第一世界『密集都市 トーキョー[TOKYO]』 その2
×トリシャ×
「着いたぞ」
僅かに違和感を覚えるケイの声が聞こえたかと思うと、トリシャの全身にまとわりつくような空気が触れた。一瞬で脳を溢れ返した情報の波に、一瞬立ちくらみを覚える。
それをぐっとこらえて、トリシャはゆっくりと目を開けた。
すると、そこには。
「……人……」
人が居た。見渡す限り人、人、人。本で見たことのある『ビル』という高層建築物の間に設けられた道を、人や自動車が行きかっている。服装はトリシャもよく知るもので、スーツやシャツ、スカートなど。気温に合わせてか、半袖が多いが、長袖を着ている人も居た。
空を見上げると、薄雲の間から緩やかな日差しが覗いていた。外に出たことがないから季節を判断することは出来なかったが、快適さからトリシャは春か秋のどちらかではないだろうかと思った。
と、そこまで周囲を観察して、ようやくケイのことを思いだす。手に杖はない。ならばどこに行ったのかと視線を巡らすと。
「なにきょろきょろしてんだ」
隣に立っていた男が不意に話しかけてきて、目を丸くする。
男はジーンズにシャツ、そしてベストといういでたちで、年は二十歳くらいの青年に見えた。だが、その声に聞き覚えがある。はっきりとした肉声であるため、違和感はあるものの。
「ケイ、ですか?」
「ああ。流石に蛇のまんまじゃ怪しいんでな。人間の姿にならせてもらった」
どうやらそういうことらしかった。ほえー、と感心したような呆れたような声を出しながらケイの全身を眺めてから、トリシャは自分の格好にも気づく。
いつの間にか、寝間着ではなくなっていた。半袖のシャツに、デニムのホットパンツ、黒いソックスと、茶色い安全ブーツに、どこかローブのようにも見えるやや裾の長い長袖のパーカー。腰にはやや大きめのポーチがつけられている。
「お気に召したかな、メギストス。体温とかについてはオレが環境に合わせてどうにでもできるんでな。動きやすさ優先で繕わせてもらったぜ」
「うん……うん! いいです、好きです、これ!」
「なによりだ」
裾を持ち上げたりして、その場で自分の格好を確認し悦に浸る。周囲の人間が時折好奇の視線を向けるが、部屋から出たばかりのトリシャには、そんなものを気にする神経は存在しない。
そういう反応をされるなら、ここはそういう世界。トリシャにとって周囲の人間はそれだけのことで、己の振る舞いを変えるに足るものではないのだ。
「ところで、さっきから一歩も歩いてないが、いい加減ちょっと歩いてみたらどうだ? 立っていられるなら歩けるだろ」
「そ、そうですね。実は流石にちょっと怖くて……立っているのも未だに不思議な感じなので」
「多少ふらつくかもしれないが、歩けないことはないはずだぜ。コケそうになったら支えてやるから、少し歩いてみろ」
「わかりました」
頷いて、一呼吸置いてから、ゆっくりと足を意識して一歩を踏み出す。
上げて、前に出して、地面に再び接触。続いて、反対も同じように。
ぎこちなくも一歩、わずか二十センチほどの一歩を歩んだトリシャは、信じられないものを見る目を地面に、己の足に向けた。
「ある、けました」
「そりゃそうだろ。オレの作った足だからな」
「車いすより視点が高いです」
「むしろ低かったらおかしいだろ」
「……地面って、こんなに……反動のあるものなんですね」
何度かその場で軽く足踏みをする。硬いコンクリートはトリシャの軽い体重による反動を全身に返してきて、強く自分の存在を感じた。今までの自分の生よりも、はるかに重く、自分が自分に刻み込まれていく。
それに、自然と涙が漏れそうになった。けど、堪える。
……嬉しいのなら笑うべきです。
きっとこれからこんなに嬉しいことがたくさんあるだろうという予感があるから。だから泣いていたらきりがない。
「ふふっ……ふふふふふ……」
だから代わりにトリシャは笑って、くるりくるりとその場でステップを踏んだ。その様子を、ケイは呆れたように眺めている。
「人にぶつかるなよー」
「はーい」
のんびりと答えて、トリシャはステップを止めた。浮足立った心は軽く、顔の緩みが収まらない。流石に少しだらしがないと頬を揉むが、あまり効果はみられなかった。
「まずはオレが毎度呼び出している『便利な世界』で肩慣らしだ。適当に観光するぞ。歩くのにも慣れないとこの先大変だからな」
「わかりました。ちなみにここは……日本、ですよね?」
周囲の看板などから判断してトリシャが言うと、ケイはにやりと笑った。
「さて、どうだろうな? それはお前が確かめろよ。自分で歩いて、自分で見て。教えられても面白くないだろ?」
「それは……そうですね。すいません、聞いちゃって」
「気にするな。さて、それじゃ行こうかメギストス。旅の始まりだ! ……ここにゃ大したものはないがな」
「私にとっては大したものばかりです」
言いながら、並んでゆっくりと歩き始める。トリシャは自動車すら見たことがなかったので街にあるもの全てが珍しく、その視線は一点に定まることなく、前後左右といろんな方向に絶え間なく移動した。
ビル。高い。看板がいっぱいついてたりする。実用的で簡素なものというイメージがあったが、無駄な装飾などがつけられたりしていて意外と派手。
道路。広い。自動車がたくさん走っている。なにか特定の規則を守って走っているようだが、トリシャにはよくわからない。時速は50キロ前後というところか。何故事故が起こらないのか、不思議でならなかった。
そして、人――改めて感じるが、多い。
歩いていると、ふとした瞬間にぶつかりそうになる。二人以上で歩いていると会話をしていたりするようだが、一人でもなにか機械と会話をしていたりするようだ。他には、イヤホンを使って音楽を聞いている人間も居る。
中でも、トリシャが不思議だったのは、薄い板のようなものに触れている人間たちだった。
それで会話しているところを見ると携帯電話の発展形のようなものなのは分かったが、トリシャの知識では携帯電話には物理キーしか搭載されていない。
ついつい薄い板を持っている人間が通りかかるたびに目で追っていると、隣を歩いていたケイがその様子に気づいて声をかけてくる。
「スマートフォンがそんなに気になるか?」
「すまー……と? フォン、ということは電話なんですか、やっぱり」
「PDAと電話かけあわせたもん、って考えれば大体あってる。OSは専用のものだけどな」
PDA――個人情報端末――と言われて納得する。トリシャの世界にも、スマートフォンなるものは存在しなかったがPDAは存在した。スマートフォンと似たような姿形だが、大して普及はしていないとトリシャの読んだ本には載っていた。
トリシャ自身もPDAの実物は見たことが無く、父親もPDAよりも小型のノートパソコンの方が使えると言っていたのを思い出す。
「微妙に発展の仕方が違うみたいですね」
「別の世界だからな」
当然だ、と頷くケイにトリシャも浅く頷き返す。似ているのにちょっと違う、というのはなかなか不思議な感覚だったが、既にここは異世界なのだと考えればそう違和感はない。
むしろ興味が勝る。
具体的には、スマートフォンとやらに触ってみたい。道行く人々の多くがそれに触っているのを見ると、一体どんな魅力が詰まっているのか確かめて見たくなる。
「ちなみに、あれってどこかで買えたりとか……」
「買ってもこの世界を出たら使い物にならないからやめとけ。触りたいならショップに行って実機でもいじってみるか?」
「是非っ」
目を輝かせて何度もうなずくと、ケイは楽しそうに笑いを浮かべた。
そのままトリシャはケイに連れられて、足取りも軽くケータイショップへと向かった。
足取りが軽いということもまた、それが比ゆ的表現だと思っていたトリシャには新鮮な体験だった。
どうやら人間は気分で体の重量が変わるらしい。人体の神秘は感涙もので、浮かれたトリシャはスキップ交じりで歩を進めた。
結果、こけた。
調子に乗ると時折誤作動を起こす――これもまた人体の神秘だと、転んだトリシャは赤くなった鼻を擦りながらも、笑みを絶やさなかった。
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