奴を春は着たいなって思ってるんだけど」


「特にない」


「スカートとか履くのかな?」


「別に」


「それともパンツしか履かない派?」


「どうでもいい」


晴香は一生懸命話しかけるが、まさにけんもほろろと言った感じだった。


「あれ、大丈夫?」


僕は思わず桜に晴香と堺さんの二人の様子を尋ねる。


「はっはっは」


桜は笑ってごまかすだけで何も言わなかった。


「チッ」


僕の後ろで小さくだが舌打ちをする音が聞こえた。もちろん亮二だった。


堺さんの晴香に対する態度が気に入らないのだろう。亮二は明らかに不機嫌になっていた。


駅ビル内に入って色々な店を回ってみても結果は変わらなかった。


晴香が一生懸命話しかけるものの堺さんは一言で返して会話が止まるという光景が何度も繰り返された。

 

 

 

そして、昼食時になった頃。


「そろそろお昼食べようか?」


桜が提案して、僕と亮二がうなずいた。


「そうだね。堺さんは何か食べたいものある?」


「別に。勝手にすればいいと思う」


ぎろりと晴香をにらみつけて堺さんが答えた時、亮二が堺さんにつめよった。


「お前さっきから何だよ。その態度は」


完全に頭に血が上っているようだった。もともと堺さんのような態度を取られるのが好きではない性格の亮二にしてはよくここまで我慢したと言ってもよかったのかもしれない。


いや、これが亮二に向けられたものだったら亮二もここまで怒りはしないだろう。


晴香が冷遇され続けているという状況が亮二は許せなかったのかもしれない。

 

 

   

「いや、私は……」


何かを言い返そうとして、堺さんは結局言葉を飲み込んで視線を落とした。


「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ。せっかく仲良くしようとこっちから近づいているのにその態度は何だよ」


「亮二!」


晴香が亮二を止めに入るが亮二は堺さんから離れようとしない。


「別に仲良くしてくれと頼んだ覚えはないわ」


堺さんは視線を床に向けたまま言い放った。ああ。それはまずい。


僕は亮二と堺さんの間に体を飛び込ませる。


直後に亮二が振り上げた平手が僕の頭に振り下ろされる。


衝撃に備えた頭にいつまでも衝撃が来ず、代わりに甲高い音が響き渡った。


僕が亮二のほうを振り向くと、晴香が亮二の頬を平手で思いっきりひっぱたいていた。

 

 

   

亮二は驚きの表情を浮かべている。


「ごめん。でも、落ち着いて」


晴香が頭を下げる。驚いているのは亮二だけではなく僕もそして堺さんも驚いている。


「いや、ごめん。俺もちょっと言い過ぎたよ」


意外な事に亮二が素直に謝った。


「私もごめん」


それに答えるように堺さんも謝る。


「私、あんまり話すの得意じゃないから」


堺さんがそう言葉を続けた。

 

 

   

「ほら、亮二くんも香澄も楽しくいこう」


桜が二人の背を押しながら先の店にぐいぐいと入っていく。


「分かった。分かったから。押すな押すな」


「桜。私も押さないで」


「いいからいいから」


三人がわいわいと言いながら進んでいく。


僕と晴香は顔を見合わせて少し笑う。


多少は仲良くしてくれればと思う。


亮二も行動は雑だけれど根は悪い奴ではないので、なんだかんだでうまくやってくれるだろう。


事実そこからは堺さんも口数は少ないものの僕たちの会話の中に入って楽しそうにしていた。


亮二も気を使っているのか何度かフォローをしてくれていたようだ。

 

 

   

昼食を食べ終わった後、堺さんがトイレに行くというので待ちながら次どこに行こうかという話をしていると、晴香が不思議そうに首を傾げた。


「どうした?」


亮二が聞くと、晴香は堺さんが向かった先の通路を見ながら言った。


「ちょっと帰り遅くない?」


確かに堺さんがトイレに行ってからすでに十五分は経っている。


少し長い気はする。


「私、ちょっと様子を見てくるよ」


言って晴香はトイレに向かう。僕たちはとりあえずその場にとどまることをしたが、すぐにその場を動くことになった。


なぜなら通路の先から晴香の「何やってるの!」という声が聞こえてきたからだ。

 

 

   


僕たちは顔を見合わせるとすぐに声のしたほうに向かう。


通路を曲がった先で晴香と同世代の男が言いあっているのが見えた。


「何しているのって言ってるの!」


晴香の目の前の男は堺さんの手首を握ってどこかに連れて行こうとしているようだった。


「お前こそ誰だよ。こっちの話に首を突っ込むんじゃねぇ」


「あいつ、どっかで見たことある気がするな」


亮二が首をかしげる。


「隣のクラスの木村だよ」


僕は記憶を探りながら答える。あまり関わりはないけれど顔ぐらいは知っている。

 

 

   

「まぁまぁ。落ち着きなよ」


桜が無造作に三人の中に飛び込んで行ったのを見て僕と亮二も慌てて三人の所に駆け寄る。


「お前ら何なんだよ」


「友達だよ」


桜がさらりと言う。堺さんの目が見開かれるのを僕は見た。


「友達がなんだよ。俺はコイツの彼氏だからな」


「彼氏が自分の彼女をコイツ呼ばわりするなよ」


亮二が晴香と桜の前に立ちはだかる。


「そんなの俺の勝手だろうが」


「もう、彼氏じゃない」


今にも怒鳴り散らしそうな木村の言葉を否定したのは堺さん自身だった。


「お前! まだそんな事言っているのか」


「まだも何も何度も言ってる」


木村が拳を振りかぶったので僕は咄嗟にその腕にしがみついた。

 

 

   

しがみついたまでは良かったものの、すぐに木村の左拳が脇腹にめり込んできた。


肺から酸素が吐き出される。強烈な痛みと吐き気が襲ってきた。同時に激しく後悔する。慣れないことなんてするもんじゃない。


床に座り込んだ僕から堺さんに向きなおった木村が再び殴りかかろうとしたところを亮二が後ろから飛びついてあっという間に床に抑え込んでしまった。


「何しやがる!」


叫びながら暴れまわる木村を体をうまく動かしてまったく立ち上がらせない亮二。だてに柔道経験者で全国に出たことがあるわけじゃないらしい。


僕はようやく立ち上がって自分の脇腹を確認する。


軽く触るだけで痛みがある。間違いなく痣になったなと思う。


それから一分もしないうちに木村が息を切らせて動かなくなる。


「だから、落ち着いて話そうじゃないか」


桜が木村の前にしゃがんで話しかける。手がぎりぎり届かない位置に座っているあたり周到だ。

 

 

   

「本当に何なんだよお前らは……」


先程と同じ言葉だが声に力がなくなっている。


「俺は香澄に話があるだけなんだよ」


「その割には随分乱暴だったみたいだけど」


「チッ」


木村が舌打ちをする。


「私はあなたに話はないんですけど」


後ろに立っていた堺さんが無感情な声で話しかける。


「香澄。何で俺を避けるんだ」


「それはまぁ。私をしばしば殴る人の側にいたいとはおもいませんよね」


表情をまるで動かさず言う。まるで世間話をしているような軽さだ。


「あなたそんなことをしてたの!」


怒ったのは晴香だった。


晴香は他人の事をまるで自分の事のように感じ、怒ったり笑ったり泣いたりできる人間だ。


その性格にはもちろん良い面も悪い面もあるとは思う。


人の気持ちに寄り添えるというのはその人の気持ちになれるということだし、相手と一緒に感情を共有できフォローすることもできる。逆に言えば距離感が近すぎるということでもある。


ただ、素直に凄いと思うのが僕の感想だ。そこまで素直に感情を表に出すことはできない。


でも、木村は晴香を一瞥しただけでまた視線を堺さんに戻す。


「それは何度も言ってるじゃねぇか。お前の為なんだよ。俺はお前の為を思って心を鬼にして教育しているんだよ」


「無茶苦茶だな」


亮二が呟く。


「余計なお世話ですよ。私はあなたに教えてもらうことなんて何もありません。むしろ、あなたと一緒に過ごした時間が無駄だったので返してほしいぐらいです」


相変わらず手厳しいセリフを堺さんが投げかける。


 

 

   

「行こう。香澄ちゃん。こんな奴に構うことないよ」


晴香が堺さんを引き連れて離れていこうとする。


「香澄! 待てって香澄!」


亮二の下から木村が堺さんを呼び止めようと叫ぶが堺さんは振り返りもしなければ立ち止まりもしなかった。


何とか亮二から逃げようと暴れまわるが亮二が木村を離すことはない。


しばらくして堺さんの姿が見えなくなると木村も暴れるのをやめてぐったりと床に頭をつけた。


「さて、君のお求めの香澄は行っちゃったわけだけど」


桜が両手に顎を載せて木村に話しかける。木村は桜のほうを見向きもしない。


「木村君は本当に香澄の彼氏だったのかな?」


「だったじゃねぇ。今も彼氏だ」


桜の言葉に木村が過剰に反応する。

 

 

 

「あはは。分かってるよ。木村君が香澄の彼氏だってことは」


「知ってたの?」


僕は思わず尋ねる。


「まぁね」


と桜がうなずく。


「だから言っているだろ」


「いや、元カレでももう別れたんだろ?」


亮二が呆れたように言う。


「別れてないって言ってんだろ!」


「そうなんだよねぇ。木村君は香澄と別れてないらしいんだよ」


言ったのは桜だった。

 

 

   

「ほらな! 言ったろ!」


木村が得意げに言う。


「どういうこと?」


僕の疑問に答えたのも桜だった。


「私も気になって色々聞いて回ってみたんだ。確かに木村と香澄は付き合ってたみたいだと言う話をクラスメイトから聞いた。仲は悪くは見えなかったと言っていたよ。良くも見えなったみたいだけど」


木村が露骨に嫌そうな顔をする。


「でも、別れ話をしてるとか喧嘩しているとか。別れたなんて話はまったく聞かなかったよ」


「でも、それは本人たちしか分からないことなんじゃないの?」


「そうだろ。わざわざそんな話を人に話さないだろうしな」


僕の意見に亮二も賛成する。

 

 

   

「でもね、それっぽい話をしている所を見ていた人もいたんだよ」


「それっぽい?」


木村が今度は露骨に舌打ちした。


「香澄が、あなたともう一緒にいる意味が分からない。そう一言言って立ち去るところを見た子がいたんだ」


「それだけ?」


「そう。それだけ」


桜はうなずく。


「そんなの別れたなんて言わないだろ!」


木村が叫んだ。


「たった一言だぞ。何も言わず理由も言わず議論どころか会話すらしてない。そんなの別れ話だなんて言わない」


木村の言うことももっともだった。少しだけ同情する。

 

 

   

「いいかげんどけよ。もう暴れたりしないからよ」


木村が亮二に向かってにらみつける。


「亮二君。離してあげてくれ」


亮二が桜の顔を確認するようにうかがう。桜は頷くのを見て木村から手を離して立ち上がる。


木村は舌打ちをしながら起き上がる。体のあちこちが痛むのか肩を盛んにまわしている。


「俺は被害者なんだよ」


その言い分に腹が立つが事実は事実だ。

 

 

   

「はっは。君が被害者なわけないじゃないか」


桜が鼻で笑った。木村の表情が硬くなる。


「どういう意味だ」


「香澄が君のもとを去る理由を作ったのは君だろ?」


「なんだと!」


木村が桜に向かって拳を握りしめたが、亮二が少し動くだけで木村は動きを止めて小さく舌打ちをした。


「お前が俺と香澄の何を知っているってんだ」


「何も。君たちがどういう関係でどんな気持ちで一緒にいたのかは分からない。でも、嫌がる相手を殴る関係は少なくとも正常ではないよ」


「あれは教育だって言ってるだろ!」


木村が叫ぶ。

 

 

   

「人を殴るのが教育ってどういうことだよ」


僕は思わず呟いていた。小さな声ではあったが木村はきっちりと聞いていたらしいすぐに僕に矛先を向けた。


「お前らには分からないんだよ。俺と香澄の関係なんて。普通とかお前らの常識で俺たちを図ってるんじゃねぇ。香澄は普通じゃないんだ」


「普通って何ですか?」


「特別だってことだよ。お前らは香澄の事なにもわかってないんだ。香澄の事を助けられるのは俺だけだ。俺なら助けられる」


木村は自慢げに言った。

 

   

「木村には無理なんじゃないかな」


僕は思わず口走っていた。木村が僕をにらみつける。


「あ? どういうことだよ」


目の前まで詰め寄ってきて僕の胸倉をつかむ。痛いからやめてほしい。


「そのままの意味だよ。木村には堺さんをどうこうすることはできないよ」


首元がさらにきつく絞まる。


「そんな、自分なら助けられるなんて思っている奴には無理だよ。だから木村には堺さんは救えない」


当然、僕にも無理だけど。


 

 

   

「じゃあ、お前なら救えるとでもいうのかよ」


僕が思っていたことを木村が質問してきたので、首を左右に振る。


「無理なんじゃないかな? 僕にはそんな大それたこと」


はっきりと告げてやると、拍子抜けしたのか木村は僕の胸倉から手を離した。


「は? じゃあ、余計な事言うんじゃねぇよ」


吐き捨てるように言う。


「良い事教えてやるよ。お前らは香澄の友達のつもりかもしれない香澄はお前たちのこと友達とは思ってないからな。お前たちだけじゃないアイツは誰の事も友達なんて思ってないんだからな」


木村は踵を返してこちらを一度も振り返らないまま立ち去った。


木村が立ち去った後、僕たちは休憩所で休んでいた晴香達と合流した。


「大丈夫? 落ち着いた?」


桜が話しかけると堺さんは頷く。


「大丈夫です。別に特別何もありませんから」


ほとんど表情を変えずに言う。


「本当に大丈夫? 怖くなかった? 無理してない?」


その変わらない態度に晴香は逆に心配になっているようだ。晴香に対しても堺さんは無表情でうなずく。


「大丈夫です。無理なんかしてない。というか無理する必要がありません」

 

 

 

本当に何を心配しているのかわからないといった表情で堺さんが首をかしげる。


「私は何も悪いことはしていませんし、むしろ私に暴力を振るってきた木村から私が離れることになんの罪悪感もありませんから」


確かにその通りだ。でも。晴香と亮二が顔を見合わせる。桜は考え込むように顎に手を当てていた。


「でも、一方的に別れを告げて話し合いもしないというのはちょっと乱暴なんじゃない?」


僕はおそらく亮二と晴香が頭によぎったであろう言葉を口に出した。


二人ではおそらく言えないけれど気になっているだろうことを聞いた。


でも、僕はこの質問に対する堺さんの答えを知っていた。

 

 

   

「何でですか?」


本当に分からないのだろう。怪訝そうな顔を僕に向けてくる。


「私は木村とこれ以上一緒にいるのは無理だと思ったから離れただけです。暴力を私に振るう男にそこまで気を使う必要性がありますか」


「いや、ないと思うよ」


僕はそう言うしかない。実際その通りなのだ。堺さんの言っていることは正しい。


いつも正しすぎるほどに正しいのだ。


ただ、その言い方に思いやりがないというだけだ。


木村に対してだけではない。正直に言えば、木村には思いやりを与えてやる必要はないと思うのが個人的な意見だ。


でも、堺さんは木村だけではない。


そう。僕たち、亮二や晴香、桜にも彼女は言葉を選ばない。

 

 

   

堺さんとしては自分の思ったことを口にしているだけで、しかも自分は悪くないと自覚しているし、自分が言っていることも間違っていないと分かっている。


それをやめる理由が分からないというのも分からなくはない。


分からなくはないが。


そういうことではないだろう。


人間は理屈や理性だけで生きているわけじゃない。


むしろ、理不尽で理解不能な感情に振り回せれて生きているんだ。


そんな単純な話ではない。


逆に、そんな単純に考えられる堺さんが凄いのかもしれないが。


でも、きっと堺さんにとってこの世界はとても生きづらいだろうなとは思う。

 

 

   

結局、今日はこのまま解散することになった。


あまり買い物をするような気分ではなくなってしまったし、それに時間も遅くなってしまっていた。


「香澄ちゃん。また、遊ぼうね」


晴香が別れ際に堺さんに言った。


「ええ。また」


しばらく手を握っていた晴香は堺さんの目をじっと見つめていた。


「木村がしつこくしてくるようなら、言ってくれ。できることは手伝う」


亮二が視線を合わせ無い様にしながら言う。


「ええ。遠慮なく頼らせてもらいます」


こちらにも無表情で答える。


「じゃあ、私は香澄を家まで送っていくね」


桜は言って、僕に視線を向ける。はいはい。僕も送っていきますよ。亮二と晴香に目で合図してうなずく。


二人は承知したようで「また、学校で」と言って帰って行った。


曲がり角まで手を振り続ける晴香を見送って僕たちは三人だけになった。

 

 

   

「帰ろっか」


桜が言うと同時に歩きはじめる。


「そうですね」


「ああ」


僕たち二人もうなずいて桜の後ろをついて歩き出す。


帰り道は言葉少な目だった。堺さんも自分からあまり話すタイプではないし、僕もそうだ。


この三人だと桜が口を開かないと必然的に無言の時間が増える。


でも、堺さんはその時間を気にするようなタイプでないようだし、僕は桜が気にしていないようなので特に気にはしていない、


このまま家まで無言で着くのかと思っていた時に、意外な事に堺さんが口を開いた。

 

 

   

「ずっと不思議に思っていた事があるんだけど」


「何かな?」


桜が振り返って堺さんに聞く。歩みは止めていないので後ろ向きに移動しながら話をするらしい。桜の背後では赤い夕焼けが広がっていて、桜の表情は逆行で見えなかった。


「……どうして、最近私に構うのかな? 構ってくれているのかな?」


堺さんの疑問に思っているときの癖なのだろう。人差し指を顎に当てながら首をかしげて聞いてきた。


「理由がいるのかな?」


「……いると思う。突然、私に理由もなく近づいてくる意味が分からないし、正直言って意味不明」


また、バッサリという。


「香澄が好きだからじゃダメなのかな?」


桜はそう答えた。


「ダメでしょう。信じられないもの。もし、仮に私の事が本当に好きなら、どうして今なの? 私は桜や斎藤君に好きになられるようなことはしていないし、もし私の見た目が好きだというならもっと早く話しかけてくるんじゃないの?」


「あはは。本当に香澄は正直だなぁ。まっすぐ過ぎて心配になってしまうよ」


桜は笑う。堺さんは首を傾げたままだ。

 

 

   

そんな話をしているうちに堺さんの家の前までたどり着いた。


家に電気はついておらず窓から見える室内は真っ暗だった。


「また、お母さん。電気つけずに寝てるのかな?」


困った顔をしながら堺さんは玄関の鍵を開ける。


「堺さん」


僕は思わず呼び止める。


「何?」


「大丈夫?」


堺さんは意味が分からなかったのだろう首を傾げる。


僕も言いたいことはあるが口に出していいのかどうか分からない。


結局、飲み込んでしまう。


「いや、何でもない」


「やっぱり斎藤君は変わってるよ。今日は遊んでくれてありがとう。ちょっとだけ楽しかったよ」


「また、明日」


桜が言って、堺さんも手を振ってこたえる。

 

 

 

玄関の扉から堺さんが入って行ってすぐにリビングの電気が点いた。


窓を通して話し声が聞こえてくる。どうやらリビングで眠っていた母親を起こしているらしい。


「堺さんは……。母親の事好きなのかな?」


僕はさっき堺さんに言えなかったことを桜に聞いてみる。


「そうだろうね。香澄はきっとお母さんの事が好きなんだろう。良い事じゃないか」


「その母親が暴力を振るってるのにか?」


桜が黙る。


「それだよ。明。どうにも納得ができない。どうして香澄は暴力を振るわれている母親の事を嫌うでもなく、むしろ好きでいるのかな?」


「さぁ。僕にはよくわからないよ」


「その辺りを詳しく知りたいという気持ちがあるよ。私には」


「そんなの分かりようがないじゃないか」


「確かに、人の感情というのは簡単じゃないからね。でも、周囲の状況や人間性を知れば、予測することはできるんじゃないかな?」


「それはそうかもしれないけど」


「実は香澄の事を詳しく知っているだろう人物に心当たりがあるんだ。その人に話を聞いてみようと思う」


「僕もついていくのかな?」


「当然」


胸を張って桜が言った。

 

 

   

翌日の月曜日の放課後僕は桜に呼び出された。桜の教室に行くと中心の机の上に座って窓の外を眺めていた。


妙にそれが絵になっていてなんとなく眺めてしまう。


「お。来たね」


桜が僕に気が付いて机から軽く飛び降りる。


「待たせたかな」


「そうでもないよ」


桜は僕に近づいてくる。どんどん近づいてきて。ちょっと近づきすぎじゃない?


思わずのけぞるほど顔を近づけて僕の顔を凝視する。


「何?」


なるべく平静を保とうとしたけれど、声は少し震えていたかもしれない。


「んー。いつも私に付き合ってくれてありがとう」


突然、そんなことを言った。


「一体何なんだよ」


「別に。お礼は大事だなと思って」


正直に言えば調子が狂う。素直に感謝する桜といつもの桜のキャラクターが一致しない。


最近たまに感じるズレとでもいうのだろうか。僕の知っている前回の桜と今回の桜が違う感じを受ける。


これは僕が前回気が付かなかった部分に今回の僕が気が付いているのだろうか?


「じゃあ、行こうか」


僕がうだうだと頭の中で考え事をしている間に桜は教室を出て行ってしまう。慌てて後を追いかけて廊下に出る。

 


   

「どこに行くつもりなのさ」


桜の横に並びながら聞く。


「香澄の事をよく知っている人の所だよ」


誰の事だろう。


「三年生に音楽を教えている、柳田先生を知ってる?」


確か今年大学を卒業して赴任してきた若い男の先生のはずだ。


「知ってるけど柳田先生がどうしたの?」


「あの人は香澄の従兄妹なんだよ」


「そうなの?」


「そうなの」


桜は肯定する。


「そんなのどこから調べてくるの?」


「秘密です」


口元に人差し指を当てて悪戯っぽく笑う。

 

 

 

「柳田先生には話をしてあるから職員室に向かうよ」


言われるがままに桜の後についてく。職員室の中には何人かの先生が机に座っていたものの閑散としていた。


窓際の隅に件の柳田先生が座っていた。


「失礼します。柳田先生」


桜が声をかけると柳田先生が顔を上げた。


「ああ、水下さん。香澄ちゃんの事だよね」


桜がうなずく。柳田先生は僕のほうに視線を向けたが特に何も言わなかった。


「ちょっと場所を変えようか。隣の生徒指導室を借りているんだ」


僕たちは柳田先生と一緒に生徒指導室に移動した。

 

 

   

「堺香澄さんの事を聞きたいんだったね」


「ええ。柳田先生が香澄の従兄妹だと聞きましたので、詳しい事情を知っていると思いまして」


柳田先生は桜と僕を交互に見て、小さく息を吐いた。


「今からは、教師としてではなく従兄妹として話をさせてもらうよ」


言って椅子の背もたれに体重をかけるようにして座りなおす。


「君たちは香澄ちゃんの友達なんだろ?」


「ええ。そうです」


桜が答えて柳田先生の視線に僕にも向かう。


「僕はそのつもりです」


堺さんがどう思っているかは分からないけれど。

 

 

   

「そうか。そう思ってくれている人たちができただけでも良かったと思うべきなんだろうな」


柳田先生は近くの椅子を自分の前に持ってきて僕たちに座るように促した。


桜と二人椅子に座って柳田先生と向かい合う。


「あの家はね、ちょっと複雑な事情があるんだよ」


「複雑とは?」


「私の叔母にあたる人、つまりは香澄ちゃんのお母さんだけどね。実家から勘当されているような状態なんだ。もともとの始まりは結婚を反対されたかららしい。

 正直に言えば、叔母さんの旦那はお世辞にもいい人とは言えないような人間でね。叔母さんの両親も姉である私の母も反対したんだよ。でも、叔母さんも結構頑固な人でね。反対されればされるほど意固地になっていったみたいだ。

 結局、最後には叔母さんが駆け落ち同然で家を飛び出して消息を絶った」


一息呼吸を吸って言葉を切る。

 

 

   

「ここからは後で聞いた話だから正確なところは分からない。でも、二人の新婚生活はお世辞にも幸せだったとは言えなかったようだ。狭い六畳一間のアパートで暮らし始めた二人で、香澄が産まれたまでは良かったが、ある日突然仕事をやめてきたらしい。

 職場の上司と喧嘩して勢いで辞めてきたということだった。そこからは典型的な悪い話さ。仕事を辞めた旦那は家で酒を飲んで寝るばかりを繰り返すようになった。仕事を探すように言っても探そうとはしない。何度も繰り返し頼んでいるうちに旦那は叔母さんに暴力を振るうようになった。その暴力は香澄ちゃんにも及んでいたみたいだった。

 地獄のような日々だっただろうよ。まだ幼児だった香澄ちゃんにとって、父親は恐怖の対象でしかなかっただろうし、自分を守るすべも持っていなかった。でも、そんな日々も突然終わりを告げた。旦那が踏切で電車事故にあって亡くなったんだよ」


柳田先生がうつむいて声のトーンが低くなる。表情ははっきりとは見えない。


「普段、ほとんど家から出ない旦那さんが線路の踏切で事故に会ったんですか?」


「ああ。酒を買いに行く途中だったらしい。いつもは家に予備というかストックが置かれていたんだが、その日に限ってはストックがなく、叔母さんもパートに出ていた」


「それって」


僕は思わず呟いた。

 

 

   

柳田先生は首を振ってそれ以上は語ろうとしない。


証拠があるわけでもない事で自分の叔母を貶めたくないのだろう。


実際ぞっとしない話ではある。自分の旦那を踏切に突き飛ばしたなんて推測は。


「叔母は親子二人での生活を始めるにあたって実家の近くに引っ越してきた。叔母はかなり頑固な人間だったからね。実家の近くに引っ越してきたのは親を頼りたいという気持ちがあったからだろうが、決して自分から助けを求めることはなかったんだ」


柳田先生が両手を膝の上で組み替える。しきりに人差し指で椅子の手すりに何度も繰り替えし叩いている。


「私が香澄ちゃんと初めて会ったのはこの頃だよ。叔母は昼間の間近くのスーパーで働いていたからその間香澄ちゃんは近くの公園で一人ずっと遊んでいたんだ。私は香澄ちゃんの存在は知っていたし、実際に姪だからね。一人にさせておくのも心配で自分から声をかけたんだよ」


「そこで仲良くなったんですか?」


桜が尋ねた。

 

 

   

「どうだろうな。私的には仲良くしていたつもりだけど、香澄ちゃんにとってはどうだったんだろうね」


柳田先生は困ったような顔をしている。


「香澄ちゃんと友達なんだったら分かると思うけど、あの子は情に疎いというか、人の気持ちに鈍い。それどころか人の気持ちに立って考えるということ事態理解できない、考えようともしないんだ」


思い当たる節は数え切れないほどあった。


「まぁ、育ってきた環境もあるんだろうけど」


小さくため息を吐いた。柳田先生は堺さんの事を心配しているのだろう。表情からそれは読み取ることができた。


「それでも香澄ちゃんにとってその生活は幸せだったのかもしれない。父親からの暴力がない生活を送れたんだから。短い間だったけど」


「今度は母親が暴力を振るい始めましたか」


桜が指摘すると、うなだれるように先生はうなずいた。

 

 

   

僕は前回の人生で聞いていた話しなので驚きはしなかったが、胸糞の悪い話だった。


「よく、ある話ではあるんだよ。父親の暴力が終わったと思ったら母親が暴力を振るい始めるというのは」


今度は分かりやすくため息を吐いた。


「でも、本当に困るのは父親の暴力の時とは違い香澄は母親の事が好きだったんだ」


「何か違うんですか?」


僕は思わず聞いていた。


「大きく違うね」


柳田先生は断言する。

 

 

   

「暴力を振るっているの母親が好きというのはとても厄介だったよ。私は香澄と会うようになってからすぐに体のあちこちに痣ができているのに気が付いた。どうしたのと聞いても転んだとしか言わなかったんだ」


家庭内暴力を受けている子供がよく陥る症状だ。暴力を振るわれるのを恐れて、自分が暴力を振るわれているとは言わない。言えない。


「脅されていたんですか?」


桜の疑問というか確認の言葉に柳田先生は首を横に振った。


「本当に困ったところは香澄は母親に脅されていたわけじゃなく。本心から暴力なんて振るわれていないと思っていたんだ。大好きなお母さんが私に暴力なんて振るうわけがない。つまり、今受けているこれは暴力じゃない。そういう理屈だ」


無茶苦茶な理屈だった。


「私は何度か児童相談所に相談したことがあるんだ。でも、本人からの確認が取れないうえにそれどころか心底不思議そうに母親の暴力を否定されては、児相も動けなかった。警察を動かすには証拠がなかったし、母親もずる賢く逃げたり、暴力の事実を隠していたから私には手の出しようがなかった」


悔しそうに表情を歪めて話す。柳田先生は根が真面目というか素直に良い人なのだろう。


堺さんの事も本気でどうにかしようとしてくれていたのだ。ただ、堺さんを助けることはできなかった。


結局のところ、堺さんは救われる気がなかったのだ。


母親から離れたいと思っていなかった。


それが一番の障害だったのだろう。

 

 

   

「私は、怪我をしている香澄ちゃんをただ見ていることしかできなかった。私にできることは母親の仕事が休みの土日に香澄ちゃんを連れだして一緒に遊ぶことぐらいだった。

 叔母は休みの日に香澄ちゃんを殴ることが多かったからね」


僕たちがやっている事と同じだった。僕たちがやっていることが間違っていないという事だ。ただし、僕たちのやっていることは昔と何も変わっていないということでもある。


「結局、私には香澄ちゃんを助けることができなかったんだよ。私は力足らずだった」


言って、柳田先生は話を終えた。後悔と反省が顔に浮かんでいる。


「先生はできる限りの事はやったと思いますよ。それが結果につながらなくてもそれが無意味だったということにはならないと思います」


桜が先生をフォローするように言う。


「そうだといいんだけどね」


柳田先生は苦笑して答えた。

 

 

   

「でも、先生。まだ話は終わっていませんよね」


「何がだ?」


「その時、香澄はどうやって助かったんですか? その子供の時以来ずっと暴力を受け続けているというわけではないんでしょう?」


桜の言葉に「ああ」と柳田先生はうなずいた。


「ああ、確かに叔母の暴力は収まった。でも、その理由は私とは関係がない。叔母は病気をしたんだよ。長い間入院していたらしい。それで、叔母の暴力は止まったんだよ。暴力を振るわなくなったのではなく振るえなくなったんだ。叔母は結局大きな病院に入院するために香澄ちゃんと一緒に引っ越して行ってしまったんだよ。だから、私はそれ以来香澄ちゃんとは会えていなかったんだ。その後教師になって、この学校に香澄ちゃんが入学してきたときは驚いたよ。まぁ、でも向こうは私の事を覚えていなかったみたいだがね」


柳田先生が自嘲する。

 

 

   

「私が知っているのはこの程度だよ。実際私はあの子に何もできなかったと言ってもいい。助けてあげることもできなかったし救いになってやることもできなかった。だから私は香澄ちゃんとは今はほとんど関わっていない。関わる資格がないとも言える。あの子は私の事を覚えていないようだし、私の事を思い出したとき、母親の暴力の事を思い出してしまうかもしれない。だから私はあの子にはなるべく近づかないようにしてきたんだよ」


正直に言えば気にしすぎなのではないかと思う。柳田先生はむしろ堺さんに近づくことを怖がっているのだろう。


その気持ちもまた分からなくもない。一度失敗した事に再び向き合うのは誰しも怖い事だし、無理に向き合う必要もない。


「今、香澄が母親からまた暴力を受けているかもしれません」


桜の言葉に柳田先生の表情が変わった。


 

 

 

「それは本当なのか?」


「証拠はありません。ただ、香澄の体には見えにくいところに痣があるのは間違いない。私は香澄を助けたい」


桜が凛とした声で告げる。それは明確な意思表示であり、宣言でもあった。


「私も協力しよう」


柳田先生はまっすぐに視線をこちらに向けて言った。


「もちろん明もね」


「分かってるよ」


ここで断れるほど僕の心は図太くない。


「それで、明。どうすればいいと思う?」


「家庭内暴力だと、おそらく警察は簡単には動いてくれないとおもう」


それは前回経験したことだった。

 

 

   

「警察は死に直結するような脅迫や、明白な暴力痕のような証拠がないと精々警告か、注意するために自宅を訪問するぐらいしかしてくれない」


僕にとっての一年前、今回と同じように桜が堺さんを助けようと言って僕たちがまずやったのは警察に駆け込むことだった。


しかし、警察は期待したほど効果を発揮はしなかった。家庭内の出来事であるということと暴力の証拠がつかみにくいことが原因のようだった。


「暴力の証拠ならあるじゃない」


桜が首を傾げる。痣のことを言っているのだろう。


「確かに堺さんの体には痣があるけど、堺さんはそれを母親からの暴力とは認めないだろうね。柳田先生の時と同じように、だからその痕を警察の前で見せてはくれないだろうし、見せたところできっと違う理由で怪我をしたんだと言うだろうと思うよ」


これも前回やったことだった。

 

 

   

「堺さん自身に家庭内暴力を受けているという自覚を持たせない限り警察は動いてはくれないと思う」


そこが難しいところだった。柳田先生の言う通り、堺さんは本当に母親が好きなのだろう。決して家庭内暴力を認めなかった。


「相談センターだろうな」


柳田先生が言った。


「そういう家庭内暴力を専門にしている施設がある。そこに香澄ちゃんを連れて行って相談するべきだろう」


「問題はそこに堺さんが行ってくれるかどうかだね」


無理やり連れて行っても駄目だろう。本人の意思でいかなければ。


「私が説得するよ」


桜が言ってうなずく。確かに桜が一番の適任かもしれない。


堺さんは今のところ桜に一番心を開いているのだから。

 

 

   

「私は相談センターの方に話を通しておくよ」


「お願いします。先生」


桜が頭を下げるのに合わせて僕も頭を下げた。


「頭をあげてくれ。むしろ頭を下げたいのは私のほうだ。私はあの子に何もしてあげられなかったからな。今回は私もどうにか役に立ち立ち思っているんだよ」


頭を上げると柳田先生が微笑んでいた。


「私はあの子にここまで思ってもらえる友達ができたことが素直にうれしいよ」


確かに、桜は本当に堺さんの事を大事に思っているだろう。


でも、僕自身はどうだろう。堺さんの事は友達だとは思っているが、柳田先生が言うほど大事に思っているのだろうか?


自分でもよくわからない。


ちょうどその時、五時を知らせるチャイムが流れてきた。窓の外を見ると日が沈みかけている。


「二人とも今日の所は一度帰りなさい。この話は急ぐ必要はあるが焦ってもいいことはないからな。また明日同じ時間にここで話をしよう」


「そうですね。じゃあ、今日はこのぐらいでお暇しようか」


桜が言って踵を返すので僕も後ろに続く。


「じゃあ、先生また明日」


「ああ、気を付けて帰ってくれ」


先生に頭を下げて僕たちは生徒指導室を後にした。

 

 

   

桜と途中で別れて僕は電車に乗った。二駅先の駅で降りると沈みゆく夕日が辺りを薄いオレンジ色に染めている景色が広がっていた。


駅からしばらく歩くと辺りは静かな住宅街になっていた


僕はとある記憶を頼りにこの住宅街に来ていた。確か今日だったはずだ。前回はどうして今日この場所に来たのかははっきりとは思い出せないが、確かに僕はここにきた。そう堺さんの家があるこの住宅街にだ。


僕が覚えている光景はこうだ。


夕日がまぶしい住宅街を前にも僕は歩いている。そこで、大きな物音をがして、窓ガラスが割れた。


そこまで思い出したとき、すぐ斜め前の家から大きな物音がしてガラスが飛び散るのが見えた。


表札を確認する。


僕の記憶にある通り、堺さんの家だった。

 

 

 

前回も僕はここで堺さんの家のガラスが割れるのを見た。


僕はすぐに警察に電話をした。警官がやってきて一緒に家に行った時出てきたのは堺さんだった。


堺さんは模様替えの時に謝って家具を倒してしまって窓を割ってしまったと言った。


警官は僕の顔を見て少しの小言と舌打ちをしそうな表情だけ残して帰って行った。


僕は自分の行動が間違っていたとは今でも思っていない。


いくら自分の友達の家の窓ガラスが割れたからと言っていきなりその家に飛びこめる人間がどれだけいるというのだ。


そんなのはドラマや映画の中だけの話だ。


勝手に入るのは立派な住居侵入罪なのだから。


「言い訳なんだろうな」


僕は苦笑しながらつぶやいた。分かっている。


どうして僕が今ここにいるのか。それを考えれば。


巻き込まれたくないのなら、ここに来なければ良かったのだ。


知らなければ、ここにいなければ。僕はこの窓ガラスが割れた事に対応する必要がないのだから。


「リテイクだよ」


また、頭の中で桜の顔をした神楽が言った。言った記憶が蘇った。


「君がやるべきなのは。リプレイではなくリテイクなんだよ」


まるで呪いだなと思う。神様の呪い。


いや、僕の中で呪いにしているのかもしれない。


神楽はこんな風には言っていなかったはずだ。


「リプレイよりもリテイクの方が楽しいと思うよ」


そんなセリフだったはずだ。


僕自身が神楽のセリフを歪めているのだ。


 

 

   

僕は堺さんの家に向かって駆け出していく。


いい加減に認めよう。


確かに変化は嫌いだ。


変化というのは良い事よりも悪い事の方が圧倒的に多い。


僕はたった十数年にしか生きていないけれど実感としてそう感じている。


だから、僕は変化が嫌いだ。


春が嫌いだ。


春は出会いと別れの季節。生活環境が大きく変わる季節。


喪失の季節だ。


多くの人が否定するだろう。ネガティブ過ぎると。


でも、そう思ってしまうのだから仕方がない。


そう。僕は喪失が嫌いなのだ。


今の生活の環境を失うのが怖い。


今の友達との関係を失ってしまうのが怖い。


だから春が嫌いだ。


でも、今は春じゃない。


そして、もう一つ分かっていることがある。


僕が前回と同じ行動を取り続ける限り失うものが確実に一つある。


それは、堺さんとの友人関係だ。

 

 

   

意を決して堺さんの家に向かう。玄関の前はしんと静まりかえっていた。


玄関に耳を当ててみたか物音ひとつしない。ノブをゆっくりと回す。


ガチャリと音がしたが鍵がかかっていて扉は開かなかった。


窓が割れていたのは確か一階の裏手の部屋だったはずだ。


物音を立て無い様に気を付けながら玄関から家の横手に移動する。


人一人が通れるぐらいの小さな面積の庭には無数の雑草が生えていて手入れはまったくされていないようだった。


かさかさと腕に当たる草の音が中に聞こえないか心配だったが、あまりゆっくりとしているわけにもいかない。


家の裏手に出てもほとんど物音がしていなかった。

 

 

   

人が通れるほどの大きさの窓が無残にも砕け散っていた。


大小さまざまな大きさのガラスが庭に散らばっている。


そのガラスとサッシに残っているガラス。見比べて心臓が一つ跳ね上がった。


血だ。


ガラスの先端に赤い液体が付いていた。まだ付着したばかりなのかガラスの端をつたって血が垂れている。


堺さんと名前を呼びそうになったが、慌てて口を塞いだ。


あまり、母親を刺激しないほうがいいのかもしれない。


僕はゆっくりと窓に近づいて中を覗く。


血まみれの堺さんが倒れていたらどうしようと思ったけれどその予想が外れてほっとする。

 

 

   

割れたガラスから手を差し込んで鍵を下す。


ゆっくりと窓を開けて中に足を踏み入れる。


静まり返っている室内ではぎしぎしと床が軋む音が響いている。


「堺さーん」


小声で堺さんを呼びながら室内を移動する。


自分で呼んでおいてなんだが、母親も堺さんなので、適切な呼び方ではなかったなとどうでもいいことを考える。


緊張しているのだろうか、頭の中がぐるぐると回っている気がする。


窓ガラスが割れていた部屋は居間のようだった、ゆっくりと隣の部屋を覗くと布団が一つひきっぱなしになっていた。


人の姿が見えなかったので扉を閉めて今の反対側の扉に向かう。


再びゆっくりと扉を開ける。


ここは客間か?


今や先ほどの寝室よりも明らかに奇麗に掃除されている感じする。


部屋の真ん中に大きなテーブルが置かれている。奥の壁には年期の入ったサイドテーブルが置かれていて中には様々な小物が入っていた。


ふと、そこで違和感を覚えた。


なんだろう。そう考えたとき、じゃりと後ろで物音がした。


慌てて振り返ろうとしたとき、背中に激しい痛みと痺れを感じたと同時に僕の意識が途切れた。

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