お題小話

@waka_hi

第1話

「寒い」

 ことさらに洟をすすりあげ、私は彼女に抗議した。

「寒いねえ」

 私の抗議をやんわりといなし、彼女は私の傍らに立つ。

 目の前に広がるのは灰色の空。灰色の海。凍りつく寒風が吹きすさぶ浜辺には、人っ子一人見えやしない。

 放課後、ちょっと付き合って、と彼女に引っ張ってこられた先がこれだ。電車一本、バスを二本乗り継いだ。

「手が痛い」

「冷え性だもんねえ、明日香」

 はい、と彼女が両手を差し出す。

 私は制服のポケットに突っ込んだ両手を引きずり出し、その手に乗せた。

 素直に『お手』をした私に満足そうな顔を向け、彼女は私のかじかんだ両手を包み込む。常に体温の高い彼女の手は、こんな場所でも私よりずっと暖かかった。

「つめたっ。なにこれ氷?」

 ひとしきりにぎにぎと私の手で遊んでから、自分の頬にあてがう。いつものことだ。この三年間。いつもの光景だ。

 いまさら何も思わない。

 指先のすぐそばにある耳をつまんでやると、くすぐったそうに彼女は笑う。

 手のひら一つ分の距離で見つめ合う。それもいつものことだ。

 いまさら何も感じない。

 滑るように、彼女の視線が横に動いた。私もつられて海を見る。

 灰色に濁った空と海。目を引くものは何もない。

「この世の終わりって感じしない?」

 あれ可愛くない? と同じような口調で、彼女はそう言ってよこした。

「は?」

「んー。世界の果て? 文明崩壊? ほら、そこらへんに壊れた自由の女神でも落ちてればそれっぽいよね」

 最近テレビで見た映画の話か。確かリメイクの。

「世界は滅びました。人間は死に絶えました。きれいさっぱり全部リセット」

 楽しそうに、彼女は物騒な言葉を並べ立てた。

「一面の星空もいいって言うけどさ、あたしはこっちの方が好きかな」

 彼女の話は常に脈絡がない。その心は? 意図を促すように、私は黙って次の言葉を待つ。

「ほら、宇宙の大きさにくらべてなんてちっぽけなんだ、っていう。でも、こんな景色の方がさ。なんかさ」

 世界は終わった。人は死んだ。

「悩みとかどうでもよくなる感じがするじゃん」

「何か悩んでるの、由紀」

 私には何の相談もなかったくせに。心配より前に、咎める色が言葉に出た。

「明日香は何か悩んでるよね」

 返す刀で一刀両断。

「うむ。君は本当に顔に出やすくてよろしい」

 ふんぞり返る彼女から、思わず顔をそらしてしまった。

 ちょっと刀を振ってみれば、一気に間合いに入り込まれて袈裟懸けされた剣客の気分だ。いや、雑魚の悪役の一人か。心臓に一太刀。ぼたぼたと血があふれ出す。足元に広がる血だまり。

「ねえ。世界はなくなりました。人間はみんな死んじゃいました。他には誰もいません。って思ったらさ、どーでもよくなるよねえ」

「あんたがいるじゃん」

「あたしら以外にはだーれもいないよ」

 この世に私と彼女だけ。もしそれが叶ったとしたら。

「言えないことは聞かないけどさ」

 それでも私の望みは満たされないのだろう。心はこんなに近くて遠い。

 いっそ彼女を殺して、永久に私だけのものにして。

 そう考える私の心を、この海なら許してくれるのだろうか。

「ひっどい顔」

 寒風が吹き付けて、まともに目を開けていられない。足はすでに感覚がなく、ただ無数の針で刺すような痛みが続いている。このままではもうすぐしもやけになるだろう。

 寒さと痛みでぼろっと涙がこぼれた。見えない血だまりの中に、ぼたぼたと吸い込まれていく。

「寒いよう」

 彼女の長いマフラーの端が、私の首に巻きつけられた。太い毛糸が涙を弾いて落としてゆく。

「寒いんだよう」

「うんうん。帰ろうねえ」

 私の両手はまだ彼女の手の中にあった。その体温は底なしかと思うほどに、私の手を温めてくれている。

 そのまま両手を引っ張るように、彼女は後ろ向きに歩き出した。バス停までは200メートル。

 凍りついた空。死に絶えた海。この世界でも、私は君を殺せない。

「お茶して帰ろ。あったかいの」

 私の中の濁ったもので、君の笑顔は壊せない。


 もう一度、灰色の海を振り返った。

 世界は滅びた。私は崩れた。

 痛みも心も、全部ここへ置いていこう。

 彼女の手のぬくもりが、私を現実に引き戻す。

 世界はリセット。ゼロからスタート。

 新しい私を、組み立てなおせ。

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