第3話 始まりの出会い
先ほどまでいた草原とは打って変わって、樹々の生い茂る深い森の中。
その森林を縦断するように敷かれた大きな石畳の道の上に、今の章子たちは辿り着いていた。
背後も正面も、奥へと続く道の先はやはり森の暗がりでよく見えない。
まるで森の中のトンネルにでもいるような光景だった。
足元を見ると、立っている石畳の道は綺麗で枯れ葉ひとつ落ちていない。
所々、土汚れはあるが比較的人の手が行き届いているように見えた。
「着きましたよ。
ここが地球で最初に栄えた文明「リ・クァミス」です」
先頭に立つ真理が事も無げに言うと、章子も辿り着いた景色に黙ってはいられない。
「ここが文明のどこだっていうの?
ただの森の中にある道じゃないっ。
場所を間違えたんじゃないの?」
「いいえ。章子。
ほら、すぐ横に見えるでしょう。
あそこがリ・クァミスへの入り口です」
森の奥へ続く道の先を正面にして、真理が人差し指で真横の方角を指すと確かにその方向には入り口があった。
大きく路肩を区切って開く入り口は門。
豪奢な造りの石柱が二本、左右に並び建つ巨大な門だった。
「これを
「そうですよ。
行きましょう。付いてきてください」
間髪入れずに真理が言って門の方へ歩き出すと、章子と昇も慌ててその後を追っていく。
「勝手に入っちゃっていいの?」
「構いませんよ。
既に話は付けてありますから」
章子の心配をよそに、真理は勝手知ったる様子で突き進んでいく。
そんな真理に躊躇しながら、章子も仕方なしに後をついていった。
くぐった門は明らかに人の手の入った豪華さだった。
道も石垣根も石畳の端から先が眩しい青芝生になっている。
ここから先はかなり敷居の高い土地だという事が章子でも分かる造りだ。
屋根代わりとなっていた森の天井も既に途切れている。
途切れた代わりに見えてきたのは建物だった。
開かれた敷地にそびえ建つ、天まで届くほどの塔を幾つも備える巨大な建物。
章子にとって、その建物の輪郭や外観はどこかで見た覚えのあるものだった。
「これ……」
「うん、見たことあるね」
章子の呟きに後ろからつづいていた
「何だっけ、これ?
たしか何処かで……」
見たことがあるのだが名前が思い出せない。
「美術だよ。
たしか美術の教科書で見た……。
ヨーロッパの……、
教会だったっけ……?」
その一言で章子はピンとくる。
「ああっ、サグラダ・ファミリアっ!
そうっ。
サグラダ・ファミリアに似てるのよっ。
ここっ!」
納得したように両の手を打つ。
喉につっかえていた魚の骨がとれた気分だった。
そんなことに気が付いてみれば、見れば見るほど、目の前の古代建造物は教科書で目にする機会の多い、故郷の地球はスペインのバルセロナにこそあるというサグラダ・ファミリアと呼ばれる教会の外観に非常によく似ている。
特に建物入り口の門構えから空に伸びている六つの
ギザギザの網掛け状に模様が交差する、黄土色の古代建造物。
「もしかして、
……ここは教会?」
「いいえ。
この時代に宗教はありません。
ここは……そうですね。
あなた方の云う所の国会議事堂といったところです」
目の前に建つ古代様式の建物の石段を上り、真理はそのまま建物の中に侵入しようとする。
「本当に大丈夫なの?
勝手に入って」
「大丈夫ですよ。
章子は心配し過ぎです」
十段ほどもある階段を上り、大きな口を開ける建物の
扉のないまま入った建物の中は暗がりで、高い吹き抜けが夏の高天井のようにシンと空気を冷えていた。
床は磨かれた石の床だ。
来訪者を受け付けるカウンターも窓口も何もない。
ただ入り口内部の大玄関の奥では廊下と階段で最奥と上階が分かれていて、それぞれが進むべき方向を促している。
にも関わらず、人影らしい人影も見当たらないので、ここが本当に人の利用する場所なのかと疑いたくなってくる静けさだった。
「誰もいない」
「今は授業中なのでしょう。
だからほとんどの生徒も教諭も出払っている」
「授業中?」
「ええ。
ここは学院でもありますから」
「国会議事堂なのに学校なの?」
「正確には大学と表現する方がより適確です」
真理はそう言って先を歩きだす。
「ここはそういう所なのですよ」
章子と昇を一瞥して真理は入り口広間から、奥につづく廊下に進んでいこうとする。
廊下を歩きながら真理の授業という言葉で思い出した。
そうだ。
自分たちの地球だって今頃、学校の授業が行われていることだろう。
平日のお昼を過ぎたこの時間なら、そろそろ五時限目の授業だろうか。
今日は金曜日だったから、クラスの皆の気が緩みだすのが想像できる。
あれから家は、学校は、どうなっただろうか。
いなくなった章子と昇の事で大騒ぎをしているだろうか。
最後のメールを送った携帯電話や持ってきた荷物も不必要なものは全て地球の砂浜に置いてきた。
そこには半野木昇の財布だって置いてある。
それを誰かが発見してくれればきっと、章子と昇がそこにはいたという事実を分かってくれることだろう。
そんな事を考えながら真理の背後について行き、玄関広間の奥の入り口を越えると、のどかな原園風景が左手に広がった。
「うわぁ」
章子はその光景に目を奪われる。
章子たちが出たのは回廊だった。
飛び出した回廊の風景は自分たちの進む壁側が屋根の様に薄暗く、左が芝生のように青かった。
回廊の中から見て、右側がおそらく教室や講義室の部屋が連なる扉や窓のある壁側で、左が並び建つアーチ状の柱の間から見え隠れする青芝の中庭が広がっている。
それは章子のイメージする西洋建築によく見られる光景に思えた。
「いいなぁ。
いいなあ。
こういう所で勉強するとまた違うんだろうなぁ」
それは憧憬にも似た、ため息だった。
章子が日本で通っていた無骨なコンクリート製の校舎ではなく、こういう西洋的な建造物の校舎だったなら、どれほど毎日の登校が楽しみになっていただろう。
そう思うと妬ましそうに柱に張り付いて、広大な中庭を舐めるように見回したくなってくる。
見れば、丁度、芝生の中庭の片隅には昼休みにはうってつけの洒落た鉄製のベンチまで用意されてあるではないか。
「ああ」
あのベンチに満足いくまで腰掛けていたい。
しかしそんな欲求も虚しく。
日陰の回廊から名残惜しそうに魅惑的な中庭を通りすぎると、今度は暗がりの廊下に入った。
暗がりの廊下の奥にもまだ先は続いていそうだったが、
なぜだか真理は、中庭の回廊を過ぎた直後の暗がりの廊下に入った矢先にある、右手の階段が覗く手前で立ち止まった。
「二階に上がりましょう。
付いてきてください」
向きを変えて、目の隣にあった横の螺旋階段に上ろうとする。
「どこに行くの?」
「ついて来れば分かります。
この国と学校の責任者にお会いするんですよ」
「え?」
「ええっ?」
章子の驚きよりも昇の驚きの方が大きい。
昇の顔を見ると凄く嫌そうな顔をしているのが分かる。
会いたくないのだ。
位の高そうな人物とは。
「そんなに嫌そうな顔をしないでください。
大丈夫です。
話の大半は私が引き受けますから。
章子や昇はただ返事をしたり、頷いたりしてくれればいい」
真理はそんなことを簡単に言ってくれるが。
章子にはとても、ただ「立っているだけの簡単なお仕事」で済むとは到底、思えない。
「重要な話はどうせ私ではないと進まないのですから、あなた方には楽にしていてもらえればいいのですよ。
なんなら、向こうへの自己紹介が終わり次第、彼らと私の話が終わるまでこの施設を見学していてもらってもいい」
「え、本当に?」
「はい。
ですから少しだけ辛抱してください。
昇にも重ね重ねお願い申し上げます」
向き直って深々と頭を下げる真理には、昇も頷くしかない。
「……はい。
わかりました」
渋々といった表情で返事をする。
真理も大きく頷いて上階を見た。
「では向かいましょう。
辿り着くべき場所はもうすぐ、そこです」
上った螺旋回り階段から一度、平坦な踊り場に出て、さらに次の階段を上る。
上った階段から辿り出た場所の二階は、やはり一階と同じ暗がりの廊下が横から奥へ続いている階層だった。
そこを真理は間髪入れずに、右手の廊下の奥を目指して歩き出す。
進んでいくと廊下の幅が徐々に広がりだしていた。
最初は学校の廊下ほどだったのが、今では
廊下の幅は既に母校の体育館の幅まである。
その先に見えてきたのは大きな扉だった。
観音開きになるだろう、体育館の舞台の上から垂れ下がる緞帳よりも大きく高い巨大な扉。
そびえ建つ壁の広間のT字路にその大扉は立ち塞がっていた。
廊下を照らす壁に備え付けられた照明の
それがまたこの荘厳さを醸し出していた。
「これをくぐるの?」
「……本気で……?」
章子も昇も双方同じように震えあがっている。
ラスボスの待ち受けていそうな大扉がそこにはあるからだ。
それを前にして、章子は隣で体の芯まで怯え切って見せている昇に、もう少ししっかりしてくれと切に願うところがあった。
今の昇は本当に頼りない。
ガクガク、ブルブルと手も足も体も小刻みに震わせている。
さすがに失禁まではしていないようだったが、それでもその有り様は、無様の一言に尽きるものだった。
完全に小動物のそれである。
せめて男の子なのだから、か弱い女の子である章子をなにがなんでも守るぞ、という気概ぐらいは見せてほしかった。
しかし、ここで章子の身を守護する者は昇ではない。
その者は先陣を切って、身の丈の十数倍もある門扉の前に立っていた。
「開けますよ。
心の準備をお願いします」
大扉の真ん中に手を添えて、真理は優しい力だけで巨大な扉を押し開ける。
重苦しい音を立てて開かれていく大扉の先に見えてきたのは礼拝堂のような内部空間だった。
その最奥には祭壇のような場所がある。
祭壇はやはり十段程上がった先の所にあり。
その祭壇と章子たちの間には、地球の教会のような長椅子が両脇から祭壇へ向かって並べられている。
高い場所にある窓からは、ステンドグラスの三原色の光が暗がりの広間に不釣り合いな明かりを届けていた。
そんな礼拝堂の長椅子と長椅子の間の通路を通って、真理は章子たちを伴い祭壇へと近づいて行った。
「お待たせしました。
リ・クァミス中央学術学会院、最高学領。
シュアキ・マセリ首老。
母からの知らせには目を通して頂けたでしょうか?」
言いながら真理は祭壇に続く階段の前で立ち止まる。
視線の先には祭壇と燭台の向こうにある豪奢な
その背面の背凭れがクルリと向き直って正面を向く。
「拝見させていただきましたよ。
我らが神の、
神の取り計らいを受け入れ、いま我々は、そなたたちを歓迎しましょう」
椅子に腰かけていたのは初老の女だった。
柔らかい眉根と皺がれた口元、顎の輪郭の丸い、慈愛に満ちた視線でにこやかな顔をむける丸背の老人。
あずき色の布を修道士のように頭から被り、
その老婆は祭壇の台に両肘をついて真理を見下ろしている。
「我が母は、神などでは無い。
そのことだけは強く、特に
なので、これからは母を特別視、ならびに神聖視する必要は全くないと忠告しておきましょう。
学領」
早くもケンカ腰の真理に、学領と呼ばれた祭壇の老人も眉根を顰めた。
「はて?
この世界、惑星を創ったあなたの母君と私は面識がおありで?」
年端もいかぬ娘に向けるべきでない眼光に、しかし真理も意に介さない。
「その事に関しては、私は関知しておりません。
推測の域では「ある」と私は視ていますが、母はそんなことを近親者でさえ洩らすような人物ではない」
「人物?
……人間とおっしゃる?
我が世界を、これほどの未来にこれほどまでの完成度で喚び出した存在が?」
「その通りです。
我が母は怒りも、笑いもする人間です。
だからこそ母は、あなたと面と向かい会話を交わすことをここまで恐れ、こうやって不敬にも私という代理をあなたに寄越した」
「なるほど。
神は私を畏れている、と」
ほつほつと笑う老婆に、それでも真理は表情を変えない。
「怖れているのなら、わざわざ私まで
急に優しくなった目は教鞭を執る者、特有の目だ。
章子はその目を持つ人物を今までの学校生活で何人か知っている。
この老人も章子が尊敬を抱いてきた教師たちと同様、智にも心にも秀でた人間なのだろう。
その所作が所々で垣間見える。
「では、先だっての母の願い通り、
私の後に続くこの二人の身元の受け皿となることをお願いしたい」
「断る、と言ったら?」
「あなた方は我が母ゴウベンの力が持つ、真の
それだけです」
「おやおや。
それは困りましたねぇ……」
真剣な眼差しと眼差しがぶつかり合う空間。
その隣から、章子と昇は内心、生きた心地がしないまま両者の行方を案配する。
「では保証すれば、ご教授下さると?
それだけで終わりなのですか?」
「無論、他にもあれば考慮に値します。
望みがあれば主張してください。
この二名の保護に相当するだけの価値圏内でなら、やぶさかなく報いりましょう」
「なるほど」
反芻するようにコクコクと頷き、老婆は納得した顔を厳重に浮かべる。
「合い分かりました。
後ろの二人の身元は今後、このリ・クァミスが預かることに決定いたします。
それはこのリ・クァミス最高学府学会議長でもある私が保証するので心配は無用。
議会にも既に話は通してある。
私の
「え?」
「国民?」
突然の事態の方向性からは、嫌な予感しか感じられない。
地球から来た二人は突然の所属国の転籍の話に困惑する。
「厚いご配慮、感謝いたします。
学領」
しかしそんな二人の心配もよそに、章子たちの身分けを勝手に決める当人たち。
「ちょっと、
わたし国民なんてっ……」
「大丈夫です。
章子。
これから先はその方が、都合がいい」
「ええっ?」
「いー……っ?」
勝手な身の振り話を進めらて、章子も昇も叫び呆然自失となる。
しかし、その様子をこの施設の最高責任者だけは見逃さなかった。
「その子らが現在の?」
「ええ。
向こうの地球の子供たちです」
「そうですか……。
その子たちが……」
まるで慈悲に満ち溢れる目だ。
その目を見れば、章子たちは何も悪事を働いたわけでも無いのに窘められている気分になる。
どうするか、
章子は何をしたわけでも無いのにバツが悪そうに思案した。
いまは何かこの老婆と会話をした方がいいのだろうか。
章子の視線が、真理と学領と呼ばれる老婆、二人の姿をいったり来たりしていると、見かねた真理が声を掛けてきた。
「そんなにオドオドしなくても大丈夫ですよ。
話は終わりました。
どうぞ外にでも出て、この施設を見学してきて下さい。
「ほ?」
真理の戯言に老婆の目の色が変わる。
「今、屋上に行けば待ち人もいますし。
その人物に会うのも一興でしょう。
きっとこの学院を案内してくれる」
「ほぉぉ?」
重ねた皺で足れる鼻緒を丸くさせた口が狭まる。
「我が学院の首席をご存知あげている?」
墨をあげそうなほど意外だという顔をする老婆に真理も笑みで返して見せた。
「ええ。
彼女もまた、後ろの二人にとってはかけがえのない出会いとなりますから……」
その答えは、それが当然だという意思に満ち満ちていた。
「なるほど、
なるほど。
彼女をお目に掛けるとは、あなた方も隅に置けない。
しかし、そこまでの勝手まで許した憶えはありませんよ。
我が国の庇護を求める以上。
これ以降の行動には制約を課させていただきます」
老婆は笑っているがその笑顔からは冷度さえ感じる冷たさがあった。
「ほら、早く行ってください」
「でも真理……」
肘で
とてもではないがここでは立場上、勝手な行動はしないほうがいいと章子の直感は全力で訴えている。
そんなことが出来る空気ではないのだ。
「大丈夫ですよ。
行ってください。
これから彼らとする話では。
あなた方がここに居られると進行的意味合いに置いて都合が悪いし、邪魔なだけです」
「そうは言うけど……」
「やすやすと通すとお思いか?」
拝堂の壁際、
老婆の挙手で、バシリカ風の両側の側廊の列柱の間から今まで隠れていた人影が一斉に現れ出す。
「ちょ、
ちょっと真理!」
「大丈夫です。
行ってください」
「……でも」
「
人員の差は、二十倍はあるだろうに、それでも真理の顔からは、こんな緊迫した状況でも動じた色は見てとれない。
現に今の今まで、出入り口の大扉は開けっぴろげであるのだ。
通常この状況ならすぐに閉まるか、この学院の関係者が雪崩打つように応援に入ってきて退路を断つのが常道だろう。
しかしそれがいつまでたっても起きはしない。
「手荒な真似はしたくありませんでしたが……」
「同感です」
「致し方ありませんね……」
老婆のため息が混じる声で、左右両側の壁から間を詰めだす人影がにじり寄ってくる。
「走ってっ!」
「もうっ、知らないからっ!」
そしてこれ以上の展開に付いていけない昇を見る。
「半野木くんっ!」
「えっ?
えっ?
えっ?」
列柱から飛びかかる人影と同時に奔りだした章子が立ち往生する昇を激呼し、二人して大扉の下まで一目散に走った。
背後では何が起こっているか分からない。
そんな事を気にする余裕もなく、がむしゃらに走り、何事も無く無事、礼拝堂から出る事に成功すると。
直ぐに門扉が閉じられた。
あれだけ手で押してもビクともしなさそうだった鈍重な扉が信じられない速さで今ではガッチリと入り口を塞いでいる。
しかしその後が気になる章子は、息の上がる膝を押して閉じられた扉の傍へ寄っていくと、耳を当ててそばだててみた。
扉の内部では音らしい音が聴こえてこない。
それが不気味にさえ思えるほど静かだった。
結局何も起こらなかったのだろうか?
だがあの老婆の剣幕は本物だった。
間違いなくあの不遜な態度の真理が老婆の怒りを買ったのは疑いようがない。
それでも扉の向こうからは何の音沙汰も聴こえてこない。
完全に無しの飛礫だった。
仕方なく諦めて、
扉から耳を離し、途方に暮れていると昇がこちらを見ているのが分かった。
凄く何かを言いたそうな顔をしている。
何が言いたいのかは章子にも予想はついた。
だから昇とも目を合わせず、距離だけ近づいていく。
「……いつも、こんなことやってるの?」
「そうよ。
まいっちゃうでしょ?」
これが真理と一緒に行動していると、最終的に陥る顛末だ。
お約束と云ってもいい。
あの少女は常に回りの事など考えずに行動してくれる。
地球で出会った頃は、いつも真理のペースに振り回され続けてきたのが章子だった。
今回は昇もいるぶん、幾分かはマシだったが、それでももはや愛想をつかしても誰も文句は言わないだろう。
章子もそろそろ本気で真理を見限ってもいいほどの仕打ちを受けているのだから。
「扉、開かないね」
章子がそんな事を考えていると、
閉ざされた大扉を一生懸命、昇が押して開けようとしていた。
章子でさえどんなに押して無理だったのだから、昇では尚更無理だろう。
章子もそれを認めて宙を仰ぐ。
「これからどうしよっか……」
思い返してみると、真理はまだあの老婆と話があると言った。
それには章子と昇の存在はジャマだと言って。
これ以上の密談でどんな会話や交渉が勝手に進められるのか、考えるだけで恐ろしいが、そんな事を言っても始まらない。
いま、章子に出来ることは二つだけ。
このまま、この学校のような建物をそのままの意味通りに見学するか。
それとも別れ際の真理の提案通り、屋上に行ってそこにいるという誰かと会うか。
「半野木くんはどうする?」
昇も同じことを考えていたのか、うーんと悩んでから章子に向く。
「取りあえず屋上かな。
ここで見学してても完全に不審者だよ。
今のぼくたち」
章子もそれには同意見だった。
この施設を見学したい気持ちは強いが。
今の立ち位置上ではそれは非常に危険なことに思えた。
いつどこで追っ手に掴まるか分からない。
むしろ、無事に屋上に辿り着けるかどうかさえも怪しい。
章子たちの前途は多難に思えた。
「とにかく行こうか」
「うん」
このまま立ち止まっていても埒が明かないので、歩き出す。
歩いていれば幾分気が紛れる。
まったくこの世界に来てから気の休まる時が片時もない。
今度はどうにか落ち着ける場所がありますように。
章子はこの惑星を創った神ではない、どこかの神に心の底から願った。
願いながら歩くとさっきまで来た道を戻り、戻った螺旋の階段から、上の階に続く階段を上っていく。
階段も廊下もよく見れば壁や窓の桟などに彫刻や装飾が所せましと施されてあった。
階段に沿った手すりにしたところで、章子の学校の無機的なものではなく、手触りと質感を損なわないように計算されて彫刻、装飾がなされている。
それを見ながら、章子はあることを思いついたので前を行く昇に聞いてみた。
「半野木くんの学校って、屋上に行けた?」
章子の通っていた中学校と昇の通っていた中学校は違う。
二人の学校はともに同じ日本の愛知県は名古屋市内に両方ともあるがその位置と距離は大きく隔たっている。
名古屋市は、やや西寄りの中心に市を北から南へと分断するように名古屋駅があり、そこを境として名古屋の西部と東部がなりたっている政令指定都市である。
章子の住んでいた地域は駅の西側、名古屋の西部にある中山区で。
昇の住んでいた場所は名古屋の東部、東山区だった。
その半野木昇の通っていたという名古屋市立東千枚田中学校。
その中学校では屋上に行けたのかが章子は気になった。
「ううん。
行けなかったよ。
一番上の階段の壁に梯子があったんだけど、その先が直で足場の無いドアに出るから危ないんだ。
だから誰も出たことないんじゃないかな」
ならば章子の中学と同じだろう。
章子の屋上に出られる入り口もそうだった。
最上階からバールを何個も上へ続けたような固定梯子の先。
そこに足場も無く、ありのままに備え付けられている壁の扉。
それには当然鍵がかかっているから出ることが出来ない。
「一回でいいから屋上でご飯とか食べてみたかったよねぇ」
「え……?
ああ。
うん。
まぁ……ね」
中学生のひそやかな夢を共感してもらえると思った章子はだが、
昇のあまり乗り気じゃない返事に眉根を寄せた。
「どうしたの?
屋上とか一回でも出たいとか思わなかった?」
「そうじゃなくて。
これ、本当に屋上に出れるのかな、って思って」
まだ一階分も上がってはいない。
それでも昇の視線の先は、本当に屋上に出れるのかという不安感に駆られたもののようだった。
「そんなの、
上がってみなくちゃわからないでしょ?」
本当にこの階段を上っていけば屋上に辿り着けるかどうかを祈って。
「そうだね」
二人はそれ以降、黙って階段を上り、二度ほど踊り場を通りすぎた所で最上階だと思われる行き止まりの両開きの扉の前に来た。
「屋上かな?」
「っぽいよね。
マンガやアニメに出てくる屋上の入り口ってこういう感じっぽいし」
二人とも屋上に出られる学校に通ったことが無いからこればかりは開けて見るしかわからない。
昇が細長い装飾されたドアノブに手をかけ、扉を押し開ける。
すると外から青い空の風が入り込み、階段の中から下の階へと吹き抜けていく。
「広い」
「でたね……」
そこはやはり屋上だった。
この学院らしき建物の屋上。
白い大理石のような磨かれた地面に焦げ茶色の側面が建物の壁面となって空や周囲の景色から区切っている。
目の届く大理石の彼方には手摺が続く境界線があり、その境界線に目を通していくと……。
いた。
視線の彼方にある手摺の地平線と地平線の中央。
そこにポツンと一つだけ見える人影が目に入った。
「あの人かな……?」
「……かもね」
章子と昇は秋の風を受ける手摺で身を預ける人影に近づいて行く。
すると屋上の敷地の半分を過ぎた所で清々しい青空の下、屋上からの景色を愉しんでいた人影も章子たちの存在に気づいたようだった。
「……誰……?」
向けられた声は透き通って章子たちに届く。
瞬間、章子と昇は足を止めていた。
章子と昇だけで遂に出会った初めての異惑星にいる古代人。
三人の目と目が合うと、途端にその場で釘付けになる。
「あ……」
「あの……」
目の前に立つのは、それは綺麗な少女だった。
黒くてサラサラな腰まで届く長い髪に白い肌。
日本人とそんなに変わらない容姿だが、そこからさらに鮮明的な何かを備えている雰囲気を纏う古代の少女。
そこにはワンピース状の白い無地の法衣のような衣を着た、心を秘めそやかす少女が立っていた。
「見かけない服装……ですね……?」
背後から近づいてきた異惑星からの不審者を認めて、少女は思わず小さく笑って
「え……?」
「あ、その」
途端に金縛りが解けたように自分たちの立ち位置を思い出す現代人の二人。
自分たちと目の前の少女のかけ離れた身なりを再確認し、ここですばやく、自分たちが不審者で無いことを伝えなければならないことを覚醒する。
「あ、あの、
その、
突然で、えっと、
えっと、
あ、
あの、
そう!
は、初めまして。
私は向こうにある第三惑星地球の中にある日本という国の、愛知県名古屋市中山区という所から来ました、
アキコ・サキガワといいますっ!」
よ、よろしくお願いします!
という唐突な章子の深々とした自己紹介に昇も驚愕し、次いで自分も出遅れないように章子に続こうと懸命になる。
「あ、お、同じく、日本の愛知県名古屋市東山区という場所から来ました半野木昇ですす。
よ、よろしくお願いします!」
「え?」
「え」
章子がどこかおかしいと言いたそうな顔をして昇を見る。
だが昇にはその自覚が欠片も無いという所作に至り。
その目と目が思わず合った。
「ん……?」
と考えていると困惑しているのは章子だけではなかったようだ。
「あ、
は、初めまして。
私はオリルです。
オワシマス・オリルといいます。
え、ええと……。
アキコ・サキガワさんにハンノキ……ノボル……さん、でいいのですか?」
目の前の少女は同じ文化圏の人間であることが半ば簡単に予想されるのに、どうしてそこまで名前のニュアンスがかけ離れて違っているのか不可解でならないといった表情だ。
そこで初めて章子は気づいた。
なんという事だ。
記念すべき、最初の新世界で出会った人物に対する自己紹介が、同じ日本人であるはずのアキコと昇で盛大に名前が食い違っている。
今さらそれに思い至った章子は開いた口が塞がらなかった。
だから慌てて、章子の最初の自己紹介に追随しなかった昇を責め立てる。
「な、なんでいま自分の名前を普通に言ったの?
あの流れだったら普通、逆にして言うでしょ?」
「え?
いや……別に……。
ここ地球じゃないし……。
異惑星だし……」
バツ悪く、ツンツンと両手の人差し指の先と先を仲良しエイリアンよろしく、くっつけ合わせながら、見苦しい言い訳を重ねる昇の仕草は全然可愛くない。
どうやら昇の言い分としては、
ここはもはや地球ではないのだから、わざわざ西洋文化に倣うような日本独特の自分の氏名を逆転させた名前など、この場で強いて名乗らなくてもいいだろう。
ということらしかった。
その理屈は章子にも分かる。
分かるが何も章子が名乗った後でそれをしなくてもいいではないか。
章子は章子で、これが日本人の外世界での普通の自己紹介の仕方だと思っていたのだ。
章子の英語の教科書だって、まだそう言っている。
外国で日本人の名前が取り上げられる時だって同じだ。
どこもおかしな所などないではないか。
章子は苦い物でも噛み潰した顔をする。
これでまた、自分たちの存在がややこしくなり、余計な説明が増えて貴重な時間が浪費されていく思うと立ち眩みがする思いだった。
一難去ってまた一難だ。
いや完全に多産な多難だった。
章子は怒る。
怒りに燃える。
取りあえず今、この滾る炎で燃やしたい人間は半野木昇だった。
「だ、
だからって、どうするのっ、
わたしっ自分の名前、逆で言っちゃったじゃないっ。
どうやって説明するのよっ?
これぇっ!」
「い、、
いいじゃない。別に。
どこもおかしくないよ」
いや、どう考えてもおかしいだろう。
この新世界では、自分でも珍妙だと思う日本独特のこの伝統文化がきっと、これではっきりと理解されることは決してないだろうと確実に自覚できる。
しかし昇の顔は実に雄弁だ。
そんなの日本人ならとことん普通の事ですよとでも言いたげな白々しく口笛でも吹きすさぼうとしている小憎たらしい顔を今すぐ引っぱたいてやりたい衝動に駆られる。
しかし拳を振り上げたい章子のその一心はとっさに気持ちを切り替えて、少女オリルに向き直った。
汚名挽回に望んだのだ。
「ち、違いますっ。
私の名前は本当は咲川なんです!
咲川章子っ。
それがわたしの本当の名前で……っ!
いや、
本当の名前の呼び方でっ!」
「は、はあ……」
あーもう!と慌てて弁解する章子に、少女は気持ち微笑んだまま困惑した色を消すことができずにいる。
それは当然の結果といえた。
汚名は挽回するものではなく返上するものである。
挽回できるものは名誉だけでしかなく、自身の間違えた名前などでは決してない。
この完全無欠なる四文字熟語の意味の前では、一度自ら名乗ってしまった汚名などは挽回できるどころか返上することさえ叶わないのだ。
それが自身の名前であるならば殊更である。
自身が誤って名乗ってしまった誤名など返上しようにも返上する場がないのだから。
一体どこに返上できる余地があるというのか、実際にあるものならば知りたいものではなかろうか。
もし仮に出来るというのなら、それは挽回以外に在り得ないのである。
だからそれをニヤリと勝手知ったる日本人の少年、昇は追い打ちをかけた。
「まあ、アキコ・サキガワって呼ぶときや呼ばれる時もままありますけどねぇ」
「半野木くんっ!」
間違ってはいない。
間違ってはいないが、今は明らかに間違っているその言葉を責める。
「ふ、
ふふふ、
仲がいいんですね」
クスクスと笑う過去の地球で最初に栄えた文明に生きる少女、オリルのその横顔。
その横顔を見た時。
章子も昇もこの少女の面影がどこか、知っている誰かの顔に似ていることに思い至った。
それはついさっきまで一緒にいた少女の顔。
章子と昇に屋上に行けと令じたあのオカッパ頭の少女の面影だった。
そう。
これが、どこか顔の輪郭が真理に似ている最初の少女、オワシマス・オリルとの、
章子と昇、二人の最後の地球人に訪れた、これからの運命を決定づける最初の瞬間の出会いだった。
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