若かりし日の寄り道

三角海域

第1話

 目が覚めると、もう大宮を超えていた。

 頭を下げて寝ていたせいで、首が痛い。二三度首と肩を回して、僕は窓の外を見た。

 目まぐるしく景色は流れていて、それを見ているだけでも楽しい。まあ、そんなことを言いつつも、東京で新幹線に乗車した後、すぐに眠ってしまったわけだけど。

 旅行鞄からペットボトルを取り出す。東京に着いた時に自販機で買ったお茶だ。寝起きのせいか、のどが渇いている。満タンだったお茶はほとんどなくなってしまった。

 軽く息を吐き、座席に深く座り直す。

 あとしばらくすれば、仙台に着く。

 変に考える暇がない分、寝てしまってよかったのかもしれない。

 ポケットに入れていた財布から、一枚の写真を取り出す。色もだいぶ褪せていて、それが思い出の薄れを感じさせて、少し物悲しい。

 もう、二十年近く前になるのか。

 十年なら淡い思い出なんて言い方が似合うかもしれないけど、二十年じゃ、もうただの過去と言ったほうがいいのではないか。

 それでも、こうしてわざわざ仙台にまで出向くあたり、僕も諦めが悪いというか、なんというか。

 写真をしまう。

 まもなく仙台だ。



 仙台に来るのは三度目だった。

 最初は、中学の時に両親と一緒に。

 二度目は、高校生の時に一人で。

 僕が小学生の時に、父方の親戚が仙台に越していった。そこまで親しくしていたわけじゃないのだけど、旅行もかねて一度あいさつにということで、初めて訪ねたのが中学のころだ。

 その時、もう彼女は日本にいなかった。

 ああ、彼女というのは、親戚の人の娘のことだ。とても聡明な子で、ピアノ演奏者としての技術を小学六年生で開花させ、中学に進む際にオーストリアに留学した。

 名を、西尾深雪という。名前が彼女をそのままあらわしているというか、なんだかはかなげな印象の女の子だった。

 正直に言おう。僕は、六歳のころ初めて深雪に会った時から、彼女に惚れていた。ずいぶん早い初恋だと思う。いや、どうなんだろう。別に早くはないのか? まあ、ともかく、僕は深雪に恋をした。

 僕は、まだ深雪がこちらに住んでいるときに一緒に撮った写真を、ずっと大事に持ち続けている。この歳になって六歳のころの初恋を引きずっているなんて女々しいにもほどがあるし、気持ち悪いとか言われるかもしれないけれど、初めて深雪に会ったあの日から、僕は深雪以外の女の子に心惹かれることはなかった。

 僕が仙台を初めて訪ねた時には深雪はもう留学していたから、顔をあわせたのは一回だけ。もう一度だけ深雪に会いたくて、戻ってくる予定なんてないのに仙台をひとりで訪れたこともある。これが、二度目の仙台上陸の理由。結果は、もちろん会えず。その後は今日にいたるまで仙台を訪ねていない。

 今、歳を重ね思うのは、もしかしたら、僕は深雪ではなく、深雪に一目ぼれした思い出に恋い焦がれているだけなのではないかということ。少し距離をあけて考えて、そんな風に思うようになった。

 もう思い出にぶら下がるのはやめよう。

 そんな風に思った時、父から深雪が日本に戻ってくるというのを聞いた。

 どうやら、深雪は僕が考えている以上にクラシックのジャンルで活躍していたらしく、三月に復興イベントという形で、演奏会を開くことになったらしい。

 不謹慎かもしれないけど、僕はそのことに少しだけ運命を感じた。

 気持ちを諦めようとしていた時に、このイベントである。

 新幹線のチケットの予約が始まると、僕はすぐにチケットをとった。

 そうして、今にいたる。

 親は一緒に来なかった。母が親戚との距離感をうまく掴めていないからというのが理由だった。父も、母だけ残していくのもあれだからと、東京に残ったのだ。


 仙台駅に到着した。

 そこからタクシーで宮城県民会館へ向かう。そこが会場だ。

 演奏会が終了したら、少し時間をつぶして、その日にうちに帰る予定だった。演奏会はチャリティーがメインで、そこまで長いものではないし、時間も昼から夕方にかけてなので、十分日帰りができる。

 お前はなんのためにここまで来たんだと思いはするが、遠目から深雪を見ることができればよかった。それだけで、十分仙台まできた意味がある……と思う。

 タクシーを降り、県民会館へ。チケットは父が親戚に頼んで、もらってくれていた。どうやら、僕がクラシックに興味を持っていると勘違いして、わざわざ頼んでくれたらしい。

 ホールに入り、席に着く。ステージにはピアノが置かれ、ホール内にはささやき声に満ちている。

 緊張してきた。

 もうすぐ、深雪が舞台袖から出てくる。

 ずっと、憧れ、いや、引きずると言ったほうがいいだろうか。そんな風に思い焦がれてきた深雪に会える。

 手に汗が滲んでくる。唇もかわいてきた。情けないことこのうえない。

 そわそわしていると、拍手が起こった。

 顔をあげる。

 舞台袖から、ドレスを着た女性が、静かに、だけど堂々とした様子で歩いてくる。

 ああ、深雪だ。

 成長しているけれど、儚げな顔立ちはあの頃と変わっていない。

 ピアノの前に座り、短く息を吸うと、深雪は演奏を始めた。僕は音楽のことなんてよくわからないから、演奏が上手いだとかそういうことはわからないけれど、深雪の演奏には、引力があった。無理やり引き寄せられるような引力ではなく。心が引きつけられる音楽とでもいえばいいのだろうか。

 僕は演奏に没頭し、気が付くと演奏会は終了していた。

 登場したときよりも大きな拍手をうけて、深雪は舞台袖にはけていった。

 演奏会の終了を告げるアナウンスが響き、客たちは席を立つ。僕もゆっくり立ち上がり、ホールを出た。

 出入り口は人でごったがえしていたので、僕は人の波から逃れ、隅のほうにあるベンチに腰掛けた。

 しばらく待っても、人波はまったくひかない。何故だろうと人波のほうを見てみる。

 そこには、深雪がいた。

 どうやら、出ていく客ひとりひとりに礼を言っているらしい。握手をもとめる人もいるようで、そのせいで混んでいるらしい。

 今なら、話すチャンスなんじゃないか。

 今なら、思いを伝えるチャンスなんじゃないか。

 六歳のころから会っていない男のことなんて覚えてもいないかもしれない。仮に覚えていたとしても、漫画のようにそこから恋愛に発展することなんてないだろう。

 それでも、なんというか、心の中に熱いものが満ちていて、僕の足は深雪の方へ向かっていた。

 少しずつ、深雪が近づいてくる。

 初めて会った時から、僕は君が好きだった。

 忘れようとしていた思いが、心から漏れ出してくる。

 そうして、深雪が目の前に立った。

「あ、もしかして凌君?」

 自然に。あまりにも自然に深雪が僕の名を呼んだ。

「え? あの、覚えててくれたの?」

「覚えてるよ。だって、楽しかったから」

 嬉しかった。覚えていてくれたことが、僕と過ごした時間を楽しかったと言ってくれたことが。

 この流れなら、思いを伝えられるかもしれない。そう思った。

 だけど、何故だか、僕の心に渦巻いていた熱い思いは、冷めていた。

 もちろん、嬉しいのは間違いない。だけど、なんといえばいいのだろう。先ほどまであんなに恋い焦がれた深雪の姿を、今は普通に見つめることができた。

「あのさ」

「うん?」

 僕の後ろにはまだ多くの人がいる。かわせる会話は、あとひとつくらいだろう。

「二人で遊んだ公園、今じゃマンションなんだよ」

 どうでもいいようなことが口からでてきた。だけど、深雪は残念そうに笑い、言った。

「そっか。人も場所も、変わっていくのは当然だけど、なんか、ちょっと悲しいね」

「そうだね。それじゃ、長話するのもほかの人に迷惑だから、これで」

「ありがとう。会えて嬉しかった」

 深雪に手を振り、僕は県民会館を出た。

 気持ちが冷めてしまったのだろうか。

 タクシーを待ちながら、少し考える。

 いや、違う。冷めたわけじゃない。かっこつけた言い方をするんなら、覚めたってことなんじゃないか。

 初恋というのは、身近なものだ。

 その時は、それが宝物のように思えるが、時間が過ぎていくと、その宝物は思い出に変わる。青春も初恋も、言うなれば、全力の勘違いなんだ。そうでない人もいるかもしれないが、多くの人はそうだろう。

 僕は、少し特殊な初恋をした。

 きっと、僕の中の深雪は、思い出という衣をまとった神秘的な存在であったのだ。

 それが、今日こうして会って、互いに懐かしむことで、神秘の魔法が解けたのだろう。

 深雪は、僕の中の思い出にひとつに変わったのだ。

 なんだろう。こんな単純なことを、僕は二十年も大それたもののように考えていたのか。

 笑いがこみ上げてくる。

 ああ、痛いな。この歳になって、まだこの思春期特有の痛みを味わうことになろうとは。

 現実というのは、ものすごくシンプルだ。

 初恋も、夢も。初めて生じたそういう感情は、ほとんどが思い出に変わってしまう。物語のようにはならない。

 それでも、僕はそういう感情は大切だと思う。

 きっと、そういう「たいしたことない物」ということに気付くということが、人を成長させていくと思うから。

 タクシーを拾い、後部座席に乗り込む。

「どこまで行きます?」

 運転手が訊く。

「御飯がおいしい店あります?」

 少し、寄り道して帰ろう。

 初恋という寄り道のついでだ。

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