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夢野言乃葉

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━ガタンゴトン、ガタンゴトン━

単調なリズムを刻んで列車が走る。私は故郷に向かう寝台列車に身を任せウトウトと眠りのふちを彷徨う。

━ガタンゴトン、ガタンゴトン━

帰るのは6年ぶりだ。別に何か目的があって帰るわけじゃない。戦争が終わって色々忙しく、どうにか安定した暮らしができるようになったのでふと訪れてみたくなっただけだ。

━ガタンゴトン、ガタンゴトン━

窓から月の光が差し込んでいる。車両の中はがらんとしていて冷たかった。私以外には4、5人しか乗客はいない。毛布をかぶりなおす。

━ガタンゴトン、ガタンゴトン━

列車が景色を置いていく。目を閉じる。闇に吸い込まれる……。


 私には恋人がいた。同級生の子だった。戦争という苛烈な時間の中で私たちはお互いに何かにひかれあうようにして出会った。海と死の臭いがする町で私たちは一緒に時を刻んだ。自分たちの記憶を、生の証を。少なすぎる時間を生き急ぐように。

 彼はどこか不思議な青年だった。彼は透き通るような時間を過ごすのが好きだった。学校では校庭のはずれにある木の下や屋上、町では公園や海岸に彼はよくいた。そして目に見えない何かを感じ取るようにして目を閉じ耳を澄ましていた。私はちょっと癖の強い髪も凛々しい顔立ちも全部好きだったが、何より好きだったのは彼のそういうところだった気がする。


 早朝、学校に行く前によく二人で海に行った。

 まっさらな砂浜に二つの足跡で平行線を作る。空はまだほんのりオレンジを帯びていて、素足に少しかかる波が冷たく気持ちがいい。いつのまにか制服となった緑と赤の軍服を、風が撫でる。ただ手をつないで黙って歩く。そんな彼との時間は儚くて、切なくて、それでいて幸せだった。


 何度か馬鹿みたいなこともした。

 いつの日だっただろうか。彼が近所の神社の裏にある森の奥に幽霊が出るとかいう噂を聞いて、真夜中に二人で行ったことがある。学校からこっそりくすねた懐中電灯を持って不気味な森の中を歩いた。30分ほど歩いたところで人影らしきものが見え、いよいよ好奇心と恐怖心が最高潮に達した時に

「誰だ!何をしとるか!」

 突然その人影がこちらを向いて叫んだ。びっくりした私と彼は来た道を全力疾走。ものの10分で神社に帰り着いた。ゼェゼェと息を切らしながら座り込み目を合わせる。そして泥だらけになったお互いを見て吹き出してしまった。

「まさか幽霊に叱られるなんてな」

 彼が笑いながら言う。

「びびってたくせに。置いていかれると思った」

「悪い悪い」

 ものすごいスピードで彼が走るので手で引っ張られてるとはいえ正直必死だった。まぁそれ以上に人影の正体が恐ろしかったが。間違いなくあれは厳しいことで有名な教師だった。

「多分顔は見られていないだろ」

「のんきなヤツ」

 そしてまた笑い出す。

 身の回りのいろいろなことを忘れてくだらないことを楽しむのは申し訳ない気もしたが大事なことだった。死と隣り合わせの濃厚な時間を少しでも薄めるために。恐怖に押しつぶされないように。


 18になった年、彼と私は別れた。彼は前線に、私は首都の兵器工場へと駆り出されることになったからだ。

 私達は兵士を連れて行く列車を見たことはあるが連れて帰る列車を見たことはなかった。それでも別れのとき男達はみんな“必ず帰ってくるからな”とか言っていた。すがる様に、自らを奮い立たすように。小さくなっていく列車から大きく手を振るその姿は勇ましく、美しかった。

 彼はというとそんな類のことは一切言わなかった。列車に乗るときお互いがんばろうと声を掛け合っただけだった。彼らしいといえば彼らしく、私は少し笑ってしまった。私の震える手を彼がぎゅっと握り締めた後、列車は出発した。離れていく列車を私はただただ見つめ続けた。あっけない別れ方だった。


 それから2ヶ月ほど経って戦争が終わった後、彼は帰ってこなかった。


━キキィィィィィィ━

はっと目を覚ます。列車が止まる。月がいつの間にか太陽に変わっていた。急いで外を確認する。寝過ごしてないと分かってほっとする。列車が動き出す。

━ガタンゴトン、ガタンゴトン━

首都ではみなかった昔の夢をみるなんてやっぱり感傷的になっているのだろうかとぼんやりと考える。

━ガタンゴトン、ガタンゴトン━

毛布を畳もうとすると少し濡れていた。私は泣いていたのか。自分の涙に白々しさを感じ目を乱暴にこすった。

━ガタンゴトン、ガタンゴトン━

列車が私の生きた町を近づける。見慣れたその風景は私にはどこか他人行儀に見えた。

━キキィィィィィィ━

私は帰ってきた。彼のいない町に。




 家は町を出る少し前に焼けて無くなっていたのでとりあえず宿を探す。秋だというのに潮風は冷たく、コートに身を隠す。ちょうどよさそうな民宿を見つけて町の中心をぶらぶらしていると突然

「キョウコ!?」

 と声をかけられた。周りを見渡すと同級生のハルがいた。

「久しぶり、ハル」

 私が笑うとハルは間にいる人を押しのけ一直線に私の方に走り飛びついてきた。

「ほんとにキョウコだ」

「何よ、ほんとにって」

「だってアンタ何も連絡してこなかったじゃない。てっきり死んだかと思ってたよ」

「ごめん、ごめん」

「生きててよかった」

 そこまで言ってやっとハルは私から離れた。あらためてハルを見る。6年前にあった頼りなさが微塵も感じられない。少し向こう見ずなところは直ってないみたいだが。

「んで、なんでここにいんの?」

「あっちでの生活が安定してきたからなんとなく帰ってきた」

 半ば自分に言い聞かせるように言う。

「ふーん」

 ハルが疑わしげな目を向けてくる。彼女は感情の機微にいつも敏感だった。

「そっちこそなんでここにいるのよ?いつ戻ってきたの?確か北の方に駆り出されてたでしょ」

「戻ったのは4年前だよ。私がいたところはもともとそんな被害を受けなかったし復興も早かったからね。何より親父が心配だった。」

 ハルの父は軍人だったが住民を指揮するという立場のため前線には出ず町に残った。そんな父に自分が必要だと思ったのだろう。

「今ではここの電話会社で働いてるよ。私は無線とか機械関係の部隊だったから」

「なるほどね」

「立ち話もなんだしどっか行こうよ。ちょうど暇してたんだ」

「うん」

 そうしてハルと一緒に町を回ることになった。


 そこら辺にあった喫茶店で腹ごしらえを済ませ、まず学校に向かった。学校が残ってること自体意外だったが、私が町を出た時とほとんど変わっていないことにはもっと驚かされた。向こうに木でできた長方形の校舎が見える。日曜日で誰もいないらしくこっそり入ることにした。校庭を大きく一周する。

「そういえばさ、アレは残ってるの?」

「ちゃんと残ってるよ」

 二人で校舎の裏に回る。たくさんの名前が彫ってある大きな木の板が打ち付けてあった。私達は町を出る前にこの板にみんな名前を彫ったのだった。

「私のはこれ」

 見ると“橘 春”と大きく彫ってある。橘が少しつぶれていたがハルにしてはがんばった方だろう。

「どこら辺に彫ったっけ」

 一番下の列の左端から順に探していくとすぐに私の名前があった。“山崎 響子”。

「アンタ、綺麗に彫ったねぇ」

 ハルが感心しながら言う。我ながらいい出来だ。特に響には努力のあとが見られる。

「まぁアイツには勝てなかったみたいだけどね」

 ではハルが指差す方に目を向けると私の名前の隣に筆で書いたみたいな滑らかな字で“水川 明”と彼の名前が彫ってあった。

「読めればいいのよ、読めれば」

 そう言って私は笑った。彼の名前が隣にあることも思い出せなかった不安を掻き消すように。

 一通り学校を回った後、通学路をたどりつつ、よく皆で行った公園や川を見た。両親の墓参りもした。最後にハルの家で夕食をお世話になってから民宿へと帰った。


 なかなか寝付けず、電気を消したまま窓を開けると湿気を帯びた冷たい風が入ってきた。空には薄い雲が一面にかかっていて朧げに月が浮かび上がっていた。私が酒好きだと聞いてハルの父がくれた焼酎を飲む。

 ハルと町を回っている時、思い出せないことが多かった。いや、思い出さないことが多かった。大事なことは本当なのに引き出すことの出来ない記憶。立ち尽くす自分。少し歯痒くて憂鬱だった。ハルの話を聞いてもどこか知らない記憶に襲われるようで……。

 徐々に酔いが回ってくる。顔に熱を感じる。釈然としない世界。

 多分塗りつぶしてしまったのだろう。記憶を、思い出を。戦争が終わり、教科書を墨で塗りつぶしたように。新しい今を生きるために。そして忘れてしまったのだ向き合い方を……。

 体が芯まで温まってきた。見るとビンが半分ほど空になっている。少し飲みすぎたか。月は相変わらず曖昧さを漂わせていた。

 違う、向き合ってはいたのだ。生き残ってしまったというささやかな義務感から死んだような顔して首都で生活しながら。誰もが戦争を忘れて生きるのに必死だった中でも。私はそんな都合の良い生き方に疑問を持っていたはずだったのに……。

 視界が回り始めた。そろそろ限界だ。フラフラしながら布団に入り、夢のない、それでいて息苦しい眠りについた。




 目を覚ますと頭がまだぼうっとしていた。少し熱っぽい。開けっ放しの窓が目に入りすべてを理解した。アホか私は。明日には帰らねばならないというのに。

 昼まで布団で休むと調子が戻ってきたので朝ごはん兼昼ごはんを近くの食堂で済ませた。今日は何処に行こうと考えているとふっと神社での記憶が頭をよぎった。他に行くべきところはたくさんありそうな気がしたが、なぜか行かなければならないような使命感を感じたので行ってみることにした。


 日に焼けて薄い桃色になってしまった鳥居をくぐる。そのまま社の裏手に回り裏口から出る。少し進むと葉と枝の壁の中に屈んでやっと通れるような小さな穴を見つけた。記憶は確かではなかったが、迷わず入る。抜けると背の高い木々が乱立していた。

 獣道とかそんな類のものはなく、何も目印になりそうなものも無いのに、引き寄せられるようにずんずん進んだ。足が道を知っているみたいだ。鬱蒼とした緑に木漏れ日が降り注ぐ。時折聞こえる動物の鳴き声が静寂を破る。かすかに聞こえる川の音。澄んだ空気。熱で苦しかったが足は少しもペースを落とさない。

 だいぶ奥の方まで来た。もうどれぐらい歩いたか分からない。木も巨大なものが増え、光がさほど入らなくなってきている。濃い、迫るような重圧を感じる。生を拒絶するようなある種の神聖さ。しばらくすると遠くに光が差しているところが見えた。言いようもない焦燥を覚え、走る。

 半径5メートルぐらいのスペースに光が降りていた。上を見ると木の葉の天井にぽっかりと穴が開いていてそこから太陽と真っ青な空が見えた。フワフワと何かが漂っていて光を反射し、煌いている。そして中央にある大きな切り株を見た時一瞬息が止まった。彼が、それが当然のことであるかのように切り株に座っていた。


「久しぶり」

 アキラが手を振りながら言った。軍服を着ている。顔つきや体つきはあまり変わらないように見えたがあれからちゃんと6年の歳月を経てきたみたいだった。

「久しぶり」

 答えながら隣に座る。そこまで驚きはなかった。そういう気がしていた。予感が確信に変わっただけ。何より会えたことの方が素直に嬉しかった。

「綺麗になったな。前から綺麗だったけどさ」

 こんなことを真顔で平気で言えるところは全然変わってない。

「アキラこそなんかたくましくなってるよ」

 “そうか?”とか言いながらアキラが自分の体を見る。おそらく死んでからの記憶はないのだろう。私は襟についた徽章が上等兵のものになっているのに気付いた。

「あれ、なんで上等兵になってるの?学生兵は二等兵だったはずでしょ?」

 アキラもそれに気付いたらしく

「何でだろう?別に昇格した覚えも無いけどな」

 と腕を組んで考え込む。当時よくやっていた仕草だ。そしてぽんっと手をたたき

「分かった。死んだから二階級特進されたんだ。皮肉なもんだぜ」

 と言って笑う。ああ、本当にアキラなんだ。喜びと同時に素朴な疑問もわいてきた。

「それにしてもなんでここにいるの?」

「うーん、俺自身うまく説明できないんだけど……稀に惑星の公転周期やら星の位置やらなんやら色々な要素が重なり合うと強力な力が干渉しあって、世界の法則が乱れて不思議な現象が起こったりするらしい。例えばこんな風に死者が甦ったりとか」

「なにそれ」

「要するに神様のちょっとしたミスだよ。そうめったには起こらないから会えたのは奇跡だな。前回起こったのは1万年前だったらしいし」

 でも会えた。少しでも思い出が残っていたから。好きだったから。

「何にせよ会えてよかったよ」

「私も」

 二人で笑いあう。しばらくするとアキラが真剣な顔になった。私は身構える。

「ちゃんと元気に生活できてるか?」

「できてるよ」

 目が合う。薄く茶色がかった聡明な瞳を見つめる。今逸らしてはいけない。動揺を悟られてしまう。

「ほんとに?」

「うん」

 ちゃんと声を出すのに必死だった。自分のことでアキラに気を使わせるのは情けない気がした。私は生き残ったのだから。束の間の沈黙の後

「ウソつけ」

 アキラが優しく言った。続けて

「分かるんだよ。一緒にいた時間は短くても、お互いを知るには十分だったからな」

 と言う。そして促すように私を見た。

「でも……」

「いいから話せって」

 そう言って笑う。敵わないな。いつもそうだった。私の痛みをアキラは笑顔で受け止めてくれていた。緊張が解けると今度はかえってすんなり本音が出てきた。

「不安だったの。戦争が終わって、みんなが過去を捨てて生きようとする中で、私だけが置いていかれるようで。記憶にしがみついていたから。確かにつらいこともあったけど幸せもあって、その全部が大切で……」

「でも、そのうち思い出さなくなってしまったの。大事にしまってあるのに、引き出すことにためらいを覚えるようになってしまったの。何か進めなくなってしまいそうで。そして忘れてはいないけど手の届かないとこまで離れてしまったの」

 アキラはただじっと耳を傾けていた。だんだんと熱くなる。歯止めが利かなくなる。

「いったい何が正しかったの?私たちはただ振り回されただけ。人がいっぱい死んで、そんなことをたくさん見て、怯えながら生きて。何が残ったって言うの?失っただけじゃないの?生き残っても、何も戻らないという現実を突きつけられただけ。振り返ることすら許されない。じゃあ私って何?いつをどうやって生きてきたの?全て無駄だったって言うの?」

 そこまで言って私は俯いた。すっと涙が出てきた。頭が少しぼんやりするのは風邪のせいだけじゃないな。しばらくしてアキラがゆっくりと口を開いた。

「キョウコはどう思ってるんだ?本当に無駄だったって思ってるのか?俺といた時間もそうでない時間も全部?」

「そんなわけない。でも素直に向き合えないの。私だけが生き残ってしまった……」

 そう、思い出が大切なことも、もう戻らないことも知ってる。振り返るだけじゃ進めないことも分かってる。だけど私だけがのうのうと今を生きるのは許せなかった。そうしている内に私が記憶を置いていってしまったのか、記憶に置いていかれてしまったのか分からなくなった。

「俺はさ、キョウコが生きていてくれただけで嬉しかった」

 アキラが宙を見ながら言った。

「そしてキョウコが過去を忘れないでいてくれているのも嬉しい。でもな、別に無理に向き合う必要はないんじゃないか?」

「それは生き残った側の傲慢でしょう?」

「いや、違う」

 力強くアキラは言った。まるで自分を否定するように。

「死者は残される者に何にもしてやれない。ただ無責任に記憶を押し付けるだけだ。これからを生きるのは自分じゃないのに」

 私は何か声をかけてあげたくなったが言葉が出ない。

「だから思い出は勝手に寄り添うもので向き合ってもらうものじゃないんだ。そんな資格もない。価値もない。今を生きるのはキョウコであって俺じゃないからな」

 アキラが私の目を見つめる。

「でも、だからこそ思い出は、記憶は、生者を励ますものであって欲しいんだよ。キョウコは確かに生きていたし、キョウコが見たものも感じたものも全部本当だったって俺が保証する。キョウコの過去を認めてやる。向き合ってもらえなくていい、置いていかれてしまってもかまわない。忘れなければ、覚えてさえいてくれれば、勝手についていく。必要な時はいつでも背中を押してやる。それくらいしかできないから」

 そう言って笑った。私はさっきとは別の涙を堪える。何かで胸がいっぱいだ。

「キョウコには生きていて欲しい。身勝手だけど、それがただひとつの俺の願いだよ」

 その後はずっと二人とも無言だった。お互いを確かめ合うように手を握る。生死も越えて出会った二人。ちょっとだけ神様に感謝した。

「おっと、そろそろ時間みたいだな」

 アキラが立ち上がる。私も立ち上がって見つめ合う。

「あんまり無茶するなよ」

「うん」

「色々抱え込みすぎるなよ」

「うん」

「もう泣くなよ」

「それは無理」

 私は彼に抱きついた。溜まっていた涙が溢れてくる。うっすらと火薬の匂いがした。アキラがそっと背中に手を回し、さすってくれた。

「じゃあな。がんばれよ。応援してる」

 そう言って離れる。

“うん”

 最後の返事は声にならなかった。アキラの体が透けていく。そしてほとんど見えなくなった後、光の結晶となって消えていった。微笑みながら。


 神社に戻るとまだ3時だった。もう何年も経ったような気がしていた。木陰で一休みし、町をもう一度回ることにした。

 町は昨日とは全く別の景色に見えた。何が変わって何が変わっていないのかもはっきりと分かった。私達がいつ、どこで、どんな風に生きていたのかも鮮明に思い出せた。つらかったことも、楽しかったことも、どれもが私に訴えかけるようで嬉しくて、愛おしくて、めいいっぱい懐かしさを抱きしめた。


 夜になり夕食を済ませ、民宿に帰って休んでいるとひとつだけ行ってない場所に気がついた。体の調子が心配だったがすぐに民宿を出た。

 海へ続く一本道を歩く。数え切れないほど通ってきた道だ。舗装されておらず一歩踏み出すごとに砂利が音を立てる。海へ近づくにつれ周りの植物は姿を消していき、石は細かい砂となっていく。そして最後に2メートルほどの砂の丘を越えると、待ちかねたようにあの頃とまったく変わらない海が姿を現した。

 裸足になって波打ち際まで行った。冷たい波が足にかかる。空には雲はひとつもなく、かわりに大きな満月と無数の星が浮かんでいた。聞こえるのは波の音だけ。吹き抜ける風。澄み渡る空気。静謐な世界。

 “俺たちが生きているのは、今二人でここにいるのは当たり前じゃないんだよ”

 ふっとアキラが独り言のように言った言葉がよみがえってきた。今になって思い返せばアキラは出会った時からずっと気にかけてくれていたのかもしれない。自分が死んだ後の私のことを。アキラは知っていたのだろう。今の大切さを。

 大きく息を吸い込むと潮の香りがあふれた。後ろから仰向けに倒れる。視界の隅から隅まで星が広がる。手を伸ばせば届きそうな気がした。

 服が海水で湿ってくるのを感じる。両手を大きく広げる。全身で世界を、今を感じ取る。熱が上がってくる。早まる動悸。私は生きている。そんな当たり前のことを強く噛み締める。

 頭がうまく働かなくなってきたので帰ることにした。丘の上から振り返った時目に入った一人分の足跡を胸に刻んだ。生まれてきたことに意味があるとかそんな安っぽい言葉を信じるわけじゃないけれど、私の生にも確かに意味はあるのだろう。紡いできた過去がそれを証明してくれる。だから思い出に懐かしさを感じるのだろう。ぼんやりとそう思いつつ砂利道を歩いた。




 翌朝。驚くことに風邪はほとんど治っていた。朝食を手早く済ませ、駅に向かった。やり残したことはもうない。

 駅で待っているとハルが見送りに来てくれた。仕事で忙しいだろうから来なくていいとあれほど言ったのに。

「来ちゃった」

 少しも悪びれる様子もなく言う。

「だろうと思ったよ」

「いやぁちょっと心配だったからさ。でも大丈夫だったみたいだね」

 私は恥ずかしくなって目を逸らした。やっぱりばれていたか。

「なんかあったら連絡してよ。力になってあげるからさ」

「分かった」

 列車がやってきた。ハルが手を出してくる。私はその手を強く握り返した。列車が止まる。

「じゃあがんばってね。時々戻ってきなさいよ」

「ハルこそお父さんに心配かけないようにね」

「それは余計なお世話」

 二人で笑いあう。列車に乗り込もうとしたちょうどその時、真っ白な犬が私の方に走ってきた。首輪に一通の手紙が挟まっている。犬は私の前で止まりじっと見つめてくる。

「私に?」

 手紙を丁寧に取ると犬は満足したようにどこかに駆けていった。

「誰からなの?」

 ハルが不思議そうに聞いてくる。差出人は書いてなかったがこんなことをするのは一人しかいない。

「たぶんアキラだ」

「ええっ、それってどういう意味!?」

「さあね」

 私はそう言いながら列車に乗り込んだ。ハルが“ちょっと待ちなさいよ、キョウコ”とか言っているが笑うだけで何も返事をしなかった。ハルには悪いが次に会うときのお楽しみとしよう。その代わり、絶対また戻ってくるから。

 列車が動き出した。ハルが懸命に手を振るのが見える。私は窓から身を乗り出して手を振り返した。列車がゆっくりと私の生きた町を遠ざける。悲しくはなかった。ハルとはもちろん、アキラともいつでも会える。ただ思い出せば。


 ハルの姿が見えなくなった後、手紙を開けた。そこには滑らかな字でこう書いてあった。


 “ひとつ言い忘れたことがあった”

 “ごめんな ありがとう”


「ふたつになってるよ」

 思わず声が出てしまった。そして今度は口に出さずに言った。“こちらこそ”。いつかこの手紙も懐かしい記憶として思い出されるのだろうか。そんなことを考えながら。

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