第10話 『新世界より』
「未来は重く、
過去は軽かった。
だから、
その中間にある、今という現在は、徐々に冷えて重くなっていっている。
光も含めたこの世界ごと一緒に、光速の速さよりも早くね……。
それを証明するのが熱力学であり絶対零度だったのですよ。
あと一億年以内の内に、絶対零度、摂氏マイナス273.15度はそこからさらに273.16度へと下がるでしょう。
そして、その時こそ、それを底値としたケルビンという絶対温度の単位は、その上にある全ての温度値を0.01度さらに繰り上げる」
もはや世界は既にそうであると決めつけて発言している。
「どこにそんな証拠があるって言うの?」
章子は真理を睨んだ。
崩れ落ちた膝を支えて、もう一度立ち上がり少女を睨む。
「証拠ですか?
証拠と云うよりも、それはもはや説明によって説得力を持つのですよ。
これほどの次元の話では、既に証拠を持ち出して立証することは困難を極めます。
その証拠を見せることこそが適わないからです。
光よりも速く、軽い過去として過ぎ去った昔という世界を、証拠として現実に持ってくることは極限まで困難を極めるのですから。
だから、ここからはもう、ここにある現象で説明していくしかない。
それを信じる信じないは個人の自由です。
ですがこの理屈は、現在の現実世界の事象を非常に高い完成度で整合させたまま説明することができる。
現に、今の時点で我々に差し迫っている現実の現象は決まって、一つしか起こりえません。
我々は常にこの瞬間も、一択を迫られて一生を生きているのがその証拠なのですから」
この回りくどく言う真理の言葉は、確かにその通りだった。
だから今の章子も、この真理の言葉を否定するか肯定するかの二択を迫られている。
取れる手段は一つだけ。
そしてそれは恐らく、未来の重い結果では既に決まっているのだろう。
真理の言が正しいとするのであれば、
章子はこの人生に産まれる前に、既にそれを経験している。
ただ、今はそれを覚えていないだけで……。
そんな事を思って章子は下唇を噛んだ。
そしてそれでもまだ醜く足掻き、自分の下僕に向かって吼える。
「光速よりも早く重くなるってどういう事なの?
じゃあ、軽くなった私たちの過去はそこから先は一体、何処へ往ってしまったっていうの?」
それは人間なら至極、真っ当に感じる疑問だろう。
これに答えられないようでは、未来は重く、過去は軽いだけだ、などという理屈は通らないし納得できない。
しかし、真理はそれさえも快く受けて頷いた。
そんな事なら容易に説明できるという表情だった。
「いいでしょう。
まずはそこから説明して見ますか。
それを説明するには暗黒エネルギーが、一体どのようなものかを解説した方が一番はやい。
しかも、それは同時にあなた方が今まで見過ごしてきたものがどれだけ致命的だったか、という事も如実に浮かび上がらせてくれるのです。
あなた方は実に間抜けだった。
それを今から説明しましょう。
まず、
あなた方は、最初に空間というものが宇宙の端から光速を超えた速さで広がっていることにもっと危機感を持って疑問に抱くべきだったのですよ。
なぜなら、
そんな速度で広がっていったら、宇宙は急激に冷えて固まってしまうはずなのですから。
空間が広がるという事は体積が増え、密度が薄くなるという事です。密度が薄くなるという事はそれを埋めるために、今が冷えて重くなるという事。
しかし、あなた方は、空間は広がっても絶対零度は不変だと定義した。
まるで空間が空間として広がっていくその先の遙か彼方の場所でも、絶対零度だけはここと同じで摂氏マイナス273.15度でありつづけていると勝手に定義していたのです。
だから空間は膨張しても温度はそれ以上に下へ下へと下がらないと、あなた方は勝手に決めつけた。
それがそもそもの間違いだったのですよ。
……だが、
そうは言っても、現に今も絶対零度が不変なのは事実です。
たかがあなた方七番目の人類が「自覚に芽生えてから二千年しか経っていない」現在の内はね?
しかし、それでは、どうやって今までの宇宙は冷えることが出来たんですか?
あなた方は自分で定義したはずです。
自分よりも冷たいものが他に無いところでは、温度を下げることは出来ないと。
では冷たい温度とは一体何か?
その時、それは何処にあったのですか?
最初から宇宙にあった温度?
バカを言っちゃいけない。
あなた方は宇宙の膨張時の温度を予測している筈です。
その時の温度が何千度、何万度、何億度、何兆度か。
しかもそれだけ高温でありながら、その時の宇宙は、現在ほどの規模までは絶対に巨大な尺としては存在していなかった筈です。
そこから宇宙は膨張するのですから。
つまり宇宙は小さかった。
しかし高温だった。
そこの何処に冷度でいられる場所があるんですか?
あるとしたら膨張した先にしかない。
つまり膨張した先はここよりも零度である。それが説明される。
しかし、過去がそうであるというのなら。
現在がそうでないとなんで言い切れるのですか?
現在も宇宙は冷えていっている。
光速を超えた速さでね。
冷えるという事は重くなるという事。
さらにあなた方の定義でも「物質は光速を超えられないが、空間は光速を超えられる」と特別視している。
ならば当然、質量のない温度差だけのある空間のみが移動するという現象も、光速を超えていて何も問題ではない筈です。
だから我々は光の遥か彼方の速度で冷えて重くなっていっていると云えるのですよ。
それが未来であり、現在という今なのです。
しかも、
それだけの速度で温度が推移していても、絶対零度は一億年に約0.01度と僅かに低くなるだけです。
この事はつまり、現在の宇宙はそれだけの天文学的な許容量があり、一億年で「真の絶対零度」まで0.01度ずつ近づくしかないほどの安定性が備えられていることを物語るのです。
何故なら、
この時点での全ての配置だけは、この時点にある全ての最弱であり二番目に最速である位置エネルギーによって固定されているのですから。
光よりも速く届く0の半径速度力、位置エネルギーという
そしてそれを冷やし重くするものこそが暗黒エネルギー。
暗黒エネルギーは0の直径速度である「
つまりビッグバンの事ですね。
その暗黒エネルギーの惰性速度は篝火ゆえに位置エネルギーの速度には遠く及びませんが、それでも光速度の数倍には成りえる。
だから、あなた方は、
暗黒エネルギーが実は過去から未来へと重く冷えて移動している位相速度という位相距離を表わしていることにも気づかなかった。
そうやって、
過去の軽い宇宙は未来の重い宇宙へと沈んでいたという事実にです。
我々はその軽い過去から重い未来へと推移していく温度の波という「自転する0」が拡がる円の波紋に乗っていた。
それが時間だった。
それが時間であり時空であり次元の事だったのです。
真実はそれだけだった
だからあなた方は気付かなかった。
それがここに説明される。
これが、
この宇宙全体が、光速度を超えて未来ヘと冷えて重くなっているという理屈です。
では今度は、
現在の我々から、過ぎて去っていってしまったであろう、今までの過去が、そこから更にいったい何処へ往ってしまっているのかという理屈です。
我々は確かに過去を過ごしてきた。
そして今も、確かに我々は過去を昔として過ごしている。
ではその過去は現在、その光の速度を超えてどこにあるのか?
これは理屈としては、どこから冷えて我々は重くなっているのか?
という方向性さえ分かれば、過去はその反対方向に流れているという事だけは予想が出来るでしょう。
しかし残念ながらこの宇宙は自転している。
忘れたわけではないでしょう。
この世界が一進法で成り立っているというのなら、この「自転する0」という宇宙も間違いなく自転しているのです。
ならば自転している以上、周囲にある零度は、私たちが回っているためにどの方向から来て迫っていてもいいことになる。
自転しているこの転星という惑星にも、満遍なく夜が訪れるようにです。
しかもなお悪いことに、この宇宙は自転していながら、さらに公転もしている」
「え?」
「していますよ。おそらく。
最初で最期に起こるビッグバン以外は、全て「二つの0」によってのみ起こされる副次的なビッグバンなのです。
ここでいう二つの0とは「自転する0」と「公転する0」のことです。
最初と最期以外はその二つの0だけで起こされる連鎖的なビッグバンなのですよ。
静止した0も関わる「三つの0によるビッグバン」は最期に起ころうとして最初に起こってしまう、たった一度きりのビッグバンだけです。
そして、それは恐らく爆発ですらない。
静止した0の内側で自転して存在している自転する0の、その自転軸となっている光の柱です。
最初で最期のビッグバンは全てそこに集まっている」
それは思っても見ない告白だった。
その全てを起こしているビッグバンが今も宇宙の彼方に光の柱としてあることに、
章子はどこまでも驚く。
「それがあなた方の云うインフレーション理論の根幹。
……だから、この宇宙がどこから冷えて重くなるかという事を考えることにはあまり意味がないのです。
そんな事を考える暇があるなら、今も現在から遠ざかっている過去が何処に行っているのかを考えるべきです。
そして、その答えは丁度身近なそこにある」
言って、真理は開け放たれた屋根裏部屋の窓の外に広がる夜空を指差す。
「この夜空に光る星の光。
これが光の速度を超えて過ぎてく過去の、答えの一つでもある。
光は過去を精密に記録している部分がある。
私が何が言いたいのかは分かるでしょう?
この数多に輝く夜空の星の光は、あなた方にこの137億年の宇宙の姿をそのままに、ありのままの光景で鮮明に映し出す記録媒体でもある筈です。
それを捉えるカメラの精度を上げれば上げるだけ、過去の宇宙の姿を鮮明に、克明に映し出してくれるのですから。
それが何を意味するかはもうわかりますよね。
光は光を反射し、映し出して型に取ってしまった物なら克明に記録する、記録媒体でもあった。
つまり、我々が光で照らされてさえ居れば、その光は私たちという像を鮮明に記録して、光の速度で遥かな全宇宙のこれからの未来に絶対の事実として伝えていると云うことが出来るという事です。
過去は光の速度を超えて過ぎていくが、光は過去の姿を光速で周囲に分かりやすい形で確実に映像として残している。
そして、光が克明に当時の光景を記録するという性質があるのなら、
当然、
可視光という電磁波を含めたあらゆる電磁相互作用以外の他の三つの
さらにはその根源となる
すなわち、
我々は記録されている。
それは一体何に?
しかしそれはまだ置いておきましょう。
どうせその答えは一つしかないし、
既に見当もついている筈です。
だから今は過去を探しましょう。
過去は光よりも速く過ぎるが、光はちゃんと過去の姿を宇宙の中に遺している。
ということは事実としてあった過去は既に光の範囲には無いという事です。
ではそれは何処にあるのか。
ここでもう一度思い出してほしいのが、円周率11.11です。
しかしここで必要となるものは、その肯数3.14だけではない。
その否数の円周率数7.96から求められた内周率、2.97もです。
この円周率3.14とその内周率2.97が、
過ぎた過去が何処へ行ったのかを教えてくれる。
では少し、これらを使って今一度、算数をしてみましょう。
仮にここにある円の直径を「3」と仮定して、円周率3.14をこれにかけてみます。
出てくる数字は、
9.42。
これが「3」の円の外周辺の長さ。
ではその「3」より0.1低い数「2.9が直径の円」ならば、次は、
9.106。
なら2.8なら、
8.792。
今度は内周率です。
3の内周率は、その直径である3に2.97をかけて、
8.91。
2.9の内周率は、
8.613。
2.8の内周率は、
8.316。
分かりますか?
この数字の推移の仕組みが。
分かりやすくすると、
9.42(「3を直径とする円の外周」の長さ(円周率))
9.106(「2.9を直径とする円の外周」の長さ」(円周率))
8.91(「3を直径とした円の内周」の長さ)
8.792(「2.8の外周」の長さ(円周率))
8.613(「2.9の内周」の長さ)
8.316(「2.8の内周」の長さ)
となる。
この数字の動き。
これをよく目を凝らして見れば分かると思いますが、
「9.42」という3の円の外周距離と、
「9.106」という2.9の円の外周距離とのその数字の間には、
9.207という「3.1の直径を持つ円の内周距離」の数字が入ることが思い浮かびあがり予測することができる。
つまりこの数字の動きは円の直径が0.1以内、または半径であれば0.05以内の差であれば、それぞれの直径、半径を持った円の外周辺と内周辺は一体化できることを意味する。
そして、この時の数字の動きを我々は
なぜならこの数字の動きこそが我々のこの物理挙動や運動、動きと云ったものを成り立たせているからです」
そう言って真理は、立たせていた自分の人差し指を一本ゆっくりと揺らしてみせる。
「あなた方はこの人生を生きていて、
一度は、
こういう指や手や腕や物の動きを、現実世界で成り立つさまを不思議に思った事がありませんか?
教科書の隅に書いたパラパラ漫画やアニメーションの動き。
さらにはビデオカメラで撮ったはずの運動会のその子供の物理挙動まで。
その全てが、映像記録媒体では静止画での何枚もが重なった一枚絵の移り変わりで動いて行くことに。
そして、それを思い出しながら現実世界で自分の腕を振ってみる。
ゆっくり動かして見れば、そこには確かにビデオやパラパラ漫画のような空いた空間の幅も何も無く、指や腕は一つのままに推移して動いて行くのが分かる。
そこにはちゃんと痛みを感じる神経も繋がっており、自分のこの手の存在が途中で途切れているとなどという異常な違和感覚も伝わって来ない。
では今度は早く動かして見れば?」
今度は、真理は自分の手をヒュンと素早く振る。
「これを目で捉えてみても、その軌跡は辛うじて残像としてさえ分かる程度ですよね。
しかし、手が行き止まった先には、そこにそれはちゃんとある。
もちろん動かしている間中も、腕には特に痛みも何も感じはしない。
だから我々はこのあらゆる物の動きというものに違和感を感じることがない。
それを自然のことだと当然に自覚する。
ではそれを今度は記録媒体に映像として記録してみたらどうでしょう。
如何に高性能カメラとて、速ければ速いほど、そこにはコマ撮りとしての意味での動作の最中での隙間、空間が出来るはずです。
それこそ、感知するカメラの性能が低ければ低いほど、または被写体が速ければ速いほど、空いた空白空間の間隔は広くなる。
この事実は現実世界でも同じです。
速く過ぎれば過ぎるだけ、そこには空白が出来る」
「まさかっ」
章子には信じられなかったが、真理は続ける。
「空白は出来るんですよ。
この現実世界でもね。
試しに算数してみてください。
円の内周率2.97に「3」を掛けて、
次に「2」という数字にも円周率3.14を掛けてみる。
出てくる数字は、
8.91が「3」を直径とした円の「内周長」
6.28が「2」を直径とした円の「外周長」
ほらトんだっ。
その「2の外周数字」が「3の内周数字」に届かない空白空間を裏付ける数字の差数は何だと思います?
「3」の内周距離8.91と「2」の外周距離6.28のその差。
2.63という、2の外円長と3の内円長の差からでた数字。
これを直径の長さを1と2でさらに置き換えて見ると、
5.94は「2」の内周長
3.14は「1」の外周長になり、
差は2.8と広がる。
では、
1と0なら、
当然その差は2.97です。
この2.97から続く「起点となる数の外周と、その次の数の内周の空白の距離」の差が、
実は今から一秒前となった過ぎ去りし過去との距離に等しいのですよ。
そして三秒前の過去は「1」の外周長3.14引く、「3」の内周長8.91です
その差は5.77に広がる。
そうやってどんどんと遠ざかる。
過去が軽くなってではありません。
現在の我々が重くなってです。
そうやって引き離される。
そして、この時の数字の空白が「転移」となって現われるのです」
「え?」
「もう忘れましたか?
熱の動きには伝導、対流、放射の他に「転移」があったことを。
熱転移。
あの太陽の低い表面温度を通過して高温の内部から遥か先の外部層へと高熱を排出しているコロナの発生原理でもある、最後の熱伝達移動手段による現象。
それと同じように、我々のこの今も冷えて逃げていっている。
現在よりも熱かった過去という軽い世界が、熱転移によって遠ざかって排出されているのですよ。
だから見えない。
この時の熱が転移して移動する推移速度は一瞬ですから。
光りなどというよりも遥かに速いためにね。
その速度は過ぎれば過ぎた分だけ、
離れれば離れた分だけ光速度の2.8倍以上の数値で倍加していく。
現在にある光も含めた我々が重すぎるが故にです。
その為、
宇宙の端からくる絶対零度による宇宙冷却は、熱を奪われる我々側から見ているために熱量を持たない暗黒エネルギーとして捉えられ、
それらが、光速度を超えた熱転移でもったアプローチ現象で、例外なく全てを冷やし重くして、
光の速度域でも届かない、
これがこの宇宙の仕組みだった」
途端、
真理は立ち上がり、
伸ばした右手を真上へと指差す。
「だから我々の過去は……、
現在の我らの、この遥か彼方の天の延長線上より、今という現在からも遠ざかった一線上の虚空の先にあり離れ」
次は左手で地をさして、
真理の視線だけが章子たちにのみに向く。
「……そして、それから引き剥がすように掴んでは、引きずり込もうとするものこそ、
これから来たる下から、我々の未来としてやってくる。
我々を重くし、その先へと沈めてくれる為に……」
その左右で天地を指していた両の手を、
今度は大きく回転させて逆置、
変わって向かう地面は右手が指し、
今度は左手が天を指差している。
「天上天下唯我独存」
その天宣地示の中。
真理が曰く、これを
天上とは、これすなわち過去。
天下とは、それすなわち未来。
その天地廻転の中に在っても、自分という存在、意識、重くなっていく点は、こと
「したがって、
私たちは、その全ての軽重作用が1となって引き伸ばされた人生という0の最初と最期の内で、
今この現在にしか「この1という潜在意識」は存在しないのですよ。
我々のこの自覚は、今までの過去とこれからの未来の中でも、この現在という瞬間にしか存在しない。
それが今という意識であり自覚だった。
我々はその「唯一の0」の中にある「唯一の1」なのですから。
だから繰り返すのです。
我々、1として
この一進法の
同じ
同じ
同じ
同じ
同じ
同じ
そして、
同じ
同じ
それこそ、この全てが例外ではない。
その証拠がこの動作なのですよ」
そう言って真理は最度、
天を指していた自分の腕を素早く一振り下ろす。
「見えないでしょう?
この残像の中にあった筈の過程が。
なぜ見えないか?
それは、もう無いからです。
なぜ、もう無いのか?
それは、
腕を振ったという過去が、過去として光よりも速い速度で熱転移してしまい軽くなりトんでいったからです。
軽い過去はこの世界では存在できない。
この現在進行形で重くなってしまっている果てしなく鈍重な現在世界ではね。
だから腕を振る度に、その動作の残像は消える。
だから、
あなた方のその今の動作も、現在では過去となって消えるのですよ。
そして、その残像の消えた仕組みは簡単です。
熱転移に寄って消えている。
過去の世界と一緒にね。
光の速度を超えて。
だからほら、試しに振ってみればいい。
動かせられるものを手当たり次第に動かして見ればいい。
その動作の残像は、熱転移に寄って消えていく。
それをあなた方は目の当たりにする。
過去となって目の前で光の速度よりも速く軽くなって、過ぎ去っていく。
だから、
それはもう元には戻れないし、戻せないし、戻らない。
混ざった液体も、何もかもがその時点では軽かったために。
それが、我々が冷えていってより、重くなっていっている証拠にもなるのですよ。
過去が今よりも余りに暖かく、軽すぎるがゆえにね」
そして真剣な面持ちで真理は、章子を含めたあなた方にも向く。
「だから、
あなた方は、
こんな現実の世界で、そんな、
自分たちで醜い争い事を延々と自己満足的に繰り返している場合ではないのですよ。
そしてもちろん、
その場では平和だからといってのほほんと目の前に出された食事を無頓着に頬張って有り付いていていいわけでも無い。
そんな和みの一時でもある一家団欒の日常においてさえ、そこでは戦争なのですよ。
その笑顔の前に食事として出されている全ての命が阿鼻叫喚の魑魅魍魎となって今を表わしているのですから。
それは植物や無精卵、母乳とて例外ではない。
あなた方はその罪を、
笑顔と幸福で持って強要し、繰り返し繰り返させて生きている。
無邪気に、
無頓着に、
無関心に、
無自覚にっ!
聴こえますか?
その叫びが?
その叫びが聞こえないのに、
あなた方の、自分の叫びは誰かに届いていてくれているとでも?
あなた方にはその手段しか残されていない。
その手段しか持っていないことにもっと恐怖を覚えるべきだったのです。
あなた方は、生まれても生まれてもその同じ命を同じ分だけ今までもこれからも摘み取るのですから。
そしてまた、あなた方もまた摘み取られる。
これは地獄です。
地獄以外の何物でもない。
思い出してください。
あなた方の回りでは、一体どんな過程が過去として消えていったのかを。
そこには一体どんな叫びがあったのか。
それを延々と繰り返すのです。
生まれても生まれてもそのまた先でも。
同じ事をし、同じ事をされ、そしてまた同じように尽きて、産まれ、生まされる。
恐怖ではありませんか?
それは恐怖です。
恐怖なのですよ。
私でさえ恐ろしい。
命すら奪わずに生きることのできる、私でさえ怖い。
震えあがりますよ。
未来を知らないからこそ取った有効的だと思われたその手段が、実は最初からそうであると決められているというこの事実現実にね。
それを恐怖と云わずして何というのか。
まったく、
…11…という一進法で成り立つこの現実世界が、
0と1の二つで成り立つ二進数の二進法で成り立っているプログラムゲームよりも、クソゲーなのは至極当然だったのですよ。
セーブポイントは勝手に決められていた。
そこで死というリセットをかけても、また同じ所から同じことを繰り返すだけ。
しかも、
訳も分からずにです。
加えて、
科学というものを閃きで突き詰めていかなければ魔法というものも手に入らない。
そこまで到達するのに、いったいどれだけの犠牲と寿命と命と運が必要なのかも考えがつかない程にね。
そして、その間に衰滅する。
しますね。確実に。
勝手に生まれて、
勝手に繁栄して、
そして、
勝手に滅亡して、させて、されて、してしまうのです。
それを繰り返す。
まったく何がしたいのかが分からない。
いや、何がしたかったのかは分かる。
あなた方や我々は、
それだけだった。
無は無でさえ
『我々はどこから来て、何処へ行くのか』
そんな問いの答えは簡単なものだったのです。
『我々は0という唯一つの1から来たりて1という唯一つの0に還る』
これで、世界は全てにおいて完結する。
世界は0という1により始まる一進法だった。
さあ、ではこれから先をどうするかです。
これから重くなっていく未来で自分という自分をどうするかなのですよ。
過去には戻れない。
絶対に。
あなた方自身が、それを出来ないし、
しようとも思わない。
その意思が湧かないのです。
ならばこれからのこの一度きりしかない未来をどう生きるかに全てがかかっている。
例えそれが、既に全てが記録されて繰り返されるだけの決定事象だったとしてもね……」
真理は冷たく章子たちを見る。
それが今日初めて最終的に決定された最後通告だった。
そこに逆らえるものなど、誰もいない。
その筈だった。
だがそれに一人だけ異を唱える者がいた。
「本当に、そうなの?」
「何が……ですか?」
真理を見ていたのは章子だった。
とてもではないが今までの真理の発言は、
今の章子には到底、受け入れられるモノではなかった。
なぜなら、
下僕が勝手に喚き散らした戯言を、そのまま鵜呑みにする主人などいない。
だから章子は真理を否定する。
否定できる判断材料はまだ章子の手元に残されている。
それをぶつけて弾切れにするまで、章子はまだ止まってはならないのだ。
「本当に過去には戻れないの?
行けないの?
本当に、
過去を変えることは……」
「出来ません」
「なぜっ?」
章子は真理に食って掛かった。
今の真理は否定するだけだ。
説明をしない。
章子の隣に座る昇もまた何も言わない。
ならば、必ずそこには付け入る隙があるように章子には思えた。
「確かに……。
私は少しだけウソをつきました。
過去には実は行けないことは無い。
そして、過去を変えられないことも無い。
しかし、それは完全に世界の息の根を止めることに繋がる」
「え?」
藪をつついて蛇を出す。
そんな諺が章子の脳裏によぎった。
だが時は既に、もはや遅かった。
「そんなに、世界を詰んでしまいたいとおっしゃるのなら、
お望みどおりに教えて差し上げましょう。
真理学上、過去を遡ることは出来る。
ただし、その手段は非常に非現実的です。
ビッグバン三百回分のエネルギー出力でやっと一秒……」
「え?」
「……ですから、
宇宙で全て最初の過去から最期の未来まで使われているビッグバン三百回分の全エネルギー出力を一回、その時点で全て発揮させてやっと一秒、過去を遡れるとそう言ったのですよ」
「そんな……」
「バカな……ですか?
あなたは本当に地球で最初に出会った頃から何も変わっていませんね。
咲川章子。
半野木昇。
章子のこの今の顔は覚えておいた方がいいですよ。
これが章子の素の心です。
こんなバカな主の顔を私は何回も拝まされた。
まあ、それはいい。
過去へのタイムトラベルは真理論上、可能とはなっていますが、
その過去への旅路にはそれなりの代償が伴うのです。
それが過去へと約1秒向かうのに必要なエネルギー量、ビッグバン三百回分です。
勿論この三百回という数字の中には、その内で一回分だけ存在する「三つのゼロによる最期で最初のビッグバン」も当然、含有しています。
これが何を意味するかは分かりますよね?
過去にたった一秒、ここから遡るには、現在から未来を超えた遙かその先にあるあなたの過去であるこの現在までをも全てひっくるめて、正攻法の王道で一回一巡できる全世界宇宙エネルギーの全てが必要である。
という事です。
……何ですか、この空気は?
……まさかとは思いますが……、
あなた方は、
たかが自分が光の速度を超えただけぐらいで、ヒョッコリと過去に行けるとでも思っていたのですか?
そんなわけがないでしょう?
たかが人一人が光速の速度を超えて軽くなったのみぐらいで過去に辿り着けるわけがない。
では、仮に辿り着けたとして、
そこの、その過去で見上げた夜空の星の位置はどうなっているのですか?
それら全てが完全に元通りに過去と同じようになっているのですか?
太陽系も?
銀河系も?
あれだけ重かったこの宇宙の全部の位置が、全てまったく軽く元通りにっ?
そんな壮大なことが、
たかだか人間一人が軽くなった超光速で実現できる?
我々のこの位置は、過去から現在、未来に到るまでの全ての位置エネルギーによって、ここで光速を超えて
にも関わらず、
一体どこからそれを突破できるエネルギーが出てくるとおっしゃる?
逆に教えてください。
咲川章子。
たった一人の人間が光速のみを超えて軽くなっただけで、
そんな世界に辿り着けるとでも?」
「それは……。
そんな……」
「あなたの言ってることはそういう事です。
それだけ、現実に今こそ配置されている全ての宇宙配置、宇宙位置を、あなた方は軽いと暴言しているのですよ。
そんな現在の全ての位置の重さでさえ軽んじているあなた方が、
それよりも遥かに軽い過去の一体何を変えようと言うのか、
実に片腹痛いですね。
では百歩譲って、
人一人が光速を超えて軽くなることが可能であれば、過去には辿り着くことが出来ると仮定してみましょう。
その時こそ、
その人一人が一秒、光速や「位置エネルギーも含めた全ての速度を突破し暗黒エネルギーを超えて軽くなる」には、ビッグバン三百回分の出力が必要であると、逆に言い換えることが出来るのです。
結局そうなる。
結局それだけの力が要求される。
そして、この原理学の終わりである純理学での純理論上では、既にそれを可能としています。
0と0とが合わせられれば合わせられるだけ無限にエネルギーを生み出すことは可能なのですから。
やりましたよ。
章子。
喜んでください。
それを縛る筈の熱力学の全ての保存則はもはや何処にも存在しません。
ほら、
好きなだけエネルギーを出して実行してください、
咲川章子。
手段はある。
あとはそれをどこまで繰り返し、繰り返すことができ続けられるかという意思だけが問われるだけ。
ほら、
繰り返してください。
過去に戻りたい分だけの全宇宙の過去から未来に渡る計三百回分のエネルギーを一回分として発揮して毎秒倍でね。
……どうしました?
やらないんですか?
やる前から無理だと決めつける?
やってみないと分からないでしょう?
諦めたらそこで試合終了ですよ?
ほらぁ、
今すぐそこに過去への可能性はあるんじゃあ、ありませんかぁッ?」
くはぁ、と真理が
「……。
下らない。
実に下らない。
二秒遡るには六百回分ですよ?
三秒だったらもちろんそれ相応の数字です。
逆に訊きましょう。
それだけの価値が、過去を変えることにあるのですか?
咲川章子っ!」
「え……、
あ……、
う……」
「言い淀みましたね。
咲川章子。
しかもこれは非常に非常識で残念なことに、過去を遡ること
それ以上の事を、結果を、
過去で触れて他に作用させて変化させたいとなると、更に乗倍です。
ビッグバン三百×ビッグバン三百×ビッグバン三百×……×毎秒×毎分×毎時×毎日×毎年×毎十年です。
それだけの出力が脅要される。
勿論、
それだけの出力を精密に正確に操作して、過去に向かおうというのですから。
……ちなみに、
これを逆にし、
あなたの生まれた位置はこの時代の全てにある位置という重さで
だから、
過去へと一秒遡れるビッグバン三百回分を未来に向かって放った所で、これから先の九十八回分のビッグバン回の威力を引いて、残りのあり余った威力は熱く軽すぎるがゆえに、そのまま最期に静止して居座る完全な0の壁にぶち当たって、
これまた単に元の位置に戻されるのみです。
それだけになるのですから。
……ククク。
さあ、
では、
何時の時代の何時の過去をご所望ですか?
その何処に行きたいとあなたは
そして、
そこで一体、何をします?
何のエネルギーを使って?
それが出来る?
その意思の源である、
あなた方の価値はどこにあるのですか?
過去?
未来?
それとも現在ですか?
どれをとっても過去には戻れないし戻らないし戻りようがない。
その過去を含めた全てのビッグバンを使ってやっと1秒だけを現在から遡れるのですから。
そんな物は徒労以外の何物でもない。
しかし、
もし仮に、
それら以外に他に手段があるとすれば……、
自分の今ある
その命に手を掛ければ、それであなたの事は事切れる。
それで過去には戻れます。
その位置だけは記録されているのですから。
だから戻れますよ。
その記録されている位置は、
既に、
この世で最も速い、1秒で0の直径速度を掌握する『事』という「0」によって、あなたの最初と最期の
嬉しいでしょう?
最初の体からその状態、状況、思考まで全て元通り一番最初で戻れるのですから。
……しかし、
それで次は変えられると思いますか?
今でさえろくに未来を覚えていないくせに?
それで次なら出来ると過信する?
そういうのは今という現在をまずは変えてから言ってください。
それが出来ない内は、過去は絶対に変えられない。
さて、
ああ、
どうするんですか?
咲川章子。
これで世界は息の根を止めた。
あなたが世界に止めを刺したのです。
あなたの所為で世界は止まった。
自分の
過去に戻る出力が今そこにあるというのなら、それを使って、もう一つ理想の新しい世界をここで始めた方がよっぽど効果的だし効率的だし建設的です。
それとも、
それ以上の価値が、
今まで過ぎていってしまっただけの過去を変えることに本当にあるのか?
私はあなたに改めて問いましょう。
どうなのですか?
咲川章子」
章子はもはや真理の声も届いていない。
章子は章子で章子の時間を止めていた。
だから章子は真理の問いに答えられない。
「まったく。
過去を変えたい?
よくもそんな減らず口を言ってくれます。
大事な事なのでもう一度言っておきましょうか。
そんな事を言う暇があったら、
現在を変えた方がいい。
そして、現在を変えたいならば、まずは自分を変えるより他にない。
自分さえも変えられない人間に、
世界を変えることが出来るわけがないのですから。
かと言って、自分を変えたら、すぐに確実に世界も変えられるかなどというワケでも完全に無い。
なぜなら、自分を変えるために、
自分は生きていたので、それを止めて自分はいなくなることで自分を変えました。
何て言って、それで世界が変わるわけがないでしょう?
大体それでは、自分がすでに変わっていない。
それはただ単に、
いずれ訪れる結果を速めているに過ぎないのですから。
あなた方の云う「世界を変える」とは「結果を早める」という事のなのですか?
違うでしょう。
結果を早めるだけなら誰にでもできる。
自分のみに訪れる結果だけなら尚更にね。
変えるという事は早めるという事や遅くするという事では決してない。
そうでしょう?
咲川章子?」
真理は茫然となる自分の主人に向く。
「……。
他に質問は、ありますか?
私の章子……」
章子は焦点の合わない視線で呟いた。
「……絶対零度の底値って一体どこまでなの?」
これは考えて出たわけではない台詞だった。
ただ単なる「残された弾」だ。
それをただ単に真理に目がけて無造作に引き金を引いている。
「概算ですが、
我々はその絶対零度の底値、
真の完全零度の値を、摂氏でマイナス299.97だと見積もっています。
おそらくマイナス300までには届かない。
その前に次のビッグバンは起こります。
エントロピーによって一つになる寸前の0と、
今ある全元素、118種の数という全ての
……。
それを聞いて章子は項垂れた。
そしてまた、次の元素の数と位置が一つ消えるのだ。
それで次のビッグバン後のさらに冷たく重くなった宇宙世界では、元素の数が117種になる。
きっとそうなるだろう。
それが今の章子にはよく分かった。
そんな事に思いを漂流させながら、
頭の中で、
現在の絶対零度273.15から真理の予言する299.97の数字を引いてみる。
あと、残り絶対温度26.82度。
それがこの宇宙の寿命なのだ。
あと26と82しか残されていない。
「それを私たちの時間に換算すると……?」
「単純計算でも二千六百八十二億年ですね。
尤も、私たちはそれよりももう少し猶予はあると積算していますが……」
真理の躊躇う口調に章子は思わず笑ってしまった。
鼻であしらうように意図せず笑ってしまったのだ。
「じゃあ反物質とか、
電子の正反対の電荷を持つ物や正反対のスピンを持つ物とかの存在理由って何?」
地球にいた時に目を通していた他の科学雑誌とかでは、それら今の物質と正反対の性質を持つ物は全て、別の空間、次元、時空で必要になる物だとかいう、仮説や仮想を広げていた筈だ。
それを一進法が否定するというのなら、
一進法はそれらを一体何のために存在させているのか?
その章子の問いに、
真理は答える。
「この自転する宇宙の反対の半球面内で、通常の物質として成り立っている物です。
仮に、我々が今いるこの宇宙の半球内を上半球としてみると、
この我々の上半球で出現する反物質や反陽子、陽電子などは全てこの下、
下半球内では逆に通常の物質として全ての物体の元素を構成させているのですよ。
だから、そこでは我々を形作るこの通常の物質こそが、それと正反対となって反物質として出現するのです」
「地球の北半球と……南半球みたいな?」
「そういうことですね。
だから逆回転をしていて地磁気による磁極、電荷も正反対でしょう?
逆の半球側では……」
そんな真理の単純な原理の答えを最期まで聞くまでも無く、章子はまた笑ってしまった。
引きつった乾いた笑いだった。
酔っぱらった父親が何回も繰り返すしゃっくりにとても良く似た嗤いだった。
章子は笑うしかなかった。
絶望に負けてただ笑うしかなかった。
駄目だ。
これは駄目だ。
もう、何を言っても答えは完結してしまう。
全てが一進法で片が付いてしまう。
この世界が。
章子の生きていたこの宇宙だ。
その世界が、
たかが……1111……の数字の羅列だけで完結してしまう事に、自分でも薄気味が悪いと思う笑いしか起きなかった。
世界は終わった。
詰んでしまった。
ここで決定的に世界は終わってしまったのだ。
なにが新世界だ。
なにが新惑星だ。
世界はこんなにも単純で脆いじゃないか。
それが新しかろうが古かろうが、もはや関係ない。
章子には全然関係がない。
それを知って、章子は自分がどうすればいいかを見失ってしまった。
だからひとしきり一人勝手に気の済むまで嗤い続けていたら、気付いたのだ。
この屋根裏部屋の片隅で、闇の何かが幽かにはっきりギシリと軋んだ音を。
章子はそれを聞いて嗤いを止めた。
意識だけがハネ起きた。
直ぐに辺りを見回して警戒し、周囲を伺った。
だが、何もそれ以上の動いた気配を感じることは出来なかった。
だから章子が安心して真理に目を戻した時。
また部屋の片隅で音がした。
章子は背筋が凍る寒さを感じる。
それは部屋の片隅で翳ろう闇の音だった。
その闇の音がだんだんと律を大きくし、近づいてきて章子に迫ってくる。
傍の人間は誰も気づいていない。
章子だけしかその音には気付いていなかった。
音はやはり今も近づいてきている。
それは足音ではない。
弦の音だ。
弦で重く弾かれた音がゆっくりと、だが力強く、一つ一つ、軋り響きをあげ、
確実に章子へと迫り近づいてくる。
章子はその音を知っていた。
いや曲を知っていた。
真面目に音楽の授業を受けていれば、
直ぐにその楽曲には思い至るだろう。
既にその音は、見えない闇の姿で章子の目の前に立っていた。
今にも悲壮な叫び声をあげそうなほど、大きく息を吸い込んで仰け反るその闇の構え。
その闇を前にして、章子が耳を手で栓することも忘れていた時。
それをさせずに、
闇は章子の目の前で爆発させた。
旋律と交響音。
その二つを、
黄金のラッパと黒く白い弦の協奏音が、章子の眼前で炸裂させていた。
それは新たな世界の到来を告げる曲。
交響曲「第九番」 ホ短調 Op.95
「新世界より」の第四楽章!
その音律は、まさに今のこの世界の有りさまを体現している。
だから、
章子にはその旋律は新世界のものには聞こえなかった。
それは世界が終わったことを高らかに宣言している終末の協奏圧にしか聞こえなかったのだ。
新世界より、
現実世界が終わらされる。
この曲の作曲者はそう言いたかったのではなかったのだろうか。
章子の世界は、
この新惑星の新世界で唐突に終わってしまった。
何もまだ、
冒険も、旅も、何も始まらない内から終末が訪れたのだ。
章子はその終末の旋律を頭の中で傍聴しながら、次の下僕の言葉を待っていた。
早くこの世界を終わらせてくれ。
そう切に叫んでいた。
だから章子は、シンバルを待つ。
この交響曲の第四楽章にはシンバルの音が用意されている。
それは全楽章の中で、たった一度だけ用意された金属の音だ。
しかしその音は酷く弱く、普通に聴いていては聞き取ることが出来ない。
そんなことを授業中で得意げに語っていた音楽教諭の言葉を思い出す。
章子はそれが鳴るのを待っていた。
今の章子にはその音がこの世界の小数点の点を表わしている様にしか思えなかった。
知っていたのだ。
この交響曲の作曲者。
アントニン・ドヴォルザークという人間は。
この世界が全て一進法で出来ていることを知っていて、気付かれないように小数点をヒントとして楽譜に残していたのだ。
章子はそんな親切に罠を張ってくれた故人を忍び歯噛む。
章子は早く楽になりたい。
楽になった所でまたこれと同じ事を一から繰り返すのだろうが、もはやそんなことはどうでも良くなっていた。
章子はこの先へ沈んでいく勇気がない。
未来へと進んでいくことが出来ないでいた。
それは重くなり沈むという事だ。
章子にはそれが息苦しい。
体も、心なしか全てが重いように感じる。
だから、この世界がどうしようもなく自分を重く押しつぶしてくると錯覚する。
章子にはそれが窮屈だった。
「さあ、
これで急がなくてはなりませんよ……」
「え?」
だが、出てきた真理の言葉は存外、将来を見据えていたものだった。
「急がなくてはなりません。
これで今の彼ら、
第一文明のリ・クァミスは真理の入り口に辿り着いた。
これからあと遅くとも半年もない内に、彼らやそこにいるオワシマス・オリルは、
その真理の力の一端、
「固体発生」の魔法に辿り着くでしょう。
原理の最後を知れば、あとは真理の最期までは一直線だからです。
あと二千年……もたないでしょうね。
その衰退は早くに来る。
すでに章子やオリルのその顔色を見れば一目瞭然です。
あなた方は絶望の淵にいる。
違いますか?
これ以上、未来に潜ることが億劫になっている。
かと言って過去にも戻れない。
全てが訪れる結果が同じだからです。
だから自分がどうすればいいのかが分からない。
かつて、
我が母ゴウベンこそはまだ、先に独りでこの事実に辿り着いたから良かった。
独りであれば傍観者に徹することが出来る。
それが母の卑屈な処世術だった。
だからいまの今までも、のうのうと傍観者でいられるのです。
しかし、このリ・クァミスは違う。
周囲にいる人が全て1に見え、
周囲に広がる世界が全て0にしか見えなくなる。
そして今いる自分という存在の体が1と0とを行ったり来たりするのです。
だから他人が未来ヘと重くなるのは期待できるが、
自分が重くなるのは耐えられない。
重くなるということは0に近づくということでもあるのですから。
それをこれからのあなた方も思い知ることになるでしょう。
なぜなら、
これからのあなた方もしばらくは、
この世界が0に見えて、
人や物が1にしか見えなくなる。
そして自分のその手が0か1か分からなくなる。
分からなくなるから、近いうちに自分で自分を決定する。
止まるかそのままか、あるいはそんな何も出来ない決定しか下せなくなる。
だから、急がなくてはならない。
この世界にはまだ、この第一の他にあと五つの古代時代がある。
且つての滅びた真理学、その覇都が期待した彼らの未来であり今の過去がです」
「あ……」
「それを知っていてからでも遅くはない。
原理から一足飛びでの真理への到達は、
その過程の全てにあった筈の多様性という可能性の姿を、描く輪郭の前から排除する。
だからギガリスはそれを想像することが出来なかった。
余りにも短期間で超高度となったためにです」
そう言って真理は昇を見る。
「現に、私にも分からない。
分からないのです。
私にもその想像力が足り無い。
教えてください、
半野木昇。
私には、この現実世界でたった一つだけ、答えを出せない問いがあります。
それはこの
それどころか、一番身近な身内である、
母や姉でさえも教えてはくれなかった。
笑われて苦笑されてはぐらかされた。
きっと答えることが出来なかったのでしょう。
無知や不知な者どもを嗤いながら、その
あの自分の智識をひけらかすことだけが悪趣味の女たちがこぞってです。
だからあなたに直接、訊きます。
この盲智で亡知な私に教えてください。
この世界の
0と1のどちらが先にあったのですか?
私はそれがどうしても知りたい。
だから教えてください。
どうか、それを今すぐ、
この愚かな私に……」
懇願する真理に、
昇は何度も際限なく、顔を酷く
分かるには分かるがそれは自分の独断による偏見だと、厳重に断りを入れた。
だがそれでも構わないと真理は尚のこと、昇に食い下がり、
昇なりの答えを求めた。
だから言った。
渋々、昇が思う昇自身の答えを。
その答えを端から聞いて章子は気付く。
それがシンバルだった。
その答え、そのものが、
章子の、
この新世界を始めるシンバルの音だった。
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