久遠

夢野言乃葉

久遠


「できた」

 少女はそう言って顕微鏡から目を離し、椅子の背もたれに寄り掛かって伸びをした。手元のボタンで顕微鏡を操作し、やっとのことで完成したウイルスを入れたカプセルを保存ケースへと移してズボンのポケットに入れる。薄暗い研究室の隅で丸くなっていた一匹の狼が、少女の声に反応し駆け寄る。

「思ってたより長くかかっちゃったけど、やっと……やっと完成したよ、アレクセイ。レヴァナ病の原因ウイルスから精製した抗再生因子ウイルス。名付けて“復活阻止”、なんてね」

 椅子から立ち上がり、少女は近寄ってきた狼の頭を撫でながら言った。狼は少女の言葉を理解はするが、決して喋らない。それは絶対的な隔たりで、でも簡単に越えられるもの。そんな、言葉以下でも以上でもある繋がりゆえに、二人はお互いを愛おしく思っていた。

「この服も、もう要らないね」

 少女は白衣を脱ぎ、椅子にそっと掛けた。少女とともにずっとあり続けた白衣は、薄汚れた鈍い白でその存在を主張しているように見えた。

「この部屋も、この隠れ家も……全部」

 少女は狼と共に研究室の出口のリビングへと通じるドアへと向かった。いつもと変わらない歩調で。いつも通り。

「さて、最後の晩餐……あれはキリスト教だったかな?それともミレウス教?」

 少女はリビングに置かれた、横になれるほどの大きさの真っ赤なソファに座り、その前に置かれたガラス板でできたテーブルの表面に指で小さな丸を描いた。途端、少女のコマンドに反応しパソコンが起動する。眼前に広がる、微粒子偏位モニターによって映し出された複数のウィンドウの全てに目を通しながら、手元に映し出された仮想キーボードで操作し、長い長い人類の、世界の歴史を記録してきた膨大な量のデータベースに検索をかける。

「あった。やっぱりキリスト教だったね。パンとワイン、ねぇ」

 モニターをそのままに、少女はリビングの隅にあるキッチンへと向かった。大きな冷蔵庫の扉を開き、中を物色する。一本の飲みかけのワインを取り出して、コルクの栓を抜き、コルクについた中味を舐めた。

「これは確かに高かったけど、飲みかけっていうのはさすがになぁ。外はまだ戦争の真っ只中だし、遠出するのも面倒だし、どうしたものか」

 ワインを冷蔵庫になおし、冷蔵庫の扉を閉めたところで物音がした。気になってキッチンから出ると、狼が保存庫へと通じる扉を引っ掻いていた。少女は狼に語りかけた。

「何してるの?アレクセイ。ご飯ならさっき食べたでしょ?」

 少女の言葉に首を横に振る狼。しばし困惑の表情を見せた後、少女は思い出したように言った。

「そうだ!ワインならエミリアから貰ったものが残ってたんだった」

 頷いて扉を開けるよう促す狼を尻目に、少女は保存庫へと入り奥へと進んだ。一つの古臭い木箱を見つけ、埃を払ってから開けると、中には立派な一本の赤ワインが入っていた。丁寧に取り出してリビングへと戻る。

「お手柄だったね、アレクセイ」

 誇らしげな様子の狼にそう言って、少女は再びソファに座った。手元に現れた仮想キーボードで、今度は三次元現実態行列変換応用型構成素子置換式物質生成装置を起動する。

「とはいえ、五十年も前のことを覚えているなんて、アレクセイも物好きだね」

 装置にパン生地の生成を命令し終え、ワインを手に取ってラベルを眺めながら少女は言った。少女の隣に座る狼。その喉元を少女は撫でた。

「まぁ、あなたにとってはそんなにたいした時間でもないか……私にとっても」

 遠くを見るような目をする少女の頬に、狼が優しく鼻をつけた。

「ほんと、キスがお上手ね」

 微笑む少女。無機質なビープ音が、パン生地の生成完了を告げる。壁に駆け寄って茶色のパネルに触れると、壁の一部が音もなく上にスライドし、現れた空間の中心には乳白色のパンの生地がポツンと置かれていた。それを両手で注意深く手に取って、少女はキッチンへと向かった。熱素制御型万能オーブンに生地を入れ、蓋を閉めて稼働させる。

「パン生地ぐらい原料から自分で作れば良かったかな」

 誰に言うことなくそう呟いて、少女はソファに戻って寝転がった。ポケットからウイルスのケースを取り出してしげしげと眺めていると、狼が少女の手からそれをひったくった。

「あ!こらこら、ダメだってば」

 少女は慌てて起き上がり、狼の頭を軽くはたいて、口に咥えたケースを丁寧に取った。

「私のことを想ってくれてるのは分かるけど、これは私の願いだから……ごめんね」

 しおれる狼。その体躯を少女は優しく抱いた。生の温もりを確かめるように。

「ま、不満と言えば不満かな。このウイルスは私が一から作り上げたものじゃないし。結局私は、歴史を待っただけってことになるのかもね」

 軽快な電子音が鳴り、パンが焼けたことを告げた。少女はケースをポッケにしまって、台所に向かった。こんがり綺麗に狐色に焼けたコッペパンをオーブンから取り出して、純白の皿に乗のせる。いつもなら普通のコップで飲むワインも、ちゃんとワイングラスに注いだ。テーブルへとそれらを運び、ソファに腰掛ける。

「いや、なんか違うな」

 テーブルの上に並べられたパンとワインを見て少女は言った。コッペパンの白の皿を、実験で使う銀の皿に替えて、満足そうに頷く。

「うん、これでよし。コッペパンだったかどうかは別として、大方私のイメージは再現できた」

 テーブルの上に数本のキャンドルを立てて火を灯し、部屋の照明を暗くする。狼と少女はソファに寄り添うように座った。

「ルイナス、あなたのことは今でも覚えてるよ。ワイラーフ、願い通りあなたの娘や孫達は私が見守ってあげた。クィレル、あなたの名はしっかりと英雄として代々伝えられた。飛恭、あなたの愛剣は今も輝きを失うことなくここにある。アディルエル、あなたが見出した希望は私がちゃんと後世へと紡いだ……」

 少女は目を瞑って胸の前で手を組み、これまで出会ってきた多くの人達の名を、叶えてきた願いを、口にした。それはまるで祈りのようでも懺悔のようでもあった。薄暗い闇の中に少女の声だけが響き、溶けていく。

「……幸之助、あなたの無念は私が晴らした。エミリア、あなたの想い人はちゃんと戦争から帰ってこれた。グレイク、あなたの時計塔は世界的なシンボルになった。そして……」

 そこで少女は一旦口をつぐんだ。最後に口に出そうとした名は、今からその願いを叶える人の名は、特別だった。三年前、少女の為に、少女の願いを願った少年。その名前を、少女は愛おしさを噛みしめるように声に出した。

「ルウィンガム、やっと……やっとあなたの願いを叶えられる。ちゃんと待っていてくれてるよね?」

 少女はそう言って瞼を開いた。朧げな橙色の火の光が、ありし日々の記憶から帰って来た瞳を優しく刺激する。気の遠くなるような時間を生きて、辿り着いた答えは、存外にそう悪いものでもないように思えた。

「それじゃ、いただきます」

 少女と狼は最後の晩餐を始めた。




 走る。走る。走る。ただひたすらに。暗闇の中を。振り返ることなく。

「探せ!!所詮は人間の足だ!そう遠くへは行けないはずだ!」

 怒号。無数の足音。闇に慣れた目で周囲に視線を巡らす。鬱蒼と木々の茂る森の中の、どんな些細な変化も見落とさないように。

「見つけたぞ!」

 逸る鼓動。全身から嫌な汗が吹き出してくるのが分かる。出来るだけ体勢を低くして、今まで以上の速さで、歩みを進める。足元に張り巡らされた大木の根で転ばないように細心の注意を払いながら、木と木の間を縫うように走る。

 銃声。悲鳴。一瞬だけ揺らぐ視界。痛みを受けたのはイメージの中でだけだった。ほっと胸を撫で下ろす間も、足だけは機械的に動いていた。自分ではなかったという安心は、次は自分かもしれないという不安を上回りはしなかった。先刻銃声とともに鳴り響いた断末魔の叫びが、頭の中でこだまし続けている。何かが腹の中からせり上がってきて吐きそうな感覚に襲われる。

 落ち着け。銃火が見えなかったということは、近くではなかったということだ。銃声だってそんなに大きくはなかった。考えることをやめるな。生きる意思を切らすな。目を瞑るな。耳を塞ぐな。全てを知覚しろ。生き残るために。走れ。走れ。走れ。出来るだけ遠くに。

 どれぐらいの時間が経っただろう。もう何時間も走り続けている気がするが、実際は数分間のことなのかもしれなかった。鳴り止まない足音。度々聞こえる轟音と叫声。真っ白になりそうになる頭。荒くなっていく息。一心に目を凝らす先に広がる闇は永遠に続いているかのように思えた。

「おい!そこ、何か動かなかったか?」

 緊張で強張る身体を生きたいというただそれだけの欲求で動かし続けるのにも疲れ、呼吸をするのも億劫になってきた時だった。何度も似たような台詞は聞いてきたが、今回は違った。確かな距離感があった。恐らく十数メートル付近であろう。即座に歩みを止め、身を縮こまらせて大木の影に隠れる。

 こちらの様子を伺うようにゆっくりと近づいてくる足音。心臓が早鐘を撞くように高鳴っているのが分かる。最悪の光景が脳裏をかすめる。恐怖で思考停止する頭とは裏腹に、身体はしっかりと息を殺してなおも気配を伺っていた。

 足音が真っ直ぐにこちらの方へと向かってきているのが分かった。いっそ殺されるのなら最後に一矢報いてやろうじゃないかと頭では考えてもピクリとも身体を動かせない自分を呪い、木を背もたれに足を投げ出すように座って死を覚悟したその時だった。突然、目の前に十代後半であろう少女が現れた。

「んぐっ」

 思わず声を上げそうになった口を、少女に右手で塞がれた。空いている方の左手を口元にあて、黙るように合図する少女に従って、そのままの状態を維持しながら沈黙する。こんな森の中で、白いワンピースを着た少女が半ば馬乗りになるような形で座り、自分の口を塞いでいる。その様子は傍から見たらひどく滑稽に見えるだろうなと思いながらも、少しも笑うことなど出来なかった。ただ、目の前にいる少女は決して幻想なんかではなく、今確かにここにいることだけは分かった。

 なおも近づいてくる足音。汗ばむ手を握りしめる。鼓動がさらに速度を増した。焦る僕とは対照的に、少女はまるで今の状況など分かっていないかのように平然としていた。少女はゆっくりとポケットへと手を伸ばし、大きな布を取り出して僕と自分の身体に覆いかぶせた。

 もう足音はすぐそこまで来ていた。全身に緊張が走る。足音が止まった。薄い布越しに、木の影から自分を探す兵士の顔がおぼろげに見えた。目が合った。

「ル、レナーテ、イ、デラハ」

 少女が僕の耳元で囁いた言葉は、全く聴いたことのないものだった。もうダメだと諦め半分に最後の抵抗を試みようとしたその時、

「んんっ」

 少女がいきなり接吻してきた。驚きで空白になる頭。唇を離し、突然のことで上手く身体に力が入らない僕を少女は優しく抱きしめた。うっすらとした甘いシャンプーの匂いが鼻から入ってくる。少女の体温が自分の身体を温めているようで、僕は何だか落ち着いてきた。先刻目が合った兵士が口にした言葉は、にわかには信じ難いものだった。

「何もなかった。見間違いだったみたいだ」

 そう言って兵士はもと来た方へと走って行った。少女は驚きを隠せない僕に悪戯っぽく微笑んで、布を取り払うとすっと立ち上がった。少女の助けを借りて僕も立ち上がる。自分よりも少し背の低い少女は、黙って僕の手を取り歩き始めた。僕はおぼつかない足取りでついて行く他なかった。


 目が覚めると白い天井があった。仰向けだった身体を倒し周囲を見渡す。見慣れない部屋。寝ぼけたままの頭はただ混乱するだけで、自分の置かれた不可解な状況にたいして焦るようなこともなくまた行動もおこそうともしなかった。あいまいな記憶を辿りつつ、広くも狭くもないその部屋をもっと観察する。奥の方にある赤いソファには一人の少女が座っている。その顔には見覚えがある。そうだ、昨日は収容所から逃げ出して、彼女と出会ったんだ。その後は……ここに連れてこられてそのまま寝てしまったんだった。なおも視線を巡らせると、部屋の隅に丸くなっていたものと目が合った。小走りで近づいてくるそれに、僕はベットから思わず起き上がった。

「うわっ、狼!?」

 飛び掛かってきた巨躯をなんとか抱き止めると、顔を真っ赤な舌で嘗め回された。襲われたわけではなかったのだと分かり安心するも、よだれまみれの顔には閉口せざる負えない。

「イリ、デラヘッラ」

 僕が目覚めたことに気付いた少女がそう言いながら近づいてきた。狼を僕から離し、ベットの縁に腰掛ける少女。歳相応の明るい無邪気さと、歳に不相応な底知れない知性が伺える紺碧の瞳に僕は吸い込まれそうになる。

「スーイ、カネーグヲ。ヌベラ、テヌリッヒ」

 顔を袖で拭い異国の言葉に困惑する僕の様子を見て、少女は逡巡した後再び口を開いた。

「ああ、ごめんなさい。あなた達は古リディル語じゃなくて古レディング語だったね」

 驚きを隠せない僕。少女は滑らかな古レディング語、レヴァナ族である僕の話す言葉で続けた。

「じゃあ、自己紹介から始めましょうか。私の名はクオン。あなたは?」

「ルウィンガム……ルウィンガム=セラトナ。皆からはルーって呼ばれてた」

「よろしくね、ルー」

 にっこりと微笑む少女。次から次へと湧き出る疑問を口にしようとする僕を遮って、クオンは言った。

「聞きたいことはたくさんあるだろうけど、まずは朝食にしましょ」

 ソファに並んで座り、その前にあるテーブルに広げられた朝食を僕らは食べた。パン、牛乳、目玉焼きに薄切りのベーコン。ごく一般的な簡素な朝食が、収容所で一欠片のパンしか食べてこなかった僕にとってはご馳走に思える。

「こんな簡単なものしか出せなくてごめんなさい」

「いや、十分満足だよ」

 きれいに皿を空にし終え一息つくと、僕は隣に座るクオンに訊ねた。

「君は何者なの?ここは何処?」

「私は永遠を生きる者。そしてここは私の秘密基地」

 クオンは軽やかな心地よい声で答えた。

「永遠を生きる者?」

「そう。死ねないのよ。何をやってもね」

 怪訝な表情を浮かべる僕を尻目に、クオンは狼を呼んだ。

「アレクセイ」

 床で丸まっていた狼は、起き上がると向こうの方へと走っていき、すぐに戻ってきた。その口に咥えられているものが何か分かると、僕は身構えた。

「それで何をするつもりなんだ?」

「大丈夫。別にあなたに危害を加えることはしないわ、ルー」

 狼の口から拳銃を取り、撃鉄を上げるクオン。そのまま自分の側頭部に銃口を当て、クオンは引き金を引いた。

 鼓膜を突き刺すような銃声。真っ赤な鮮血が壁に飛び散った。クオンの身体がゆっくりと倒れる。無機質な静寂。鉄の臭い。一瞬の出来事に呆然とする僕を再び現実へと引き戻したのは、クオンの呑気な声だった。

「いたたたた。何度やってもこれは慣れないな」

 何事もなかったかのようにむくりと起き上がるクオンに、僕は恐怖を感じずにいられなかった。

「今……君が自分の頭を撃って……そして……」

「復活した。これが私。大抵のことじゃ死ねないし、歳もとらない。キュリア素子置換構成タイプ半永久状態記憶再成維持機能を持った人間。簡単に言ってしまえば、不老不死ってことかな。ちょっと刺激が強すぎちゃった?」

 黙り込む僕を気にすることなく、クオンはすっかり元の通りになった傷口をさすって、“良かった、弾はちゃんと貫通してる”なんて呟いていた。やっと落ち着きを取り戻した僕は乾いた唇を舐め、さらなる説明を求めた。

「不老不死なんてそんなことがありえるの?」

「確かにこの時代の文明はそこまで到達してないわ。でもそういう時代もあったのよ。人間が死すら克服し、神をも凌駕しそうだった時代がね」

 クオンは遠くを見るような目でそう言った。

「私の生まれた世界では死は与えられるものではなくて選ぶものだった。望むものだけが得られる、選択肢としての死。倫理も、秩序も今のあなた達のものとはかけ離れてた。でも、誰も死なない理想郷は、そう長くは続かなかった」

「何か問題が?」

「有限が未来を殺すなら無限は今を殺すのよ、ルー。今この一瞬を生きることの価値を忘れた人類は狂ってしまった。やがて戦争が起きた。地球上からあらゆる人間は一掃されたわ。私を除いて」

 クオンはそこまで言うと、立ち上がってキッチンの方へと向かい、両手にティーカップを持って帰って来た。片方を受取り、中に注がれた熱い紅茶に口をつける。温かい紅茶の甘さは、思考の連続で疲れた脳に心地良かった。クオンは僕の隣に座り直すと、話を再開した。

「偶然、私は生き残ってしまったの。アレクセイとこの避難施設と一緒にね。そして今の今まで生き続けてきた。二万年ほど」

「二万年!?」

 思わず吹き出しそうになった紅茶を慌てて飲み込み、僕は言った。二万年……想像もつかないほどの長い年月。目の前にいる少女の、幼い容姿とは裏腹な聡明さが伺える瞳の理由が分かった気がした。僕の反応を楽しむようにクオンは笑って続けた。

「私が死ぬ技術も失われてしまったの。生き続けるより他はなかった。人は再び猿から進化したわ。以前よりもずっと早いスピードで人類は進化した。それから文明を興しては滅び、文明を興しては滅びの繰り返し。私が生まれた時代ほどの高度な文明が出現することはなかったけど、今あなたが生きる文明以上の科学技術を持った文明もあった」

 僕は採掘都市のことを思い浮かべた。僕の祖国レヴァナ国は旧時代の文明の遺産が数多く地中に眠っており、その採掘で有名だった。発掘された旧時代文明の物の中には今の時代の技術では再現不可能な物、明らかに上位の科学技術による物が多くあり重宝されている。その真実がクオンの言葉にあるのかもしれない。

「私もその時代その時代に生きる人々と繋がりを持ったことがあったわ。普通の少女として生きた時もあったし、ある時は魔女と呼ばれ、ある時は神と呼ばれ、ある時は世界と呼ばれたりした。特別親しくなった人も少なくなかった。まぁ、今はもう皆私の記憶の中にしかいないのだけれど」

 クオンがほんの一瞬だけ寂しげな表情を見せたのを僕は見逃さなかった。その顔は一人の孤独な少女だった。

「そして昨日の晩、森が騒がしかったから外に出てみたらルーと出会ったってわけ。あなたはさしずめ戦争相手のイグゼン国に捕らわれていたレヴァナ国民でしょう?何があったの?」

 図星だった。僕の祖国は現在イグゼン国と大規模な戦争中であり、僕は捕虜としてイグゼン国軍に捕らわれていたのだった。ただ、扱われ方は捕虜のそれとは大きく異なっていたが。イグゼン国は新型のウイルス兵器を開発中であり、僕ら捕虜達はその実験サンプルとしてモルモット同然に扱われていた。

「そう、僕はレヴァナ人だ。この森の麓にあるイグゼン国軍の基地に捕らえられていたんだけど、昨夜突然基地の管理システムが何者かにハッキングされて短い間だったけど機能しなくなったんだ。その隙を突いてこの森へと逃げ込んだ。そして追っ手に殺されそうになったところを君に助けられた」

「なるほど」

「ところで、昨夜はどうやって追っ手の目を誤魔化したんだい?君が被っていたのはただの布じゃなかったってこと?」

「気になる?ちょっと待ってて」

 クオンはドアから隣の部屋へと行き、昨夜の布を持って戻ってきた。

「よく見ててね」

 クオンがその布を頭からつま先まですっぽりと全身を覆うように被った時、僕は目を瞠った。

「消えた……」

 突然クオンの姿が見えなくなってしまったのだ。どんなに目を凝らしても、さっきまで少女がいたはずの場所には何もない。

「びっくりした?」

 クオンのくぐもった声だけが何もない空間から聞こえてきて薄気味悪い。

「驚いた。どうせどういう原理かは説明されても分からないんだろうけど」

 クオンが今度はソファに座ったままの僕の目の前に現れた。僕の隣に腰掛け、布を綺麗に畳んでテーブルの上に置く。

「簡単に説明すれば、この布で覆ったものは視覚では知覚出来なくなるの。透明になるとか光を反射しなくなるとか科学的アプローチじゃなくて、見るという概念自体を書き換えることによってね。どちらかというと暗示や魔法に近いかな。だから、そこに在るんだと強く意識すれば、というより妄信すれば認識することも理論上は可能。まぁそんなこと滅多にないけど」

「この建物もそうなってるのかい?」

「察しがいいね。けど残念、この建物にはそういう処置は施されてないよ。ただ、森の地下百メートルのところにあるから、誰かに見つかることはまずないけど」

「地下百メートルか。何だかめったなことでは驚けなくなってきたな」

 僕は近寄ってきたアレクセイの喉元を撫でた。

「ん、待てよ。この秘密基地が地下にあるならどうやって地上に出てきたの?エレベーターとか?」

「あれ?昨夜ここに来た時のことは覚えてないの?」

「ごめん、細かいことは覚えてないんだ。何せ、歩くのがやっとなくらい疲れていたから」

「キスまでしてあげたのに」

「それは覚えてるよ。ていうか、何もいきなりキスしなくても」

「いいじゃない。あの場面で絶対に声を出して欲しくなかったんだから。それにルーに落ち着いて欲しかったし」

 クオンが口を尖らせて言った。その様子は本当にただの少女のようで、それがなんだか可笑しかった。

「ま、初めてでもなかったから別に責めないよ。それでどうやってここまで?」

「初めてじゃなかったんだ……少し残念。地球圏フィリビナ座標を元にした小規模空間行列高次変換装置。平たく言ってしまえば、ワープ移動」

 ワープ移動。夢の産物でしかなかったものが、今ここに、こんな簡単に存在している。それは確かに驚くべきことではあったが、如何せん僕はもう驚くことに飽きてしまっていた。

「ワープ……ねぇ。君の時代の人類からすれば、僕らなんてアリも同然だな」

「でも、結局私達の時代でも宇宙、銀河系を旅するまでには至らなかったわ。地球圏内が限界。それにワープって言い方は本当は好きじゃない。」

「なんで?」

「私がルーにさっきの布やワープ装置を説明したように、既成の概念をオリジナルの認識圏ではなくて他の認識圏での言葉で説明しようとするとどうしても損なわれてしまうものがあるの。他言語を翻訳する時、微妙なニュアンスが伝わらなくなってしまうようにね。そしてそういう曖昧で繊細な所に真理や本質は隠れていることが多いの」

「ふーん」

 僕はややおざなりな相槌をうった。クオンの言うことは理解は出来たが、おいそれと賛同できるほど僕は人生で多くの経験をしてはいなかった。

「他の場所にも移動できたりするの?」

「私が準備したところだけだけど、出来るわ。ちょっと待ってね」

 そう言ってクオンがテーブルの上に指で小さく丸を描くと、目の前の空間に数個のモニターが映し出された。どうやらパソコンの画面らしいそれを眺めつつ、クオンが手元の立体映像の仮想キーボードで操作していく。

「このパソコンは全世界と繋がってるわ。もちろんただのインターネットだけじゃなくて、各国家の秘匿回線なんかとも」

「凄いな……」

 モニターに映し出されたイグゼン国軍の重要機密の数々を眺めながら僕は言った。

「ほらここ。ルーの名前がある。まだ捜索は続いているみたいだね」

 クオンが画面を拡大したところには、僕の発見と処分がイグゼン軍の目下の任務の一つになっている旨が書いてあった。そして僕は、脱走者の中で生き残ったのが僕だけであることも知った。

「おっと、話が逸れちゃった。えーと、あった。この地図だ」

 クオンが今度は立体感のある世界地図を画面に表示した。

「赤い印がついてる場所、ギビアとかガフスとかキルベヌフとかその他諸々の場所にはワープ出来るよ。行き先はトイレの個室だったり、公衆電話ボックスだったり、ゴミバケツの中だったり砂漠のど真ん中だったりするけど。もちろんレヴァナにも行ける。行きたい?」

 クオンが僕の方を見て言った。その碧の瞳はこの世の全てを見通すかのように思えた。そこには二万年の月日が確かに感じられた。

「残念だけど無理だな。僕はレヴァナ病に感染してる。レヴァナ族しか感染しない致死性ウイルスに」

 僕が実験台として投与されたのは、イグゼン軍の対レヴァナ国新兵器であるレヴァナウイルスだ。このウイルスはレヴァナ族しか感染せず、感染者はレヴァナ病を発病し死に至るという代物で、イグゼン国の勝利の鍵を握っている。僕の祖国の命運も。

「そうだったね。ルーは被験者だものね」

 どうやらクオンはイグゼン国の情報から僕に関することを大体把握しているらしい。もしかしたら僕が眠っている間に、既に大方の見当はつけていたのかもしれない。

「それにしても……今更だけど、ルーは落ち着いてるね。もっと焦るものと思っていたけど」

「落ち着いてるって、これはこれで内心では結構驚いてたりするんだけど」

「いや、驚くのは分かるんだけど、普通それだけじゃないでしょ?私が何者なのか、ここがどこか理解したところで結局あなたの今後の成り行きが決まるわけじゃない。私がルーを襲うかもしれないし、もっとひどい目にあうかもしれない」

 クオンの指摘はもっともだった。僕は、自分ではちゃんと分かっているつもりのその理由を口にした。

「身も蓋もない言い方をすれば、どうせ僕はレヴァナ病で死ぬって分かってるからかな。収容所の生活は嫌だからと脱走は試みたものの、結局は助からないことに諦めはついてるから焦っても仕方がないって割り切れちゃうのかも。あとは……」

「あとは?」

「クオンのことはなんとなく信じられる気がするから。いや、信じたい。縋るものが他にないからってのもあるかもしれないけど」

 僕は二万年の時を生きる少女を見つめ返した。

「信じたい……かぁ。ふふ、なんだか照れくさくなっちゃうな。いいよ。もとからそうするつもりだったけど、ルーの面倒は私がちゃんとみてあげる。ルーが死ぬその時まで」

 僕が死ぬ時まで。その言葉は、クオンが口にすると何か特別な寂しさを感じさせる気がした。

「じゃあ、改めてこれからよろしくね、ルー」

「よろしく、クオン」

 僕は、差し出された自分より一回り小さな手を握り返した。


 クオンとの生活には思っていたよりも早く慣れた。もちろん、僕にとっては夢のような多種多様の道具や設備には舌を巻くばかりだったが、戸惑いを覚えるのは最初だけで、ひとたびその利便性を実感してしまえばすぐにまるで自分が未来に来たような違和感はなくなった。まぁただ単に、楽な生活には慣れやすい人間の性が働いただけなのかもしれないが。

 クオンの言う、その昔避難施設として作られたらしいこの家は、大きく分けて三つの部屋がある。十数畳ほどのキッチン付きリビング、同じく十数畳ほどの研究室、そして保存庫。後はトイレとお風呂があるのみで、全ての部屋はリビングとドアで繋がっている。避難施設らしい無駄の無い構造で、部屋の少なさから僕ははたして何処で寝るべきか悩んだが、クオンはこれまで通りリビングのソファ、僕はリビングに置かれた簡易ベットという形で結局一緒の部屋に寝ることになった。エネルギー供給は多次元事象推移系複合発電機(一応軽い説明はクオンから受けたが、正直何が何だかさっぱりだった)で半永久的に行われ、掃除は全て全自動、水やその他食料はこれまたよく分からない物質生成装置によってある程度のものは作ることができるので、贅沢を言わなければ一切外に出ることなくここで暮らしていけそうだった。

 クオンもクオンでとんでもない頭脳の持ち主で、人類のこれまでの科学の全てが頭の中に入っているみたいだった。現在使用されているものはもちろん、既に失われてしまったものも含め話せない言語はなく、研究室で自分で研究をしていたりして、白衣が良く似合っていた。

 レヴァナ病は着々と進行し、咳き込んだり発熱で寝込んだりすることもあったが、クオンの看病、もとい研究解析のお陰で急速に様態が悪化するようなことはなかった。ただ、クオンの治療はあくまで病気の進行を遅らせるまたは痛みを抑えるといういわば延命処置でしかなく、僕はいつか来るであろう最期の瞬間をそれなりに覚悟していた。

「クオン……」

 それはクオンと出会ってから約三週間が経った日だった。いつものようにリビングには僕の知らない、いつの時代かも分からない音楽がかかっていて、アレクセイは部屋の隅で昼寝をしていて、僕はといえばソファに座ってパソコンで過去の人類の資料を読んでいた。僕はキッチンでケーキ作りに励むクオンに声をかけた。

「えーと、そういえば君って何歳から歳を取っていないの?」

 クオンは作業の手を止めることなく答えた。オーブンに慎重にケーキを入れている。

「十六歳。ルーより二つ下だね。ノムリコ暦四千三百五十四年に不老不死の処置を施されて以来、私はずっとこの姿のまま変わってないわ。自分で言うのも何だけど、十六にしては結構出るとこ出てるでしょ?胸とか、お尻とか」

 確かにクオンはスタイルが良かった。それに人間離れした知性も相まって僕は彼女が自分より年上のように感じることもあった。

「そうなんだ」

 その時、クオンがオーブンを操作する手を止めて僕を見つめ、言った。

「訊きたいことはそれだけじゃないんじゃないの?ルー」

 図星だった。

「どうして分かったの?」

「生きてる年数が違うからね。何日か一緒にいれば大体そういうのは分かっちゃうの」

 そう言って促すクオン。僕は先刻訊ねようとして、別の質問にすり替えた質問を口にした。

「クオン、レヴァナに行けないかな?」

 それは今になって切実になってきた思いだった。この三週間、僕はクオンに連れられて世界各地を飛び回った。遠い異国の地。自分の知らない言葉を話し、自分とは全く異なる生を生きる人々。そういったものを目の当たりにして、おぼろげに世界とは何か、生きるとはどういうことなのか分かってきた時、ふと狂おしいほどに故郷が恋しくなった。呆れるほどに広い世界を、全てとはいかないまでも見て、知って、実感した後に、今までの自分の全てが詰まった場所を訪れたくなった。そうすれば何かが変わり、何かが終わり、何かと別れを告げられそうな気がした。きっぱりと断るものと思っていたが、予想に反してクオンは考え込む仕草を見せた。

「そうねぇ……人と話したりは危険だから無理だけど、見るだけなら大丈夫……かな。万全を期して、の話だけど」

「本当?」

「勿論、出来れば許可したくない。まだレヴァナウイルスは私にも大部分が未知数だし、もしものことを考えれば絶対に止めるべきだと思う。だけど……」

「だけど?」

「だけど……ルーの意思はないがしろにしたくない。それは、私がとうの昔に忘れてしまったものだから」

 そう言ってクオンはケーキ作りを再開した。焼き上がったケーキに粉砂糖を器用にふりかけている。部屋に香ばしい匂いが広がる。僕はふと僕がクオンの眼にどう映っているか気になった。遥か昔に全てを失い、そして得ては失いを繰り返してきた少女は、限られた時間を生きる僕に何を思うのだろう。愛しさ?同情?虚無?羨望?それともありし日の自分?どれもが正解で、どれもが不正解な気がする。

「できた」

 クオンが完成したケーキを切り分けて皿に盛って持ってきた。僕は右にずれてクオンの座るスペースを作り、自分の分のケーキを受け取った。上面は粉砂糖で見えなかったが、切り口は黄色に近い橙色だった。

「これは何ケーキ?にんじん?」

「残念、不正解。正解はかぼちゃケーキでした」

「なるほど。それじゃ、さっそく一口」

 口の中に甘さとほんのりとしたかぼちゃの独特な風味が広がった。

「美味しい」

「ホント?よかった。私もいただこうっと」

 ケーキを頬張るクオンを横目に、僕は物欲しそうな目で見つめてくるアレクセイに一口自分のケーキを分けてあげた。

「このかぼちゃ、この前ルーとボネレイに行った時に買ったやつなの」

「ああ、あの時の」

「やっぱり物質生成装置で作るよりおいしいなぁ。本質的には同じはずなのに何が違うんだろうね」

「苦労がないからじゃない?」

「苦労?」

「ボタンを押すだけで出来るものと、遠いとこまで買いに行くものだったら、大変な分後者の方が美味しく感じられるんじゃないかと思って」

「なるほどね。記憶が多いものの方がその人にとって大事になる……かぁ。面白いね」

 フォークを口に咥えてしばらくの間考え込むクオンを見ながら、僕はただケーキを夢中で食べていた。

 

 レヴァナに行ったのはその二日後だった。もちろん、家族はともかく誰とも接触することは許されず、誰にも見つからないように祖国をただ見て回っただけだったが、何か胸に湧き上がってくるものがあった。子供の頃の記憶。もう振り返ることしか出来ない過去。戦争が始まり、前線に向かうために家族に別れを告げた日のこと。今まで忘れてしまっていた過去の残像が浮かんでは消え浮かんでは消え、現在が確かなものになっていくような気がした。自分が何を想い、何を生きたのか。それはいつもひどく曖昧で簡単に変わってしまうもので、人はせめてその輪郭だけでもと、過去に思いを馳せるのかもしれない。そしてその場限りの答えを出して、出るはずのない満足のいく答えが出るまで繰り返すのかもしれない。そんなとりとめのないことを思ったりした。

 その日、レヴァナから帰ってきて、クオンは風呂に入っていて、僕はパソコンでクオンから勧められた三千年程前の小説を読んでいる時だった。ふとアレクセイがソファの上に飛び乗って僕の隣に座り、足の先で器用に仮想キーボードを叩いた。

「こらこら邪魔しないでくれよ、アレクセイ」

 アレクセイが開こうとしているのはどうやらクオンの日記のデータのようだった。本人が何日かごとにつけていると言っていた記憶がある。

「ほら、どうせ開けないって」

 アレクセイがファイルにアクセスして出てきたパスワード要求画面を見て、僕は言った。苦し紛れに数字を入力し、なおも抵抗を続けるアレクセイ。

「無駄だって。大体、他人の日記を読もうとするなんてお前も意外とスケベな……」

 僕は最期まで言い切ることが出来なかった。なんと、アレクセイが入力したパスワードは正解だったからだ。

「お前、まさか知ってて……」

 アレクセイは僕の問いには答えず、キーボードの操作を続け、日記を遡っていった。僕はただ次々に変わっていく画面を追い続けるだけだった。アレクセイにはスケベと言っておきながら興味津々な自分はどうなのかと問われれば、僕は意外でもなんでもなくただスケベなのだと言うしかあるまい。数分も経たない内に、アレクセイの手が止まった。画面には僕がクオンと出会う少し前の日記が映し出されていた。読めとでも言うようにアレクセイが視線で合図する。

「分かったよ。褒められたものじゃないけど」

 一応、一言言い訳めいたことを口にして、僕は日記を読み始めた。ラガ暦○年□月△日……。日記は淡々とした口調で語られていて、ある種の冷たさを感じた。無機質な語り口の日記と、人懐っこい性格。多分どちらもクオンの本性。日記を読み進めると驚くべき事実が記されていた。

「まさか……」

 その事実は確かに意外であったが十分納得のいくものではあった。アレクセイの方を見ると、すっとぼけたように目を逸らされた。アレクセイが意図していることは何となく分かった。そして僕がちゃんと選ばないといけないということも。

「お風呂空いたよ」

「うん、すぐ入る」

 風呂から出てきたクオンに、何食わぬ顔でそう返し、僕はパソコンを停止した。

 

 クオンと出会って約一ヶ月半が経った夜だった気がする。レヴァナ病が悪化し、僕は発熱その他の症状で基本的にリビングに置かれた簡易ベットの上でずっと寝かされていた。アレクセイはといえば既にベットの下で丸くなって寝てしまっていた。

「気分はどう?大丈夫?」

 ベットで横たわる僕を覗き込んでクオンが言った。一緒に行った異国の地で季節感がなくなると困るとか言いながら買った、白のブラウスと黒の短めのスカートを着ている。僕にとってはパジャマにも着替えないでその服装のままで寝てしまう方がおかしい気がするのだが、それにもとっくに慣れてしまっていた。

「良くはないかな」

 熱で火照った顔をクオンの方に向け、僕は答えた。

「そうかぁ……じゃあ私は寝るけど何かあったら遠慮なく起こしてね。照明オフ」

 クオンの音声コマンドに従って、部屋の明かりが消えた。僕は反射的にクオンの手を強く引いた。

「え?ちょっと……」

 咄嗟のことでクオンはバランスを崩し、僕の上に覆いかぶさるように倒れた。僕は、僕より一回り小さなその身体を抱きしめた。

「ルー、一緒に寝るのは全然構わないけどそんな強引にしなくたって……」

「クオン……君に一つ言っておかなきゃいけないことがあるんだ」

「……何?」

 クオンは諦めたように身体の力を抜いて僕に身を預けるようにして言った。

「僕は、君がイグゼン国の軍事基地にハッキングをして僕達を逃したって知ってた」

 一瞬。ほんの刹那の間だったが腕の中でクオンの身体が強張ったのが分かった。

「アレクセイが君の日記を見せてくれた。黙っててごめん」

 沈黙。日記に書いてあったのは、クオンがレヴァナ病に偶然ながらも自分を殺すことが出来る可能性を見出して、サンプル入手の為にイグゼン軍にサイバー攻撃を仕掛け、その内の一人である僕を助けたという事実だった。つき合わせている胸から、クオンの脈拍を感じる。心臓が周期的に作り出す生温かい感触。鼓動が刻む。彼女が生きる時間を。僕が生きる時間を。ようやく闇に目が慣れてきた頃、クオンが口を開いた。

「こちらこそごめんなさい。別に騙すような真似をするつもりじゃなかったの。レヴァナウイルスを解析する傍ら、ルーの病も可能ならばちゃんと完治させるつもりだった」

 クオンは顔を上げて僕の目を見た。そこにはいつもの大人びたものではなく一人の少女の顔があった。

「でも間に合わなかった。結局私が出来たのは病気の進行を遅らせることだけ。ルーには本当に申し訳ないと思ってる。信じてもらえないかもしれないけど」

「信じるよ」

 僕ははっきりと言った。

「クオンを信じてる」

 クオンがくすくすと笑った。

「な、その笑い方はないだろ」

「いや、ふふふ。なんだかうれしくって」

 不意にクオンが唇を重ねてきた。

「んん」

 口の中で二つの舌が絡み合った。

「だめだね。気の遠くなるような時間でいくら感情がすり減っても、快楽だけは忘れられない」

「それでもどうせ君は諦めたような顔して、諦めきれないんだろう?」

「そうだね」

 僕らはもう一度唇を重ね合った。お互いの気持ちを、存在を、今ここに一緒に居るという事実を確かめ合うように。

「残念だけど僕は初めてじゃないんだよなぁ」

「そうなの?少し残念。ま、私もだけど。処置を受ける前に卒業しちゃってたから膜は再成してないし。残念?」

「少し」

「そう。良かった」

 その夜、その一晩だけ僕はクオンと身体を重ねた。正直なことを言えば、彼女の身体に魅力を感じていたのは否めない。ただ、クオンという存在の全てに僕が惹かれていたからこそ、こういう形に落ち着いたのだと思う。いつの間にかベットの下から移動していたアレクセイには気付かぬまま、その日僕は安らかな眠りについた。


 それから二週間が経った。病気はさらに悪化し、クオンは一日中僕の面倒を見てくれていた。どうやら最期の時が来たと分かった時、クオンは僕に訊ねた。

「ルー、何か願いはある?何でもいいよ。あなたの家族を守るのもいいし、戦争を終わらせるのだっていい。ルーの願いなら」

 ベットの縁に手をつき僕を覗き込むクオンを見つめ返す。彼女の表情には色があった。途方もないような時間を経て、決して色褪せるのではなく、ずっとずっと塗り重ねられ続けてきた色が。確かな二万年の歳月の奥深さが。僕はいつかした決意を口にした。

「クオン、僕の為に死んでくれ」

 はっと息を飲むクオン。

「出来れば一緒に死にたかったけど、無理みたいだから。君の望みが僕の望みだ」

 一筋の涙がクオンの頬をつたった。僕は満足していた。終わりを奪われた少女が望むもの。でも、彼女はそれを自ら手にすることは結局出来なかっただろう。彼女が紡いできたものは多くなり過ぎてしまっていたから。ならば、僕が望むものは一つしかなかった。二万年を生きるには、優し過ぎる彼女の為には。

「ルーは……ルーはそれでいいの?」

 震える声を押し殺してクオンは言った。

「うん」

「ああ、あぁ……ありがとう。これまで幾度となく誰かの願いを叶えてきたけれど、そんなことを願ってくれたのはあなただけ。ほんとに、ほんとに優しいのね、あなたは」

 泣き崩れるクオンの頭を優しく撫でた。もうやることはなくなった。安心するとどっと痛みが身体を襲ってきた。僕はゆっくりと重い瞼を閉じた。最期の力を振り絞り、口を動かす。

「ありがとう」

 その言葉はちゃんとクオンに届いたのか。届いたと信じたい。




「まぁ、不味くはなかったね。美味しくもなかったけど」

 少女は食べ終えたパンの皿を片付けてそう言った。グラスに残っていた血のような色をしたワインを飲み干す。

「うん、エミリアのワインは美味しかった。やっぱり直接パン生地を生成するんじゃなくて、自分で原料からパン生地を作るんだったな」

 少女はグラスを片付け、今度はコップに水を汲んでテーブルに置き、ソファに深く腰掛けた。

「本当はイエスは復活を約束するんだったっけ?私はもう復活しないけど」

 そう言って笑う少女を、狼が心配そうに見つめた。少女は狼を抱きしめた。

「悲しんでくれるのね。そうね……アレクセイも一緒に死ぬ?」

 しばし逡巡した後、狼は首を横に振った。

「そう……じゃあ、最期に一つだけわがままを聞いて。私のことずっと覚えていて。あとはこんな狭いとこ出て、自由に生きて」

 少女は狼の鼻にそっとキスをした。

「実は睡眠薬を飲んで自殺するって少し憧れてたんだよね」

 少女はポッケから保存ケースを取り出して、フタを開けた。少女を唯一死に至らしめることの出来るウイルスと睡眠薬の混合物の入ったカプセルを取り出して口に放り込んだ。コップいっぱいに入った水を全て飲み干し、少女はソファに横になった。

「おやすみ、アレクセイ」

 永遠を生きた少女は深い深い眠りに落ちていった。あれほど夢見た永久の眠りに。狼はそれを見守り、やがて外へと飛び出していった。

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久遠 夢野言乃葉 @yumenokotonoha

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