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夢野言乃葉
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「なぁ、篠崎よ」
「どうした?牧原よ」
「今日って何かイベントでもあったっけ?やけに皆そわそわしてて気持ち悪いんだが」
牧原がそう言うと、篠崎は自分の弁当に伸ばそうとした箸を止めて笑い出した。二人が弁当を食べているのは教室の端の窓際の席であったが、篠崎のよく通る声を聞いて、ニ三人の生徒が不思議そうに二人の方を振り向いた。昼休みはまだ始まったばかりだというのに、既に机の移動は完了していて教室は男女様々なグループが弁当を広げていた。
「何だよ、何かおかしなこと言ったか?」
「スマンスマン。お前らしいと思ってな。えーと、なんだ。明日はヴァレンタインだ」
「……なるほどな。しっかし、高ニの終わりのいよいよ本格的に受験を意識し始める大事な時期にヴァレンタインで浮かれるなんて、ホント俺たちの学校がどんなんか分かるよな。もう高三になるってのに悩みとかないのかねぇ」
「楽しめることがあっていいじゃねぇか」
「成績トップのお前が言うと何も言い返せないな」
「牧原もいっそはっちゃけちゃえば?誰か貰えそうなヤツいないの?」
「いないいない。今年も見事に0だろうよ」
左手の人差し指と中指で丸を作って笑う牧原の弁当から、ウィンナーを一つ取りながら篠崎が言った。
「一個もーらい。お前もてそうなのになぁ。ルックスも性格も悪くないし、成績だって中の上だし」
「かわりに玉子焼きよこせ。なんかばっさりした感じが嫌なんだと。友達には良いけど恋愛対象としては無理らしい」
玉子焼きを取りやすいように弁当を牧原の方へ向けて、篠崎が言った。
「あー分かる気がする。つっても俺も似たようなもんだけどな。それはそうと今年もやるらしいぞ、藤崎と吉田の手作りチョコ売り上げ勝負」
「お前の母ちゃん玉子焼きうまいな。藤崎とからあげ、今年もやるのか。冴えない男子どもの希望の星だな。去年は昼休み終了十分前に完売したんだっけ?」
「そうそう。あれって結構美味かったらしいな。藤崎と吉田の両方とも」
「結構どころじゃなかったぞ。市販のやけに高いチョコより断然美味かった。値段も妥当だったし」
「お前も買ったのかよ」
「俺にも一応、自分が冴えない男子って自覚はある。ただ、本気で買うつもりは無かったんだけどな。見物するだけ……と、通りかかった所で二人から押し売りされた。寒いな、窓閉めるか」
換気の為に昼休みが始まると同時にクラス委員が開けた窓を、椅子に座ったまま牧原が閉めた。
「んで、ヴァレンタインに女子からチョコを買った感想は?」
「……お金で買えない価値ってやっぱりあるんだねって、高一にして悟りました。なんつーか、寂しさが上乗せされた。まぁ美味しかったからよしとするさ。どうせ貰えないならいっそのこと今年も買おうかな。付き合えよ、篠崎」
「去年までの俺ならな。今年は絶対一個は貰えるんでね」
「そうだった。お前も彼女持ちに仲間入りしたんだった。くそ、春山のチョコ俺にも分けてくれよ、この裏切り者」
「なんとでも言うがいい。唯名のチョコはやらんけどな」
「あーあ、下らないイベントだと割り切れない自分が悔しい。明日が何の日なんて聞くんじゃなかった」
うなだれる牧原を横目に、篠崎は窓の外に目をやった。裏山の木々の緑の中に、ぽつんと一部分桃色になっているのが見える。春が来る前に咲き誇り散ってしまう、裏山に生えるその一本の大きな桜の木を、地元の人達は皆“化け桜”と呼んでいた。風に吹かれ花びらを揺らす化け桜は、まだ二月だというのに既に満開らしかった。
「放課後時間あるか?今日、軽音部休みなんだよ」
「あー、小咲と化学のレポートやらんといかんから無理」
「お前先週もずっと放課後それやってたじゃねぇか」
「しょうがないだろ、三学期ほぼ全ての分なんだから。今週中には終わるだろうけどな。どっか行きたいとこでもあったん?」
「いや、ふと暇つぶしに化け桜見に行こうかと思って」
「確かに綺麗そうだな。ま、今日は無理だ。放課後フルで残らんといかんし。男二人で行くより彼女と行けよ、このリア充」
笑いながらそう言って、牧原は弁当を空にすることに専念し始めた。そんな牧原の様子を見て篠崎もおかずを一つ、口に放り込んだ。
放課後。牧原はゆったりとした足取りで、化学教室に向かっていた。約束の時間を既に数分過ぎてしまっているのに少しも急ごうとしないのは、この三学期の間化学の時間を一緒に過ごして、小咲晴海のことをある程度理解していたからであった。本館と、実験室や家庭科室などがある別館を繋ぐ渡り廊下を歩く。窓からはグラウンドを駆ける生徒達が見えた。その掛け声を聞きながら廊下を通り過ぎ、化学教室に着いたちょうどその時、小咲晴海もやってきた。急いでいた様子は少しも無い小咲に、牧原は言った。
「ジャストタイミングだな」
「ありゃりゃ、ちょっと遅れてくれば先に準備しててくれると思ってたのに」
悪びれる素振りを見せることなく小咲は言った。いつも通り、制服のブレザーを脱ぎ、代わりに紺色のカーディガンを羽織っている。
「そうくると思って俺も遅めに来た」
「ぬぅ、まぁいいや。ちゃちゃっと始めようよ」
そう言って、化学の担当教員である森内が教室の前の棚にあらかじめ隠しておいた鍵を使って、小咲がドアを開けるのに続いて牧原は教室に入った。広々とした部屋に並ぶ、入り口に一番近いテーブルに鞄を置き二人は椅子に腰掛けた。木製の古い椅子が、ぎぃと軋んだ音を教室に響かせる。
「牧原君は昨日渡したメモのやつ準備して」
「了解」
小咲から貰っていた紙切れを鞄から取り出し、牧原は薬品の陳列された棚に向かった。実験はほぼ全て小咲任せで、牧原はその指示に従うだけというのがここ一週間の流れだった。牧原は別段その役割分担に不満は無く、小咲が計画する、普通はやらないようなやや危険を伴うレベルの実験に付き合えることをむしろ楽しんでいた。薬品を選別して木箱に入れ、テーブルへと運んだ時、既に小咲は実験装置を組み上げ終わっていた。牧原がその手際のよさに感心していると、肩にかかる位の長さの髪を、邪魔にならないよう耳の後ろにやりながら小咲は言った。
「遅い」
「悪い悪い。んで、お次は?」
「これとこれの1.0mol/Lの水溶液作って、フラスコに100ml取って」
「あいよ」
最初は何をするにもぎこちなかった牧原だが、実験を重ねるにつれ慣れてきたせいか、今では大抵の作業はそんなに意識しなくても身体が勝手に動く程にまでなっていた。小咲の必要最低限の指示通りにてきぱきと作業をこなしていく。下準備が終わり小咲が実験を始めると、ほとんどやることの無くなった牧原は椅子に座りテーブルに寄りかかった。
「今日は何作ってんの?」
「爆弾」
「は?」
「だから爆弾だって。ちなみに火の使い方間違えると私も君も仲良く木っ端微塵だから」
「はぁー。森内もよく何も言わないよな。小咲が何してるのか大方分かってるんだろ、あのおっさん」
「失敗しないって信頼してるんでしょ。もしくは何が起きても責任取れる自信があるのか。ま、先生のことなんて私には何も関係ないけどね。怪我するのは自分なんだし」
「あっさりしてんなぁ」
呆れながらそう言う牧原を見向きもせずに小咲は作業を進める。
「それはそうと今日のお菓子はなんでございましょう?」
「俺もそんなに暇じゃないんだけどな」
「そんなこと言って結局作ってきてるんでしょ?料理屋の息子は」
「そのふてぶてしさ、見習いたいくらいだ。ほら、今日はクッキーだ」
牧原は鞄の中から朝に焼いて袋詰めにしたクッキーを、隣に立って実験をしている小咲の前に置いた。開いた袋の口から漂う甘い匂いを大きく吸って、小咲は満足そうに微笑んだ。
「うーん、いい匂い。これは絶対に美味しいね」
「食べる前からハードル上げんな。口に合わなかったらどうすんだ」
「いやいや、君のお菓子不味かったことないから大丈夫だって」
「それは褒められてるのか……ちょっとジュース買ってくる」
「うい」
教室を出る自分を尻目に実験を続ける小咲をちらりと見て、牧原は教室を出た。冬も終わりに近づいてはいるものの、二月の空気はまだ冷たく、時折通り抜ける隙間風が寒い。ポケットに手を入れて長い廊下を歩き、購買部の前の、自販機の並ぶところまで辿り着くと同級生である吉田がいた。
「お、牧原君」
「からあげか。どうした?今日は軽音部休みだろ?」
「あ~、ちょっとね。進路で担任と相談があって、今帰るとこ。牧原君は?」
「小咲と実験」
「なるほど。それでちょっとジュースでも飲んで休憩と」
「いや、小咲は実験継続中だ。単に俺が必要ないだけ」
吉田が先にジュースを買うのを待って、牧原は自販機に小銭を入れた。乾いた音を立てて硬貨が中へ吸い込まれ、ちゃんと入れた分の金額が表示されるのを確認してから、ちかちかと点滅するボタンを押す。学校に一つしかないこの自販機は、生徒達の度重なる乱暴な扱いによっていつも調子が悪く、機嫌が悪いときには千円札を吸い込んで吐き出さないことすらあるのだった。温かいペットボトルのお茶と冷たいファンタグレープが大袈裟な音を立てて落ちてくる。
「俺、何かおかしいことした?」
出てきたジュースの缶を取り出している自分を見つめる吉田の視線に気付いた牧原が言った。牧原の右手に握られたファンタグレープを見ながら吉田は言った。
「いや、何にも」
「何だそりゃ」
「ふふ、気にしないで。そんじゃ」
そう言って手を振り校門の方へと駆けていく吉田を見送り、牧原は教室に戻った。実験の大事なところは大体終えたらしく、小咲は椅子に座ってクッキーの袋に手を突っ込んでいた。隣に座りファンタグレープを渡すと、小咲はお礼も無しに缶を開けながら言った。
「ここで何にも頼んでないのに私の好きなファンタグレープを買ってくるのが君らしいね」
自分の分のペットボトルのお茶を開けながら、牧原は答えた。
「千円札崩したかったからな。ついでに買ってきただけ」
「嘘。君はあの自販機に紙幣を入れるようなタイプじゃない。ていうか私がこれが好きだって何で分かったの?」
「千円しかなかったって言うべきだったな……前に小咲がファンタ飲みながらからあげと歩くのを見たからな。このクソ寒い時期に冷たい炭酸だったから印象に残ってた」
「なるほどね。さりげなく人をよく見てる。ほんと君らしいや」
納得したように小咲はジュースを一口飲んだ。牧原もお茶に口をつける。
「実験は?成功したのか?」
「まだまだ。変化するのを待たなきゃいけないだけ」
そう言って、小咲は机の隅にあった実験用の薄い紙を数枚取って適当に重ね、その上に袋の中にあったクッキーを広げた。
「実験紙を皿代わりとか、森内が見たら発狂しそうだ」
「いーのいーの。どうせ余ってるんだし」
呆れながらも早速自分の作ったクッキーに手をつける牧原。放課後のちょうどお腹が空いてくる時間なのもあってか、一枚目を食べ終えるとすぐに二枚目に手が伸びる。我ながら上手に焼けたと感心しながら食べ続けていると、小咲がクッキーを頬張りながら言った。
「うーむ、おいしいな。店で出せばいいのに。君のところ色んなもの扱ってるでしょ」
「ウチは確かに食堂とか言って色んなもん出してるけど、さすがにクッキーは無理だな。ていうか作るの結構めんどくさいし、利益が出ない」
「ふむ。そういう視点で考えるのか。中々おもしろいね。自営業ってのも大変そうだなぁ」
「ま、親父達は楽しそうだからいいよ。ところで、この毎年恒例の二年の三学期の化学の自由課題、何で俺と組んだんだ?」
「質問する時は自分からってね。君はどうして私と組んだの?」
目の前に並んだビーカーをしっかりと観察ながらそう問い返す小咲に、牧原はしばらく考え込んでから答えた。
「うーん、率直に言うと楽そうだと思ったからかな。成績が良くて、ある程度任せっきりでもあまり口うるさく無さそうなヤツを探してたら、小咲と目が合って、コイツだって思った」
「私と一緒か。私もなぁなぁで終わらせても大丈夫そうな人探してたら君と目が合っちゃって、君を選んだの」
大きく伸びをして、牧原は机に寄りかかった。実験のためか、表面に特殊な加工がされてある机はひんやりと冷たい。
「まさかお前が俺より適当なヤツだとは思ってなかったけどな。授業が始まるや否や屋上行って寝始めるわ、学校抜け出すわ、やりたい放題しやがって。実験なんて一つもしなかった結果がこれだよ」
「でも何だかんだ言って、君も一緒にサボってたじゃない。それにずっと遊んでたわけじゃないし。君の苦手な数学と英語教えてあげたのは誰なのかなぁ?」
「悔しいが何も言い返せない」
「まぁ、私は君と組んで良かったって思ってるけどね。美味しいお菓子にもありつけるし」
そう言うと小咲はクッキーを丸ごと一枚、口に放り込んだ。そのまま口をもごもごさせ続ける小咲の様子を眺めながら、牧原は言った。、
「お菓子ねぇ……そういや、明日何の日か知ってるか?」
「……ポッキーの日」
「あれは十一月十一日だろ。明日はヴァレンタインだ。小咲も俺と同じくらいああいうのに疎いみたいだな」
「女の子から告白するなんて邪道だね。そういうのは男からさせないと」
「男らしいな……っていうのは褒め言葉になってないか」
窓の外に目をやると、沈みかけた夕日が裏山を真っ赤に染めていた。青と赤が混ざり合った空に、ちぎれた雲がところどころ浮かんでいる。小咲はというと一際目立つ化け桜を見つめていた。
「君はチョコレート貰ったりしないの?」
「残念ながら。なんか誰に対してもあっさりしてるのが駄目らしい」
「なるほどね。確かに分かる気がする」
「自分に何が求められているのかは分かってるんだよ。でも、俺からするとそれは別に必要ないだろって思っちゃうんだよな」
「空気が読めないんじゃない、空気を読まないだけだと」
「そういうこと。自分に正直なだけなんだけどなぁ。女子の価値観を理解は出来るけど受け入れられない」
「ふふ、君らしいね。牧原君はやっぱり面白いなぁ」
「うぅ、面白がるんじゃなくて、せめて同情してくれ」
小咲は笑いながら大きく伸びをして、うなだれる牧原に言った。
「そうだ、今日化け桜見に行かない?」
「最近、化け桜流行ってんのか?篠崎にも誘われたぞ」
「いや、今夜は満月で晴天だから綺麗そうだなって思っただけ。どうせ暇でしょ?見に行こうよ」
「どうせとか言うな。そうだな……バイト終わってからで大丈夫ならいいぞ。十時に終わる」
「コンビニのバイトだっけ?オッケー。じゃ、十時二十分に高丘バス停前集合で」
「了解」
これまで授業をサボって学校を抜け出したりする時に見せていた、小咲の普段はしない無邪気な顔を横から眺めながら、牧原はクッキーに手を伸ばした。
「ていうか大丈夫なのか?そんな遅くに外出して」
「大丈夫大丈夫。ウチは放任主義だから」
「子が子だけに親も親か。おっと、何か泡が出てるぞ」
一番右端のフラスコを指差すと、小咲は立ち上がって言った。
「ようし、ここからが本番だ。君にも手伝ってもらうからね」
「任しとき」
その後も実験は続き、いつも通り下校時間を三十分オーバーしての下校となった。自転車置き場に申し訳無さそうに一つだけ残っている自分のママチャリを回収し、二人で校門に向かう。時刻は七時を回っていて、陽はとうに落ち、道に沿って真っ暗な闇の中に電灯がぼんやりと浮かび上がっていた。
「それじゃ、よろしく」
「落ちるなよ」
後ろの荷台に小咲が横向きにしっかり座るのを確認してから、牧原はペダルを力を入れてこいだ。数回ペダルを回すと、勢いに乗った自転車はそのまま何もしなくても坂を下り始めた。重いハンドルを握り締めながら牧原は言った。
「それにしても小咲って、何と言うか自由だな。思いつきで動くというか。悩みとかないのか?」
「いいじゃん、楽しいんだから。それに、こうしてのんびり適当に好きなこと出来るのも、今の内だけなのかもしれないし」
「それもそうだな」
身体が風を切っていく。冷たい空気に広がる髪。後ろではしゃぐ小咲を尻目に、牧原は片手でマフラーを締めなおした。坂を下り終わり、住宅街に出たところで二人は別れた。
「ただいまー」
店の入り口の横にある細い階段を上がり、居住スペースとなっている二階の簡素なドアを開けると、甘い匂いが漂ってきた。
「お帰り、お兄ちゃん」
玄関までわざわざ出迎えに来た、中学二年生の妹である千広に、靴を脱ぎながら牧原は訊ねた。
「ただいま千広。何か作ってんのか?」
「うん、冬ちゃんと一緒に夏ちゃんにチョコレートの作り方教えてもらってるの」
「なるほど、藤崎姉妹が来ているわけか」
エプロンをした千広と一緒にリビングに入ると、食卓の椅子に座ったままで藤崎夏美が声をかけてきた。いつもの制服姿ではなく、ジャージにパーカーというラフな格好が家の雰囲気にとけ込んでいて、牧原は思わず笑いそうになった。
「おかえり。千広ちゃんに呼ばれて来ちゃった」
「今年もからあげと勝負するんだって?」
「去年は個数だったけど、今年は売り上げで勝負だからね。負けられないよ」
千広がキッチンの方へと戻ると、入れ替わるように藤崎冬子が作業を止めて振り返りながら言った。
「お邪魔させてもらっています。康平さん」
「久しぶり冬ちゃん。ゆっくりしていっていいからね。さーて飯だ飯。今日の晩飯は何かな」
藤崎姉妹の母である藤崎秋恵は二人がまだ小さい時になくなっており、両親がどちらも働いていて似たような環境にある牧原兄妹とは子供の頃から互いの家に泊まったりする程の深い親交があった。ブレザーを脱いで椅子の背にかけ、いつも通り母親の作り置きした夕食を取るためにキッチンに向かおうとすると、夏美が立ち上がって言った。
「私が準備するからいいよ。牧原は制服着替えて来なって」
「お、悪いな」
言われるまま自分の部屋に向かい、ジャージに着替えて戻ってくると、食卓にはあんのかかった炒飯が置かれていた。
「おふくろ今日は気合入ってんな」
テーブルに着きながらそう言ってスプーンを手に取ると、キッチンの方から千広の声が飛んできた。
「違うよ。今日の晩御飯は夏ちゃんが作ってくれたの。おいしいカニ炒飯」
「なるほど」
「一応、お邪魔させてもらってる身だからね」
感心する牧原の方を見向きもせずに、新聞をめくりながら夏美が言った。いただきますとちゃんと手を合わせてから、牧原は炒飯を口に運んだ。やや濃い目の味付けにもかかわらず、あんのほんのりとした甘さがあいまって、後味はしつこくなく食べやすい。ご飯も強火で上手く炒められているし、カニの風味もしっかり出ている。
「美味いな」
「どーも」
藤崎姉妹がいつも父親に代わってご飯を作っていることは知っていたが、ここまで料理が出来るとは思っていなかったので、牧原は素直に驚いた。
「というか何で炒飯?」
「ウチには無い中華鍋が牧原の家にはあるからね。一回やってみたかったんだよね、中華鍋で本格炒飯」
「初めてにしちゃ上出来だな。隠し味にちょっと生姜を入れるともっと良いんだけど」
「さすが料理屋の息子。褒めながらもダメだしは忘れない」
そう言って笑いかける夏美に笑い返す。つけっぱなしのテレビの中ではクイズ番組をやっていた。ただのクイズでは盛り上がらないのか、芸人が罰ゲームに対し派手にリアクションを取っている。
「カニは?何で入れたの?」
「冷蔵庫に入ってたから。カニ缶なんてウチじゃめったに食べられないの」
「……お前らしいや」
その後もたわいのない話を夏美と続けながら、牧原は炒飯の皿を空にした。歯を磨き、部屋で荷物を準備してリビングに戻ると、チョコレート作りは大事な局面に入ったらしく、三人は狭いキッチンでせわしなく動いていた。
「冬はしっかり薄く伸ばして。千広ちゃんはもうちょっと待ってから広げて」
夏美の指示に従いながら、二人の女子中学生は真剣に目の前にある茶色の液体と格闘している。一所懸命な妹の背中に牧原は声をかけた。
「じゃ、俺バイト行って来るから。千広、今日はちょっと遅くなるっておふくろに言っといてくれ」
「分かった。いってらっしゃい、お兄ちゃん」
「いってきます」
振り返ってにっこりと笑う妹に手を振り返し、牧原は家を出た。
「いらっしゃいませー」
入ってきた中学生位の青年に牧原は大きな声で挨拶をした。青年が奥の雑誌コーナーへと向かい立ち読みを始めるのを確認すると、牧原は隣に立つ浜野と目を合わせてから、いつもは置かれていない椅子に腰掛けた。平日夜八時から十時というこの時間は、客の数は少なく、やってきたとしても近隣住民ぐらいで、ずっと立ち続けるバイトを哀れに思った店長から椅子に座っても良いという許しが出ているのだ。椅子に座りとんとんと握りこぶしで腰を叩く大学三年生の浜野に、牧原は言った。
「浜さんは明日誰かにチョコ渡すんですか?」
「私?う~ん、彼氏はいないし気になる人もいないからなぁ。サークルの皆に配ろうとは思ってたけど、結局めんどくさくなっちゃってね。牧原君は?結構もてそうだけど」
「全然ダメです。去年は見事にゼロでした。今年も見込みは無いですね」
「ありゃりゃ意外だなぁ。まぁ、明日になるまで分からないよ」
そう言ってにっこり微笑む浜野に牧原は苦笑いで返した。四つ年上の浜野は、高校内での先輩とは違い、社会人としての経験があるからかずいぶん大人びていて、バイト先のコンビニの先輩後輩という小さな人間関係の中ではあるが、牧原にとって少し憧れでもあり、好意の持てる人物だった。もちろん、そのルックスと、若干抜けているところのあるおっとりとした性格も大いに関係してはいるが。
「浜さんはサークルは文芸でしたっけ?楽しいですか?大学生活」
「楽しいよ。やっぱり世界が広がる気がするなぁ。私はアパート借りて一人暮らしだから、そういうのも含めてね」
「なるほど」
「急にどうしたの?そんなこと訊いて。君らしくもない」
浜野が笑みを浮かべたままで問い返した。暖房で少し暑いくらいの店内には、浜野が選曲したちょっと遊びの多い軽快なクラシックが流れていた。この人はやはり鋭いなと感心しながら、牧原は言った。
「いや、最近毎日が何となく面白くない気がして。進路とか大学とか色々、答えは出てるのにすとんと落ちないというか。高校生って何か中途半端だなぁと。贅沢な悩みだってのは分かってるんですけどね」
「なるほどねぇ。私の場合はそんなこと考えてなかったなぁ」
「そうなんですか?」
「うんうん。だからと言ったら変だけど、少なくともそういうことで悩むことが出来るのは悪いことじゃないんじゃないかなぁ?」
頷く牧原に浜野は続けた。
「まぁ、人生なるようになるっていうのも本当だけど、選択をするのは自分っていうのは絶対だからね。要は悩み続けなさいってのが、君より四年長生きしてる先輩からのアドバイスかな。ごめんね、格好つけようと思ったけど逆に伝わりにくくなっちゃった」
「そ、そんなことないですよ。貴重なアドバイスありがとうございます」
照れ笑いを隠そうとする浜野を見ながら、牧原は自分もこんな信頼できる人間になりたいと思った。気が利いて、優しくて、仕事が出来て……具体的なイメージを掴めるのはこの人のおかげなのかもしれないとも。
その後も雑談を交えつつレジの対応や床の掃除などをこなしているとあっという間に十時になったので、牧原はコンビニを出た。
雲ひとつ無い夜空の下で、シャッターの降りた商店街を自転車で駆け抜ける。肌を刺すような冷たい風に白い息を吐きだしつつペダルをこぎ続けると、十五分程で待ち合わせ場所の高丘バス停に着いた。暗闇の中で一人ベンチに座る小咲に牧原は声をかけた。
「うぃーす」
「うい。ちゃんとカップラーメン買ってきた?」
「もちろん」
牧原は自転車を停め、カゴからコンビニの袋を取り出した。その中に自分がメールで指示した通りのインスタントラーメンが入ってるのを確認して、小咲は満足そうに頷き、ベンチに置いたリュックを背負って言った。
「それじゃ、出発進行」
高岡バス停は学校の裏山のふもとにあり、化け桜はそこから約二十分山を登ったところにあるのだった。軽い足取りで足元に生い茂る草花を踏み分けて進む小咲に続く。そびえたつ木々の葉で空が覆われ一切の光の無い暗闇の中に、二つの懐中電灯の光が浮び上がった。まるで訪問者である自分達を拒絶するような静寂。遠くかすかに聞こえる川のせせらぎ。時折聞こえてくる鳴き声。夜の森は、目にははっきり見えなくとも、確かにそこには生きている者達がいるという気配で満ちていた。
「それにしても、二人とも学校のジャージとはね」
前を歩く小咲が自分と同じように学校指定の体育ジャージを着てきているのを見て、牧原は言った。
「別にいいじゃん。動きやすいし、寒さも結構防げるし、色も黒と黄色で悪くないから重宝してるんだよね、これ」
長めの袖に半分引っ込めた手を振りながら小咲は言った。
「リュックサック持とうか?」
「いいよいいよ。そんなに重くないし」
懐中電灯の光を頼りに足元を確かめながら登っていき、背の高い木々を抜けると、急に視界が開け、目の前に化け桜が現れた。
「うわぁ」
「すげぇな」
素直に声を上げる小咲につられ、牧原も思わず驚嘆の声を漏らした。夜空には無数の星と大きな満月。それらの光を受けて、ぼんやりと薄い緋色に輝く桜の花びら。しばらく口を開けたまま寒さも忘れて化け桜に見入っていると、太い木の根元を指差して小咲が言った。
「さ、あの下でラーメン食べようよ」
「あ、ああ」
二人で根に並んで腰掛ける。牧原が二つのカップラーメンのフタを開けると、小咲がリュックからポットを取り出してお湯を注いだ。フタを閉め、携帯で時間を確認しつつ、牧原が言った。
「お湯入れてきすぎじゃないのか?ポットにまだ結構余ってるだろ?」
無駄なことはしない小咲が必要以上にお湯を入れてくるのが、牧原は不思議に思ったのだった。
「お、鋭いねぇ。後でのお楽しみ」
と言って悪戯っぽく笑うだけの小咲に、不服そうな顔をしつつ牧原は眼下に広がる自分の住む街を眺めた。街中に溢れる色とりどりの光。遠くで聞こえる電車の音。乱立する見慣れているはずの建物は、その黒いシルエットだけを浮かび上がらせている。
「もうそろそろじゃない?」
小咲に言われ、時間を見ると既に三分経っていた。
「三分経ってる」
「よーし。それじゃいただきます」
「いただきます」
フタを開けるとカップラーメン特有の空腹を刺激する匂いが熱を伴って冷たい空気に広がった。急いで一口麺をすすり、汁を飲む。濃い味のスープが、身体を芯から温めた。
「美味いな」
「美味しいね。う~ん、やっぱりカップラーメンはシーフードヌードルだなぁ。安定感がある」
「確かに。カレーも捨てがたいけど、やっぱシーフードは強い」
ラーメンに夢中な小咲を横目に、牧原は自分が何だか不思議な気分になっているのを感じた。別段仲が良いわけでもない同級生と、満点の星空の下で一緒にカップラーメンを食べている。どう考えてもおかしな成り行きなのにごく自然に事が進み、またそれをすんなりと受け入れられているのは小咲のせいなのか。二人はあっという間に麺を食べ終え、スープまでしっかり飲み干した。
「ふぅー、おいしかった」
「ほら、ごみはこれに入れろよ。俺が持ち帰るから」
「サンキュー。お次は……と」
そう言って先ほどのポットのフタを開ける小咲。訝しげにその様子を見守る牧原に、小咲がポットから取り出して見せたのは、何と二つの小さな徳利だった。驚く牧原に小咲が続ける。
「やっぱり寒いときは熱燗に限るってね」
「お前……まぁ今更おかしくも無いか。ホント、何と言えばいいのやら」
「いいじゃん、一緒に飲もうよ。どうせ飲んだことあるんでしょ?牧原君は」
「分かったよ」
「はい、君の分。熱いから気をつけて。あ、先に言っとくけど私、全然強くないから。酔ったらごめん」
小咲から片方を受け取り、フタを開ける。途端に焼酎特有の匂いが鼻を刺激した。
「かんぱ~い」
「乾杯」
こつんと徳利を打ち合わせ、さっそく一口飲んだ。深みのある、上品な味わい。口当たりがまろやかで飲みやすく、温かいせいもあってかすっと喉を通った。目を瞑って味わう小咲に言った。
「中々焼酎もいけるな」
「でしょ?満天の星空に、満月に、桜に、お酒。一回やってみたかったんだよね」
満足そうに笑う小咲に笑い返す。確かに風流とはこういうものなのかもしれないなとか、勝手な想像をしながら牧原は二口目を飲んだ。うっすらと紫を帯びた月の光は、手元が見えるくらいに明るく二人を照らしていた。
「さて、これに合うつまみは……と」
鞄を再びがさごそいわせて小咲が取り出したのはチャック付のビニールに入ったさつま揚げだった。一つ貰い、かじってみる。甘すぎるくらいの味付けが焼酎の辛さと合っていて美味しい。
「小咲は医学部志望だったよな。何で医者になりたいんだ?」
いつもなら将来について同級生に訊くようなことはしないのだが、不意に口からそんな問いが出てきた。もう酒が回っているのか、顔に赤みが差している小咲は、さつま揚げをしっかり飲み込んでから言った。
「う~ん。とりあえず後悔はしないだろうからかな」
「それは何で?」
「働くってさ、社会の為に何かするってことでしょ?合理性に基づいてね」
頷く牧原に小咲は続けた。
「でも、それは他人の為じゃない。この社会では合理的であるのは正しいと保証されてるけど、誰かの為になんて倫理観に、正しさは保証されてないからね。だけど倫理は、社会的正しさは無くても確かに価値の一つになり得る。ボランティアなんかが評価されているように」
アルコールが効いてきたせいか、牧原は身体が内側から火照ってくるのを感じた。
「そして、医者は社会の為にだけじゃなくて、そういった他人の為に働くことも義務とされる類の数少ない職業だ。合理性と倫理性、一見相容れない価値を同時に背負い込む、ね。言い方悪いけど、そんなめんどくさい役目だったら、私は後悔しないんじゃないかなってね。少なくとも自分が後悔しない、他人から見ても否定は出来ないくらいの価値はあると」
言い終えると小咲は空を見上げた。牧原は、その目には何がどのように映っているのだろうかと思った。自分とは少し距離を感じる程に、漠然としたイメージしか湧かない世の中について考え、未来を見ている少女には。
「牧原君は家を継ぐんだっけ?」
「ああ。一応大学行って調理師免許の他に教員免許も取っとく予定。でもなぁ、何か今一つしっくりこないんだよなぁ。別に親父達の後を継ぐのは問題ない、むしろ望んでることなんだけど、選択が単純明快過ぎて、悩んでる皆に悪いっていうか」
「いいじゃん、料理屋。似合ってるよ。それに自分の進路が決まってるのに引け目を感じることじゃないんじゃないかな。むしろ悩んでる方が悪いんだし。答えを出すまで今まで考えてこなかったんだろってね」
小咲は大概相手のことを否定しない。それはこの三学期一緒にいて気付いたことだった。すぱっと自分の感想を言って終わる。他人に踏み込まないというより、もとより踏み込む気が無い。一見他人に無関心なその態度は、その無関心さゆえに、牧原にとって居心地の良いものでもあった。
「でも、それこそ人の為にはならないだろ?悪く言えば、自己満足の塊みたいなものじゃないか」
「別に私は人の為になることが良いとは言ってないよ。そう考えている人が多いって言っただけ」
「なんじゃそりゃ」
「例えばさ、ボランティアをしましょう、良いことだから、何て言う人達がいるでしょ?でもよく見るとその人達のやっていることが合理的じゃなかったりする。関係ないのに節電したり、水が必要なのに現地に行って働こうとしたり。挙句人手だけは余らせちゃったりね」
段々と流暢さを増す口調。座っていながらも大袈裟になっていく身振り手振り。華奢な身体に揺れる髪。完全に酒に酔っているらしい小咲は何だかかわいらしかった。
「そんな連中に、何がボランティアですか、単調な日常に刺激が欲しかっただけでしょう?って私は言いたくなる。だってそうでしょ?本当は、コンビニの募金箱に何枚か硬貨を入れるだけの簡単なことが必要最大限のことなのかもしれないのに、それだけでは満足出来ずに、必要も無いのに自分の身を持って働こうとするのは、単にボランティアという行為をやりたいだけだからじゃないの?。そんな合理性の無い行動に、何かいつもとは違うことをしたい、出来れば良いことをしたいという欲をを読み取っても別に文句は言えないでしょ。ボランティアは人を助ける手段であって目的じゃない。目的にしちゃってる人間は、無償の奉仕に自己満足や評価という対価を求めてるだけの屑だよ。差し伸べた手は自分の為にってね」
小咲が結構きわどい内容のことを言っているにもかかわらず、冷静に聞き入れている自分に牧原は少し驚きながら、相槌を打った。
「私達は自分しか生きられない。絶対的な個としての自分しか。だからこそ、それでもなお本当に他人の為に生きれる人は、本当にすごいし尊敬できると思う。だけど、必ずしもそれは社会において生きるうえでは必要ないんだよ。社会で必要とされてる人間は社会の為になる人間で、人の為になる人間じゃない。人間なんて所詮全部自己満足で終わる存在なんだからさ、好きなこと好きなだけやって好きな風に生きればいいじゃん。他人に迷惑かからない範囲で。自分でしっかり責任とってさ。それなら誰も文句言えないでしょ?優しさとか善意とかを自己満足と思わないで平気で押し付けたり強制したりするような奴らより、よっぽどマシだよ。ちょっとしゃべり過ぎたかな」
そこまで言うと、小咲は大きく伸びをして仰向けに背中から倒れた。小咲の、我が道を行くという言葉が相応しい自由奔放な性格。それでもどこかで芯はしっかりしているような雰囲気。小咲晴海という一人の人間のルーツを知ったような気がして、牧原は何となく嬉しさを感じるとともに、自分よりずっと奥深さを持つ同級生に羨望にも似た感服を覚えた。
「何か、途中から何言いたいのか自分でも分からなくなっちゃった感があるけど、ようは好き勝手するのに他人は関係ないってこと。まだ私達高校生なんだしね」
仰向けになったまま小咲は唄を歌い始めた。“What a wonderful world”。澄んだ声。ジャズっぽくもたついた感じが小咲らしい。牧原はその声に耳を傾けながら、小咲と同じように仰向けに寝転がった。視界が桜と星でいっぱいの空で埋まる。大きく息を吸い、酒で火照った身体を冷ます。
「小咲ってホント何というか小咲だな」
歌い終わった小咲に牧原は言った。
「それってどういう意味?」
「……自分で考えなさい」
「えぇ~、そりゃ無いよ。おっともうこんな時間だ。帰らなきゃ」
「ホントだ。帰るか」
立ち上がり荷物をまとめて歩き始めようとしたその時、突然小咲が倒れこんできた。
「うおっ」
抱きかかえるように受け止め、何とか身体を支える。どうやら酔いで足がふらついたらしい。
「しょうがねぇな、おぶってやるよ。ほら」
「うぅ、かたじけない」
小咲をしっかりおんぶし、牧原は来た道を戻り始めた。暗闇の中を小咲の操る懐中電灯を頼りに進む。
「……重くない?」
「……」
だまったままでいると頭をはたかれた。
「そこは即答してよ!」
「ちょっとからかってやろうと思ってな」
「う~、このいつもと逆な感じ、いやだ」
足を滑らせたりしないよう慎重に歩みを進める。そろそろ森の出口に着くという頃になって、静かになっていた小咲が急に息を吹きかけてきた。
「うわぁ、お前、何して……」
「ごめんごめん、何となくつい」
「お前酔い過ぎ。本当に酒弱いんだな」
「弱くても好きだからいいんです」
バス停に辿り着いてからも、小咲が心配だったので、しっかり家まで送ってから牧原は帰宅した。
翌朝。朝ごはんを食べ終え、部屋で制服に着替えていると、千広が突然部屋に入ってきた。この家にはトイレ以外には鍵が無く、いいかげんノックすることを覚えて欲しいと呆れながら、牧原は堂々と自室に入ってきた妹に言った。
「どうした?」
「今日はお兄ちゃんにプレゼントがあります」
そう高らかに宣言し千広が渡してきたのは、きちんと梱包されたチョコレートだった。
「おぉ、中々良く出来てんな」
「へへん。今年は本命に渡すからね。千広は本気なのです」
「なるほど。いけそうなのか?泣いて帰ってくんなよ?」
「夏っちゃんが、男なんて美味いもん食わせればいちころだって言ってたから大丈夫。味なら負ける気がしないしね」
「あの野郎、妹にまた余計なこと教えやがって。ん?……ちょっと待てよ。もしかして俺に渡したのもあいつが言ったからなのか?去年はお前、俺に渡さなかっただろ?どうせ余ってるんだから梱包の練習がてらお兄ちゃんに渡してやんな、とか言われたんじゃないか?」
「ぎくっ」
目を逸らす千広。ぎくっとか口で言うなよと思いつつ、牧原は千広に言った。
「はぁ。ま、頑張って来いよ。まだ若いんだからな」
「何じじ臭いこと言ってんの、お兄ちゃんもまだ高校生でしょ」
「そうだな。何はともあれチョコありがとな。有難く頂戴させていただきます」
「ふふ。それじゃ、行ってきます」
そう言って笑顔で部屋を出る千広を見送り、自分も支度を済ませ学校へと向かった。
放課後。いつものように化学室に向かっていると、途中にある放送部の部室で吉田と藤崎が話しているのを見かけた牧原は、二人に声をかけた。
「うぃーす。チョコ売りお疲れさん。結局勝負はどっちが勝ったんだ?」
「僅差で私が勝った。いやぁ、いい勝負だったね」
うれしそうにそう言う吉田に、机に突っ伏したままで藤崎が言った。
「あ~あ。あと少しだったのになぁ。くやしい」
「からあげの勝利か。今度篠崎にジュースおごらなきゃな」
「何で?」
「アイツとどっちが勝つか賭けてたんだよ。しっかりしてくれよ、藤崎」
「はいはい、悪うございました。じゃ、実験頑張ってね」
「うい」
化学教室に着くと、途中道草をしたせいか、珍しく小咲の方が先に着いていた。いつも通り入り口に一番近いテーブルの上に実験器具を並べる小咲のもとへ向かう。
「ういっす」
「遅い。私より後に来るとは珍しいね」
「そういう時もあるさ。ん?今日は何でちゃんと白衣着てんだ?薬品なんて注意してれば大丈夫だって言って、いつも着ないのに」
「……秘密。さ、今日は使う薬品少ないんだからさっさと準備しちゃってよ」
「了解」
実験が一段落済んだところで、隣にすわる小咲が言った。
「お菓子は?」
「作ろうと思ったけどむなしくなってやめた。まぁ、予想通り一つももらえなかったけどな」
二人だけの化学教室は広々としていて、その閑散とした雰囲気が冬の寒さを上乗せしていた。遠くでサッカー部の掛け声が聞こえる。ガスバーナーの火に手をかざし温めている小咲に、牧原は言った。
「なぁ」
「うん?」
「付き合ってくれ……こういうのは男から、なんだろ?」
小咲は一瞬目を見開いたが、みるみる顔を赤くして
「あ、え~と、よろしくお願いします」
とたどたどしく言った。
「あっはっは。赤くなり過ぎ。いつもの小咲はどこいった」
「うるさい。君だって顔真っ赤じゃない」
「緊張したんだよ。柄にも無く、な」
「……ありがと。さて、そういうことなら実験を変えなきゃね」
そう言って、小咲は鞄を持って隣のテーブルに移った。慌てて椅子を持って自分も隣のテーブルに移ると、小咲が鞄から取り出したのは何と製菓用のチョコレートとバターなどの各種材料、調理器具だった。
「お前、何持ってきて……」
「どうせならチョコレート作って貰おうと思って。ここなら火もあるし」
「……はぁ。やっぱり小咲には敵わないな。分かったよ。そのかわりとびっきり上手いの作るからな」
「ふふふ、楽しみにしてる」
白衣を着ているのは制服にチョコが付かないようにするためだったのかと納得しながら窓の外をふと眺めると、化け桜が夕日を背に堂々と輝いていた。牧原はそれを見てふっと笑みをこぼすと、チョコレートのブロックを袋から取り出し、小咲の持ってきた小さな包丁を手にとって細かく刻み始めた。
teenage 夢野言乃葉 @yumenokotonoha
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