珈琲

夢野言乃葉

珈琲

 どこか不思議でやさしくて力強く今を生きる彼女に出会ったのはちょうど二十歳になった年の冬だった。




 朝五時。ふと目が覚めてしまって妙に目が冴えてしまい二度寝が出来ず散歩を始めたのが四時半だったからかれこれ三十分も歩き続けていることになる。

 空は少し赤みがかっていて朝日に照らされた住宅街が金色に輝いている。

 コートに身を隠して冷たい空気から身を守りながらぼんやりと歩いていく。

 どこに行く訳でもなくただ足が進むままに静かな、目覚め始めてそろそろ回りだそうとする町を歩く。

 自分以外には誰もいないような静けさの中、今は一人しか住民のいなくなった自分のアパートを思う。

 前方に踏切が見えた。歩道しかない小さい踏切。

ーカンカンカンカンー

 踏切が降りる。踏切の前で立ち止まる。

 深呼吸をしてみる。あきれるくらい澄んだ透明な朝。

 別に明確な意志があったわけではない。ただ何となく、そう何となくだった。

 踏切に手をかける。電車がくる。こっちには気づいてないようだ。身を乗り出そうとしたその時ー

「やめた方がいいよ」

 女の声。

 ビックリして体を引っ込める。

 電車が通り過ぎる。踏切があがる。朝が静けさを取り戻す。

 振り返るとジャージ姿の女がいた。年は同じくらいだろうか。真っ赤に燃える赤い髪が肩に少しかかっている。

 女がそのまま何も言わずに通り過ぎようとするのでする気のなかった自殺を止められた俺は頭に来て

「ちょっと待て」

 おもわず言ってしまった。

「なんで止めたんだ?」

 そう言う自分に戸惑いながらたずねる。強い意志があってした訳ではないくせに。

「目の前で人が死ぬなんて面倒だから。気分悪いし」

 さも当然という風に彼女が言うので俺はなんだか怒るのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 そして彼女は続けてこう言った。

「気分を害したなら謝るわ。時間ある?コーヒーごちそうしてあげる」


 これがアキとのホント、奇跡みたいな出会いだった。


 彼女に連れられて着いた喫茶店は二階建てで“Break Time”と書いてある看板がついていた。

 準備中という札が下がっているドアノブに彼女が鍵をさしてひねる。

 木製のドアがキィっと音をたてて開く。ベルが鳴る。

「ようこそ私の店へ」

 彼女の後に続き店の中に入る。直後、香ばしいコーヒーのにおいで満たされた。大きく息を吸い込んでみる。どんな人でも幸せにしてしまうような魔法のにおいだ。

 促されるままカウンター席に座ると

「ちょっと待っててね」

 そう言って彼女は奥へと入っていった。

 周りを見回してみる。そんなに大きくはない店だ。カウンター席が五席、テーブル席が三席といった具合。カウンターやらテーブルやらイスやら全部木で出来ていて温かい雰囲気だ。よく見るとどれもが長い年月を生きてきたようで所々くすんでいて味がある。

 この店は確かに人が生きているという生活感を感じさせた。俺のアパートにはもう無いモノ。

 彼女が帰ってきた。おそらく店の制服であろう白のシャツ、黒のスカートに着替え、その上にエプロンをつけている。カウンターにつくと

「コーヒー詳しかったりする?希望があればそれを淹れるけど?」

 と聞いてくる。俺が首を振ると

「じゃあ、モカ・マタリでいっか」

 そう言って大きな袋から豆をスコップみたいなものですくい、見慣れぬ機械に入れ始めた。実際にこういう店で豆からコーヒーを作るのを見るのは初めてで興味をそそられた。さっきの機械がギュイィィーンと音を立てて動いた。どうやら豆を粉にしているらしい。彼女は手際よくその作業を終えると紙のフィルターで抽出を始めた。豆を粉にする以外は俺が普段やってるのと変わらないみたいだ。

「そういえば自己紹介まだだったね。小林 秋、二十歳。この店のマスターやってる」

 思い出したように彼女が言った。

 お互いまだ名前も知らなかったことに自分でも驚きながら

「西山 順、同じく二十歳。大学生」

 と返す。

 アキはそうか、同い年かぁなんて呟きながら丁寧になれた手つきでコーヒーを淹れていた。

 部屋の隅においてある、年代モノのスピーカーを見つけてどんな音楽をかけているんだろうとぼんやりと考えていると。

「完成。ハイどうぞ。モカ・マタリだよ」

 とコーヒーを出してきた。いい香りだ。

 一口飲んでみる。おいしい。自分では到底再現できない味だ。

 アキは俺がコーヒーに夢中になっているのを見て満足げに笑っていた。

 自分の分のコーヒーを飲みながらアキが言った。

「さてと、どうしてあんなことしようとしたの?」

 気が引けるようなことをさらっと聞いてくる。いつもの俺なら適当に答えて流すところだが、アキの作り出す、すこし近すぎるけど不快感は感じさせない不思議な距離感から真剣に答えてしまった。

「一緒に住んでた親父が死んだ。たった一人の家族だった」

 アキは深紅の瞳で見つめてくる。

「死んだのは二週間前。別に死んでやろうとずっと考えてたわけじゃない。新しく住むところ探したり、学校行ったりちゃんと生活してたんだ。ただ朝の静けさの中を歩いていたらふいにもう親父は帰ってこないんだって当たり前のことが意識されてきて」

「なるほどね」

 そう言ってアキは少し考え込む。その瞳の奥にどこかもの悲しさが感じられたのは気のせいだろうか。

 黙って二人でコーヒーを飲み続ける。ゆったりとした時間が流れる。今は何時くらいだろう。

 時計を探そうと部屋を見回す。部屋全体からこの店が歩んできた歳月が感じられる。過去から今へと繋いできたモノ。

 するとコーヒーを飲み終わったアキが口を開いた。

「住むとこ探してるんだって?」

「ああ」

「じゃあこの店に住んでいいよ」

「はぁ?」

「いやぁ、最近バイト雇おうとしてたんだけどだけど中々うまくいかなくて。それで君にバイトしてもらうかわりにここに住んでもいいっていうのはどう?もちろんバイト代はしっかり出すし。新しく住むとこ決まったら出てってかまわないよ」

アキの顔を見る。どうやら適当に考えて言っているわけではなさそうだ。

「ここには私ひとりしか住んでないし、別に不自由は無いと思うよ」

 アキが笑って言う。優しい目。

赤 の他人にとんでもないことを言うもんだと呆れながらも、俺は確かにこの店に惹かれている自分を抑えられずつい

「お世話になります」

 と言ってしまった。

 こうしてアキと俺の二人ぼっちの生活が始まった。 




 家賃を滞納していたので自分の部屋からすぐに出て行った。俺をやさしく見守ってくれた大家さんに感謝する。

 親父が死んでから時間が止まってしまっていた部屋を出るとき、何か寂しさを感じた。戻らないモノと残されたモノ。

 部屋からは必要最低限のものだけを店に持ち込んだ。

 店の二階は居住スペースとなっていた。リビングとキッチンで一室、アキの部屋が一室、おそらくアキの両親のものであろう部屋が一室(今は俺が使わせてもらっている)。あとはトイレなど。

 アキに両親のことを軽く質問したがあいまいな答えが返ってきたのでそれ以上追求することはやめた。俺はアキのようには他人に踏み込めない。

 二階の窓は大きく日の光がリビングいっぱいに溢れていた。ほのかなコーヒーのにおいが漂う。壁の染みや床のキズなんかがちらほらあってなんだか俺は安心する。居るだけでじんわりと温かい気分になってくる。

 店での生活は妙にすんなりとうまくいった。人の家だというのにそうでないような気にさせる何かがこの家にはあったからかもしれない。他人のものを使うときのぎこちなさがあまりに感じられないので少し混乱したほどだ。

 アキは店の準備で起きるのが早く、いつも俺はアキに起こされる形になった。朝ごはんはアキが作り、昼と夜は俺が作る。学校がある日は昼は別々だ。学校がない日は基本的に店で働いた。働くといってもオーダーをとったり皿を洗ったりとただアキの手伝いをするだけだが。デザート作りは何とか手伝えそうだがコーヒーはさすがに無理だ。

 この店に来る客は皆なじみの客といった感じだった。店に入ると笑って

「おはよう、アキちゃん」

 なんて言ってくる。年齢、性別はさまざまで色んな人がこの店を愛していた。なんだか誇らしい。

 アキは客全員の好きなものを暗記してるらしく、客が入ってくるとすぐにコーヒーとデザートを準備しながら持ち前の不思議な距離感で客と話す。その内容は世間話からやや込み入ったものまでたくさんあったが店を出るとき幸せそうな顔で出て行くのはみんな一緒だった。


 店で働き始めて二週間ほどが経ち、客の顔も大体覚え、店に馴染んできた頃、ある日、開店して五分も経たないうちに勢いよく一人の客が入ってきた。

「おはようアキ。久しぶり。元気にしてた?」

 金色の髪が肩の少し上まで伸びている。ジーパン、白のシャツに黒のジャンパーを着た少し年上の女だった。

「久しぶり、リョーコさん。そっちこそ元気?また無茶なことしてないよね?」

 アキがどこか不良チックなその女に話しかける。知り合いか。

「してないしてない」

 笑いながら女が答える。そして俺の方を向いて、犬みたいな目を細めて

「ナルホド、この子が噂のバイト君かぁ」

 と言った。一瞬その目に刃物のような鋭さを見た俺は小さく会釈をする。

「紹介するね。この人は幼馴染の吉永 良子さん。色々面倒見てもらったり世話になったりしてる。」

 リョーコさんがよろしくーといいながら手を振る。

「んで、こっちが西山 順くん」

 ペコりと頭を下げる。少し緊張。

「じゃあ、いつものお願い。それとガトーショコラも頼む」

 リョーコさんはそう言うと手元にあった新聞を読み始めた。

 アキがコーヒーを作る間、俺はガトーショコラを準備する。ケーキ自体は作ってあるので生クリームを作って皿に盛り付ける。最初の頃と比べると大分手際が良くなってきた気がする。

 完成。あとはアキを待つだけだ。手持ち無沙汰にしているとリョーコさんが話しかけてきた。新聞はもう読み終わったようだ。

「どう?この店面白いでしょ」

「雰囲気が好きです」

「生活の方は?うまくいってるの?」

 その後もこんな返答が続いたあと、アキがコーヒーとケーキを持ってきてからはアキとリョーコさんの会話になった。邪魔するのも悪いので俺は今日はどの曲をかけようかと考える。いつも店でアキがかけているのはジャズで、はじめは自分の好みが分からなかったが最近では自分で曲を選ぶようになってきていた。

「そろそろ帰るわ」

 リョーコさんがそう言ったので俺は入り口にあるレジの元に行く。ぱぱっと打ち込みを終わらせ、リョーコさんにレシートを渡す。するとリョーコさんはレシートに何か書いてすっと俺のエプロンのポケットに入れた。何だろう?と俺が不思議そうな顔をしていると

「後で見といて」

 と小さい声で言ってリョーコさんは出て行った。


 その日は朝から夜まで人が多くて忙しかった。後片付けと掃除を始める。アキは珍しく疲れた様子で

「早く寝たい」

 なんてぼやいている。そういえば定休日もないのにいつ休むんだろう?とか考えていると、ふっとリョーコさんが渡したレシートを思い出し、あわててポケットを探る。綺麗な整った字でこう書いてあった。

“店が終わったらよもぎ公園まで来て”

 すっぽかさないで済んだのでほっとする。

 作業を終えるとアキは着替えるとそのままベットで寝てしまった。よほど疲れていたんだろう。そっと毛布をかけて俺もすぐによもぎ公園に向かった。

 よもぎ公園は店から歩いて五分もしないところにある、小さな公園だ。買い物帰りに何回か寄ったことがある。鉄棒と滑り台とジャングルジムとブランコが全部そろっているのがちょっとうらやましかった。俺が住んでたアパートの近所の公園はジャングルジムしかなかったのに。

 公園に着いた。枯れ葉が一面に散らばっていて踏むと、パリパリッと歯切れのよい音をたてる。上を見上げると満天の星空で思わず息を呑んでしまった。暗い夜空のなかで命を燃やすようにまたたく星の光。かすれた雲。

 リョーコさんはブランコに座っていた。こっちを見つけると手招きをする。隣のブランコに座る。錆びた茶色いチェーンがギシっと鳴った。

「ごめんね、遅くに呼び出しちゃって。これはちょっとしたお詫び」

 そう言ってコンビニで買ってきたであろうおでんを渡してきた。中身を確認する。大根、卵、牛筋、巾着、どれも好きな具だ。

「お酒飲みたいんだったらチューハイも買ってきてるからどうぞ」

 遠慮なくお酒も受け取る。お酒は強い方じゃないが一缶ぐらいなら別に問題はないだろう。二人で

「いただきます」

 とちゃんと言ってから食べた。おでんの温かさが体にしみる。うまい。

 おでんを平らげるとリョーコさんは真剣な顔になった。瞳に鋭さが宿る。

「アキの両親のことは聞いた?」

 ある程度予想はしていた質問だ。

「一回聞いてみたことはあるんですけどあまり話したくない様子だったので詳しいことは聞いてません」

 あの時のアキが一瞬見せた困惑した顔は忘れていない。

「やっぱりね。単刀直入に言うけどあの子の両親、一ヶ月くらい前に亡くなったんだよ」

 驚きだった。俺が親父を亡くした同じぐらいの時にアキも両親を亡くしていたなんて。アキの両親はもっと昔に亡くなっていたと思っていた。

「別にだからどうこうしろってわけじゃないんだけど、君には知っておいてほしいことだからアキには黙って教えた」

 そう言ってリョーコさんは空を見上げた。そしてぼそっと独り言のように

“知っているっていうのは大事なんだよ。いつか選択を迫られたときにちゃんと答えを選ぶためにね”

と呟いた。この人はどんな人生を歩んできたんだろう?っとふいに考えてしまった。

 その後は酒を交えつつ色んなことを話し合った。話すうちにリョーコさんがとても大人びているのに気づいた。責任、礼儀、道理、そういったものをしっかりと理解して行動する、立派な社会人。将来ああなりたいと憧れるような大人。

店に帰る。着替えてベットに直行する。さっきのリョーコさんの言葉がよみがえる。アキはぐっすり眠っているのだろうか。酒が回りほろ酔い気分で気持ちよく眠りについた。




 翌朝。

 起きるとすでに九時だった。いつもはアキが七時に起こしてくれるはずだが……不安になってアキの部屋に向かう。どうしたのだろう、何かあったのでは?

 部屋の扉をノックする。返事はない。思い切って扉を開けた。アキはベットですやすやと寝ていた。寝坊か。

「起きろ。もう九時だぞ」

 うーんと言いながら半分目を開ける。そしてとんでもないことを言った。

「今日は気分が乗らないから店は休みにする。もう少し寝かせてください」

 すぐにまた目を閉じる。定休日がないのはこういうことだったのか。それにしてもオーナーの気分で閉まる喫茶店って。

 アキの部屋を出てリビングへ向かう。久しぶりに自分で作った朝ごはんを食べる。バターをつけたトーストがいい感じに焼けて気分がいい。テレビをつけるとニュースで星座占いをやっていた。四位とうれしいんだうれしくないんだか中途半端な順位だ。そのままテレビを見ながらぼーっとしているとアキが起きてきた。時計の針は十時をさしていた。

「おはよう。朝飯作ろうか?」

 とたずねると

「お願いっ」

 と眠そうに目をこすりながら答えた

 ちょっと手が込んだものが作りたくなって市販の食パンを使ってフレンチトーストを作ることにした。親父が時々作ってくれた、卵をいっぱい吸ったふわふわなヤツだ。こんがり狐色に焼けて満足する。甘いにおいがただよう。

「いただきます」

 アキはそう言うとすぐにパクついた。みるみるうちにフレンチトーストが無くなっていく。

「おいしい。これ毎日作ってよ」

 目を輝かせて笑いながら言う。ちょっとうれしくなる。

 その後いつもは夜にやる洗濯や掃除を二人で済ませると正午になった。アキがラーメン食べようと言うので近所のラーメン屋に行った。こってりとしたとんこつラーメンを食った。チャーシューが多くてうまかった。

 午後は一階で過ごした。俺はアキが淹れたコーヒーを飲みながら昼飯帰りに寄り道して本屋で買った小説を読む。アキはというとギターを弾いていた。

 水色のエレキギターだ。アンプから枯れた、温かい音がする。

 ゆったりとした時間が流れていた。一緒に何かするわけではないけれどもお互いの存在を確認できるようなそんな相手がいることが俺を満たしてくれた。恋人より近くて家族よりも遠いアキとの間に流れる透明な、でも寂しさを感じさせない空気。生きているという実感。


 夕日が傾き始めた。アキは古いスピーカーでジャズを聴いていた。すると急に立ち上がってテーブルを端の方に寄せ始めた。

「何するんだ?」

 そう訊ねつつ手伝う。

「ちょっとね」

 といたずらっぽく笑う。何をする気だ?

 アキは曲を変えた。遅めの曲だ。そして踊り始めた。リズミカルにステップを刻んでゆく。背筋をピンと伸ばし、しなやかに手を動かす。切れのよいターンを決める。歌に寄り添うようにして舞っていた。窓から入る沈みかけた夕日の光の中で優雅に舞うアキに俺は見とれていた。

「両親がね、社交ダンスやってたんだ」

 踊り終わったアキが言う。遠くを見るような目。

「綺麗だった。

 そう言って俺はアキを見て小さく笑った。笑わなくちゃいけないと思った。

「ありがとう」

 アキがほほえんだ。オレンジの中で。




 この店に来てから一ヶ月が経った。

 今は朝の十一時。客が多くなり始める時間帯だ。カランカランとドアに下げられたベルが音を立てる。

「いらっしゃいませ」

 と言いながら客を見ると見知った顔だ。大学の料理サークルで知り合った親友のテツだ。リョーコさんと妙に気が合うこ いつがこの店に来るのはもう五回目か。

「お、しっかり働いてるじゃない」

 テツが笑いながら言う。

「来るなら一言言ってくれよ」

 席に案内しながら言う。

「まぁ別にここにくる必要はなかったんだけどコイツを渡すついでに行ってみようかなって思って」

 そう言ってファイルをカバンから取り出して俺に渡してきた。大方その中身の察しはついていた。俺は

「じゃあエスプレッソを頼む」

 というテツのオーダーを聞き、カウンターに戻る。とうとう来たか。

 帰り際にテツが

「自分が分からないやつに他人は分からない」

 と意味深に言った。俺がきょとんとしていると

「ちょっとしたアドバイスだよ」

 手をひらひら振りながら歩いていった。

 店が終わり自室に戻ってファイルの中身を拝見する。予想通りそれは格安アパートの資料だった。学校や駅に近い等々俺の希望に沿った部屋を探してくれたテツに感謝する。あとはバイト先を見つけるだけだ。

 アキにそのことを伝えると

「よかったね。詳しいことが決まったら教えてね」

 と素っ気なく答えた。アキらしい。


 それから色々準備するのに一週間かかった。その間、リョーコさんとテツ、アキの四人で飲みに行ったりした。楽しかった。

 この店での最後の夜、店の片付けをしているとアキが

「踊ろう」

 と言ってきた。うなずきつつも

「俺、何も分からないぞ」

 と言うと

「大丈夫、大丈夫」

 なんて言いながら電気を消し、俺の手をとる。

 アキがリードするのに合わせる。流れるように曲にそって舞う。離れる、近づく。ステップ、ターン。世界が二人を中心に回る。言葉は要らない。何も考えずただ体が動くままに踊る。二人の距離を確かめながら。月明かりの下で。

「ふぅ」

 と息をつく。踊るのがこんなに疲れるとは。

「楽しかった」

 満足そうにアキが笑う。

「ありがとう。面倒見てくれて。ほんとに会えてよかっ」

「こちらこそ」

 そうして夜が終わった。




 次の日。

 昼頃に店を出た。住宅街を歩く。見覚えのある小さな踏切にさしかかった。

 俺にはそばにいてくれる誰かが必要だったのかもしれない。親父を失くして世界とのつながりを疑いそうになったときにそばにいてくれる誰かが。アキはそれを知っていたのだろう。そして何も言わず手をさしのべてくれた。生きる自信をとりもどすまでそばにいてくれた。

ーカンカンカンー

 踏切が下りる。温かい日の光。頬をなでる風。

“やめたほうがいいよ。”

 アキの言葉がよみがえる。やめたほうがいいよ?

 この言い方は何か引っかかる。まるで何か知っているような言い方だ。アキの深紅の瞳に潜む物悲しさ。

 今までアキは俺なんかよりたくましく生きていると思っていた。両親のこともちゃんと割り切って。

 でも本当は違う。俺と同じで両親を亡くしたばっかりだったのだ。ただ俺を助けようという優しさで補っていただけだ。アキも俺を必要としていた?

 踏切が上がる。選択の時だ。

 俺は踏み切りを渡らなかった。


 猛ダッシュで店へと向かう。途中何回か人とぶつかりそうになったがはやる気持ちを抑えられない。

 バタンっと店のドアを開けた。転がり込むように中へ入る。

 アキは驚いて目を見開いていた。不思議そうな顔。

「二人で暮らそう」

 口をついてそんな言葉が出た。どんな言葉をかけようかいろいろ考えていたがアキをみるなり吹き飛んでしまった。

 しばしの沈黙の後

「うん」

 アキはその瞳を涙で輝かせ、笑いながらはっきりとそう答えた。

 ずっと二人寄り添って生きていこう。不幸のどん底の中、あの朝に出会った奇跡を大切にして。

 アキがくれた幸せを今度は俺が返す番だ。少なくとも、あの日飲んだコーヒー一杯分以上の幸せを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

珈琲 夢野言乃葉 @yumenokotonoha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る