第11話 緑の風に包まれて
それは突然だった。
その週末は珍しく早く家に帰れた。だからという訳では無いだろうが、妻が玄関まで出迎えてくれた。
「おかえりなさい!」
「どうしたんだ? 最近は台所から声をかけるだけだったのに」
何の気なしに言っただけなのだが、妻は当然のような口ぶりで意外なことを言った。
「あのね、わたしお医者さんに行ったらね『若年性アルツハイマー』だって言われたの。初期だから薬で進行を抑えられるそうだけど」
突然の言葉に混乱したし、何と言って良いか寸時には反応が出来なかった。そう言えば最近何となくだるいとか、頭痛やめまいが多いと言っていた。だから医者に行ったのだが――まさかそんな病が潜んでいたとは予想外だった。
呆然としていた自分に妻は、意外なほど明るく
「ねえ明日デートしたい。何処か行来ましょうよ」
アルツハイマーと言われてすぐに一緒に出かけようなんて、この二つがどのような繋がりがあるのか自分には理解出来なかった。恐らく妻の中ではこの二つは無理なく繋がっているのだろう。
「小学校の頃ね、遠足で郊外の植物園に行ったの。凄く楽しくて、その時『遠足じゃなく家族で来たい』って思ったのだけれど、中々機会が無くてね、この歳になっちゃった。ね、行来ましょう!」
「ああ、お前が行きたいなら行こうか」
妻の好きにしてやりたい。その時そう想った。
「だって、今のうちに思い出を作っておきたいから」
その言葉に妻の気持が現れていると感じた。だから、翌日の休みはその植物園に行くことに決まった。
自分の行きたい所に行くことになって喜んでいる妻を尻目に、その晩は色々な想いがこみ上げて来て良く眠れなかった。何故、妻がアルツハイマーにならなければならないのだ。何故自分ではなく妻なのだと……。
翌日、車に妻を乗せて植物園に行く。郊外にあるので車でも小一時間はかかる。妻は助手席で子供のようにはしゃいでいた。
「ああ、気持ちがいいなあ~ 昔と変わらない感じがする。緑が濃くて、都心からそう遠く無いのに、何か違う世界に来たみたい」
緑の濃い園内を歩きながら、子供みたいにはしゃいでいる妻を見るのは、自分としては嬉しいものだ。思えばこうして二人で用事以外で出かけるのも久しぶりだった。
植物園の隣には地続きで有名な寺院がある。
「ついでだからお参りして行きましょうよ」
無論嫌な訳がない。
「ああ、いいね」
寺院の本堂にお賽銭を入れて、手を合わせて拝む。願うことは妻の病のことだけだ。出来れば嘘であって欲しい。それが自分の本音だった。
「ねえ、わたしが何をお願いしたか判る?」
本堂に背を向けて参道を元に戻りながら、嬉しそうな表情で言う妻が妙に愛おしい。
「そうだな、病気の事だろう?」
「残念でした。ちょっと違いました。本当はねえ、病気が進行してもあなたのこと絶対に忘れないようにって……」
そう言った妻の顔は笑っていなかった。その陰のある表情に妻の不安を見た。お互い好き合って一緒になった仲で、今でも自分は、こいつに惚れている。お互いそうだと判ると一層愛おしくなる。人目もはばからず手を伸ばして肩を抱き寄せる。
「あれ、どうしたの? やだ恥ずかしいわよ……」
そう言いながらも、妻の手が腰に回って来た。横を見ると満更でもなさそうだ。
「そう言えば、結婚前はいつもこうやって歩いていたわね。あなたと毎日逢って、毎日遅くまで一緒にいて、それでも時間が足りなくて……あの頃のことは忘れたく無い。でも無理なのかな? 進行を遅らせても、何時かは忘れてしまうのかな。わたし決して忘れたくない!」
いつしか、妻の声が震えていた。きっと不安でいっぱいなのだろう。
園内でコーヒーを飲ませるところを見つけた。
「コーヒーでも飲んで行こうか?」
二つ返事で頷く妻。その表情もとても愛おしい。
昨夜、ネットで「若年性アルツハイマー」について調べてみたのだが、前段として色々な症状が出るらしい。良く妻は自分で気がついたと思う。
自覚症状があったのだろうが、普段はそんな素振りも見せなかった。そこに妻の強さを見た感じがした。
「ああ、美味しかった」
妻の満足そうな声はすぐに判る。その声を聴くと自分自身のことよりも嬉しい。
会計をして店の外に出ると、緑の林を抜けた風が心地よく通り抜ける。その風の中を歩く妻を見て、綺麗だと想う。風に吹かれて肩まで伸ばした髪が揺れている。その姿は心に深く残った。
薬を飲んでいても、進行を完全に止めることは出来ないそうだ。ならば、妻が夫である自分の事を判らなくなるまでの時間は、きっと大切な時間となるだろう。
それは宝物のような時間になるに違いない。これからはなるべく休暇を取って、一緒に何処かに行こう。そして沢山思い出を作ろう……そう決めた。
その思い出があれば、生きて行ける。自分も妻も……。
「ねえ、手つなごう」
今度は妻が片方の手を伸ばして来た。無論、自分もそうしたいと思っていた。
優しく握った妻の白い手は、柔らかくて優しくて暖かった。まるで妻そのものだった。
「ねえ、お願いがあるの」
握った手を軽く引きながら、少し真剣な顔をして
「あのね、わたしがボケて来たら、またここに連れて来て欲しいの。今日の事を、あなたと一緒にこの緑の園内を歩いたことを思い出すように」
そう言って少しはにかみながら笑みを浮かべる。
緑の濃い園内を歩く二人は他の人からはどう見えるだろうか?
今回、自分も久しぶりにこの植物園にやって来て、緑の多さに驚いた。また来たいと思った。
「ああ、何度でも来よう。ボケて来る前だっていいじゃないか。春、夏、秋、冬それそれの季節で、ここは表情を変えてくれる。秋には紅葉が綺麗だそうだ。新年になったらあの寺院に初詣に来たっていい。そうだろう!」
そのの言葉をどう受け止めたのか判らないが
「わたし、あなたと一緒になって良かった」
そう言って握った手を強く握り返した。
二人は、植物園の奥に行くことにした。
「奥は今はこの時期、何が咲いてるのかな?」
植物に疎いので、普段庭の手入れをしている妻に尋ねてみる。
「そうねえ、睡蓮、ダリア、桔梗、それにみそはぎに薔薇もあるかも」
「聞いた事のある花ばかりだな」
「あ~ん判って無いわね。あなたが知ってると思う花を言ってあげたのよ。アベリアとかコウホネなんて言ってもチンプンカンプンでしょう」
言われてみれば確かにそうだ。そんな名前を言われても、全く頭には思い浮かばない。そういう奴だったと思いだした。
昔から、さり気なくこちらに話を合わせてくれていたのだった。やはり愛おしい。こいつの病気が進行しないように出来るなら、何でもしようと思う。
この園内を歩きながら、神様が与えてくれた貴重な時間を、大切に想うのだった。
「ねえ、帰りにおみやげ買って行こうか?」
「誰にだ。ウチには帰りを待つ子供なんていないんだぞ」
そう、二人には子宝に恵まれなかった。それを今更言っても仕方ないが、子供が居れば少しは違ったのかなとも思う。
「おみやげなんて買わなくてもいいさ」
「どうして?」
その言葉に子供のように少し頬をふくらませている。
「今日の思い出が残ってる内に又来よう!」
その言葉を聴いた妻は抱きついて来た。
「おいおい、人が見てるぞ」
「いいの、暫くこのままで」
華奢な妻の体をそっと抱きしめると、周りの風景が目に入らなくなった。
植物公園の奥に行く人気の無い小径で、二人は暫くそのままでいた。
二人を緑の風が包んで抜けて行く……。
<了 >
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