第32話 Sign of Rain

 天気予報通が当たった。陸上の部活をやっているうちに雲行きが怪しくなり雨が降りだした。やっぱり今日は帰れば良かった。雨が降ってくればグランンドが使えなくなる。早々に今日の練習は中止となった。大会が迫ってる訳では無いので、皆のんびりとしている。これがインターハイの予選前あたりだとピリピリしていて、先輩などは話し掛けるのも怖いぐらいだ。でも今はそんな雰囲気ではない。和気あいあいと着替えている。私も着替え終わると残っていた先輩に挨拶をして下駄箱の方に急いだ。

 雨が夕方から降って来ると予報で知っていたので一応傘は持って来ていた。お天気なら自転車通学なのだが、雨の日はバス通学になる。勿論今日はバス通学にした。

 下駄箱で靴を意履き替えて、青い傘をさして歩き出す。学校の自転車置場の脇を通った時に、知ってる男子が自転車を出そうとしていた。その見慣れた後ろ姿に声を掛けた。

「どうしたの達ちゃん」

 小学校の頃からの同級生で阿川達也。昔から『達ちゃん』と呼んでいる。私の声におもむろに振り向き

「なんだ、美紀か。見ての通り、家に帰る所だよ。サッカー部も今日は練習休みだしさ」

「その自転車に乗って帰るの? 濡れちゃうじゃない。置き傘なんか持ってないの?」

「ある訳ないじゃん! 少しだから濡れても良いと思ってさ」

 私は呆れた。ここから達ちゃんの家までは、自転車だって二十分はかかる。私の家とそう遠くないからだ。ずぶ濡れになると思った。風邪を引いたらどうするのだろう。

「ねえ、一緒にバスで帰らない? 自転車は置いてさ」

「え、だって俺傘持ってないし」

「だから、バス停まで入れてあげるよ」

 私はそう言って自分の青い傘を回して見せた。この色なら達ちゃんも入り易いと思った。

「ホントかい? なら嬉しいけど、お前半分濡れるぞ」

「バス停までだから大して濡れないよ」

 そう言って私は達ちゃんに傘の大きさが判るように傘の中を見せてあげた。

「ね、結構大きいでしょう。だから達ちゃんも大丈夫だよ」

 達ちゃんは、傘の大きさを目で確認して

「じゃあ、入らせて貰おうかな」

 そう言ってするりと傘に入って来た。

「入れて貰った代わりに、美紀は鞄も二つ持っているから、俺が傘を持ってやるよ」

 そう言って達ちゃんは傘の柄を掴んで来た。その時、私の手と重なって、大きくて暖かい達ちゃんの手が私に被さって来た。

 一瞬、心臓がドキリとした。何故だか自分でも判らない。達ちゃんと一緒に居てこんな事を感じたのは初めてだった。急に同じ傘に入ってる事がとても特別な事のように感じた。

「じゃあ、お願いするね」

 努めて平静を装いながら、傘の柄から手を放すと両の手で鞄を持ち変えた。その様子を見て達ちゃんが

「美紀、もっと近寄らないと肩が濡れるぞ」

 そう言って自分の方に近づくように言う。私はそれは判っていたけれど、自分でも体が上手く動かなかった。

 校門から僅かな距離のバス停までがやたら長く感じた。いや、本当は短く感じていたのかも知れない。小さな傘の範囲だけの世界……。体温まで感じそうな気がした。

「バスの奴、時間通りに来ないからな」

「うん。そうだね。雨の日は何時も遅れるからね」


 私は一つの事に気がついた。私達の家の近所のバス停からだと、私の家の方がバス停に近いのだ。達ちゃんの事だ。きっと私の家まで来たら、『ありがとうな』とか言って、さっさと濡れて帰ってしまうと思った。それでは傘に入れたてあげた甲斐が無くなる。

「ねえ、家に寄ってね。別な傘貸すから」

「え、いいよ、すぐ近所だし、濡れる間も無く帰れるよ」

「濡れたら風邪引くよ。そうしたら練習出来ないよ」

 サッカー部の達ちゃんは、部でも期待の選手だ。そんな人に風邪を引かせては申し訳無い。何より私が嫌だった。

「何だよ、今日は怖いな……判ったよ。それより濡れるからもっとこっちに来いよ」

 達ちゃんはそう言って私の肩を優しく抱いて、自分の方に引き寄せた。その大きくて暖かい手に体が反応して、心が達ちゃんに馴染んで行く気がした。


 やがてバスが来て私達は乗り込み。一番後ろの席の運転手側に二人で並んで座った。隣もその隣も誰も座ってはいない……窓際の達ちゃんは、外を見ながらつぶやくように

「美紀のクラスは数学の課題もう出たか?」

 そう訊いて来た。達ちゃんのクラスと私のクラスは担当の先生が違うが、課題などは同じなので、尋ねたのだと思う。

「この前出て、もう提出しちゃったよ」

「そうか、俺の所は今日出たんだよ。俺、数学苦手でさ……」

 そこまで聞いて、達ちゃんが何を言いたいのか理解できた。

「教えてあげようか? 答えじゃなくてやり方を」

「え、ホントか? なら助かる!」

「じゃあ、今日ウチ寄りなよ」

「ありがとう!」

 これで達ちゃんが私の家に寄る事が決まった。


 私と達ちゃんはお互いバッグを膝の上に置いて座っていて、他から見ると四本の腕が並んでいる様に見えると思う。

 私は先ほどの傘の中での出来事を思い出していた。達ちゃんの腕に肩を抱かれていたことを……

 その時不意に、達ちゃんの小指がわたしの小指に軽く触れてきた。一瞬ドキリとして隣の達ちゃんの顔を見てしまう。達ちゃんも意識的ではなかったのか、私の方を軽く見て来た。少し驚いた表情は私の心と同じだと感じた。でも指はそのまま触れたままバスは走って行く。正直先ほど、傘の中で肩を抱かれた時と同じ感じが蘇って来た。

 そのうち、バスが揺れる度に触れていただけの小指が、少しずつ私の小指に重なって来る。次第に重なっている部分が多くなって来て、とうとう小指同士が絡まる状態になってしまった。私は何か言おうと声を出そうとしたが、乾いた口からは何も出ず、バスは走り続けるだけだった。私は小指ではなく、心までも達ちゃんに捕らわれような気持ちになって行く。

 私は表向きは素知らぬ振りをしている。達ちゃんも窓の外を見ている。でも揺れる度に達ちゃんは小指から薬指と指を絡めて来るので、私はその大胆な動きに翻弄されてしまった。とうとう私は達ちゃんのされる儘になって……。

 遂にバスが揺れるに任せて達ちゃんは私の手を完全に握ってしまった。私は恥ずかしくてその握った手を自分のバッグで隠してしまう。いいや、本当はこんな行為をされて実は喜んでいる自分を隠したかったのかもしれない……。

 もう一人の自分が『いつまでもバスが着かなければ良い』と思ってたのも事実なのだ。暖かい達ちゃんの温もりが手の平を通じて私に伝わって来る。もう私は気持ちの高まりを抑え切れなくなりそうだった。

 隣に居るのは何時もの達ちゃんなのに、どうしてこんな気持になるのだろうと思った。横を見ると達ちゃんも赤い顔をして真っ直ぐ前を見ている。こんな表情は見た事がなかった。達ちゃん、意外とかわいい……。

 その時私は、ぼおっとした気持ちの中で思い出した。その昔、小学校の低学年の頃だ。私がイジメっ子にイジメられていたら達ちゃんが助けてくれたのだ。

 イジメっ子を追い払った後で達ちゃんが手を差し伸べてくれた。

「大丈夫だったか?」

 その手がとても暖かったのを思い出した。それは今でも変わらない……。

 私も達ちゃんの手を強く握り返した。その行為に驚いて私を見つめる達ちゃん。

「達ちゃんの手って今も昔も暖かいね。昔の事を思い出しちゃった」

 それを聞いた達ちゃんは、思い出したのか嬉しそうな顔をした。私はその表情を見て、今日だけではなく、これからも二人の関係は続いて行くと感じていた。



                      <了>


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