最後の神様

@waka_hi

第1話

「あとは全部、きみにまかせるよ」

 そう言って目を閉じた老人の顔は、この上なく安らかだった。


 黄色く褪せ、地平線との境目もぼんやりとした空を、僕は一人で見つめている。

 はるか遠くには、地面に斜めに突き刺さるように立っている、無数の巨大な黒い影。

 あれは昔、摩天楼と呼ばれていたものだと、いつか誰かに教わった。

 ここには小さなコミュニティがあった。物心ついたころには、20人ほどの人間がいたように思う。

 半世紀前に起こった全面戦争。世界的な飢餓。温暖化と異常気象の連続。どれが引き金になったのかはもう誰にもわからない。

 一つだけ確かなのは、人類が滅びに向かっているということ。

 母は二ヶ月前に息を引き取った。この老人が、コミュニティの最後の一人だった。

 そう、彼が最後だと思っていた。自分を勘定に入れ忘れていることには、長い間気づくことができなかった。

 彼に託されたのは『記録』だった。滅びに向かう人類の記録。暮らしぶりから環境の変化、食料の調達方法、人の精神の動きとその調整に至るまで。

 老人いわく、「いつか次に滅びを迎えることになる知性体への置き土産」として。

 僕はそれに従った。他にするべきことなどなかった。記録を続けるためだけに、僕は生き続けていた。

 老人からすれば、たった一人で残る僕を生かすための善意だったのだろう。


 僕はここで、皆から「最後の子供」と呼ばれていた。もう新しい命が生まれることすら絶望的だった環境で、奇跡的に産まれた赤ん坊だったそうだ。

 だから僕と同じ年代の子供は当然おらず、一緒に遊ぶ友達もできなかったが、周りの大人たちは随分と僕と母を大事にしてくれた。皆、僕に希望を見るのだ。僕が希望に見えるのだ。

 その「希望」に奉仕することによって、彼らは絶望に抗っているのだと感じられるのだろう。

 実際のところ、僕一人が生き永らえたところで、世界は何一つ好転することなどないと、誰もが知っていたはずだったのに。

 僕は一人になってしまった。一人でひとところにとどまっていてはすぐに食料が尽きてしまう。積極的に死にたいわけでもなかったので、仕方なく放浪に出ることにした。

 あてはないが、老人に託された記録メディアは持ち歩くことにした。やはり他にすることも思いつかない。生きるのに必要なだけの食料を探す合間にも、「記録」の作業は毎日続けていた。

 廃墟になった街をいくつも渡り歩いた。小さなコミュニティにも何度か出会ったが、どこでも僕は珍しがられた。僕が若いことにまず驚いた顔をし、それから皆、同じように奇妙な表情をする。

 母はその顔を、「神様を見たような顔」と言い表した。

 神様という概念は僕にはわからなかったが、僕はずっとそれを重荷に感じていた。

 そうだ。僕に出会った人たちは、僕にこれを託した老人は、そろって重い荷物をおろしたような、ほっとした顔をしていた。

 僕の上に降り積もってきた、人々の「希望」。彼らが死んでしまった今も、その感情はほかに行き場もないまま、積み重なり、押し固められ、まるで呪いのように僕を縛る。

 「最後の子供」は、「最後の神様」として、人々の重石を集めて歩く存在になるのか。

 静かに壊れていくだけの世界で、何の役にも立たないただの若造に、そんなものは抱えきれない。

 どのコミュニティでも、人々は僕を引き止めた。ここに残って暮らしてほしいと懇願された。食糧難のこのご時勢に、食い扶持を増やすだけだというのに、それでも僕を留めたがるのは、それだけ皆の心が疲弊しているということなのだろうか。

 僕はそれをすべて振り払って、一人で歩き続けた。もう荷物はいらない。僕を自由にしてくれ。

 何のために生きているのかもわからなくなったまま、ただ無心に食料だけを探す毎日になったころ、廃墟の中で僕はかすかな声を聞いた。

 泣き声のような、くぐもった小さな声。

 懐かしい声だと思った。この世界ではもう聞かれなくなった音。僕が上げていたであろう声。

 無意識のうちに瓦礫をかきわけていた。そこには僕が求めていたものがある。根拠も理屈もなく、そう感じていた。

 最後にどけた板の下に、「彼女」はいた。

 母親だろうと思われる遺体の腕の中。か弱い声で、彼女は泣いていた。


 すべての心が、重荷が。感情が。彼女に向かって流れ込む。この上ない安堵感。恍惚感。

 そうか。みんな、僕に、これを。

「……はじめまして」

 僕の希望。僕の神様。

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