第4話 白い鳥


「どうした、フュー?」

 問われてソフィーは兎のように振り返った。

 白い、白い世界。

 果ての果てまでも白く何もないが、不思議に暖かい。

 ……多分、ここはベルクの胸の内なのだ。

 あの時。

 何かに衝かれようにベルクの名を呼んだ。どうやってここへ来たのか、覚えていない。気付いたらここにいた。

 きょろきょろと辺りを見回したそのついでに、足下へと心許なげに視線を泳がす。

 寒くもないし、暗くもないが、何だか居心地が悪い。

 それはきっと見上げる大きな鳥の、赤い瞳が側にあるからだ。雪の白銀のように滑らかに光る羽。ソフィーを覆う影を作る翼が動く度、小雪のようにきらきらした羽毛が舞う。

 白い貴婦人の先触れ、冬の使者、凶鳥ベルクは息の止まる程美しかった。

「卵におなり、卵に‥‥」

 呪文のような囁きと共に翼の下に包まれた時、ソフィーは幸福で時が止まるかと思った。けれど、次に訪れたのは安息の暗闇ではなく、大きな赤い瞳に差した揺らめきだった。

 それからずっと、ベルクと共にこの暖かくて不安な場所に居る。ベルクはこの不安を、生きているからだと言った。

 ソフィーはベルクを見上げる。

 ベルクはソフィーを覗き込む。

 そしてソフィーは小さく息を吐く。その、繰り返し。

「溜め息だね、フュー」

 泣き出しそうになりながら、ソフィーが抗議する。

「私はフューなんかじゃない、ソフィーよ」

 淀みなく、低い鐘の音のような、声ともつかぬ声が答える。

「お前はフューだ。なぜなら、私の名を知っていたではないか。ならばこそ、お前の声は私に届いた」

 仰向いていた視線を力なく落とし、口を尖らせる。

「エイルが教えてくれたの。他にもたくさん。

 使っちゃいけないって言われてたのに‥‥。約束を破っちゃった」

 ソフィーの心に後悔が滲む。けれど、ベルクの目は更に先を看破していた。

「それだけ、お前が私を欲していたからだろう」

 ソフィーが口を噤む。

「願いは何だ」

 ベルクは、見透かすように心を穿つ。願いは……ソフィーの内にある。

 少女は躊躇いながらその望みを口にした。

「卵が‥‥欲しかったの。あなたの卵が」

 そして、その打診は即座に拒絶された。

「それはできない、金色の娘よ。なぜなら卵は白い御方のものだからだ」

「でも、あなたが魂を捕まえるのでしょう? そして卵に変えるのでしょう?」

 白い鳥はゆっくりと瞬きし、その薄い青の目蓋が、宝石のような赤い瞳を下から覆った。

「いかにも。私は死したる魂を卵に変える。だが、全てではない。卵に還るを必要としない魂もあるのだ。

 ヒトの魂は、死した後、風となる。私はそのうちの、軋みを上げて滞る者たちを卵に変えるのだ。悲しみや苦痛が、凍って塊となるものだけを、我が翼の下で休ませる。

……殻に包んで、温かく。

 そして、孵すのだ。それは、白い御方に与えられた私の役目」

 白い鳥は恍惚と、その胸の内に尊き面影を思い浮かべながら、僅かに微笑んだように思った。

「最初、お前も卵に変えようとした。お前の中の暗く重い記憶が、私の目に映ったのだ。だがお前は卵にはならなかった。

 なぜだ。そして何故卵を欲す?」

 問いは簡素であるが故に、答える事の難しさを内包する。問いは錠、それを解く答えは鍵。

 一つしか持たない鍵ならば、その一つを行使するのみ。

 錠が解ければ、扉が開く。その先に、一つの道が開かれる。

「私には、願いがあるの。その為に、卵が要るの」

 真っ直ぐに見上げる少女の瞳を、凶鳥と呼ばれる鳥が覗き込む。

「それは何だ? お前のまっすぐな思いが、私の瞳を貫く。そしてその思いは私の中に光を砕くように煌めきを残すのだ。それが何なのか、私は知りたい」

 少女は真摯に訴えた。

「言えない、よ。母さんが、願掛けをする時は口に出しちゃいけないって。それだけで……力が、逃げちゃうからって」

 ベルクは紅玉の如き目を薄い目蓋で隠した。その袷目から、糸のように紅い瞳が覗く。

「‥……私にも、願いはある。

 透き通った卵の中の、鉱石のような暗青色の凍りを見つめながら、私は長い時を過ごしてきた。それがやがて光となって孵るとき、私は言いようもない温かさに包まれる。それまでの期間が短いものもあれば、長いものもある。

 そして、時には孵らないものも。幾つもの卵を抱くうち、私は孵らない卵に出会った。時が止まったのか、あるいは明ける時など来ないとでも言っているのか。

 ‥‥…卵は静かだ。私はなぜだろうと考えるようになった。だが、卵から答えは返らない。

 卵は、静かだ。ーーひたすら。

 ‥‥…これは、契機かもしれぬ。私は、お前のような者を、待っていたのかもしれない」

 再び開かれたベルクの瞳は、雪原で見つけた赤い実のように、白い空間にあってはっきりと、存在を示して輝いていた。

 黒々とした針葉樹の森と、その上に広がる白い空。山際の拮抗。

 せめぎ合い削り落とされた切片は、篩い落とされた小麦の粉のように木々の枝葉に降り積もり、装飾を施していく。時折、撫でるように舞い踊る風の他は、息を顰て静か。

 森には、音もない。

 乾いた、喉を刺す冷気。枯れた下生えの草。弱く遠い日差し。翳し見る、ほどもない。

 地には微かな起伏と、並べられた二つの印。頭上を渡る、影もなし。

 ベルクの羽毛のような雪片が、後から後から舞い落ちる。

 冬の、到来。その年の最初に雪が降った日が、冬節の始まりの日となる。長く、冷たい冬を越すための祭。重く厚い雪が全てのものを覆いつくし、家々の戸を閉じ込めてしまう前に、里の人々は祈りを捧げる。ガチョウの卵を、人形に込めて。

 けれども。今年最初に雪が降ったこの日、祈りを捧げる人々は居なかった。

 ……この奇蹟を行なったのは誰だ。

 黒い髪の人形師は答える。「私ではない」と。

 重ねて問う。

「ならば何者か、人形師よ。この世に有るまじき不思議を、お前以外に誰が為す」

 ルーは口を噤み、厳しい目を向けた。だが、言い返す言葉を持たない。

「お前は、マニ・エトなのだろう? マニル・エ・シュトラとは、我が探し人たるミヌァトゥではないのか?」

 ルーは俯いたまま、答えない。が、銀の魔法使いは一向構わずに続ける。

「私は、力ある者を探している。あの影が言っていたマニ・エトとは何だ? 神の御業を操り、失ったものを取り戻すという、マニル・エ・シュトラとは。我が目的たる、ミヌァトゥではないのか?

 ミヌァトゥは業師。誰にも出来ぬ奇蹟を、行なえるただ一人の者。

 我には使命がある。ミヌァトゥを探しだし、我が主たる王の心痛を取り除かねばならぬ。偉大なる、あらゆるものの長たる、我が主の為に」

 彼の言葉には異国の音色が混じり、聞くまいとしても耳に届く。せめてもの抵抗と、矛盾を指摘した。

「どうしてそんな話を私にする? 私は、違うのではないのか? あんた自身が言っていたではないか。私は『違う』と。私からは力を感じない、と。前言を覆して、どうしてここに居る」

 銀の髪をした旅人は、冷えた鉛のような目で、質問者を見下ろした。

「フューだ」

「フュー?」

「そう。あの子供がフューであったのだ、ならば、その指し示す者が探し求める者でないはずがない。留まる理由は唯一つ。あの者がフューであったから。その可能性を一蹴し否定してしまうには、私はあまりに多くの時間を流離ってしまった」

 ゆらりと、銀の旅人に老木のような印象が重なる。それは、瞳に宿りし光。ソフィーが見た、あの光。岩のような質感。古木の持つ威圧。人知を超えし英知と、その奥に潜む拭えぬ疲労。旅人はもう随分と長いこと旅をしていた。たった一つの使命を胸に、気の遠くなるような時を。

「あの子は私をドルイドと呼んだ。ドルイドとは呪い師の事だろう? 当たっていなくとも間違っていない。ある意味では。

 我が内なる力を見抜いたあの子供。凶鳥を召還せしめたも紛れもない証。

 そして、あの子が、お前をミヌァトゥと、言ったのだ」

 傍らに立つ旅人に、人形師は更に問いを重ねる。

「フューとは、何だ」

「フューは、稀人。『届く者』、だ。

 その者の願いや思いに感応し、奇蹟が起こる。万物の祝福の、印を持つ者」

「あんたの言う、奇蹟など何処にある」

 重い空気に押し潰されそうなのを必死に堪えて顔を覆うルーの反撃も、暗い藍の色した瞳の魔法使いには届かない。

「この、閉ざされた森里の、何処に奇蹟が無いと言う」

 杖を一振り、周囲を指し示す。

「縦と横に紡ぐ綾。微睡みの中で織りなす金色の夢。金の歌。

 それを現実として繋ぎ止めているのは誰の力に因る? 夢を現とする力は、強大な業師に因るものでなくて、誰の仕業によるというのだ」

 旅人の追及は、人形師の耳を切り裂くように肉迫する。

「この、石の群れは何だ」

 羊の群れのような白い石が、見渡す限り一面に、枯れ草の茶の中に丸い背中を見せて踞っている。名前が刻まれることもなく、句が刻まれることもなく。

「これに宿り、犇く者たちは何だ。これは只の石碑ではあるまい。これは……」

 それまで覆っていた両手を顔から引き剥がし、黒髪の人形師は蒼白な顔で空を見つめる。

「墓石だ。これら、全て。この夥しい数の石は、皆死したる者たちの変わりし姿。

 土の中にあってそこに横たわり、未だ『夢』を繋ぎし、者たちだ」

 空から削り落とされた雪片が、地に着く度にふわりと消える。長く風雨に曝された石灰質の石からは、溶け残った粗目の石英が覗き、きらきらと輝いている。それらの群れを前に、相容れぬ二つの影が揺れる。

 張り出した木々の黒い枝々が、その腕に乗せた白い装飾の重さに、次第に下へ下へと撓る。

 きつく頭を抱えて立ち尽くすルーの背後で、銀の魔法使いは静かな、あくまでも静かな声をきらきらと吐息が凍りそうな宙へと泳がす。

「万物は流転する。水車の車輪のようにくるくると。車は水中へ潜り再び空を廻る。全ては、その繰り返し。生きとし生けるもの皆、それからは免れぬ。生を終えた者は、去るべきだ。この世界は、そうやって流転しているのではないか? 私はその様をずっと見てきた。その定めを拒否し、この閉ざされた森の内にて、お前達は何を夢見る? 何の夢を紡ぐというのだ。死したることも受け入れられず、さりとて生きてもいない。生と死の狭間で、この者たちは何をしている? 死の門を潜らずここへ留まって。

 見よ。澱みが進み、薄汚い姿を曝し……!」

 そこここに、忘れ得ぬ姿で人々が、立ち去りがたい凍りとなって立ち現れる。陽炎のようにゆらゆらと、不透明な明度で視界をちらつく。旅人の手厳しい断罪は、夥しい数の被告を前に場を揺るがした。

「違う!」

 凍てつく空気を震わせて、ルーは激しく身を捩った。

「違う。彼らは、力を貸してくれただけだ。……彼らはとうの昔に命が尽きている。そして、眠りに就いたのだ。生と死の掟通り。けれどもその眠りを拒否してまで、彼らは要請に応えてくれたのだ。ーー全て、幼な子の為に」

 黒い瞳を緩く開き、抱えていた頭を上げ、彼は語り始めた。

「彼らは、もうずっと前に命が尽きている。流行り病で、な。私がこの里を訪れたときには、既に廃虚と化していた。閉ざされた森の眠りは、夢も訪れない深さで、森を覆っていた」

 他の集落とも交わらず、住まい人の亡くなった廃屋が点在する村。天に聳える木々に覆われ、寒々とした風が舞う。あらゆるものが凍り、永遠に動くことなどないかのように静寂が辺りを満たす。春も夏も秋も冬も、訪れを祝う人は無く、時は空を巡りながら、だが里に時は無かった。

「その彼らの眠りを、大樹を裂いた霆が破った」

 男の操る馬車は倒れた大木の下敷きになり、迫り来る天井から女は娘を庇い、幼な子だけが残った。嵐の晩に駆け抜けたのは、無尽に空を走る雷と、幼女の叫び。

「あの子の両親は雷に撃たれ、魂も散じてしまった」

 亡骸はここに眠るが、彼らはここに居ない。幼女は、彼女を守る手無しに、嵐の森に放り出された。

「ーー全ては、幼子の為に。彼らはーー里の人々は、幼子を温かく慈しみ、育んでくれた。己の命運を顧みず、身に起きた偽装を偽りとせずに真実とした。黒い森の奥深く、世に取り残された、人も通わぬこの土地で。金の揺り籠をあの子の為に創り上げたのだ。

 この中でだけ。この森の中でだけ、現が夢を打ち砕くことなく、幸福な時を紡ぎ続けた。

 禁忌の術にて、あの子が生き返ったのではない。

 ーーその、逆だ」

 仕舞い込まれた真実が、ぎりぎりときつく噛み合わされた歯の隙間から漏れ出す。蒼く苦み走った色の念が、体内から搾り出されるように煙った。

 背後を見守る魔法使いの顔から厳しい表情が消え、視線が、微かに気配を潜ませた、更に後ろのもう一人の立会人へと投げられる。

「聞いたか、木精よ」

 呼ばれた緑褐色の曲見が、沼から上がるように未練の水を引きながら地中から頭を出し、恨みがましい眼を向けた。

「私は、本当にただの人形師だ。反魂の術を知る、業師などではない。

 ーー似たモノは造れても、生きている訳じゃない」

 相手にだけでなく、自身にも言い聞かせるように、同じ言葉を噛み締める。白い羊の群れのような夥しい数の石。銀の旅人はその前に懺悔をするかのように踞る人形師の背に落としていた視線を、顔を掠める白い雪片へと移した。次から次へと着地する白く冷たい欠片は、その小さな体でもって全てを覆い尽くし埋め尽くしてしまおうと、何かに急き立てられるように地表に装飾を施していく。

 今年初めて里に降った雪は、溶けることなく降り積もるようだった。

「私は本当に長いこと旅をして、その間にいろんな噂を耳にした。神技ともいえる人形を造り出した旅人の話。死して後、若返って現れた領主の話。荒神を鎮め、神をも欺く東方の業師の話。生きた人形を連れた黒い髪の男の話。死んだはずの子供が……生き返った話。

 どれも噂ばかりで信じるだけの根拠は無かったが、私には他に手がかりがなかった。有るや無しやの真実を頼りに、私は歩き続け、ここに来て一つの奇蹟に巡り会った」

 強く、銀の旅人は告げる。

「フューは姿を消した。私は、もう十分な時間をあてどもなくさすらった。あの子供が帰るまでの、あとひと時を待つくらい、造作もない事」

 雪が、時を埋める。森と里の境無く、内と外の境無く。雪は、綿毛のようにゆっくりと落下していく。踞る石も、黒い枝を伸ばす天を突く針葉樹も、現身を持たない亡霊も、全ては白い装飾の下に。覆われて、万物は音を奪われる。黙の中で、雪の降り積もる音だけがしゃらしゃらと耳に忍び込み、生き物は並べて、その存在を奪われる。

 全て、冬の女神の御下に。平らげられ、息を顰る。

 先触れの白い鳥が冬の到来を告げ、冬節が始まる。

 祝う者も、祈る者も無いままに。



**続く**

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