第2話 水の流れを止める者

 枕に、陽の匂い。朝の気配で目が覚めた。

 目に入ってきたのは朝露に光る草叢ではなく、いつものシーツと枕。あるのは天を覆う梢ではなく、暖炉の煙に燻された煤けた低い天井。ベッドの上で跳ね起きると、ソフィーは起きしな辺りを見回した。見慣れた自分の家。パンの焼ける匂い。扉の向こうから朝の支度をする音がする。

 森にーー行ったと思ったのに。

 そこで迷子になり、不思議な旅人と話しをしたと思ったのに。‥‥…夢だったのだろうか。あんまり強く願いすぎて、夢に見てしまったのだろうか。ソフィーはぼんやりとした頭のまま、ベッドを下りた。

 「行ってきます」とドアを閉める。母親に送り出されて家を出る。今日は届けものをたくさん言いつけられた。かあさんが焼いたパンを、里の人たちに配って回る日なのだ。

 しょんぼりと道を歩く。昨夜の出来事が夢だったのが、ソフィーには半分ほっとする反面、半分残念でならなかった。勿論夜の森で迷子になるのは御免だったが、あの魔法使いも幻だったなんて。エイル婆さんが話してくれたドルイドそのものだった。彼なら、ソフィーの望みも叶えてくれたかもしれないのに。とぼとぼと、エイル婆さんの家への道を行く。いつもなら今日は何の話が聞けるだろうと、心踊るはずなのに。

 エイル婆さんの家は里をぐるりと回るようにして行き、ルーの小屋とは反対の、フィルガンドの森との境にある。小さな池があって、里の者はそれをクピムと呼んでいた。嘘か本当か、その昔神が訪れたことがあるのだという。エイル婆さんはその池の守りだ。

 神の通い路を、何時とも知れぬ行幸を、たった一人で待ち続けている。

「どうしたね、浮かん顔して」

 扉を開けると同時に、いつもと同じ何かを煮詰めた臭いが、錆びて嗄れた声と一緒にソフィーを見舞った。部屋の奥には暖炉。火にかけられた大鍋を、腰の曲がった老婆が上唇程にまで垂れ下がった鷲鼻をぐらぐらと煮え立った面にくっつけるようにして中身をかき回している。

 エイルは薬を作る名手でもあった。万能の秘薬は、里での、この如何にも怪しげな老婆の存在を有為たらしめている。けれど、そんな彼女の秘薬も、たった一度、先の流行り病の年にはその効を発さなかった。

 鍋の妙薬に最後の一掻きを加え、後ろに向き直りながら心の中を覗くように、エイルは何時もソフィーを見透かす言葉を語りかける。だから、ソフィーも思うところを忌憚なく口にできるのだ。

「エイル、‥‥…神さまの鳥って本当に居ると思う?」

 老婆の顔が強ばり、醜くいまま蝋のように固まる。

「ワシを試すか、マニの子よ‥‥」

 口だけが動き、彷徨うような視線が幼女の顔の上で左右する。

 ソフィーは身じろぎもせずに自分と同じ高さにへたり込む老女を見上げた。普段でもほぼ直角に曲がった腰のせいで大して身長が変わらないのに、今はソフィーが見下ろす位置にエイルの顔がある。体を支える為の杖が、放り出された地面で乾いた音を立てた。

「クピのマニよ クピ・ル・マニ

 事々に、マニはワシを試す。

 ワシは答えを見付けられん。この年になっても」

 声は小刻みに震え、力なく腰を下ろし、巻き付くようにソフィーの腕を掴んだ茶色い指に力がこもって痛い。

「私は、ソフィー‥‥よ、マニの子なんかじゃないわ」

 戸惑いながら、至極当然の返答をする。

「わからんよ。ワシは、マニを見たことはないもの」

 小首を傾げる少女には構わず、木の皮のように萎んだ唇は喋るために動き続ける。

「クピ・ル・マニを見たのはもう何十代も前の守。こうして路を守っておっても、ワシやワシの母も、そのまた母も、神の姿を見てはおらん」

「神さまが来ないのに、ここを守ってるの? 何で?」

「神様が来なすった時に、ここが荒れ放題では悲しくお思いになって、ご機嫌を損ねるかもしれん。そうならない為さね。誰だって、機嫌の良い時の頼まれ事は、無下にはせんだろう?

 マニが何時来なさっても期を逃さず願掛けできるように、待っておるんじゃよ」

「お願い?」

「そう。里に何事もおこりませんように、とな。里が平穏無事でありますようにと、何時来るかもわからんものを、あてにせず待っとるのさ」

 幾分か和らいだ顔をして、老婆はソフィーを肘掛け椅子へと導き、座らせた。

「もう、来ないかもしれないのに?」

 少女は率直で純粋であるがゆえに躊躇うことをしない。そんな子供の言葉に動揺するには、老女は長く年月を送りすぎていた。

「一度来たんじゃ、二度来んわけもなかろう。ワシ等には長くても、マニには瞬きする程のことかもしれんて」

 そうして自分は依然炉にかけたままの鍋に蓋をすると、机の上に置いてあった糸巻きを手に取り、くるくると巻き始めた。薬を自在に操る妖女は、そうして揺り椅子に腰掛けていると、怪しげな噂の主とは思えない。穏やかな空気を纏い、ソフィーはその不思議な暖かさに居心地の良さを覚える。それは、ルーの所に居るのとはまた違う穏やかさだ。けれど、その中にあってさえ、ソフィーの心の痼りは晴れなかった。

「でも、神さまは居ないかもしれないわ」

「ソフィー!!」

 エイルが悲痛な叫びを上げる。それは、森の木々が山降ろしの風に裂かれて上げる声に似ていた。

「止めておくれ、恐ろしいことだよ。

マニは居るさ。こうしてあんたを生かしてくれとる。それだけでも、神の加護はあるんだよ」

 懇願する老婆は、木肌色の顔を更に歪め、鳶のような目を更に鋭くした。

「神の鳥の話なぞ、誰がした?」

 問い質す口調で、老婆が詰め寄る。気迫に圧されて、少女は恐々口を開いた。

「ルーが。南に、凍らない湖があって、そこの島には神様の鳥が居るって。その鳥を捕まえると、願いが叶うって」

 男の名を聞いて、エイルの老獪な双眸に鉛のような淀みが閃く。

「マニ・エトの言う事など、信じてはならんよ。ほんのこれっぱかりも頼りにならない、あ奴の言う事は、全部夢だよ。忘れておしまい」

 また、だ。

 ルーの名前を聞くと、決まってエイルは不機嫌になる。

「どうして……? 何でエイルは……ううん、里の人たちは皆、ルーを嫌うの?」

 核心を突く言葉に、老婆がぎくりと体を強ばらせる。だが、やがて観念したように溜息を吐くと、止めていた手を再び動かし、視線をその糸巻きの上に落とした。

「……嫌ってなぞ居らんよ。ただ、他の者はどうか知らんが、わしは少々恐ろしい。あの者は、水を封じ込める。あまり良いこととは思えないね」

 きっぱりとした口調で敢然と、エイルはその多くを見てきた目を持って断言する。

「水は流れるもんだ。自ら留まるならばともかく、動かなければ、いずれ淀み朽ちる。流れるもんを留めるのは、良くない。そんな技はマニの仕事だよ。人の手に負うもんじゃない。そんな業を続けていれば、今に、良くない事が起きるよ。きっとだ」

 自分にも言い聞かせるように糸を一つくるりと巻き取ると、反芻して納得し、再び飲み下すように手早く手を動かす。

「ルーは、水を留めるの?」

「そう聞いとるよ」

「でも、だって魔法を使って川の水を塞き止めたドルイドも居たって、エイルが話してくれたじゃない」

「それは、大昔の英雄たちの夢物語。過ぎ去りし太古の、妖しを紡ぎ出す古詩さね。力有る勇者たちの語り草じゃよ。神の力を手に入れた戦士たちは、皆が皆輝かしき軌跡のみを残したわけじゃない。たくさん、話してやったろう。昔話は、過ちや知恵を学ぶものさね。要らぬ夢を植えつけるものじゃないよ」

「私が見たのは夢じゃないもの!」

 口を突いてでた言葉に、思わず手で口を塞ぐ。海千山千の妖女も、少女の言葉の裏までをも読み取ることはできずに、彼女の抗議を子供らしい愚言と捉えた。

「夢を見ることが悪いと言っているのじゃない。夢は徒に人の心を惑わしもする。捕まって身を滅ぼすのなら、夢など見ないが良いに決まっているさ」

「エイルは‥‥エイルは神様が来ることを夢見たりしないの?」

「しないよ。夢に見たりなどしていたら、幾つ身があっても足りやしない。待つことなどできゃしないよ」

 流れ落ちるように刻まれた皺の襞を一層深くして、老女は努めて穏やかに笑った。悟りを得たような、だがしかし一抹の拘わりを拭い切れない表情の老女に、少女は素朴な提案をぶつけた。

「ねぇ、エイル。神様の鳥に、神様が来るようにお願いしたら?」

 氷が解けるように、エイルは笑う。

「お門違いだよ。ワシの役目は、呼ぶんじゃなくて、待つことだ。たとえ、ワシが生きている内に何の験が無くともね。呼んだんじゃあ、有り難みが半減だよ」

 エイルの言う言葉の意味を解しかねて、ソフィーは首を傾げた。

「エイルは神様に会いたくないの?」

「会いたいとか、会いたくないとかいうもんじゃなくて……、そうさね、ワシがここに居る理由と、マニに会うこととは違うことなんじゃよ。呼べば確かに来るかもしれんが、その代わりに何を駄賃に取られるかしれん。だったら、向こうの気紛れを待った方が良い。こちらの都合で呼ぶには、神様は少々恐れ多い御仁さ。……少しお前さんには難しかったかの?」

 口を尖らせて、ソフィーは飲み込めないでいる食べ物を、頬に溜めて我慢しているような顔をした。

「エイルには、望みはないの?」

 問われて、暫し黙っていたが、やがて緩く頭を横に振った。

「無いよ」

 そう言った老婆の顔には憂いのヴェールが降り、どこか哀しげにもみえる。共に愁眉を深める幼女に、エイルは努めて明るく語を繋いだ。

「お前さんには、有るのかい? ソフィー」

「うん。‥‥…卵が欲しいの」

「卵? そんなもの、幾らでもあるだろう?」

「ううん、ガチョウじゃなくって、特別な……ベルクの卵が欲しいの。白い貴婦人の鳥、フレイスベ……」

 言いかけた中途で、飛びかかるように体ごと揺さぶられ、言葉を遮られた。ソフィーは何事が起こったのか理解できず、ただひどく不味い事をしたという事だけは判った。

「なんて事を! 凶鳥の名を呼ぶ者は、白い翼に浚われてしまう! 忌み名は軽々しく口にするもんじゃない。ああ、その名を教えたのはワシだったね! 迂闊だったよ、お前さんが覚えているほど賢いとは。白き婦人の先兆れに、命の灯火を凍らされてしまうよ!」

 力一杯抱き竦められて、息が出来ずに少女は手足をばた付かせた。この老女の、枯れ木のような体の何処にこんな力があったかと驚かされる。ソフィーは声も出せずに目を見開いていた。

「マニよ、マニ。何処かにおわす至高なるマニよ。どうぞこの子を連れて行かせないで下さい、どうぞ」

 低く、声とも吐息とも区別がつかないような呟きが、ソフィーの耳を掠めていく。

「今日はどうした事だ、何度も肝を潰しそうになったよ、ソフィー。この年寄りを、あんまり驚かせないでおくれ。一体、お前さんに何があったんだい」

 何があったといって、何もありはしないのだけれど。寧ろ何も無いのが問題なのだ。

 転げるように椅子から床に膝を折ったエイルは、漸く離した愛し子の瞳をまじまじと見詰めた。そして、その目の中に特段の変わりが無い事を確認して、流れ落ちていた膝掛けを掻き集めて揺り椅子へと腰を戻した。

「やれやれ、本当に今日は可笑しな日だよ。こんな日は、きっとリュキルが鼻を擽っているに違いないよ」

 と、鷲鼻の下を指で掻く仕種をした。

「リュ? ミ……何?」

 物音に敏感な兎の耳が立つように反応した少女に、嫗は勿体振って鼻を叩いてみせた。

「聞きたいかい?」

「聞きたい!」

 即答するソフィーに、エイルは何時もと同じ慈しむような視線を注いだ。少女の顔は期待に輝く。

「じゃあ、そこへお掛け。そう、火の側が良いよ。蜜のたっぷり入った香草茶を出してあげよう。長くなるからね」

 そうして、老婆の織り成す綾なる物語が始まる。ソフィーは一時、現の世界を離れ、しばし夢へと飛翔する。

 妖精の王、あらゆるものの父、異種族を結ばしめる、偉大なる者、オーブロー。

 彼こそ力の中の力。真理の中の真理。正当なる、完き者。

 彼には無いものなど無かったが、中でも御自慢は世に二人とない、美しく気高いオランポア。そしてもう一つは立派なお髭。身の丈程もある豊かな白髭が、それは大層な御自慢で、そよ風の妖精が近くを行く時は態々たなびかせるよう言い渡してあった。

 ある日、悪戯者のリュキルが小さな旋風を起こしてオーブローの鼻先を擽った。忽ち王は大嚔。大変なのは娘のオランポア。王の嚔で飛ばされて、心が何処かへ消え失せた。王や侍従は大慌て。娘の心は何処にと、上を下にの大騒ぎ。

 天窓には囀る小鳥。人に慣れぬ小鳥が降りてきて、懸命に何かを伝えるが、鳥の言葉は解されず誰も彼も顧みなかった。小鳥はオランポアの心が移ったものだったのに。

 小鳥は嘆く声も歌になり、聞く者の耳を慰めた。けれどもオランポアの心は慰まぬ。心晴れぬは王も同じ。御自慢の賢く清しいオランポアは、心を失い始終虚ろにぼんやりと、誰の問い掛けにも応えせぬ。器だけの空っぽの娘。美しいだけの、ただの木偶。

 言葉を持たぬ身で悲嘆に暮れて、涙を拭い、不意に小鳥は気がついた。自分が持ちたる二つの宝。鈴を転がす歌声と、空に羽ばたく丈夫な翼。瑠璃色の羽を震わせて、忽ち小鳥はオーブローの肩の上。そして鼻の下をその軽やかな翼端で擽った。

 オーブローは再び大きな大きな嚔を一つ。小鳥は飛ばされ、娘には魂の灯火が戻った。皆ほっと一息撫で下ろす。

 リュキルは旋風。お気をお付け、鼻を擽られたら心が飛んでしまうよ。リュキルは風、彼は気紛れの悪戯者。見つからないうちにお逃げ。

 エイルの小屋を後にし、ぐるりとクピムを巡る。池は、晩秋の針葉樹の森を映して静か。

 羽ばたく水鳥も居ない。深い深い、緑の鏡。冬節が過ぎた頃には深雪に埋もれ、それぞれの存在を覆われて、ただ景色のみに限られてしまう、森。その頃にはクピムもその面を白く凍らせてしまう。

 その池の傍に、忽然と影が立つ。ソフィーは目を疑った。

 佇むは夢待ち人。夕闇色の人影。銀の髪した魔法使い。彼はフィルガンドの森の際、クピムの池を背に現れた。過たずソフィーに目をくれ、あの歌うように朗々とした声を投げる。

「約束を、果たしてもらっていない」

 昼の陽の中、緑の葉陰。池を囲む木々が、風に揉まれてざわざわと揺れた。



**続く**

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